第九話 あなたこそ私の陽光
星が瞬き、満天の空を流れている。
ほとんど振動のない、快適な帰りの馬車で、レインは優しく自分の頭を撫で続けているユリウスを振り仰いだ。
「私は、本当に王女なのですか」
レインの言葉に、ユリウスが頷く。その白いおもては静かだった。まるで、感情を押し込めているみたいに。
「ああ、そうだ。レイン。お前はこの国の、先代女王の遺児。この国の、正統な後継者だ」
「そうです、か……」
予想はしていたことだった。あの卒業パーティーの騒動で、何度も繰り返されていたことだ。自分が王女なのだと察しない方が難しかった。
「私の名前……本当の名前は、イリスレイン、というのですね」
「そうだ」
「先代女王陛下と王配殿下については、学んだので存じております。病を得られて崩御した先代女王陛下と、同時期に落馬事故で亡くなられた王配殿下……」
「……」
「でも、本当はきっと、違うのでしょう……? 私は誘拐されたと聞きました。それと、先代女王陛下と王配殿下の死が別の出来事だとは思えません」
レインの言葉に、ユリウスはぐう、と奥歯を噛んだように見えた。
飲み込んで、しかし口にしようとして、またやめて。しばらく口を開けたり閉じたりを繰り返したあと、しばしの沈黙があり――ややあって、ユリウスは言葉を発した。
「……そうだ」
「先代女王陛下と、王配殿下の最期についてお聞きしても……?」
「……王配殿下は、誘拐事件の時に負った傷がもとで……居合わせ、君を追いかけようとして攻撃された私をかばって、亡くなられた」
ユリウスはここでレインを見やった。レインの赤い目と、ユリウスの琥珀色の目、視線が交わる。ユリウスの目は、己の行動を悔いているようだった。
「先代女王陛下は、イリスレインと王配殿下、大切な人をふたり、同時に失ってから心労で伏せられて……」
「儚くなった……と……」
「……」
レインは胸を押さえた。
「私は、親不孝な子供だったでしょう。父も母も、苦しめた末に死なせてしまうだなんて……」
「――違う!」
ユリウスは立ちあがった。はずみで馬車が揺れる。
「……ッ」
ユリウスの両の腕がレインを抱きしめる。服越しの腕は冷たく、震えていた。
「お兄様……」
「違う、レイン。君は何も悪くない。咎を受けるべきは、君を攫った暴漢と、その手引きをした侍女――……そして、無謀にも、暴漢に立ち向かった私だけだ」
ユリウスが顔を伏せ、くぐもった声で言う。
レインを抱きしめて、まるですがるみたいに、祈るみたいにして、レインに君は悪くないんだ、と告げる。
「お兄様だって、悪くありません」
「しかし……」
「王配殿下が亡くなったのは、お兄様のせいではありません」
レインはきっぱりと言った。
「……きっと、お兄様はそれで、ずっと私への罪悪感がおありだったんですね。それで私を守ろうと……」
「違う。それは、違う」
ユリウスが顔をあげた。
「私が君を守りたいのは、君を愛しているからだ、レイン。罪悪感からなどではない」
ユリウスの目がレインを映す。琥珀色の目が今は赤くて、ああ、なんて優しいひとなんだろうか、と思った。自罰的で、責任感が強くて。だからレインを守ることに必死なのだろう、と。
レインはユリウスの背に手を回した。
「お兄様はずっと気にされておいでかもしれません。きっと、お兄様は自分を許せないとお思いなのでしょう……」
「……」
「――それなら」
レインはユリウスの背をそっと撫でた。優しいこの人が、自分を許せるようにと願って。
「私がお兄様を許します。お兄様は私を救おうとなさった。私が奴隷になっても、生きているのかもわからないのに探してくださった。あの暗い世界から、掬い上げて、守ってくださった」
レインはそこで一度、言葉を切った。何を言えば伝わるのだろう、どうすれば、この胸の想いを言葉にできるのだろう。
そう思った。
「私には、恩があります。情があります。……そしてなにより、私はお兄様を――ユリウス様を愛しています」
ユリウスの名前に、恋を、想いを滲ませて声にする。ユリウスの目に自分が映っている。ユリウスの瞳の中のレインは、泣きながら笑っていた。
「愛しています。お兄様、あなたが私を助けてくださったから、私はここにいるのです」
「それは話をすり替えただけだ……。責任の所在を、別の話で塗り替えただけ」
「あら、ばれてしまいましたか?」
レインは、ふふ、とあえて声をたてて笑った。
顎を伝い落ちた涙が、青い、ユリウスの髪と同じ色のドレスを濡らす。
「私はずるいのです。お兄様。あなたに救われたことしか覚えていない……。父のことも、母のことも、ガラス一枚を隔てた向こうのことのように感じているのです」
――だから、お兄様が責任を感じる必要はないのです。
レインはそう言って、抱かれたまま、ユリウスの胸に顔を埋めた。
ユリウスの手が、おそるおそる、レインの髪を撫でる。
優しい手つきだった。レインの好きな、ユリウスがいつもそうするときの手つきだった。
「レインは、いいのか……?」
「はい」
「……そうか……」
ユリウスは、レインの言葉を噛み締めるように言った。
しばらくそうしていたユリウスは、ややあって、静かに尋ねた。
「聞いてもいいかい、レイン」
「何を、ですか?」
「レインは、婚約者が私でいいのか」
第一王子との婚約を、向こうに非があるとはいえ破棄した。そうした後、瑕疵がついたレインを幸せにする相手との婚姻はきっともう望めない。まだ幼い第二王子と婚約させるわけにもいかない。だから自分が、とユリウスは言った。
「レインが私を愛していると……それは、家族愛だとわかっているが……。君がそう言ってくれるなら、このまま婚約者として……いや、レインが嫌なら」
ユリウスは何かもごもごと考え込んでいるようだった。
本当に、この人はレインのことになると物事を考えすぎるんだわ、と思って、レインはますますユリウスのことが愛しくなった。
「添い遂げるなら、お兄様……ユリウス様がいいです。そういう意味で、愛している、と申しました」
レインが顔をあげて、捧げるように言うと、ユリウスは琥珀色の目を見開いた。
「それとも、お兄様は私を愛してはいないのですか?」
「それは違う。私はレインを誰よりも愛している」
そこだけは譲れない、と言いたげに、ユリウスははっきりと言い切った。それにレインは笑ってしまう。
「私は、てっきり……」
「てっきり?」
「レインは、オリバーを好いているものだと」
「オリバー様を?」
レインは眉根をそっと寄せた。お兄様は何を言っているのかしら、と思ったからだ。
「入学式の日に、言っただろう」
「え?」
「好感を抱いた……と」
「まさか、それで?」
レインは目を瞬いた。
あの日、レインの発した失言がこんなことに繋がっていただなんて、思いもよらなかった。
「あれは、誤解なんです」
「誤解?」
「……私、お兄様様の望むような答えを考えて、ああ言ったのです。本当は、あまりよく思っていなかったのに……」
「……そうなのか?」
「……はい、今回のことは、きっと、ずるい考えを持った私に、神様が罰をお与えになったのですわ」
レインはぎゅっとユリウスの服を握りしめた。
今、きちんと言わねば、と思った。この想いを、すべて打ち明けねば、と思った。
「あの日から、ずっと、私はお兄様に好かれたり、愛していただきたいと思って生きてきました。だから、婚約の件も、お兄様のお役に立てば、愛していただけると……」
「レイン、君は、役に立とう、なんて考えなくていいんだよ」
「ええ、お兄様ならそうおっしゃると思いました。でも、私はあさましく、家族として愛されるだけでは足りなかったのです」
レインは息を吸った。ユリウスの琥珀色の目にレインが映っている。それが何よりうれしかった。
「――愛しています。お兄様、いいえ、ユリウス様。家族として、妹として、ではなく、あなたを――あなたを、私のたった一人として、お慕いしております……」
妹が兄を、ではない。ずっと、ずっと、おかしな妹だと見捨てられるのが怖くて言えなかったこと。
この人を、ユリウスを、誰より、何よりも、愛しているということ。
――あなたこそ、私の陽光だということ。
そのすべてを込めて、レインはユリウスに抱き着いた。
「――……!」
ユリウスは手を震わせた。けれど、次の瞬間、痛いくらいに強い力でレインを抱き返した。
息ができない。それほど強い力で抱きしめられて、レインは肺の中の空気をすべて吐き出してしまった。みしみしと骨が鳴る。けれど、今はこれが嬉しくてならない。
小さく小さく息をするレインに、ユリウスがこらえられない、というように囁く。
「本当に――本当に、君は私を好きなのか」
「はい」
「私はレインを、妹としてではなく『私の君』として愛してもいいのか」
「はい……」
レインは泣きながら言った。
「愛してください。『私のあなた』」
それが――言葉にした、最後だった。
群青の空に星が瞬いている。だというのに、一瞬のうちにその光は見えなくなって。
口付けられている、と理解したのは、唇にあたたかいものが触れたからだ。
レインは胸の内を幸福で満たしながら、静かに目を閉じた。
――雨の日の、あとには。
そう、虹が見える。雨はけして悲しいものなんかじゃない。陽の光があれば、幸福の象徴である虹が現れる。だったら、私の陽光こそ、あなたなんだわ。
ユリウスの腕の中に包まれて、レインは微笑みながらそう思った。