第八話 婚約破棄
あの、階段からヘンリエッタが落ちた事件のあと、レインはしばらく屋敷で療養することになった。処分を受けたわけではない。ただ、レインが学園に行きたくないと駄々をこねたのだ。
ユリウスに失望されるかと思ったそれは、意外にも簡単に受け入れられた。
ただ、卒業式とそのあとのパーティーだけは参加すると決めた。
ユリウスが作ってくれたドレスとイヤリングを無駄にしたくなかったからだ。ドレスくらいなんでもない、というユリウスに「記念ですから」と笑ったレインに、ユリウスは何か言おうとしていたようだった。
けれど、失望の言葉が吐き出されれば今度こそ起き上がれないと思ったレインが、その言葉を後回しにさせたのだった。
そうして、今日は卒業式当日。なんとか参加した卒業式のあと、歯を食いしばって帰ってきたレインを侍女たちはみな案じたけれど、レインは微笑んでそれを黙殺した。
夜までには元気になるわ、と着付けを頼んだメイドは何度もレインに甘いお菓子をすすめてくれたし、髪を担当するメイドはレインの髪にいい香りの香油を塗ってくれた。
顔を隠す眼鏡と、長い前髪を許してくれた。ユリウスも、何も言わなかった。
体調不良でエスコートできなくなったらしいオリバーの代わりに、レインのエスコートを引き受けてくださったユリウスはとても美しかった。
レインが目の覚めるような深い青色のドレスを着ているのに対し、ユリウスは胸ポケットのスカーフをレインの髪色と同じ、薄青色にしてくれた。サファイアのイヤリングを見て、微笑んでくれる。
それがどれほど嬉しかったのか、きっとユリウスには想像もできないだろう。
そして、思ってもいないのだ。レインが、あさましくも罪深い想いを、ユリウスに抱いているだなんて。
このパーティーが終わったら、レインはユリウスの手を離れ、オリバーに嫁ぐ。
その時が、永遠に来なければいいのに、と思った。
――そんな決意をしたのに。
レインは今、ユリウスの腕の中で、オリバーとその側近が守るように囲むヘンリエッタと対峙していた。
……いいや、正確には、ユリウスに守られているから、安心してしまって、ぼんやりと自分たちを睨むオリバー、ヘンリエッタたちを見ていた。
卒業パーティーでオリバーから婚約破棄を告げられたのは今しがたのこと。そうして、ユリウスから、ユリウスと自分との婚約を教えられたのも、今しがたのことだった。
おかしい、自分は、さきほどまで断頭台に上るような気持ちでいたはずなのに……。
困惑するレインを、ユリウスが強く抱きかばう。
「ユリウス様! 離れてください! その人は悪役令嬢……いえ、危険人物です!」
「悪役令嬢だと? 勝手な造語で私のレインを侮辱するな!」
ヘンリエッタの言葉に、ユリウスは柳眉を吊り上げた。それにひくり、とヘンリエッタが委縮したのが見えた。ユリウスを好き、と言っていたのに、ユリウスの怒りに満ちた顔を見て恐ろしくなったのだろうか。レインはは、と息をつく。
「貴様らが親子でレインを貶めようとしたことは調べがついている。証拠も証人もそろっている。……ベン」
「はっ」
ユリウスが傍らのベンジャミンに声をかけると、ベンジャミンはすいと会場を見渡した。まもなく、一人の女に目をつけ、コックス子爵夫人だな、と部下に確認をとった、部下が頷くと、コックス夫人を捕らえ、連行するようにして帰ってくる。突然のことにぎゃいぎゃいと騒ぎたてる女は身なりこそ綺麗なドレスを着ているが、レインが目を通した招待客リストの中にいない人物だった。おそらく話に出て来たコックス子爵夫人なのだろうが、その眉は恐ろしいほど吊り上がり、まるで悪魔のようだった。
「離しなさいよ!」
「お義母さま!」
ヘンリエッタが叫ぶ。ベンジャミンは「招待状もないのにどうやって潜り込んだんだ」と冷たい言葉でそれに返した。ユリウスがすぐに、何か書類のようなものを取り出し、話し始めた。
「コックス子爵夫人は社交界で自分はまもなく王妃の母となるのだと吹聴していた。それで調査をすると、とんでもないことがわかった」
ユリウスは会場を見回した。周囲の注目が集まってびくりと肩を震わせるレインの頭を、安心させるように撫でる。
「コックス子爵夫人は先だって処罰されたタンベット男爵といとこ同士の関係にあった。タンベット男爵一家の処罰については皆も記憶に新しいだろう。その罪状は違法である奴隷を所持していたこと、だったが。そこには伏せられていたもう一つの罪状があった」
タンベット男爵――レインは胸を押さえた。それは、レインを奴隷として「所持」していた一家の名前だったからだ。
ユリウスがいっそう声を張り上げる。
「彼らは王女を隠して虐待していたのだ。私が保護するまで、先代女王の忘れ形見である王女の状況は悲惨なものだった」
「え……?」
けれど、ユリウスの言葉の内容に、知らない情報があって、レインは思わず声をあげた。コックス子爵夫人が髪を振り乱す。ユリウスは会場に響くような声で続ける。
「嘘よ!」
「私と父は王女を保護し、公爵令嬢として育てた。王女が誘拐され、奴隷として虐待されていたことは許されがたいことだ。早くにつまびらかにされねばならないことだったが、まだ黒幕がわからない以上、王女に危険がある可能性がある。先代アンダーサン公爵は爵位を私に譲り、調査を始めた」
ユリウスはそこで一度言葉を切った。レインを見下ろし、ぐ、と奥歯を噛む。そうして、まっすぐにオリバーを見つめた。
「……ここまで見つからないわけだ。まさか、王族であり、王女のいとこである、王女を率先して守らねばならないはずのオリバー第一王子が黒幕を隠ぺいしていたのだから」
「な……でたらめを!」
急に水を向けられ、オリバーが目を見開く。けれど、その顔には脂汗がにじんでいた。
「オリバー第一王子、あなたは王女が誘拐された十五年前の使用人名簿を改ざんしましたね。あなたがその名簿を閲覧した記録が残っています。そして改ざんされる前の記録は使用人に燃やすように命じた」
「な……んでそれを。……いや、俺はそんなこと……」
「使用人というものは、全員が全員、絶対的に主人に忠実というわけではないのですよ。かつて王女を攫った侍女のように。この使用人も、いつかあなたに取引を持ち掛けられるよう、この名簿を残していた」
言って、ユリウスは手にしていた古い紙を広げた。たった数枚の紙は、しかしはっきりと王家の刻印がなされている。ユリウスがオリバーを、そして、コックス子爵夫人を睨み据えた。
「これがその改ざん前の名簿です。ここに、王女を攫う手引きをし、その後行方不明となった侍女の名前が書いてあります。……そうだろう、フィーヴィ・コックス子爵夫人!」
「違う! 違う! そんな、ちゃんと私は髪を黒くして……!あ……」
「そうよ!お義母さまは私のために悪役令嬢を排除しただけよ!」
「黙りなさい、ヘンリエッタ!」
悲鳴のような声が響く。狼狽して、うっかりと自白してしまって焦るコックス子爵夫人に対して、ヘンリエッタは堂々と、自分は悪くないのだと主張する。
「子爵令嬢には虚偽を教えていたようだな、子爵夫人」
「ちが、私はヒロインを幸せにしたくて……」
ヒロインとは何なのだろう。レインはこの状況に出てくるはずのない単語に眉をひそめた。悪役令嬢、そしてヒロイン。まるで巷で販売されている小説のようだった。まさか、ヘンリエッタはそう思い込んで生きて来たというのだろうか。自分が物語の主人公なのだと。
「その王女が本物である証拠はあるのか! たとえば、そう、王女を包んでいたおくるみが証拠だなんて認めないからな!」
オリバーが吼える。ユリウスは氷のようなまなざしでオリバーを見やる。それにオリバーが委縮すると、ユリウスは静かに返した。
「証拠はここに。レイン。皆に、その顔を見せてやってはくれないか」
顔を見せる。それがどういう意味を持つのかわからない。
けれど、ここまでのユリウスの言葉に、レインはユリウスが自分に何をさせたいのかを理解していた。顔を曝すことは恐ろしいことだ。昔からそう、赤い、不吉な不気味な目。そう言い聞かされて育ってきた。
でも、レインはもう、あの頃のレインではない。兄が――ユリウスが顔を見せなさい、というなら、この顔を皆に見せることに恐怖などありはしなかった。
レインは頷く。
「はい、お兄様」
レインはまず、前髪を横に流した。そして、かけていた眼鏡をそっと外す。前を向く。
周囲から、ほう、とため息が漏れた。
――えっ、レイン様、あんな顔をしていたの。
――あんな美少女なんて聞いてない!
――そう言えば、レイン様はいつから顔を隠してた?
――知らないよ。だってレイン様を美人だとか悪くないって言ってたやつらは、みんな殿下ににらまれて退学していったじゃないか。
ざわめきが広がる中、オリバーが周囲を睨んで黙らせようとする。けれど一度始まったざわめき話は止まらない。
――オリバー様が扇動してたんだよ、きっと。
――自分の浮気をごまかそうとして?うわ、ひっでえ!
――じゃあ、レイン様がヘンリエッタさんを階段から落としたのも……。
――オリバー様がヘンリエッタさんに命じた自作自演……ってこと!?
オリバーへの不信の声が高まる中、オリバーが歯ぎしりをしながら、ヘンリエッタを突飛ばすようにして手放し、ユリウスに詰め寄った。
「まさかその顔が先代女王と似ているから、なんて言わせるなよ。似ているものなんて星の数ほどいるんだから」
「黙れ。……ベン、カーテンを」
「はい」
しかし、ユリウスは動じもせずに、ベンジャミンにカーテンを開けるよう命じた。
ベンジャミンは頷き、彼の手によってカーテンが開けられる。さあ、と光られたカーテンの向こう、落ちかけの、それでも確かな陽光が会場へと入ってきた。
当然、レインの目にもその光が落ちる。それを見ていたオリバーの側近の一人がおどろいたように呟いた言葉は、レインの瞳のその変化を目の当たりにした学生たちの耳によく響いた。
「暁の虹……!」
「な……!」
――暁の虹って、王族の!?
――まさか、本当に!?
ざわめきが大きくなる。レインは自分の目がこんなふうに呼ばれていることも知らなかった。体が震えそうになる。それを、ユリウスはしっかりと支えてくれた。背があたたかい。だから、安心できた。
「そうだ。私も、そしてお前も受け継がなかった王族の証。暁の虹を、このレインは――いいや、イリスレイン姫は持っている。これ以上の証拠がどこにある。お前は最初に見て理解したんだろう。イリスレインがレインだと。だからレインが王族に戻れないよう、証拠を握りつぶしたのだ。唯一の王族がお前だと思っているから」
オリバーの目が見開かれる。
「悪いがスペアは大勢いる。一応だが、私にも王位継承権がある」
「なんだと……」
「アンダーサン公爵家は王家のスペアだ。王家に何かあったときに王に即位する。現王が先代女王陛下の代わりに王になったように」
ざわめきが止まる。息を呑む音だけがしいんとした部屋に響く。
「一度でも考えなかったか? お前が万一死んだとき、誰が王になるのか、と」
「だ――まれ!だまれだまれだまれ!」
オリバーは咆哮した。ユリウスにつかみかかろうとして――。
「――……そこまでにしなさい、オリバー」
その、静かな声に、はっと動きを止めた。
侍従に支えられながら、ずいぶんとやつれた様子で階上の王族専用の観覧席から降りてくるのは、今この国を治めている国王陛下にしてオリバーの父、その人だった。
「アンダーサン公爵、イリスレインと聞こえたが、その子が……?」
心労によって落ちくぼんだ目をレインに向けて、国王が静かに言う。ユリウスがうなずくのに、ああ、とため息をついた国王は、レインをしっかりと見つめていった。
「顔をよく見せてくれるか……?」
「……はい、国王陛下」
レインはそっと屈んで、国王と視線を合わせた。
「ああ、ああ……敬愛する姉上によく似ておられる……。暁の虹まで持って……そうか……あのちい姫は……イリスレインは、生きていたのだなあ……」
涙声になって、国王の唇から嗚咽が漏れる。ユリウスから、国王は穏やかな人だと聞いていた。きっと、だからこそ、心が疲れてしまったのだろう。王というものは、大変な仕事だから。
「陛下……」
「父上! そいつはきっと偽物です!」
レインが労わるように国王に声をかけると、オリバーがいきり立って叫ぶ。
けれど、国王は取り合わなかった。
「黙りなさい。……私をもう、父と呼ぶことは許さん。オリバー。ここまでの騒ぎ、そのきっかけを作っただけでは飽き足らず、公式記録の改ざんをしてまで保身をしようとしたことは王族として許されない」
落ちくぼんだ目、やつれた面差し、こけた頬。そのどれもが国王の心労を表しているにもかかわらず、その声に込められた怒りは本物だった。国王は、厳しい声でオリバーに告げる。
「今この時を持って、お前を王族から排籍する。そして、後ほど公式に発表するが、私はこの責任をとり、王位を退く。次の王は、王位継承権第二位の前アンダーサン公爵だ。……隠居したのに頼むのは、申し訳ないと思うがね」
国王がユリウスを見上げると、ユリウスは静かに礼をとって言った。
「いえ、父も、弟君である国王陛下のお役に立てて喜ぶと思います」
「ふふ、兄上はいつでも私のことを慮ってくださるからな……」
国王が何かを思い出すようにして目を細める。
「そ、んな、父上! 父上! 俺が王でしょう!? 俺は国王になれないのですか!」
「……オリバー、パーティ―のあと、お前を立太子する気でいたのだ。だから私もここに来ていた。イリスレインを隠そうとしたのは、その立太子を危ぶんでか?」
オリバーの言葉に、国王は声を硬くした。
オリバーに振り返ったから、レインには背中しか見えない。けれど、それがレインには、ひどく小さく見えた。
「悲しいよ、オリバー。私は、お前を王にしようと思っていたのに」
その言葉の、意味、が。いいや、意味を、理解してしまったのだろう。理解しないようにと思っていたのかもしれない。悲しい、という国王の言葉に、オリバーは今度こそ目を見開き、頭を抱えて座り込んだ。
「う、うわああああ……!」
目から涙を流して、口からは悲鳴のような泣き声をあげながら、オリバーはその場で啼き伏せる。国王はそれを痛々しく見やり、小さく、こぼすようにユリウスに言った。
「あとのことは頼む。……ユリウス」
「は」
ユリウスは会場を振り返って、朗々とした声で、安心してほしい、と告げた。
「皆、騒がせてしまってすまない。パーティーは後日また行うから、今日は解散とする。何かあればアンダーサン公爵家が用立てるから、相談してほしい。パーティーの費用もアンダーサン公爵家が受け持つ」
ほっとしたような声が広がる。レインも胸に手を添えて息をついた。
パーティーにはお金がかかるものだ。それが、オリバーたちが元凶とはいえ、だめになれば学生たちの家にはどれほど負担がかかるかわからない。それを、簡単に解決してしまったユリウスに、レインは尊敬のまなざしを向けた。
ユリウスが、今度はベンジャミンを振り返って言う。
「コックス子爵夫人と令嬢は詳しい取り調べに連れて行け。オリバーは部屋に」
「はい、お任せください」
ベンジャミンが頷き、ユリウスはオリバーの背後で呆然と座り込むコックス子爵夫人とヘンリエッタを見やった。レインもその視線を追う。ヘンリエッタは何が起きたのかわからない、という表情でぼんやりしているが、コックス子爵夫人は頭を掻きむしりながら「どうして、どうして」とつぶやいている。
「レイン、帰ろう」
「……はい、お兄様」
それに背を向けるように、ユリウスがレインの背を優しくなでたから、レインは頷いて踵を返した。気づけば、空は群青に染まりきっていた。