第七話 婚約への後悔(ユリウス視点)
明るく晴れた春の日。アンダーサン公爵家の庭園にあるブランコをそっと押しながら、ブランコに乗ったレインと一緒に花を見ていた。そこは、タンポポが咲き誇り、愛らしい庭になっていた。
あの頃だいぶ健康になってきていたレインの目は、陽の光が当たると美しい虹がより濃く現れるようになった。
「私は奴隷です、ゆ……お兄様」
「奴隷じゃないよ。君は僕の大切なお姫様だ」
いつだって、奴隷だった時を思いだして不安そうに揺れる目に、守ってやりたくてその小さな体を抱きしめたのをよく覚えている。レインの体は細く、華奢で、いい香りがした。花のような、ミルクのような香りだった。
「雨の日に見つけたから、君はレインというんだよ。……雨の日があれば、そのあとには虹が出る。虹が幸せをつかさどるというのは、君も知っているだろう?」
そう言ったのは本心からだ。彼女の本名、イリスレインという名前は、記憶のない公爵家の養女につけるには仰々しすぎて、イリスレインの素性を世間にばらしてしまいかねなかった。
だからイリスレインの記憶がないのをいいことに、彼女に適当な名前を付けたのだ。
その必要があったから。けれどどうしても、イリスレインという、誰もが慈しんだ彼女のかけらを残したくて、残してやりたくて、レイン、という彼女の愛称をとって名前にした。
雨が降れば虹が出る。そういう意味の名前は、ユリウスのせいでただの雨になってしまった。
――レインはユリウスの慈雨だった。
やっと見つけた彼女は痩せやつれて、あの薔薇色の頬も、美しいつやつやとした髪も、白い手も何もかもを失っていたけれど、あの美しい目に灯る優しい色だけはあの頃と同じだった。レインを救い出したあとは、そのぼろぼろの姿を見てタンベット男爵に殺意すら湧いた。
だが、幸せに不慣れなレインをいつくしんで大切にすることは、ユリウスにとって幸せなものでもあった。
レインは姫君であり、本来なら何百人もの人間に傅かれるはずの彼女が、お兄様、とユリウスだけに懐き、甘えてくれることはユリウスの喜びだ。そんな彼女が学園へ行き、婚約者であるオリバーに不遇な扱いを受けていると聞いて、オリバーの暗殺を真剣に考える程度には、ユリウスはレインを何より大切にしていた。
「はあ……」
「自分で決めたことなのに、後悔してるんだろ」
そんな気持ちにベンジャミンが追い打ちをかける。
わかっている。わかっているとも。
この状態を招いたのはユリウスの決断だ。ユリウスが、オリバーの伴侶にレインを、という申し出を受け入れていなければ、レインはあの目の光を陰らせることもなかっただろう。
ユリウスは、国中を飛び回って、レインの誘拐事件の背景について調査している父である前公爵からの報告書に視線を落とした。
「なあ、ベン。コックス子爵令嬢の母親と王家の接点はなんだ」
「もう知ってるんでしょうに、俺に聞くんですか。……皆無ですよ。皆無。ただ、ここ最近、新興貴族や下級貴族の間の茶会に顔を出してるコックス子爵夫人はやたら自信に満ち溢れてるらしく、妄言を吐いては苦笑されてるって話ですが」
「……」
「自分は、未来の王妃の母親になるんだって。ただまあ、それを言ってるのが夫人本人だけなもんで、最近は病院をすすめられてるそうですね」
「そうだな……そのはずだ」
ヘンリエッタの母親は、いつごろからか、社交場に現れては「自分は未来の王妃の外戚だ」などと吹聴することが増えたという。ヘンリエッタの母親――コックス子爵夫人は夫の間に数年前、男の子が生まれているが、まだ手のかかる自分の子供より、愛人の産んだ娘に執心なのは不思議なことだ。また、その子爵夫人は、結婚してすぐは普通の人間だったという。結婚後、足の骨にひびが入る程度のけがをしたらしいが、それだけで人格が変わるほどの衝撃を受けるだろうか。
ますますわからない。
ユリウスは考え込み、ペンを握って新しい紙にさらさらと書き込んだ。
怪我の前後や結婚してから、夫人に近付いたものがいるかもしれない、と思ったのだ。
ユリウスは書き終わったものを折りたたみ、封筒に入れて封をすると、ベンジャミンに手渡した。
「これを、父上に。今は王都の近くにいるらしいから、なるべく早く、渡しておいてくれ。私はレインが攫われたあの日の警備状況について、もう一度記録を探してみるつもりだ」
「承知いたしました。……なあ、本当に、おひいさまの婚約を、そのままにしておいていいのか?」
「そうするしかないだろう。決まった婚約なのだから。……あの日の決断を後悔しても……」
ベンジャミンの気づかわし気な視線に、ユリウスは首を横に振った。
そう、王家からの婚約を許可したのはユリウスだ。それを今さら覆すなど、レインの評判にもかかわる。
ぐっと奥歯を噛んだユリウスに、ベンジャミンが続ける。
「おひいさまがそれで幸せになれるって?」
「結婚後に、幸せにするために、今調査をしているんだ、コックス子爵令嬢を排除して、王家に危険などないように……」
「――見損なったぞ、ユリウス・アンダーサン」
それは、はっきりとした言葉だった。
臆することなく言い切ったベンジャミンを見上げたユリウスの目を、ベンジャミンのまっすぐな視線が射抜く、
そこに、不敬への後悔や、罰への恐怖はみじんもなかった。
「おひいさまを幸せにするんだろう? 危機を排除するんだろう? いわばそれは姫君の騎士となるということ。想う相手とてそれは同じだ」
「……騎士」
「そうだ、騎士だ。ユリウス・アンダーサン。俺は爵位なんぞ何も持たぬ、ただの平民。だがかつて前女王陛下に仕えた騎士、ダンゼントが息子、ベンジャミンは、この誇りだけは違えたことがない」
べンジャミンは言って、乗りあがるようにしてユリウスに顔を近づけた。苛烈な感情を帯びた瞳が炯々とぎらついてこちらを見ている。
「婚約破棄が難しい? たわごとを抜かすな、ユリウス・アンダーサン。お前がやろうと思えば可能なはずだ。おひいさまの評判? お前が守るんだろう。悪意からも、何からも。お前が悩んでいるのは、おひいさまの想いを聞かずに破棄をしたことで、お前がおひいさまを傷つけるかもしれないということを恐れているからだ」
ベンジャミンが畳みかける。それは、いっそユリウスに剣を向けていると言っても過言ではないような不敬だった。ぶしつけで、直情的な、怒りだった。
「お前を、主君と仰いだことを後悔させてくれるな。失望させるなら、今ここでお前の首を噛みちぎってでも俺がおひいさまを攫うぞ」
「……二度目の誘拐を、私がお前に許すと思うか。レインを傷つけるなにをも、私は許さない。……許さないと誓ったんだ、あの日、レインを救い出した日に」
ユリウスはゆらりと立ちあがった。幽鬼のような顔が窓に映る。
ああ、ひどい顔だ。そう思った。
ユリウスはこぶしを振り上げ、思い切りベンジャミンの横っ面を殴りつけた。
さすが騎士と言うだけあって、ベンジャミンは少したたらを踏んだだけだ。しかし、口の中が切れたのか、その唇の端からは血が流れている。
「レインは私の命だ! 何より大切なあの子を、もう二度と怖がらせはしない! お前じゃない、ベンジャミン! 私が守る! 私が――己のすべてをかけても守ると誓う!」
ぜえぜえと肩で息をするユリウスを、ベンジャミンがじろりとねめつける。……そうして。
「……ほら、言えるんじゃないですか」
――ふっと、笑った。
「不敬を、申しました。ユリウス様。主君に牙を向く従僕は、罰せられても仕方ありません。どうぞ罰をお与えください」
ベンジャミンは深く頭を下げた。首を差し出すようにこうべを垂れて、ユリウスの断罪を待っている。けれど、ユリウスは静かに言った。
「……ここで罰すれば、私は主に噛みついてまで主の本心を引き出そうとした忠義に厚い従僕を失うことになるな」
「……」
「すまなかったな。ベン。お前のおかげで、最初の決意を思い出せたよ」
こぼすように言ったユリウスに、ベンジャミンが顔をあげる。
「……何言ってんだよ。ユーリ。親友だろ。……友人のために全力を尽くせるってのが、親友って関係だ」
ま、ちょっと痛かったけどな。そう言ってベンジャミンはにかっと笑った。
それを見て、ユリウスもふ、と握りしめていたペンを離す。
「お前が親友でよかった。……ベン、今から王城へ行く」
「何のためにか聞いても?」
「無論、レインの婚約を破棄するためだ」
ユリウスは口元に薄く笑みを浮かべた。ベンジャミンが頷き、馬車の準備をするために駆けていく。
考えるのは得意だ。口先も、そのための土台も、レインのために研ぎ澄ませた。――だからもはや、迷いなどありはしなかった。