第六話 想わぬ相手との婚約
ユリウスのために第一王子オリバー・グレイウォードの婚約者となることを心に決めた後の日々は、思ったよりも楽なものだった。兄への想いを封印したからかもしれない。
けれど時折泣いてしまいそうになることもあった。そのため、ユリウスに頼んで眼鏡を作ってもらった。兄の琥珀色の目と同じ色の石がついた眼鏡は、レインの心を慰めてくれる。
オリバーも、オリバーの側近もレインに優しい――多分。強引なところはあるけれど、快活なところはオリバーの美点だと思った。
公爵家の養女だからと表立って何か言う人もいなかった。
それはレインが第一王子の婚約者だったから――それも、強く望まれてのことだと、周知されていたからだろう。
「お兄様」
「レイン、また前髪を降ろしているのか? 髪が目に入ると危ないよ。せっかく綺麗な目をしているのだから」
「……はい」
指摘されれば顔を出す。レインは、いつしか前髪を降ろして顔を隠すようになった。背筋だけはしゃんと伸ばしているけれど、自分の顔立ちを人目に見せたことでオリバーに見初められたらしいのが半ばトラウマになっていて、レインのこの顔は、積極的に人に見せたいものではなくなっていた。
「……今日も、よく頑張ったね」
「ありがとうございます、お兄様」
兄は今日もいつもと変わらず、レインを愛してくださるけれど、レインが婚約したことで、ユリウスへの婚約を求める声が大きくなっていった。レインはそれを他者から聞くたびに胸が張り裂けそうになった。
兄の隣に並ぶ女性。それは確実な未来の光景なのに、それがレインではないというだけで苦しく、重い気持ちになってしまう。レインは、まだ見もしないユリウスの婚約者に嫉妬して、どんどん沈んでいった。
それでもよかった、一年、二年と過ぎるうち、その苦しさにも慣れてしまったから。
そんな日々が変わったのは、三年生になってから。あの少女――ヘンリエッタ・コックスが入学してきてからだった。
長く広い廊下を一人ぼっちで歩いていると、オリバーとその側近に囲まれた少女が歩いてくる。薄桃色の髪に青い目をした彼女は、入学すると間もなく、オリバーやその側近らと親しくなったヘンリエッタだ。
最近平民から男爵家の養女となった彼女の話は、王族育ちのオリバーには新鮮らしく、婚約者であるレインを置いてまでオリバーはヘンリエッタにかまうようになった。
必然的にレインの周囲に人はいなくなり、レインは孤独になった。
「こんにちは! レイン様!」
オリバーの腕に自分の腕を絡ませながら、レインに先んじてレインに声をかけてくるヘンリエッタ。
そのヘンリエッタは今日もレインの上から下までをじろじろと眺め、そして勝ち誇った顔でふふん、と笑った。大きな胸をオリバーに押し付けて礼も取らない様子に、レインは静かにため息をついた。
「コックスさん。身分が下の者から上の者に声をかけるのはマナー違反です。授業で教わったでしょう」
「そ、そんな……私、あいさつしただけなのに……」
ヘンリエッタは涙ぐむ。それを見たオリバーがレインをにらみつけた。
「レイン! ヘンリエッタはまだ貴族になって間もないんだ、そんなに強く言うものではない!」
強く言ってなどいない。普通の声音だ。
レインだって、ヘンリエッタが下位貴族出身の自分を侮り、まったく授業を聞かないのだ、と嘆くマナーの教師に頼まれていなければ指摘せずやんわりと流しただろう。
けれど、レインが教師の頼みを聞かず、オリバーと不仲だと知れ渡れば――もはやそれに関しては手遅れな気もするが――ユリウスに迷惑がかかるかもしれない。
しかたなく指摘をしたのに、当のヘンリエッタからはこんな反応をされ、オリバーには敵意を向けられる。周囲にいるオリバーの側近たちもレインを睨んでいて、針の筵だ。
「ごく普通の指摘をしただけです。それにマナーのニア先生にも、コックスさんのマナーのことを頼まれています。このままでは単位が危うい、と」
「またそうやってレイン様は! 私がオリバー様と仲良くしているから嫉妬してらっしゃるのね!?」
「していません」
レインはぴしゃりと言った。
まったく話が通じなくて、どうすればいいのかわからない。レインは額を押さえた。拾ってくださったユリウスに恥をかかせないよう、必死でマナーを学んだレインには、その不真面目さが理解できなかった。
「コックスさん、補講のお手伝いはしますから、一緒に――」
「レイン! それ以上嫉妬に狂ってヘンリエッタを侮辱するなら、俺にも考えがある」
「はあ」
レインは思わず呆けた声を出した。
この方は、何を言っているのかしら、と思ったのだ。
「なんだ、その反応は!」
「いえ」
「まったく……今なら許してやるから、早くヘンリエッタに謝るんだ」
オリバーが呆れたように言う。レインはいいえ、と首を横に振った。
ありもしない非を認めることなどできない。レインは正しいことをした。だから間違っていると謝れば、アンダーサン公爵家まで――ユリウスまで貶めることになってしまう。
レインは顔をあげ、きっぱりと言った。
「私は間違ったことをしておりません。したがって、謝る必要もございません」
「なんだと……!」
「ひどい!レイン様……!」
「ほかに言うことがないならこれで失礼します」
言って、レインは踵を返した。顔をあげたまま、顔を隠しても、それだけはきちんとしなければ。
そうしないと、泣いてしまう。それだけは――ユリウスの、アンダーサン公爵家の令嬢が、無様に泣くわけにはいかなかった。
けれど、そういうことはそれからも何度も続いた。
ヘンリエッタの持ち物が盗まれたときは、レインのせいになった。レインが取り巻きにやらせたのだと、噂になっていた。
おかしいわ、とレインは薄く、泣くように笑った。だって、孤立したレインには友人なんていないのに。
――汚い、赤い目。血みたいね。怖い。
ヘンリエッタの言葉だ。それでレインはますます委縮した。立っていることがやっとだった。
オリバーもレインをかばうことはなかった。
そればかりでなく、レインが睨んでヘンリエッタを泣かせたのだとまで言ってレインを詰った。
オリバーには、もう、最初に出会ったときのような熱はないらしかった。……それは、それでありがたかったけれど。
■■■
「……大丈夫か、レイン」
「はい、お兄様」
「……明日は、学校を休みなさい。私が久しぶりに休めるんだ。だから、一緒に気晴らしに行こう」
「それではずる休みになってしまいますわ、お兄様」
家に帰ったレインを迎えたユリウスの第一声は、レインを案じるものだった。大丈夫だと言ったレインに、ユリウスは続きを口にする。
くすくすと笑ったレインを見て、ユリウスはふっとその顔に笑みを浮かべた。ああ、やっぱり、自分はユリウスのこういう優しい顔が好きだ、と思った。
「たまにはいいんだよ、レイン。気を晴らすことも大切だ。……私のわがままを、聞いてくれるかい? レイン」
「……お兄様が、望まれるのでしたら」
「なら、決定だ。学校には私が休みの連絡をしておこう。公爵の用事につき合わせるんだ、休みをとってしかるべきだから、学校も文句は言うまい」
「ま、お兄様ったら」
レインは笑った。久しぶりに、本当に笑った日だった。
■■■
空は晴れていた。暦の上では冬だが、春が近いためか少しだけあたたかい気がする。
王都は城下町。多くの高級店が軒を連ねているその場所で、ユリウスに連れられて入ったのは、専属のデザイナーが気に入った人にしかドレスを作らないということで有名な高級仕立て屋だった。
けれどレインが驚いたのは、そこに、ユリウスが予約もなしに入ったからではない。
「あらあらまあまあ! アンダーサン公爵閣下、それにアンダーサン公爵令嬢ではありませんの!」
「ルルばあや!?」
そこにいて、しかもレインたちを驚いた様子ながらもにこやかに出迎えてくれたのが、いつもレインのドレスを仕立ててくれているルルばあや……もとい、仕立て師のルルだったからだ。レインは、ルルの周囲でドレスを縫っているお針子たちが一斉に振り返ったのを見て、あっと口を押えた。
「ええ、ええ、ルルばあやですよ。レイン様。いつもは公爵邸でお会いしていますものね。驚くのも無理はございませんわ」
「え、でも、あの、ここは王都の人気の……デザイナーの方が……」
「人を選ぶデザイナーがいる仕立て屋、でしょう。ええ、確かに、私はいんすぴれーしょん、の湧く相手にしかドレスは作りませんのよ」
「レイン、ルル氏は以前公爵邸に来たときに君を見初めてね。それ以来、レインのドレスは絶対に自分が作ると申し出られたんだ」
「見初めたなんて。アンダーサン公爵閣下もろまんてぃっくな物言いをされますのね」
ルルはからころと笑った。六十を超えているはずだが、ルルの言葉ははきはきしている。レインはルルのそういうところが好きだった。ルルは少女のような目をレインに向ける。
「でも、正しいですわ。私はレイン様を前にすると、無限のいんすぴれーしょんが湧くのですから」
お針子たちの視線がレインに集中する。レインは顔を赤くして胸の前でもじもじと手を重ねた。
「あ、ありがとうございます……?」
「あらあら! レイン様が照れていらっしゃる! また私、デザインを思いつきましたわ。……それで、公爵閣下、本日はどのような用向きのドレスを仕立てさせてくださるのでしょうか?」
「今度行われる卒業式後のパーティー用のをまず一着。それから……」
ユリウスが注文している間に、レインは店の中を見回した。
お針子たちがせっせと手を動かしている。その手の動きは速く、と同時に繊細だった。
時折こちらを向く視線がいくつもあるから、きっと作業の合間にレインを見ているのだろう。髪をだらしなくたらし、顔を隠していることが急に恥ずかしくなって、レインは前髪をそっと横に流した。その瞬間、部屋のいたるところでほう、とため息が聞こえた。
「見て、なんて美貌かしら」
「アンダーサン公爵閣下も相当綺麗な顔をしているけれど、ご令嬢はそれ以上ね」
「透き通る、というのかしら。儚い中にも芯があって……綺麗ねえ」
「ちょっといい匂いしない?」
「ちょっと、変態みたいなこと言わないでよ。……でもたしかにいい匂いがするわ」
「眼鏡越しだけどすっごく綺麗な目をしてる。これはルル様大のお気に入り、というのもわかるわぁ」
「月に一度、ルル様が大はしゃぎで出かけていくのよね、たしかにこれは大はしゃぎするわ。私だっていろんなドレスを思いつくもの」
「あれもこれも着ていただきたい!」
はあ……!そろって大きなため息をつかれ、レインはびくりと体を揺らした。
何かおかしなことをしてしまっただろうか。レインがおずおずと会釈すると、お針子たちが一斉に胸を押さえる。ぐう!といううめき声まで聞こえて、レインはおろおろとユリウスを見上げた。レインの視線にすぐにこちらを振り返ったユリウスは、部屋の惨状に気付くと小さく噴き出した。
「お兄様……?」
「ああ、すまないね、レイン。最愛の妹が敬愛のまなざしで見つめられて嬉しいよ」
「レイン様は魔性ですねえ」
「ルルばあやまで!」
ふふ、と笑うユリウスと、しみじみ頷くルル。なんだか生あたたかい目で見られている気がする。そうこうしているうちに、ルルがパン!と手を叩いた。
「みんな! 大仕事よ! 倉庫からありったけの布を持ってきてちょうだい!」
ルルの声に、はい!とお針子達の声が揃う。レインはユリウスとともに別室に連れられる。
椅子に座って待っていると、そこに大量の生地が運び込まれてきた。
赤、青、紫、桃、黄……本当に色とりどりで、ここにない色はないのではないかと思うほどの種類の生地が部屋中を埋め尽くしていく。しばらくもしないうちにほとんど足の踏み場もなくなった部屋に、ルルが入ってきた。
「さ、まずは卒業パーティーのドレスですわね。レイン様は何の色がよろしいですか?」
そう言いながら、ルルはたくさんの生地を片っ端からレインの体に当て、布地とレインの顔を見比べている。
「この赤はだめね、綺麗だけれどレイン様の髪色にはもう少し深みのある赤じゃないと」
「この生地はどうでしょう、ルル様」
「花柄はかわいいけれど、レイン様じゃなくてもよくないかしら。ありきたりね」
「水色は……」
「うーん、髪色とは会うんだけれど、レイン様はお顔立ちがはっきりしていらっしゃるから、ドレスが負けてしまうわ」
お針子達と話しながら、ルルはレインに布を合わせていく。しかし、なかなか納得のいくものがないらしい。
「これもきれいだと思うのですが……」
「だめですわ。レイン様。卒業パーティーは人生の一大事なのだから、妥協してはなりません」
「は、はい」
食い気味に言われてレインは押し黙った。もうしばらくはこれが続くらしい。
ふいに、ルルがユリウスを振り返った。
「公爵閣下はどの生地がレイン様に似合うと思われますか?」
水を向けられ、ユリウスは椅子に座ったままゆっくりと目を瞬いた。
「そうだな……」
ユリウスは立ち上がり、部屋を歩いていくつか生地を拾い上げ、レインの体に当てた。
しゅるり、しゅる、と衣擦れの音がする。ユリウスの選んだ生地は濃い青が多かった。
一枚ずつ当てていくのを、お針子達とルルが真剣に見ている。そしてユリウスが最後にレインに当てた布に、ルルはおや、と片眉をあげ、お針子達からは感嘆の声が上がった。ユリウスも、この布以外をレインの体から外した。
「お兄様、これは……」
触れた布地はさらさらとしていて光沢がある。それなのにびっくりするほど軽くて、レインは驚きに目を見張った。濃い群青の、朝が来る直前の空の色――ユリウスの髪の色をした生地は、信じられないほどになめらかだ。布に詳しくないレインにも、これがずば抜けて高価だということがわかった。
「これは東方の国にある民族衣装の生地ですわ、レイン様」
ルルはユリウスの手から生地を受け取って微笑んだ。
「さすが、公爵閣下ですわ。レイン様にこんなにもお似合いになるものを見つけてしまわれるなんて」
「レインのことだからね」
ユリウスが満足げに笑う。ルルが「そうでしょうとも」と頷いた。
「さすがです。では、パーティー用のドレスはこの生地でお作りいたします。このルルのぷらいどをかけて、最高のドレスを作りましょう」
「ああ、頼む」
ルルがスケッチノートに何かを走り書きながら鼻歌を歌っているのを見て、レインはほっと息をついた。
やっぱりお兄様はすごい、物を見る目がおありになるのね。と思って、油断していたから反応に贈れた。
「それでは、残りのお出かけ用、室内用、ガーデン用……残り五十着のドレスの布を決めましょうか!」
「……え?」
完全にこれで終わりだと思っていた。それに、五十着!?レインが驚きに瞠目している間に、お針子達が手にそれぞれおすすめの布を持ちながら迫ってくる。レインはその迫力に押され、結局、どうしてそんなに散財されるのですか!と尋ねることもできないまま、声なき悲鳴をあげることになるのだった。
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ドレスの布地を選ぶだけで夕方になってしまった。
レインは、これも王都では有名な人気の菓子店でハーブの練り込まれたクッキーを齧り、薫り高い紅茶を口に含みながら、しかし疲れ切った顔でユリウスに向き直った。
「お兄様、どうして私のためにそんなにお金を使うのですか……?」
「それはもちろん、私がレインを着飾りたいからだよ」
「お兄様が私に甘いのは重々承知ですが、それにしたって限度があります……!」
「大丈夫、レインのドレスぐらい、たとえ百着買ったところで我が家の屋台骨は揺らがないよ」
そう言ってユリウスは優雅に紅茶を飲んだ。
「それに、レインを連れ出したのも、学園を休ませたのも、ドレスを注文したのも、私のわがままだよ。レインが気にすることはないんだ」
「お兄様……」
ユリウスがレインの頬に手を伸ばす。そっと頬を撫でられて、レインは自分の顔がかあっと熱くなるのがわかった。ユリウスの、こういうところがずるい。
ユリウスの指先が耳に触れる。柔らかく耳を挟まれる感触がして、レインはゆっくりと目を瞬いた。
「うん、よく似合っている」
「似合う……?」
ユリウスの手が離れていく。それを名残惜しく思いながら、レインはふと窓に視線をやった。
そっと片耳にかかった髪を持ち上げる。――はたして、そこにはきらきらと輝く青い――深い青、群青色をした宝石のついたイヤリングが飾られていた。
たった数年公爵令嬢をしただけのレインでもわかる。これは貴族でもなかなか手に入らないほど、極上の質をしたサファイアだ。大きさは小指の爪ほどもあり、そしてそれはこんなふうに簡単にぽんとつけてよこせるものでありはしなかった。
「お兄様、これは……」
「レインには青が似合うと思って。注文しておいたんだ。卒業式前に完成してよかった」
レインは息を呑んだ。心臓が激しく鼓動して、もうどうしようもないくらいに、今すぐ叫びだしたいような気持になる。サファイアはユリウスの髪の色をしている。
ユリウスは兄妹の情で贈ってくれているのだとわかっているのに、下手にサファイアがユリウスの色彩を持っているせいで、勘違いしそうになってしまう。
今にも爆発してしまいそうな心臓を無理矢理に押さえつけて、レインはなるべくしとやかに見えるように微笑んだ。そっと耳たぶに触れて、ユリウスの目を見つめる。眼鏡越しでもわかる、美しい、ユリウスの琥珀のような目がレインを映している。
レインははにかんで言った。
「嬉しいです、お兄様……大切に、大切にします」
「卒業式、それをつけてくれるかい?」
「もちろんです。作っていただいたドレスに、きっとよく合います」
「ドレスに、じゃなくて、君に、似合うんだよ、レイン」
「まあ、お兄様ったら」
レインは口に手を当ててクスクスと笑う。ユリウスの琥珀色の目も細まって弧を描いている。
それにまた照れてしまって、ごまかすように口に含んだ紅茶はあたたかい。
レインは、何度も何度もユリウスに幸せをもらっている。こんなふうに幸せだから、レインはきっと、もう何が起きても大丈夫だと思った。
■■■
翌日の学園は、レインが休んだ事実などなかったくらいにいつも通りだった。
もともと、もうすぐ卒業で、進路も王子妃と決まっているレインは学園に来る必要もなく、したがって、休んだ穴埋めのために課題を追加される、なんてこともなかった。
ただ学園の教師陣が「アンダーサン公爵閣下から聞きましたが……」とレインを心配してくれるようになっていたことだけが違いだった。
おそらく、ユリウスがレインを案じて先に根回しをしていてくれたのだろう。
ユリウスのおかげで、せめて教師陣には、レインがヘンリエッタをいじめてなどいないということが理解されて、周知されている。ユリウスは、レインを、たとえそばにいられないときでも守ってくれている。それが嬉しかった。
相変わらずオリバー王子たちには遠巻きにされ、敵視されてもいるけれど、レインは平気だった。
状況が変わったのは、昼食を食べようとカフェテリアに向かったときだ。
カフェテリアに向かう途中の廊下で、ヘンリエッタが話しかけてきたのである。
「レイン様、私、レイン様にお話があるんです。来ていただけますか?」
「……ここで、話すのではいけないのですか?」
「ここではちょっと……すみません」
全然申し訳なくなさそうに、ヘンリエッタが言った。
オリバー王子たちはここにはいない。周囲を見回して、それならいいわ、と思って、レインは頷いた。
「わかりました。……けれどどこへ?」
「こっちです」
ヘンリエッタはニコ、と笑ってレインを先導した。
カフェテリアから続く長い渡り廊下を渡り、ヘンリエッタとレインは突き当たりの階段を上っていく。
人気のないところに案内されるかと思えば、そこそこに人目がある。それに安堵していると、ふいに、階段の踊り場で、ヘンリエッタは立ち止まった。
「ねえ、レイン様」
「どうしました? コックスさ……」
レインが言い切るより前に、ヘンリエッタが振り返る。その目がほの暗く輝いてレインを映していた。
「昨日、ユリウス様とデートしてましたよね」
「え……」
レインは瞠目した。どうしてヘンリエッタが、レインとユリウスが一緒に出掛けたことを知っているのだろうか。
「私、学園を早退して見てたんですよ。二人でお茶なんかして、ドレスまで作っていましたね」
「どうして……」
「どうして見ていたのか、ですか? 簡単ですよ。それがヒロイン『ヘンリエッタ』と隠しキャラ『ユリウス』のデートイベントだったから。だから早退して、そこに行ったんです。ユリウスがいじめられてるヘンリエッタを連れ出して、気分転換させてくれるイベント。なのに、あそこにいたのは悪役令嬢とユリウス。そこは私がいるべき場所だったのに」
「デート、イベント……?」
「そう。ここじゃない世界には、乙女ゲームっていうものがあるらしいんです。お義母さまが教えてくれたの。お義母さまは『ヘンリエッタ』と『ユリウス』のカップリングが好きなんですって」
ヘンリエッタが夢見るような目になって言う。
「お義母さまが私のために全部、全部お膳立てしてくれたの。コックス子爵家に引き取られたのも、私がヒロインの『ヘンリエッタ』だったから……!」
レインは何も言うことができなかった。語り続けるヘンリエッタの言葉が荒唐無稽すぎて、意味を推し量ることすら難しい。
「私も一目見てユリウス様を好きになったわ。あなたはもうユリウスと結ばれるだけよってお義母さまも言ってた。……でも、どうしてあんたがここにいるの? 奴隷落ちして、ゲーム開始前に退場した……お義母さまが排除してくれた、悪役令嬢、『レイン・アンダーサン』が」
何を言われているのかよくわからない。悪役令嬢?ヘンリエッタの義理の母?繰り返した単語が脳裏をぐるぐると回って混乱する。
けれど、ヘンリエッタの様子が、発言が、常軌を逸していることはわかった。とっさにあとずさったレインの腕を、ヘンリエッタの手が捕まえる。耳元で、ヘンリエッタが囁くように言った。
「――……派手なのは肩書だけね、悪役令嬢って、そんなもの? ふふ、もっと手強いものだと思ってたわ」
――はっと見やったヘンリエッタの目はらんらんと輝いていた。青い目が興奮で潤み、その中にレインを映している様子は正気を失っていると言っても過言ではない。
ヘンリエッタの手がレインの腕をぐい、と引く。すぐ横には階段。落とされる、と思って、レインはもがいた。
「は、はなして……ッ!」
レインが、落とされまい、と身をよじった時だった。
「きゃあああああ!!」
突然、ヘンリエッタが悲鳴のような大声を上げた。
狂気的なまなざしが、レインを追いかけて、レインの一呼吸をも見落とさぬようにとでもいうように見つめている。その突然のヘンリエッタの悲鳴にレインが何を反応するより早く、ヘンリエッタが床を蹴った。
ズダダダダン!!と大きな音がして、ヘンリエッタが階段を転がり落ちていく。
まばらだった人の気配が集まってきて、めいめいの目が落ちて気絶したヘンリエッタと、階段の上にいるレインを見つめている。
「レイン様が、ヘンリエッタさんを突き落とした……?」
誰かが口にしたその言葉が、さざ波のように広がっていく。
「まさか嫉妬?」
「婚約者のオリバー様、最近ヘンリエッタさんと仲が良かったものね」
「女の嫉妬ってこええ……」
足元がぐらぐらする。頭がぐわん、ぐわん、と鳴って、今にもその場に頽れてしまいそうだ。
ふらつく足、それを受け止めてくれる人は今はいなくて、教員たちが倒れたヘンリエッタを救護室へ運んで行ったあと、レインを保護して教員室に運ぶまで、レインはその場から一歩も動くことも、何かを声にして発することもできやしなかった。