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第四話 学園へ

 月日が経つのはあっという間だった。レインがユリウスに救われてから四年が経つ。

 優しくあたたかなアンダーサン公爵家の人々に包まれ、育てられ、レインはずばぬけて賢く、透き通るように美しい少女へと成長を遂げた。ユリウスも立派に成人し、と同時にやりたいことがある、と引退を決意し辺境へ行ってしまった父公爵から爵位を継いだ。


 レインが十五才、ユリウスが二十二歳のことである。そんなレインももうすぐ――本当の誕生日はわからないので大体の目安だが――十五才となる。

 王立学園に入学する時がやってきたのだ。


 この国、イシス王国の貴族令嬢と貴族令息はみな十五才を迎える年の春から三年間、王都にある王立のイシス学園に通うことを義務付けられている。貴族同士の結束を固め、有事の際に備えるため、というのがその義務の名目だが、貴族同士の結束が固まるかと言えば、そうであってそうではなかった。


 親が社交界でどのような立場にいるかでグループができ、その中で交流する。仲のいい悪いも実家しだいだ。いうなれば、ここは小さな社交界なのである。


 そんなイシス学園の入学式に向かう道すがらのことだった。ユリウスと並んで歩くレインは注目の的だった。

 視界の端々から、あのアンダーサン公爵と歩いているのは誰だ、と囁く人が見える。

 やっぱり兄は優秀で美しい、素晴らしいひとなのだ。


 ユリウスと並んで歩いているだけで注目されるのを実感しながら――実は囁きの半分ほどはレインの美しさについてだったのだけれど、思い込みゆえにレインはそれには気付かなかった――レインは歩く。その時だった。


「おっと、ごめんね……うわッ」


 広い、学園の正門で、きらびやかな容姿をした金髪の少年が、レインにぶつかりそうになったのだ。

 間一髪でユリウスがかばってくれたからレインにはぶつかっていないが、代わりにユリウスに勢いよくぶつかってしまった青年は、思いきりたたらを踏んで転んだ。一方のユリウスは鍛えているからかびくともしていない。


 さすがお兄様だわ、と思いながら、レインはよろけていった少年を見やる。

 歳は自分と同じくらいだろうか。おそらく新入生だろう。金髪に琥珀色の目をしていて、美少年と言えなくもない。ただ、この広い通路を歩いているにもかかわらずレインにぶつかろうとしてきたことと、なにより――ユリウスが隣に並ぶことがなければ。


 ユリウスの、眼鏡をしていてもわかる迫力のある美貌に比べてしまっては申し訳ないのだけれど、どうしても誰でもが見劣りしてしまうのだ。

 レインは眉尻を下げて少年を見つめた。少年の顔がぽっと赤くなる。


「あの……大丈夫ですか?」


 おそらくぶつかってきたのはわざとだ。そうでもないと、この広々した通路でぶつかる意味が分からない。それでも転んだ相手を無視するわけにもいかない。


 レインが差しのべた手をぎゅうっと掴み、レインが痛みに顔をしかめるのにも関わらず、少年は「君の名前は?」と何より先にまずレインの名前を聞いてきた。


「あ、あの」

「オリバー殿下、その辺にしてくれますか。妹が痛がっています。第一、妹が手を差し伸べたにもかかわらず感謝もせずまず名前を尋ねるとはどういう了見ですか。……そもそも、わざとぶつかりましたね?」

「アンダーサン公爵の妹だったのか。なぜ僕が知らなかったんだろう。……本当に綺麗な子だ」

「その耳にはパンでも詰まっているのですか? もう一度言います。私の手が出る前にその手を妹から離してください」

「ひ……。わ、わかったよ……アンダーサン公爵……」


 ユリウスの怒気に負けたのか、オリバーがレインの手を解放する。レインの手は強く握られたせいで赤く手のあとがついてしまっていた。

 奴隷だった時は分厚くがさがさしていた手も、今はこんなにやわらかく、弱くなってしまった。


「レイン、手をお見せ。……ああ、赤くなっているじゃないか……」

「大丈夫です、お兄様」


 レインが微笑むと、ユリウスは心配げに眉根を寄せた。

 ユリウスは心配症だ。このくらい、すぐに治るのに。


「念のため冷やしておこう。あちらに保健室がある」


「ねえ、ちょっと待ってくれないか。レイン、その子はレインというのか。もしかして先代公爵が養女にしたって噂の?」


 周囲にさざめきが広がる。養女、という言葉だけで、周囲の視線の温度が侮るようなものへと変化したのがわかった。


 ユリウスの舌打ちが聞こえる。

 兄がこんなに怒っているのは、レインをタンベット男爵から救い出してくれた時以来だ。

 良くないことだろうけれど、レインは、ユリウスが自分のために怒ってくれることが嬉しかった。


「……今から、保健室に行くのですが」

「大丈夫だろう、ちょっと赤くなっただけだ」

「……殿下がそれを言うんですか」


 けれど、この状況はよくないだろう。きっとよくない。

 レインはそっとユリウスの手を押しとどめ、オリバー、と呼ばれたその男子生徒に向き直った。

 貴族名鑑も、新聞も、国の情勢もすべて頭に入っている。だから、この少年がおそらくはイシス王国の第一王子である、オリバー・グレイウォードだということも察しがついていた。


 レインはスカートを摘まみ、優雅に腰を落とす。周囲からほう、とため息が出るほど美しい姿勢は、家庭教師によく教えてもらった、レインの努力の結果だ。


「オリバー・グレイウォード第一王子殿下にはお初に御目文字します。アンダーサン公爵の妹、レイン・アンダーサンと申します」

「レイン……!」

「そうか、レインというのか、ああ、顔をあげていいぞ。なるほど、なるほど……公爵、よい義妹じゃないか」

「……」


 ユリウスは今にも爆発しそうだった。礼を失した態度をとられているのはさすがにわかるが、相手は第一王子だ。ここでユリウスが手や内を出しては、のちのちユリウスが困ることになる。

 レインはユリウスを振り返って頭を振る。


 さらさらの薄青い髪が揺れて、さり、と音がした。

 かばわれた形になったオリバーが満面の笑みでこちらを見ている。

 レインはそれに若干の不快感を覚えながら、静かに頭を下げた。


「レイン、公爵は保護者としてのつきそいだろう。なら僕と一緒に入学式の会場へ行こう」


 冗談ではなかった。今日はユリウスが膨大な仕事を片付けてやっと作ってくれた休みなのだ。そんな大切な入学式を、つぶされたくはない。


「光栄です、殿下。しかし……」

「だろう! じゃあいっしょに行こう」

「きゃ……」


 腕を強くひかれ、レインはたたらを踏んだ。

 どうしよう、このままついていくしかないのだろうか。レインが救いを求めるようにユリウスを振り返ろうとした、その時だった。


「失礼、殿下」


 レインの視線が届くより速く、ユリウスがレインを横抱きにしたのだ。


「あ、おい!」


 そのままかつかつと速い歩調で進んでいく。ついて来ようとするオリバーに、ユリウスが強い視線を向ける。それだけで、オリバーはぐっと喉を詰まらせて立ち止まった。

 ユリウスはそれを確認すると、もう振り返ることはなかった。


 ユリウスが話すことはない。無言だった。きっとユリウスは苛立っている。ただレインだけが、救われたことへの安堵と、兄に抱かれていることへの胸が張り裂けそうな歓喜に、ぎゅっと両手を握りしめていた。



■■■


 保健室で手を冷やしている最中も、ユリウスは無言だった。

 レインが主席として入学式の挨拶をする間はじっとこちらを見てくれていたけれど、入学式を終え、帰り道になっても、ユリウスは何かを考えこんでいるようだった。


「お兄様……」


 帰りの馬車で、レインはさみしさに耐えきれなくなってユリウスを呼んだ。

 窓の外を見て真剣な顔をしていたユリウスがはっとこちらを向く。


「すまない、レイン。少し考えごとをしていた」

「そうだったのですね、私がお兄様に余計なことをしてしまったのかもしれないと思っていました」

「私のためを思ってだろう。レインが気にすることはないよ」

「それでも……」

「大丈夫だよ、レイン」


 それ以上レインに気を遣わせないためだろうか、ユリウスがぴしゃりと言った。

 ユリウスのこういうところは、優しいけれどもどかしいところだった。レインはもっと、ユリウスの役に立ちたいし、迷惑をかけたくないのに。


「それより」


 ユリウスが話を変えるように、レインに向き直った。


「オリバー第一王子のことを、どう思った?」


 突然の質問に、レインは戸惑った。ユリウスが王子の印象について……というか、誰かの印象について尋ねて来たのは初めてだったからだ。

 第一王子は、印象に残る人物だった。……悪い意味で。


 ユリウスが何を知りたくてこんなことを聞くのかわからない。

 レインはユリウスの顔をじっと見つめた。その表情には、レインの中の何かを探るような色があった。


 そこに、レインの持つ甘い夢のような、分不相応な感情を見透かされているような気がして、レインはとっさに、ごまかすように口を開いた。


「とても良い方だと思いましたわ」


 にっこりとほほ笑みながら口ずさんだ言葉は真っ赤な嘘だった。


「好感を抱いた、と?」

「はい」

「……そうか」


 ユリウスは、その秀麗なおもてに渋面を浮かべた。

 レインは、あ、間違った、と思った。


 人の顔色を窺うことは得意だったはずなのに、幸せな生活をしていて油断してしまった。ここは本音を言うべき場面だったのだ。あの人は嫌いだと、オリバーにはもう会いたくない、と。

 あわててレインが訂正しようとした、その時だった。


「あの……」

「実は、王家からレインの婚約を打診されていてね」

「え……」


 こんやく、とレインは唇だけでつぶやいた。

 喉が急にからからに乾いて、指先がおこりのように震える。


「私は、養女です。しかも、もともと奴隷身分でした」

「この国は奴隷を禁止している。だからレインは平民だった、ということになっている」

「でも……」

「それでも、だ」


 ユリウスは苦々しい顔で話を続けた。


「養女でも平民でもいい、と。レイン、お前と第一王子の結婚を強く望まれた。おそらくは、先代女王陛下の崩御から求心力の落ちている王家とアンダーサン公爵家の結びつきを強めたい、という思惑がある」

「お、兄様、それは、以前から……?」

「……レインが養女になったあたりから、ずっと打診されていた」

「そんな……」


 レインの手が力なく膝に落ちる。この身が張り裂けるかもしれない、と思った。

 だって――ずっと、恋をしていた相手から、他の人間との結婚をほのめかされているのだから。


 レインはユリウスが好きだった。おそらくは、あの雨の日、レインを拾ってくれたそのやさしい手を取った瞬間から、恋に落ちていた。気が付いたのしばらく経ってからだ。……けれど、義理とはいえ、妹が兄に懸想するなんておかしいし、世間的にも異端なことだ。

 

 レインはいい。たとえ兄への恋心を糾弾されても、この想いを抱いていられるだけで充分幸せだ。

 けれど、兄は違う。輝かしいアンダーサン公爵――その未来を、レインなんかがつぶしていいわけはない。


「レイン、お前はどうしたい? お前が望まないなら、私がどんな手を使ってでもこの婚約を阻止しよう」


 ユリウスの言葉が重苦く響く。ユリウスの言葉からして、その打診は、しつこく、何度も繰り返されてきたのだろう。ユリウスは、その防波堤になってくれていたのだ。

 これ以上、ユリウスに負担をかけるわけにはいかない、と思った。


 ユリウスの顔が疲れて見える。そんな顔をさせたくなかった。

 そうだ、この婚約を受け入れよう。そうして、この兄への想いを心の奥へ、奥底へしまいこむのだ。そうして、兄には王妃の外戚という身分をささげよう。


 ――お兄様にいただいたすべてを、今、お返ししなくてはならない。


 レインは膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。


 馬車の外は夕暮れだ。晴れていたのに、今、空は曇って雨の匂いがする。

 ――雨の日に見つけたから、お前はレインと言うんだよ。

 そう、私はレイン。雨の日に救われたレイン。アンダーサン公爵家の、養女。


 だから、兄にいただいたこの名前さえあれば、恋を隠して王家に……オリバーに嫁げる。

 そのために、一生を捧げてもいい。兄にもらった命だ、兄にいただいたすべてだ。それを、お返しすることくらい、なんてことない。


「婚約を、お受けします」


 レインは静かに言った。はっきりと口にした言葉は、ユリウスに届いただろうか。

 この想いを、ごまかせているだろうか。

 ユリウスは息を呑んだ。どうしてそんな顔をするのだろう。ユリウスは眉を下げて、苦し気な顔をしていた。


「……そうか。わかった。王家には、了承の返事をしておこう」


 しとしとと雨が降ってくる。暗くなって、ユリウスの顔が見えなくなった。

 この雨は、泣かないように耐えるレインのかわりに泣いているのかもしれなかった。



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