第三話 幸せになった元奴隷令嬢
良く晴れた日の午後、昼食を摂った後、公爵家の庭園の散策を提案してくれたユリウスに、レインは一も二もなくうなずいた。
最近のユリウスは勉強するときに楽だから、という理由で眼鏡をかけていることが多い。公爵家を継ぐために、本格的に勉強を始めたらしい。
群青の髪をして、切れ長の琥珀色の目が輝くユリウスは、今までレインが見たこともないほど美しい顔をしている。眼鏡をかけると、ユリウスの年齢の割に大人っぽい魅力が増すようで、レインはどきどきしてしまうのだった。
――今日も、お兄様はかっこいい。
お兄様、と呼ぶことに照れと遠慮がなくなることはまだない。
でも、そう呼ぶとユリウスが喜ぶので、レインはなるべくユリウスのことを「お兄様」と呼ぶようにしていた。
日傘をさしてもらい、大きな庭園に出たレインは、その広大な敷地にまず驚いた。そして、そこに植えてある色とりどりの花たちにも。
花壇は円状に伸びており、中央には大きな噴水があった。ところどころに影を作るように薔薇のアーチが点在していて、遠目には庭を眺めるように東屋が立っていた。
ガラス製だろうか、透明な温室もあり、この庭の半分だけでタンベット男爵家の屋敷がすっぽり収まってしまう広い庭は、それに見合うだけの手がかけられていることがわかった。
「レイン、レインは何の花が好き? 母が亡くなってから、この庭は庭師に任せきりでね。よければ、レインの好きな花を植えてくれると嬉しい」
「えっ……!? こ、こんな素敵な庭に手なんか加えられません! 庭師の方はすごいです……!まるで夢みたいなお庭……」
「ふふ、それは庭師のダンに言ったら喜ぶだろうね。でも、これからこの庭の主人は君だ、レイン。レインはどんな花が好き?」
もう一度聞かれて、レインは眉尻を下げて考え込んだ。
好きな花はあるけれど、好きな理由が理由だし、そう胸を張って言えるほど花には詳しくない。
「好きな……花……」
レインは口ごもった。レインの好きな花は、この庭には似つかわしくないような大衆的な花だったからだ。
「タンポポ……」
ひもじいときに食べていた花だ。葉も根も花も食べられて、しかもほかの草より苦くない。
「かわいくて、小さくて……私を助けてくれた花だから……」
タンポポを齧っていたのはひもじいからだったけれど、一番はそれがあるのかもしれない。
レインはいつもおなかをを好かせていて、いつ飢えて死んでしまってもおかしくはなかったから。レインがうつむくのに、ユリウスがはっと顔を曇らせる。レインに、タンベット家のことを思い出させたと思ったのだろう。
「あの一家……ここまでレインをむしばむなんて、処刑では生ぬるいな……」
「お兄様?」
「なんだい? レイン」
「お兄様、眉間がしわしわです。なにか嫌なことがありましたか……?」
「いいや、レイン。なんでもないいよ」
ユリウスが何事かを暗い顔でつぶやいていた気がしたが、レインの言葉にいつもの優しい笑顔に戻った。
琥珀色の目がゆるりと細くなり、やわらかな色を宿す。
ユリウスの手がレインの頭を撫でてくれる。レインははにかんで目を細めた。
「そうか、では、この庭園をタンポポでいっぱいにしよう」
「ええっ!? で、でも、公爵家のお庭にはふさわしくないですっ」
「レインが好きかどうかが大切なんだ。私はレインの好きなものをまたひとつ、知ることができてうれしい」
「好き、というか……」
「というか?」
ユリウスは、レインのゆっくりとした言葉を、ひとつひとつ、しっかり聞いてくれる。それが嬉しい。
「男爵家にいたころ、よく森から失敬して食べていたんです。タンポポは葉も花も食べられますし、土を落とせば根もおいしいんですよ」
まあ、おいしいとは言っても、他の草に比べて、ではあるし、公爵家で出される素晴らしい料理に比べては申し訳ないものなのだが。
思い出しながら言葉を紡いだレインは、言ってしまってから、あ、と思った。
公爵家には――レインの今の身分である、公爵家の令嬢、にはふさわしくない話だった。
やってしまった、とうなだれるレインの髪を、ユリウスの指がすく。
「そう、それで……他にはどんなものを食べていたの?」
ユリウスの手が握りしめられている。怒りだろうか。けれど、そこにレインへのものは感じられなかった。ユリウスは、きっと男爵家の人間に怒っている。
ふと、気になることがあって、レインは尋ねた。
「……引かないんですか」
「レインのことで嫌だと思うことはないよ。むしろ、レインの言葉を、レインの口から、もっと聞きたい」
「……ありがとうございます」
タンベット男爵家では、レインのことを聞くだけでもわずらわしいと言われていたのだ。
だから、レインにはユリウスの態度は新鮮で、心臓をなんだかあたたかくさせるものだった。
「……あれは?」
ふっと、花壇に咲いた大きな花が気になって声をあげた。ユリウスが、レインの隣で足を止める。
「あれ……ああ、ダリアか。これはダリアという花だよ」
「だりあ。こんなにすごいお花、見たことないです。……花びらがいっぱいのところが、タンポポみたい。……もし、もし増やすなら、このお花がいいです。タンポポに似てるし、公爵家には、きっと……」
「好きなものを植えていいと言ったのに。でも、そうか。レインは僕らのことを考えてくれるんだね……」
ユリウスは少し考えていった。
「公爵家の庭師は腕がいい。庭師のダンに言えば、きっと、ダリアも、タンポポも、綺麗に植えてくれる。この庭を管理している彼は、腕がいいんだ」
「……一緒に言ってくれますか?」
「もちろん」
レインがおずおずと尋ねると、ユリウスはにこりと笑って返してくれる。
その顔があんまりやさしくて、レインはそっと胸を押さえた。どきどきする、と思った。
■■■
庭師のダンは、温室にいた。
ダンは腰の曲がった老人で、気難しい顔をして薔薇の前で何かをしている。
少し恐ろしい表情に、レインが委縮したのがわかったのだろう。
ユリウスが背を撫でてくれたので、レインは「そうだわ、ひとを見た目で判断してはいけないんだわ」と思って、しゃんと立ちなおした。
だって、レインだって、この赤い目で嫌だと思われたら悲しいから。
「ダン、ちょっといいか?」
「なんですかい、ユリウス坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめてくれ……。紹介するよ、アンダーサン公爵家の姫君、レインだ」
「レイン……?」
訝し気に振り返った老人――ダンは、レインをみとめておや、という顔をした。
「姫君、ですかい。坊ちゃんがそう呼ぶのを、儂はひとりしか知りませんが……」
ダンはまじまじとレインの頭の上からつま先までを見た。そうすると、ユリウスが不機嫌そうに腕を組む。
「ダン、レインに失礼なことをしてみろ、いくらお前でも許さないぞ」
「かっかっか。坊ちゃんにそんなことできないことは、儂はじゅうじゅう承知です。坊ちゃんが優しいから、このじじいがしっかり見定め……て……」
その時、ふいに雲が切れて、温室に光が差し込んだ。
レインの目を見て、ダンがあっと唇を震わせる。
「おひいさま……!」
「おひいさま?」
レインが首を傾げると、ダンは「ああ、本当に、そういえば面差しが」と何度もうなずいた。
レインは誰かに似ているのだろうか。そんなことを思ったレインをよそに、ユリウスはそっと唇に指を立てる。
「ダン、その話はあとで」
「ええ、はい、そうでしょうとも。……帰ってこられた、本当に、本当にうれしいことじゃ……。おひいさま、ダンと申します。ダンじいや、と呼んでくれると嬉しいですわい」
「しれっとじいや呼びを提案するな、いくらレインがかわいいからって」
「お、お兄様!?」
かわいいと言われてレインは目を瞬いた。
突然飛び火してきたので、それまで疑問に思っていたことが霧散してしまった。
「おひいさま、何の花が好きですかい。どんな花でも、このダンじいやがきれいに咲かせてみせましょうね」
「ええと、ダン……さん」
「……おひいさま……」
「……ダン、じいや……」
「はい! おひいさま」
「ええと、あの……」
食い気味に来られて、レインはたじろぐ。最初の、怖いと思った面影はもうない。
相好を崩し、すっかり笑顔で迫るダンからレインをかばうようにユリウスが立ちふさがる。
「坊ちゃん、なんで邪魔をするんですか」
「ダン、勢いがよすぎる。レインに会えてうれしいのはわかるが、レインがおびえているぞ」
「おっと……それはすみません」
ダンは目を白黒させるレインに頭を下げた。
「い、いいえ、怖くないです。大丈夫」
「儂に敬語は不要ですわい。儂には男孫しかいませんので、気軽にじいじ、と」
「レインを先に孫と呼びたい先代公爵に言いつけるぞ」
「あんなひょろながで儂にかなうはずありますまい」
かっかっか、と笑うダンは、確かに鍛えられた体をしていた。ユリウスは細身なので、それと比べると腰が曲がっていても大男に見える。
庭師ってすごい、と思いながら、レインはおずおずと口を開いた。
「だ、ダリア……」
「ほう」
「と、タンポポ……」
最後は小さくなってしまった。しかし、そんなレインの声を聞いていたのだろう。
嬉しそうに目を細めたダンは、うんうんと頷いて「お任せください!」と胸を叩いた。
「おひいさまの好きなお花ですからね、儂にお任せください! どこよりも美しく咲かせて見せましょうとも!」
ダンは、タンポポという雑草を好きだと言ったレインをさげすまなかった。驚きもしなかった。
まるでそうあることが当たり前みたいに、レインの好き、を受け入れてくれた。
「どうして……? 変、って思わない、ですか? タンポポなんて、どこにでも咲いているのに」
「どこにでもあるからです。おひいさま」
ダンは髭の生えた顔でくしゃりと微笑んだ。
「タンポポという花は、一般的には雑草です。雑草とひとまとめにして考える人もおります」
「そう、だから」
「だから、タンポポも名前があり、ひとつひとつ花を咲かせる、ということを知っていることは、すごいことなのですよ。おひいさま。儂はそれを尊いことだと思います」
ダンの大きな手が、レインの手を包み込む。
「どうか健やかにお育ちになってください。儂の望みは、それだけです」
ダンが笑う。このひとは、ここの屋敷のひとたちは、みんなそういう。
レインが大切なのだと、態度と言葉で伝えてくれる。
そういうものを受け取る理由がなにもわからないのに、その気持ちは、レインと間違った誰か、ではなく、正しくレインに向けられていると信じられるから、レインはいつだって泣きそうになるのだ。
目を潤ませたレインにあわてるユリウスとダンに、レインはにっこりと笑った。
「ありがとう、ダンじいや」
■■■
「おひいさまがタンポポが好きとは、儂は驚きましたぞ。先代女王陛下と同じです」
「ダンは先代女王陛下に仕えていたんだったか」
「ええ。騎士団長になる前から、近衛騎士としてお仕えしておりました。恐れ多いながらも、娘のように思って……あの頃は、儂の人生で最も輝かしい日々でした」
温室の外、東屋にはメイドにお茶を出されて喜んでいるレインが見える。
少し肉がついただろうか。紅色に染まる頬を見るたびに、ユリウスは安心する心地になる。
「タンポポは民のようなものです。雑草としてみる人間には価値がわからない。タンポポだと知っていればただの草ではなくなる」
「人もそうだ。民草のことをひとまとめにして捕らえる為政者がいる一方、彼らを個としてとらえる為政者がいる。……レインは、きっと後者だ」
ダンの言葉尻を掬うように、ユリウスは静かに言った。ダンが頷く。
「僕は、レインはそんな女王になると思っているよ」
「ああ、やっぱり、王家にお返しになるのですか?」
「あそこを安全にしてからだ」
「隣には、ユリウス様が立たれるのですよね?」
「……どうだろう。王家から打診が来ている。公爵家の養女を第一王子の婚約者に、と」
「ああ。今の王家は求心力が弱いですからね。先代女王陛下のカリスマがずば抜けていたばかりに。弟である現国王陛下は気が優しい方ですが、優しすぎるきらいがある。今のうちに、有力貴族であるアンダーサン公爵家とのつながりを作っておきたいんでしょう」
「僕と第一王子、同じ従弟という立場でも、レインの足場を固めるなら……それに、レインに女王という重荷を背負わせないためには、第一王子の方がいいんだ。きっと」
「……そうですか」
ダンは静かに言った。
「おひいさまを愛しているのは、間違いなくユリウス様だとは、思いますがね」
じょうろを片付けながら、ダンが言う。その腰はしゃんと伸びており、腰が曲がった老人とは思えなかった。
「……愛している、だけじゃ幸せにできないんだよ。ダンゼント元騎士団長」
ユリウスのつぶやきは、ダンの後ろにも届かない。
ただむなしく消えていくだけだった。