第二話 救出、そして保護
乗り込んだ馬車の中は、レインの知らない世界だった。
何度か入ったことのある領主の館にも、こんな緻密な細工の窓枠飾りはなかったし、領主の館にあるどの椅子よりもこの馬車の椅子のほうがふかふかして見えた。
座ったことがないので座り心地はわからないが、きっと干し草と比べるのもおこがましいほどの座り心地だろう。
レインはきょときょとと馬車の中を見回した。床に座ればいのだろうか、でも、床ですら素晴らしいもののように思えるから、きっとレインはどこにも座ることはできない。
おろおろするレインに、ユリウスが優しく尋ねる。
「どうしたの?」
そう言いながら、ユリウスはレインを横抱きにしたまま馬車の座席に座ってしまった。
レインの着ている服から染み出した泥水が、ユリウスの服も、座席をも濡らしているのを見て、レインは卒倒しそうになる。
「わ、私……」
「うん?」
「馬車から、降ります」
「レイン、それはだめだよ。早く宿に行って治療しないと、本当に君は死んでしまう」
「で、でも……」
口ごもるレインに、ユリウスは悲しそうな目を向ける。かたん、と軽い音をたてて、馬車が動き出した。アンダーサン公爵は違う馬車に乗ったのだろうか。
「レインは、僕といっしょに行くのがいやかい?」
「ち、違うんです……!よ、汚して、しまう、から……」
「汚してしまう?」
レインの言葉を繰り返し、ユリウスはレインの視線の先を追った。服と席にしみこむ泥水を見て、ああ、となぜか顔をほころばせた。
「僕と一緒に行きたくない、というわけではないんだね。よかった」
「よくない……ッ!です……」
一瞬声を荒げたレインに、しかしユリウスは優しい声で話しかける。
「ものなら直る。服なら洗えばいいし、座席は張り替えればいい。でも君にかわるものはないんだよ」
言って、ユリウスはレインの泥で汚れた顔を白いハンカチで拭った。
「よ、汚れ……」
「大丈夫、君が汚してしまうものなんてないよ。君が一番きれいなのだから」
ふふ、と笑ったユリウスの顔は見とれるほど美しい。それなのにあたたかくて、レインの胸の内をほこほことあたためた。
思わず胸を押さえたレインを微笑みながら見つめていたユリウスは、そう言えば、と口を開く。
「君は、名無し、と呼ばれていたね。君の名前は?」
先ほどレイン、と呼ばれたから、てっきり、ユリウスはレインの名前を知っていると思っていた。先ほどのはレインの聞き間違いだったのだと思って、レインは少しだけ恥ずかしくなった。
「わかりません。私は奴隷として売られる前のことを覚えていないんです。でも、なんとなく、レインと呼ばれていたような気がして……奴隷になる前は、そんな風に呼ばれていた気がして、自分ではレインだと思っていました。……あ、でも!本当の名前かはわかりません、私は名無しです。好きによんでください」
「そう」
ユリウスは、レインが自分をレインと呼んだ時は嬉しそうだったのに、名無しと呼んだ時はぐっと眉根を寄せた。
「名無しじゃない」
「は、はい」
「ああ、ごめん。君に怒っているわけじゃないんだ。あの愚か者……タンベット男爵に怒っているんだよ」
ユリウスが、レインの濡れた髪を指ですく。ろくに手入れもされていない髪は、ユリウスの指に絡まってしまった。それを見て、いたましいような、悲しいような顔をしたユリウスは、けれどレインを安心させるためか、笑顔を浮かべた。
「……じゃあ、僕もレインと呼んでいい?雨の日に、出会ったから、君はレイン。君はレインというんだよ」
言い聞かせるような言葉だ。レインに、レインなのだと自覚してほしいような。
こくん、と頷いたレインに、ユリウスはほっと安堵したように微笑む。
ユリウスの膝に座らされ、ユリウスの両手がそっとレインを包み込む。しみこんだ泥水が悲しい。けれど、それ以上にあたたかくて、それを嬉しいと思ってしまったから、レインは何も言えなくなってしまった。
とくん、とくん、と心臓の音が、包み込まれ、胸に抱かれたせいで触れあった耳から伝わってくる。安心する――……。
どれだけそうしていただろう。
ふいに、ユリウスが馬車についた小窓のカーテンを開けた。窓の向こうは土砂降りの雨で、それに気付いてから、さきほどまで静かだと思っていたのに、馬車の天井からも雨の粒の打ち付ける音がひっきりなしに響いているのを知った。
レインが腫れぼったい目でぱち、ぱち、と窓の外を見る。
「そろそろだよ」
そうユリウスに言われて、目を凝らすと明かりが見えた。レインは邸から外に出たことがないから、街灯を見てもそれを街灯だと理解できなかった。ユリウスに、あの明かりは街灯だよ、と教わって、やっとそれが道しるべの明かりなのだと知った。
たくさんの街灯が導くように道を照らしている。
「あれが今日泊まるホテルだよ」
遠目で見た「ほてる」は、ひょっとしたら領主の館より大きいかもしれない。
馬車を飛ばして二つ向こうの大きい街に来たのだ、と教えられて、レインは今自分が館の外にいるのだ、と自覚した。
ユリウスに抱かれて入ったホテルの天井は首が痛くなるほどに高かった。
まばゆく高価なガラスがふんだんに使われたシャンデリアが、ホテルのエントランスを明るく照らす。ホテルの前に公爵家の馬車がついた時点で集まってきていたのか、ホテルの執事やメイドが入り口に勢ぞろいして、レインたちを出迎える。
「いらっしゃいませ、アンダーサン公爵閣下、ご子息様、それから……」
ホテルのオーナーだろうか。ひとり立派なスーツを着こなした初老の男性は、はユリウスの腕に抱かれている小さなレインを見て、おや、と片眉をあげた。
「レインだ。僕たちの大切な姫君だから、相応の対応を頼む」
「なるほど、承知いたしました。誰か、温かいお湯と、たくさんの清潔なタオルを。お嬢様にぴったりのワンピースも用意しなさい」
「はい、オーナー」
ユリウスの言葉で、ホテルの従業員たちがレインに向けるまなざしが一斉に変わった。そこに好奇の色なんてみじんもない。彼らの目には、その瞬間、レインは哀れなみずぼらしい少女ではなく、敬うべき上等な宿泊客のひとりとなったらしかった。
従業員たちがきびきびとした動きでレインのためのものを準備し始める。レインはそれを不思議な気持ちになって見つめた。
「ひめ、ぎみ」
「姫君だよ。レイン。君は僕らのお姫様なのだから」
「で、でも、ユリウスさま」
レインは戸惑ってユリウスを見上げた。そうして、隣にいるアンダーサン公爵と交互に見る。
「どうしたんだい?レイン」
「こ、公爵様。私、は……」
「はは、急に姫君と言っては緊張してしまうかな。でも、レイン、君は我々がずっと探していた大切なひとなんだ。詳しいことはまた別の機会に教えてあげようね。まずは体を清潔にして、温かくしよう。ほら、部屋に案内してもらうから」
アンダーサン公爵はにこにこと笑ってレインのごわごわの髪を撫でた。
一瞬いたましいような目になって、けれどその色は優しいまま。
レインは小さくは、と息を吐いた。
「父上、レインは小さくとも淑女ですよ。あまりべたべた触らないでください」
「ええ……お前は抱いているのに……」
「僕はいいのです」
ユリウスがつんと顎をあげる。
アンダーサン公爵は弱ったような顔をしてユリウスを見て、そんな二人の仕草が不思議で、レインは目を瞬いた。
そうやって案内された部屋はこれもまた広く、レインの住処だった厩なんて両手の指以上に入ってしまうような豪奢なものだった。趣味のいい、素人目にもわかる高価な調度が当然のように配置され、床にはふかふかの絨毯が敷かれている。
レインはユリウスの手からメイドの手に移動させられ、人生で入ったこともないあたたかな湯につけられた。猫足の白いバスタブは、レインが湯に入るとあっという間に濁ってしまう。何度も何度も湯を変えて、信じられないようないい匂いのする石鹸をこれでもかと使って洗われ、それだけで一生分の湯を使ったと思うくらいだったのに、仕上げに薔薇の香油を塗り込められた。
レインは爪の間まで洗い上げられ、仕上げにふかふかの白いタオルで拭われて、そしてこれまたはっとするような手触りのワンピースを着せられて、レインはユリウスとアンダーサン公爵の待つリビングに通された。
どうやって絨毯を踏めばいいのだろう、なんてことを思っていると、メイドは直接ユリウスの腕の中にレインを戻すから、レインはまた目をぱちぱちと瞬いた。
「うん、温まったみたいだね。薬を飲んで寝ようか」
「ユリウスさま、公爵様、ありがとうございます……私、こんなことしていただくの、はじめてで……あの、あの……」
レインがもじもじと体の前で手を握る。
それを優しく見下ろして、ユリウスとアンダーサン公爵は笑った。
「いいんだよ、レイン。君が受けるべき当然の待遇がこういうものなのだから」
「薬湯をお飲み、レイン。はちみつを入れて甘くしてあるから、少しは飲みやすいはずだ」
ユリウスが柔らかくレインの髪を撫で、アンダーサン公爵がマグカップに入った琥珀色の薬湯を差し出してくる。
少し甘苦いそれをゆっくり、ゆっくりと飲みほすと、おなかの中がポカポカしてきた。
瞼がゆるりと重くなる。
まもなく、広い広い天蓋付きのベッドにうつされたレインは、優しく髪を撫でられながら、うとうととまどろみの中に入り込んだ。
アンダーサン公爵がなにか話すことがあると言って、侍従とともに部屋の外に出て行ったから、この部屋には今、ユリウスとレインのふたりっきりだった。
あたたかい、やわらかいベッドは、あの干し草の寝床とはまるで違う。
向けられる気持ち、言葉の種類だって。
それを改めて自覚したとき、レインはその眦から涙を一筋、こぼした。
「レイン」
「これは、夢なんですよね」
「……レイン?」
「これは、きっと素晴らしい夢。やさしいひとが、私を助けて、頭を撫でてくれる、夢。覚めてほしくないけど、きっと覚めてしまう……」
ぽろぽろとあふれる涙を止めることができない。レインはずっと胸の奥にわだかまっていた不安が急に形を成したのに気づいた。
――そっと、手を握られる。
「夢じゃ、ないよ、レイン」
「ユリウスさま……?」
「僕の手が強く握っているのを感じる?あたたかいかな、それとも冷たい?」
「少し、ひんやりしてます」
「熱、ちょっと下がったかな。……温度を感じて、この手を感じて、そうして今、レインはここに横になってる。……大丈夫、夢じゃないよ」
ユリウスの言葉に、レインは赤い目を潤ませた。
あたたかい……それは、レインがもうずいぶん感じていなかった温度で、と同時に、ずっとずっと欲しかった温度だった。
「ユリウスさま、わがままを、言ってもいいですか」
「もちろん」
「手を……」
「手を?」
「握っていてくださいますか。私が眠るまで」
「うん――うん。いいよ……」
ユリウスの手が、レインの手と絡められる。指の一本一本をきゅっと絡められて、レインはほっと息をついた。
うとうととまどろむレインに、ユリウスが子守唄を歌うように告げる。
「君は、これから僕の妹になるんだ」
「……いもうと?」
「そう、君は、レイン・アンダーサン。アンダーサン家の令嬢……アンダーサン家の愛される姫君になって、幸せに暮らすんだよ」
「ふふ、おとぎ話みたい」
レインは知らず、唇に笑みを浮かべていた。それは、レインがここ数年間、まったく覚えなかった感情だった。
「ほんとうに、そうなら、いいな……」
レインの意識がゆっくりと落ちていく。こんな幸せなことはきっと、世界を探しても見つからないわ、と思いながら。
レインの言葉に、ユリウスの目がすっと細められ輝く。
「……レイン。君をもう二度と失わない。……何からも守るよ」
その言葉は、レインの耳に届くことなく――静かに夜の闇に吸い込まれて消えていった。
この後、レインはアンダーサン公爵家の養女として、正式に受け入れられることとなる。
今まで触れたことのないやさしさに包まれながら、レインは公爵家の長女として育つ。
そうしているうちに、風のうわさで、タンベット男爵一家が断罪されたと聞いた。
けれどレインの生活は、そんな噂で波風を立てられるものではなく、どこまでも穏やかで、優しいもののままだった。
■■■
「旦那様」
家令が主人であるアンダーサン公爵の執務室へやってきた。
父のもとで勉強しているユリウスに気付いて、深く礼をする家令は、アンダーサン公爵が促すと、沈痛な表情で話し始めた。
「お嬢様の健康状態ですが、肺炎はほぼ完治しつつあります。打撲による骨折はもう少し……」
「そうか、快方には向かっているのだな」
「はい。……旦那様、いったいあのお嬢様は何をされていたのですか。よほど強い怨恨がなければあのようにはされますまい、人のする所業とは思えません、まだお小さいお嬢様をあれほど痛めつける理由とは……」
家令は、レインの遠慮がちに浮かべる笑顔を思い出したのか、ぐっと辛そうに眉をひそめた。
「八年前、女王陛下が亡くなっただろう」
「はい。たったひとりの幼い姫様を亡くされて、心労がたたって亡くなったとお聞きしております」
「姫君は、亡くなったのではない、誘拐されたのだ」
アンダーサン公爵が厳しい顔で言う。ユリウスは公爵の隣で手を握りしめた。八年前のあの日、誘拐犯の手により、ユリウスの手のひらからすり抜けていった、小さい、愛しいだけの少女を思い出して。
「まさか……」
家令ははっと息を呑む。
アンダーサン公爵が頷き、それですべてを察したのだろう。胸を押さえ、驚いたように目を見開いている。
「……レインの目は、赤い。けれど日の光が当たると、虹が浮かぶように七種類の色を浮かべるんだ」
ユリウスは小さく、声を潜めるように言った。この家令は、ユリウスが生まれる前から務めている、忠義にあつい男だった。
「王家の……暁の虹……!」
家令は驚き、アンダーサン公爵が頷いた。
それに家令は涙ぐんで、何度も、何度も首肯している。
「姫君は、本当に、まことの姫君でいらしたのですね……」
「大切にしてあげてほしい。ユリウスのいとこであり、先代女王の唯一の姫君であるイリスレイン王女の存在を、まだ公開することはできない。タンベット男爵は実行犯だが、それを操っていたものがいるはずなのだからね……」
そこで、アンダーサン公爵はユリウスに向き直った。
「わかったな?だから、彼女を必ず守るんだ」
「当然です――命に代えても」
ユリウスは静かに頭を下げた。言われずとも、レインは必ず守る。ユリウスの愛する、何より大切な存在なのだから。
「そろそろ行きます。レインの勉強が終わる時間なので」
「ああ、行ってきなさい」
アンダーサン公爵が執務へ戻る。すれ違った家令に見送られ、ユリウスはこの頃レインが見せてくれるようになった、ほのかな、はにかむような笑みを思い出し、ゆるりとまなざしを緩めたのだった。