第十三話 誘拐
パーティーのあと、レインは興奮で火照った頬をあおぎながら、自室から中庭に出た。
もう身支度を整えて寝るだけなので使用人たちは下がっている。
けれどレインはなかなか眠れなくて、ガウンを羽織って夜風に当たりに来たのだった。
穏やかな風が頬を撫で、レインの薄青い髪を柔らかく揺らす。
今日のパーティーを思い返しながら、レインは静かに息をついた。
今日は今まで生きてきた中で一番勇気を出した日かもしれない。
レインから陽光石の使用用途を何も知らされていなかった女官長のベルや元乳母のチコは、泣きながらレインの無茶を叱ったが、レインが自分の意思で決めたということを最後には尊重してくれた。
もちろん、失明するかもしれなかった、ということには最後まで怒っていたが。
ユリウスも、心配しながら、レインの選択をほめてくれた。そこにレインへの気遣いを感じて、それが嬉しかった。
レインはそっと胸を押さえた。
今日の気分をもう少しだけ味わいたくて、ガウンのポケットの中にいれたサファイアのネックレスを握る。
繊細なそれを取り出して月光に透かすと、薄青い光がレインの手を照らし、今日のことが鮮明に思い起こされる。
ふふ、と笑って、レインはネックレスをハンカチに包み、ガウンのポケットにしまいなおした。
その時、ふっと中庭のはずれからこちらに歩いてくる人影が複数見えた。一瞬身構えたレインだったが、その先頭に見知った顔を見かけて、ほっと表情を緩める。
その小さな人影は、第二王子であるアレンだったからだ。
「アレン王子……、……?」
けれど、すぐにレインの表情はこわばった。
アレンが泣きながら歩いてきていることに気付いたからだ。
そば仕えの従者たちは、アレンが尋常でない様子なのにも関わらず、手を貸そうとも、あやそうともしない。
「どうなさったの、アレン王、子……!」
そこまで考えて、レインはアレンの首に、まるで犬を繋ぐように縄がかけられているのに気づいた。
けれど犬の方がまだましだ。ぐいぐいと力加減をせずに首の縄を引く男たちは、アレンの様子を見ようともしない。
アレンは思い切り縄を引かれ、苦し気な表情を浮かべている。
急きたてられるようにして、アレンがレインのもとへ歩いてくる。腕ばかり前にやって、それで首を引いて。そのさまは、 まるでアレンを盾にするかのようだった。
「あなたたち――何をしているの!」
レインはアレンに駆け寄った。けれど、アレンへと伸ばそうとした手は、そば仕えの男のひとりに捕らえられた。
アレンの首の縄を引いている男がくっと歯を見せて笑う。
「何を……」
「イリスレイン王女殿下、アレン第二王子を害されたくなければ、我々にご同行を」
第二王子、というところをことさらに強調して、嫌味たらしく口にするそば仕えの男たちは、ついで、掴まれて赤くなったレインの腕を見てげらげらとあざけるように笑った。
「こんな細っこい腕であんな大口叩いたんですよねえ!」
「……あなたたちは、誰の差し金ですか」
パーティ―でのことを言っているのだ、とすぐに分かった。レインは男たちを見据えて静かに返す。
「私が目的なら、私だけを狙えばいいでしょう。……アレン王子を巻き込んで、こんなふうに苦しめている理由はなんですか」
「なんですか、だとよ! こんな状況なのに、お上品だねえ!」
「……」
「おお、怖い怖い。決まってんだろ? わからないか? お前に女王になられたら困るお人だよ!」
男の言葉に、レインは赤い目を見開いた。レインが女王になることを歓迎していない人間に、ひとりだけ心当たりがあった。
「オリバー、第一王子……」
「オリバー王太子殿下、だろ、このクソ女」
「きゃっ……!」
思い切り突き飛ばされて、レインはその場に倒れ込んだ。アレンが「おねえたまにひどいことしないで!」と声をあげる。
アレンはぼろぼろと涙を流していて、殴られたのか、顔や手にところどころあざがあった。
「なんて、ひどい……」
「次期女王とやらには護衛がゴロゴロついてるが、プライベートな場所は気を遣われてるとかで警備が少ネエ。もともと護衛の少ない第二王子を遣えばすぐにこんなところまで来れちまう」
ぎゃはは!とそば仕えを装った男は下品な笑い声をあげた。
「……それで、私にどうしろと言うのです」
「言うのです? ハハ! お高く留まっちまって、奴隷上がりが高潔だねえ!」
「……」
無言のレインを気にすることなく、男は続ける。
「オメーなんかに選択肢はネェんだよ。おとなしくついてこれば、このガキを今すぐ八つ裂きにするのはやめておいてやる」
「……わかりました」
「おねえたま……」
「大丈夫ですよ、アレン王子。……ついて行きます。だから、アレン王子の首の縄を外してください」
「おお怖い、おらよ」
レインがぎゅっと睨むように言うと、男が縄の端を投げてよこした。
それを手に取り、レインはアレンの首がこれ以上痛みを覚えることのないようにそっと首の縄をほどいた。
「痛くはないですか? アレン王子」
「ン……」
「よかった」
健気にもそう言って涙をこらえるアレンが痛々しい。
アレンを抱き上げたレインは周囲を見渡して息を吸い込んだ。――そうして。
「大声をあげたり、逃げようとしたりしたら、その時点で第二王子を殺すぜ?」
男のひとりの耳打ちするような言葉に、レインはひゅ、と息を呑んだ。
アレンをしっかりと抱きなおし、ぐうと目に力を込めて、男たちを睨み据える。そうしないと、足が震えて立っていることもできそうになかった。
「わかり、ました」
「いい子だ」
レインは男たちに囲まれたまま、急きたてられるように歩き始めた。突き飛ばされた肩が痛い。あざになっているかもしれない。
アレンと二人きりで見た目だけ取り繕った古い馬車にのせられる。当然、クッションなどあるわけがない。どこかに運ばれていく中で、がたん、ごとん、と音が鳴り、そのたびに車体が大きく揺れる。
そうやって揺れる馬車で舌を噛まないようにしながら、レインは大丈夫ですからね、と幼いアレンをあやした。
アレンはレインにしがみつき、ひっく、ひっくとしゃくりあげるばかりだった。
殴られたあざが痛むのだろう。それから半刻もしないうちに気を失うまで、アレンは静かに泣いていた。
声を出すなと殴られたのだろうか、だとしたら、三歳の幼い子供に、なんてひどいことをするのだろう。
このままでは――そう、このままでは、レインたちはまもなく殺されてしまうかもしれない。かつて婚約者だったオリバーがそんな残酷なことをするとは思いたくないが、男たちの言っていることはおそらく本当だ。
オリバーは、本気でレインを排除しにかかっている。そうすれば、自分が王太子になれると信じて。
どこに運ばれるのかはわからない。それは、レインが助けを期待すべきユリウスたちも同じだろう。
少なくとも、レインたちの居場所がわかるまでにはずいぶん時間がかかるはずだ。
せめて、ユリウスたちにレインがどこを通ってきたかを知らせることができれば……。
そこで、はっとレインは、ガウンのポケットにあるふくらみに気付いた。
そこにはハンカチに包まれたサファイアのネックレスがある。
「……」
レインは少し考えて、眉根を寄せ、けれどきゅっと唇を引き結んで、そのサファイアのネックレスを引きちぎった。
雫型のサファイアが連なるネックレスは、あっけなくちぎれてバラバラになった。
雫型のビーズ状になったサファイアが何粒も何粒も、レインの手のひらで転がる。レインはそれを、今もがたがたと走り続ける馬車の床の隙間から一粒ずつ、感覚を空けて落としていった。
男たちは馬に乗っているか馬車の御者をしている。隙間から落ちた小さなビーズなんかに気付かないだろう。
ユリウスが、これに気付いてくれるかは賭けだった。けれど、レインには死ぬつもりなどありはしなかった。
必ず、ユリウスの腕の中に帰るのだという決意があった。
アレンをぎゅっと抱きしめ、片手でサファイアを落とし続ける。
月明かりすら満足に入らない暗い馬車の中では、外の様子なんてわかりもしない。
どれだけ移動したのかも、わからない。遠くまで来たのかもしれない。
それでも、レインは信じていた。
ユリウスを――ユリウスが、このビーズという道しるべに気付いてくれることを信じる、自分こそを信じていた。
「……不思議ね、奴隷だった時、ずっと死にたいと思っていた私が、今、こんなにも生きたいと思っているなんて」
今の方が、ずっと絶望的な状況で、他者の暴力で死ぬかもしれないことは同じなのに、レインは今、絶対に生きるのだという意思を持っている。
――だって、あなたにもう一度、会いたいから。
ユリウス。彼の、琥珀色の目にもう一度映りたい。優しく抱きしめられたい。
そのためなら、きっとレインはなんだってできる。
馬の蹄の音と、車輪のガタつく音が夜の空に響く。
夜明けはまだずっと遠く。レインの陽光は、今、ここにありはしなかった。