第十二話 立太子に向けて
「イリスレインを立太子するにあたって、まずは姓をグレイウォードに戻すかい? もともと、君の母君もグレイウォードだったんだよ」
翌日の朝餐の場で、国王がほのほのとそう言った。
ラズベリーやブルーべりーの入ったヨーグルトを食べていた手を止めたレインは、しばしの間、なんと返すべきかわからなくて口ごもってしまった。
「……私は、アンダーサンのままでいたいです。育ったのは、アンダーサン公爵家ですから」
ようやっと絞り出すように口にした言葉に、国王はそうか、そうか、と笑う。昨日王城に泊まっていたユリウスが心配そうな目を向けてくるのにほほえんで、レインはヨーグルトに混ぜられたブルーベリーをスプーンですくって食べた。
正直、よくわからない。産みの母、本当の父と同じ姓になるということと、母のあとを継いで女王になるということに不安を覚えるのは、昨日見た夢のせいだろうか。
「レイン」
「あ……」
呼ばれて顔をあげる。
気付けば朝餐は終わっていて、ぼうっとしているレインを、ユリウスが気遣うように見ていた。
「ユリウス様……」
「急ぎの用があるとかで、陛下は行ってしまわれたよ。……レイン、大丈夫かい?」
「大丈夫、なんでしょうか。私、今も迷っていて……」
伏せた目の先に、自分の震える指先がある。
ユリウスがそっとその上に手を重ねて、優しく言った。
「女王になるのが、怖い?」
「わかりません。私が女王になるべきなのか、女王となって、たくさんの人の生活を背負う覚悟があるのか、わからない……」
レインの言葉に、ユリウスは「そうか」と静かに言った。
否定も肯定もされなかった。
それが、レインが何を、どんな道を選んでも許してくれるのだというようで、胸があたたかくなる。
「レインは、そう言えば行ったことがなかったね。……行ってみようか」
「どこへ……?」
レインの質問に、ユリウスは微笑んだ。
「王家の墓へ」
――君の、父君と母君が眠る場所へ。
■■■
王家の墓は、離宮の、中庭を通り過ぎて森のようになった一角にあった。さらにその隅の、黄色い絨毯を敷き詰めたような場所に、先代女王と、その王配の墓石がある。
黄色い絨毯はよくよく見ればタンポポの花で、王の墓には似つかわしくない大衆的な花は、しかし、よく手入れされているのか、他の花に紛れることもなく咲き誇っていた。
立派な墓は、しかしそのタンポポによって慕わしく、ぬくもりのあるものに感じられる。
ユリウスに導かれてそこにたどり着いたレインは、タンポポで挟むように形作られた小道を通り、墓石の前に立って、静かに白い墓石を眺めた。
寄り添うように、女王の墓石と王配の墓石がある。一陣の風がタンポポの匂いを連れてきて、いつの間にか、レインの頬には一筋の涙が光っていた。
「あら……なぜ……涙が……」
レインは呆然とその場に立ちすくんだ。昨日見た夢が思い起こされる。
「レイン……?」
「夢を……見たんです。誰かに愛されている夢を……でも、その夢はつらい出来事で終わってしまって」
ユリウスにそっと抱き寄せられる。ユリウスの肩口に額を押し当てるようにして涙を流すと、夢の内容がはっきりと思いだされてきた。
「きっと、あれはお母様と、お父様……ふたりとも、私をいつくしんでくださった」
他人行儀でないいい方は、すぐに舌になじんだ。愛おしくてたまらない二人なのに、もうこの世にいないことがひどく悲しかった。
「私は、お二人のためにも、女王になった方がいいんでしょうか」
「そんなことはない」
ユリウスはきっぱりと言った。
「お二人は、そんなことは望まない。レイン、君が義務感で女王という重責を背負う必要はないんだ。……レイン、君は、特殊な状況で育って、そのために選択肢が多くある」
ユリウスの大きな手のひらが、レインの背を優しくなでる。何よりも安心できるぬくもりに、レインはまた一粒、赤い目じりから涙をこぼした。
「大切なのは、君がどうすべきか、ではない。女王になりたいかどうかだ。君が選び取ることに意味がある。大丈夫、レイン。君が向いている方向は、ちゃんと前だよ」
「私が、向いている方向が前……」
「そうだ。レイン、君は前に進んでいる。だから絶対に、大丈夫だ。君が選んだことを必ず私がサポートする。私はそのための知識も技量も身に着けて来たから」
「……ふふ、ユリウス様は、いつも私のことばかりね」
「そりゃあね」
墓石に向き直り、持ってきた花を供える。
祈りの形に手を組んで、その眠りの安寧を願った。
女王になるという未来を近くに感じる。でも、きっとそれが、レインが向いている「前」なのだと思った。
■■■
日が落ちて幾分か経つ、大広間の控室。
今日はレインの王女としてのお披露目のパーティーだ。
レインはデビュタントの令嬢が纏うような純白のドレスに身を包み、ネーム・コールマンに自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
レインの首元を飾るのは雫をかたどったサファイアが連なったネックレス。イヤリングとそろいのデザインのそれは、つい先だってユリウスから贈られたものだ。
レインは公爵令嬢としてのデビューはしていたが、それとはまた規模も空気も違ったパーティーに緊張してしまう。
なにせ、今夜のパーティーは誘拐され、死んだと思われていた先代女王の唯一の姫のお披露目である。それが、いま最も権勢を誇っているアンダーサン公爵令嬢として生きていた、と明かされたのだから、人々がレインに――イリスレインに抱く興味は生半可なものではない。
大広間へ続く扉の向こうから人々のさざめきが聞こえてくるようで、レインは知らず、緊張で高鳴る胸をそっと押さえた。
「レイン、大丈夫だよ」
ユリウスが微笑んで、レインの背を優しく叩く。
レインはユリウスの顔を仰ぎ見て、ほっと息をついた。ユリウスは、ユリウスの髪色に合わせた群青のタキシードを着ていて、ところどころにレインの髪と同じ、薄青い色の差し色をしていた。
よく見て見ればその意匠は雨の雫のような形になっていて、レインの身に着けているイヤリングやネックレスと取り合わせているのだとわかった。
互いの色を身に着けているのだと気づいたレインの頭は途端にゆだってしまって、暗い室内でもわかるくらいに赤く染まった。この暗がりにごまかされてはくれないかと、赤く染まった頬を恥ずかしく思ったレインは念じたけれど、ユリウスの微笑からしてごまかせてはいないのだろう。
「レインはかわいいね」
「ゆ、ユリウス様……!」
顔が熱い。やはりユリウスに隠し事はできない。
ユリウスはそうやって恥ずかし気にうつむくレインに優しく、言い聞かせるように言った。
「これからはユリウスでいい。レイン、君と私は婚約者で――夫婦になるのだから」
「――ゆ、りうす……様」
「はは、今すぐにでなくていいよ」
急な提案にレインが耳まで赤くして、ようよう口にした――けれど結局敬称をつけてしまった――呼び名に、ユリウスは苦笑する。
「急には、無理ですっ!」
「うんうん、そうだね」
レインの言葉に、ユリウスがまた笑う。かわいいものを、かわいくてしかたないと愛でるように見つめられて、レインはどう言えばいいのかわからなかった――と。
「先代女王陛下の王女――イリスレイン王女殿下、並びに、その婚約者のアンダーサン公爵閣下のおなーりー!」
ネーム・コールマンがレインたちの名前を呼んだ。それを聞いて、打ち合わせで知ってはいたけれど、レインは不思議に思う。
今まではずっと、レインの名前が呼ばれるのはユリウスのあとで、あくまでユリウスがメインだった。
レインには公爵令嬢という地位以外何もなくて、あくまでもユリウスの添え物みたいな扱いだった。――それが、今は逆に――もちろん、ユリウスが添え物なわけがないけれど!――なっている。
(これが、女王になるということ)
レインはきっぱりと定まってしまった序列――王位継承権をまじまじと確認した気がして、小さく息を呑んだ。
ユリウスがレインに手を差し出す。
「さ、行こうか、レイン」
「……はい、ユリウス様」
ユリウスの手のひらに手を重ねて、レインはゆっくりと前を向いた。
大広間に入るとすぐに目に入り込んでくる、きらびやかな調度品に、レインは一瞬気おされそうになった。
数えきれないほどのシャンデリアがきらきらと輝き、クリーム色の壁を明るく照らしている。いたるところに飾られた白いユリの生花はいい匂いを振りまき、椅子や像など、こまごました調度品が邪魔にならない程度に飾られている。それらはレインが一目見てわかるほど高価な物ばかりで、ひとつひとつが国宝と言ってもいいものだった。
それだけで、どれほどこのパーティーが重大行事だととらえられているかわかる。
大広間に足を踏み入れたレインたちを迎えたのは、もちろんあたたかいまなざしばかりではない。
興味津々にレインたちを見るもの、訝しむような目で見るもの、見定めようとしているもの――そして、先代女王と比べるもの。
それに一瞬だけ臆しそうになるけれど、ユリウスがレインの手を柔らかく握って、安心させるように微笑んでくれるから、それでレインはほっとして、顎を引き、背筋を伸ばして前を向いた。うまく笑えているだろうか。
そうしてレインがあたりを見渡し、優雅に一礼すると、ため息をつくような吐息が、さざ波のように広がった。
「みんな、レインの美しさと、堂々とした態度に圧倒されているんだ」
目を瞬いたレインに、ユリウスが言った。誇らしげな表情は、レインがうまくやれたことの証だった。
国王が話し始める。
「今宵は我が姉君である先代女王陛下の遺児、イリスレインのお披露目に参加してくれて感謝する。誘拐されて十五年……無事に帰ってきてくれた王女を、どうかあたたかく迎え入れてほしい」
レインに視線が集中する。レインはなるべく優雅に見えるように微笑み、そっと胸に手を当てた。拍手が沸き起こり、確かに、先代女王陛下によく似ておいでだ、と声が聞こえる。
それでほっとしたレインだったが、しかし、不意を打つように「恐れながら、陛下」と一人の貴族が進み出て来た。
あの人は知っている。先だって騎士団長を務めていた人物で、ダンゼントの帰還と同時に副官に降格した貴族だ。オリバー王子の側近を務めていた――そして、レインをあの卒業パーティーの場で貶めようとした子息の父親。
そうして、先ほどレインにいぶかし気な目を向けたひとのひとり。
「なんだ、申してみよ」
「ありがとう存じます。その方がイリスレイン王女とおっしゃいましたが、その証拠はあるのですか?」
「なに?」
「顔はたしかに先代女王陛下に似ておいでですが、顔つきなどいくらでも似たものがいるものです。元アンダーサン公爵令嬢――失礼、イリスレイン王女殿下が本物であるという証明はあるのですか? 見つかったとき、王女殿下は奴隷だったとお聞きしています」
たったひとりの貴族が落とした疑問に、ほかの貴族がざわめき始める。
「何を言う――」
国王が、その疑念の声を止めようと声を上げる。レインは「国王陛下」とひとこと言って、その言葉を止めた。国王が驚いたように目を見開き、そしてその背後に控えている王兄――アンダーサン前公爵がおや、と片眉を挙げた。ユリウスは何も言わない。
ただし静かに目の前の貴族らを睥睨しているだけだ。
――信じていてくれるのだ。
レインが、きちんとこの場を治められると。
レインは微笑んで「お時間を頂戴してよろしいでしょうか」と、大広間によく通る声で言った。
ざわめきが止まる。視線がレインに集中する。レインは優雅に腰を下げて礼をした。
「たしかに、私を王女だと断じる証拠と言える『もの』はありません。誘拐犯がそのようなものを私の身に残しておくことはないでしょう」
「なら――」
「まだ話は終わっていません。お静かになさって、エウルア伯爵」
レインはぴしゃりと言って、大広間全体を見渡した。
何人か、レインが言い返したことに驚いたのみならず、狼狽したものがいる。それを覚えておかなくては。この国を、守っていくために。治めていくために。
「私は『もの』と言いました。私を、イリスレインだとする証明は、身に着けるようなものではなく、この体自身にあるとすれば……?」
「あざや何かだと言うのですか!」
「いいえ。私をイリスレインたらしめるのは、この目」
エウルア伯爵、と呼ばれた男が目を見開く。知っていたはずだ。卒業パーティーの日、あんなに騒がれたのだから。それを知っていて、レインのお披露目に黒い泥を吹きかけるためにわざわざこの場で言ったのだ。今は夜、陽の光がないと、暁の虹は出ないから。
レインは予め頼んでおいたものを持ってきてもらうべく、会場の隅に控えていた女官長のベルに声をかけた。
「女官長、例のものを」
「はい、イリスレイン王女殿下」
レインはベルから受け取った巨大な水晶のようなものを掲げた。
澄んだ、透明な石は、大広間のシャンデリアの光を透過して、イリスレインのドレスをきらきらと照らした。
「皆さま、これは陽光石、という、光を透かして、太陽の光と同じ光にするという石です」
「存じております、それで何を……」
「これで、私の目を透かして見てください。疑問に思う方は、お近くに……」
レインが陽光石に目を近づける。シャンデリアの光が陽光石を通り、レインの目に降り注ぐ。
――痛い。集められた光が目を焼いた。
ユリウスが驚いてレインを止めようとして、けれどその手をぐっと抑える。
信じてくれている。レインは微笑んだ。ユリウスが、レインのすることを信じてくれている。それだけで、レインはこの戦場に立つことができる。
陽光石を通して、レインの瞳の赤い色が大広間を染め上げる――そうして、誰かが呟いた。
「あ、暁の虹……!」
赤い色を背景にして、陽光石の表面に虹が落ちる。驚きの声が大広間を埋め尽くしたところで、レインは陽光石を降ろした。
ユリウスがすぐにハンカチでレインの目を押さえる。
「大丈夫です。ユリウスさ……ユリウス。目はきちんと見えています」
「無茶をする……。私がなんでもすると言ったのに」
「ふふ、それでも、信じてくださってありがとうございます」
暁の虹にざわめく会場に、レインは振り返った。
「ご覧になりましたか? 私の目に宿る、暁の虹を」
「……ッ。ばかな、目がつぶれるかもしれないんだぞ……」
「あなたも、ご覧になりましたね? エウルア伯爵」
レインは悠然と微笑んで見せた。うろたえたエウルア伯爵も、まさかレインが失明覚悟で陽光石を持ち出すとは思わなかったのだろう。何も言えないエウルア伯爵は、静かに礼をして「申し訳、ございません……」と下がっていった。
国王がレインを案じながら、けれど場を治めるには今しかない、ということはわかっているのだろう。その声を張り上げた。
「見ただろう! イリスレインが王女であるという証拠を! これより、イリスレインの出自を疑うものは王家への叛意を持つとみなし、厳罰に処す!」
国王の言葉に、場の誰もが口を閉ざし、頭を下げた。アンダーサン前公爵が微笑んでやり遂げた弟をねぎらっている。
「それでは、パーティーを開始する、みなのもの、よく食べ、よく踊り、よく楽しんでくれ」
国王は、王位を一時だけアンダーサン前公爵に譲位することを説明すると、パーティーの開催を宣言した。譲位の話になったときもざわついたが、レインの時ほどではなく、話は進んでいった。
そうして、国王の宣言と同時に、最初の曲が流れ始める。
レインはユリウスの袖をくん、と引いた。
「踊りましょう、ユリウス!」
「ああ、レイン。君の、望むままに」
飛び込んだ大広間の中心で、ユリウスと互いにお辞儀をする。
そうして手を取りあって、くるくると踊る。
レインの白いドレスに縫い付けられた小さな真珠がきらきらと輝き、結い上げた髪のティアラと相まって、まるでレイン自体が宝石のようだった。
「レイン、目は大丈夫か」
ユリウスのリードは巧みで、その手に体をゆだねているだけで、自分が踊りの名手になったと思うほど。そうやってくるくると回ると、顔があったとき、ふいにユリウスに尋ねられた。
正直に言えば、まだ少しだけひりひりする。でも、あの時はあれが最善だと思ったから、ユリウスにも内緒で、陽光石を用意してくれたベルにも内緒でああしたのだ。
ユリウスの眉がいたましげに顰められ、ユリウスの指がそっとレインの目元を撫でる。
レインはそれだけで痛みが引いてしまって、それがおかしくてふふ、と笑った。
「レイン?」
「大丈夫です、ユリウス」
大きなターン。レインは華やかに笑って、ユリウスの腕に自分の身をゆだねた。
「あなたがそうして触れてくださるだけで、もうすっかり良くなりました」
目を瞬くユリウスを見上げると、ユリウスの目にやわらかな光がともった。
「そうか。……でも、無理はしないでおくれ、私のレイン」
「はい、私のユリウス……」
曲の最後、ユリウスが両手でレインを持ちあげ、くるくると回る。幸せそうに笑いあう二人に「世継ぎの心配はなさそうだな」なんて、貴族たちが笑っていたのを、レインたちは後で聞いた。
夜が深くなる。澄み切った夜の空に、星々が瞬いていた。