第十話 前に進むために
「お兄様……あ」
「ユリウス、だろう、レイン」
「はい、ユリウス様……」
冬が終わりを迎え、暖かくなってきた春の初め、タンポポの花が咲き乱れる庭園に設えられた東屋で、レインはユリウスとお茶をしていた。
お茶はダージリン春摘みの新茶をいち早くに取り寄せたものは香り高く、味も爽やかだ。
厨房のコックが腕を振るってくれた持ち運びもしやすいクッキーはスパイスがきいていておいしい。苺のペストリーも苺が甘く、うっかり食べ過ぎそうになるくらいだった。
けれどいっとうレインが気に入っているのは、黄色いタンポポと琥珀色のダリアが一面に、絨毯のように咲くこの庭だ。庭師のダンの腕がいいのか、下品でなく植わったタンポポと、ところどころに咲いた大きなダリアがよく映えている。
レインは、未だにユリウスのことを「お兄様」と呼んでしまうことをユリウスに甘くとがめられながらはにかんだ。
「レイン、どうしてそんなに遠くにいるんだい? こっちへおいで」
恥ずかしがってベンチの向こう。ひと二人分ほどの間を開けて座っていたレインをユリウスは手招いた。
「は、はい、お兄……ユリウス様」
そうして一人分席を詰めたレインだったが、ユリウスはレインの腰をそっとささえ、軽く持ち上げて自分の膝の上に移動させてしまった。
自然と横抱きにされる形になったレインは、どうしたらいいのかわからずあわあわするばかりになってしまう。
だってユリウスが近い。ユリウスの、爽やかな森のような香りが近くて、美しい顔が近くて、その顔がレインを見てほころぶように笑んでいる。
「ユリ、ウス様……」
「その、様、というのも、いらないのだけれど。まだ慣れないね。私の可愛いレインは」
可愛いレイン。愛しいレイン、とうたうように繰り返されて、レインは自分の頬が熱くなるのを感じていた。心臓がどきどきして、今すぐ逃げ出したいような、けれどずっとこうしていたいような気持ちになる。
「ほら、レイン。おいしいよ」
ユリウスの白い指先が、きつね色に焼けたスパイスクッキーをレインの口元に運んでくる。まるで、鳥が行う求愛行動――給餌行動だわ、と思って、レインは胸を押さえて口を開いた。
「いい子だね、レイン」
レインの口にそっとクッキーが差し込まれる。さくり、と噛んだクッキーは、口に入った途端ほろほろと崩れ、きつすぎない胡椒の味を舌に伝えてくる。
「おいしいかい?」
「お、おいしい……です」
「そうか」
目の前にわずかに影がかかる。次いで、ちゅ、とこめかみに触れる柔らかい感触。
口付けされたのだと気付いて、レインはもうどうしようもなく緊張してしまった。
世の中の恋人同士というものは、みんなこういうものなのだろうか。……そう思うと同時に、ユリウスより甘いひとはいないんじゃないか、とも思った。
「ふふ」
「ユリウス様?」
「ごめんね、レインがかわいくて、つい、キスしてしまった」
「からかっていらしたのですか?」
「からかってなんかいないよ。いつだって、私はかわいいレインのこの唇に、キスしたいと思っているとも。でも、きっとレインにはまだ早いから、こめかみで我慢しているんだ」
「あ……」
思い出すのは、あの卒業パーティーの日、レインとユリウスが結ばれた日のこと。
唇に触れた感触を、忘れた日などない。
甘やかで、蕩けるような、幸せな体験だった。
レインがそんなことを思い出してもじもじしていると、ふいに屋敷のほう――つまり、真後ろから声が聞こえて来た。
「仲良しですね、お二人とも」
ユリウスの従僕であるベンジャミンだ。
こんな、ユリウスにべったりと甘えているところを見られてしまった、と恥ずかしくなって慌てたレインが、ユリウスの膝から降りるべく体を動かすも、ユリウスの手はレインをしっかりと抱いたまま、離してはくれない。
「あ、あの……」
恥ずかしくて、照れてしまって――困り果てたレインがベンジャミンを見上げると、彼は「ははは! 相変わらずユーリはおひいさまが好きで好きで仕方ないんですね」と豪快に笑った。
「ベン、レインとの時間を邪魔するな」
「ああ、違う違う。馬に蹴られに来たわけじゃないぞ」
ユリウスに対してだけ砕けた口調で、ベンジャミンは両手を振ってユリウスの言葉を否定した。
「じゃあなんだ。のっぴきならない書簡でも届いたのか?」
「残念ながらそう。だから許してくれよ」
そういうベンジャミンの手元には、一通の手紙。その封筒には、それが王家からのものであるという印璽が押されていた。
「……」
今のところ、王家からの便りにはいい思い出がない。不安になって眉尻を下げるレインの頭を、ユリウスが優しくなでてくれる。
「見せてくれ」
「はいよ」
ベンジャミンから封筒を受けとったユリウスが一緒に手渡されたペーパーナイフで封を切る。
そして、中身に上から下まで目を走らせ、その目に眼鏡越しでもわかるくらい冷たい色を宿して目を細めた。
「おにい……ユリウス様?」
「レイン、読むかい?」
「は、はい……」
ユリウスがさし出した手紙に、レインも目を通す。そこには、今まで兄妹として過ごしていたけれど、婚約者だと発表したのだから、別々に住むべきだと書かれていた。
そこまでは納得できた。婚約者同士、結婚もしていないものが同じ屋根の下に住むのは外聞が悪いのはレインにもわかる。問題はその次だった。
レインは――イリスレインはいずれ女王として即位するのだから、その準備、教育をしなければならない。この手紙は、だから王城に住まないか、という申し出だった。
「女……王……?」
「……レインには帝王学を含めて最高の教育をしてきた。女王に即位するとしても、教養的には全く問題がない。あとは外交などの実践だけだ」
ユリウスが静かに言った。レインは思わずユリウスを振り仰ぐ。
「お兄様は、私に女王になれと……?」
「いいや」
ユリウスはきっぱりと否定した。
「レインには、女王になれるだけの資質も、血筋もある。だが、私が君にそうした教育をほどこしたのは、あくまでレインの選択肢を増やすためだ。レインが嫌なら、王位は第二王子にでも譲ればいい。今は幼いが、数年もすれば成人だ。私は、レインに無理強いはしない」
「そう、ですか……。でも、私には女王の資質なんて」
「レインはタンポポが好きと言っただろう。普通、雑草と呼ばれるような花に目を向けられ、価値を見出せる。それは臣民に目を行き届かせられる素養だと、私は思っている」
言って、ユリウスは冷めてしまった紅茶を一口飲んだ。
「なんでもしていいんだ。レイン、君は自由だ。女王になるのなら、私が全力で手助けする。女王になりたくなければ、君は未来の公爵夫人としてここにいればいい」
「ユリウス様……」
レインは、ぽつりとこぼすようにユリウスの名前を呼んだ。
何が何だかわからなくて、うまく頷けないほどに話が速く進んでいく。
……だけど。
「……私、お城に行ってみようと思います」
「……わかった」
「でも、それは女王になると決意したからではありません。私は、母と父のことを知りたいんです。だから、それを知るために、王城へ行こうと思います」
レインのしっかりとした言葉に、ユリウスはうなずいた。
「ああ、レイン。……君の、心のままに」
レインは、屋敷の東の空を見上げた。
今は屋敷の高い生垣で見えないけれど、あの空の下には王城がある。
――レインの生まれた場所が。
(私、知りたい。私の生まれた場所で、私の母が、父が、どうやって生きていたのか。記録だけじゃない、私の、亡くした記憶の中にいる、両親を知りたい)
きっと、少し前ならこんなことを思いつきもしなかった。王城へ行くのはオリバーとの結婚の時で、それがレインの終の墓場だと思っていた。
だから、こんな気持ちで王城に行く日が来るなんて、想像もしていなくて。
――レインは、今もレインを抱きかかえているユリウスの腕にそっと手を添えた。
(大丈夫、ユリウス様がいるから、私は前に進もうと思えたのだから)
そう思って、もう一度見上げた空は、雲一つありはしない。
ただ、ただ――ひたすらに、青く、高かった。
■■■
脚を踏み入れた王城の中は、知らない場所なのにどこか懐かしさを感じる、そんな不思議な場所だった。
この国の豊かさを示すような豪奢な家具は、レインの目には少しきらびやかが過ぎた。
ユリウスがどれだけレインのことを考えて部屋を整えてくれたのかがわかって、と同時に、こんな時でもユリウスのことばかり考えている自分に苦笑した。
隣についてくれているユリウスが「どうしたんだい、レイン」と尋ねてくれる。
そこにユリウスの優しい心と気遣いを感じて、レインは微笑んだ。
――大丈夫、怖がることなんてない。だって、ユリウスがいてくれるのだから。
長い回廊を通って、城の西側にたどり着く。
生前の先代女王――レインの母が使っていたという内殿だ。それをレインのものにしてくれるという国王には感謝してもしきれなかった。
そうして、内殿にレインが一歩、足を踏み入れた瞬間だった。
「――おかえりなさいませ! 姫様!」
何十人もの声が揃って聞こえ、レインの鼓膜を震わせる。
思わずユリウスの後ろに隠れそうになるのをこらえて目を瞬くと、大勢の使用人が内殿の入り口に整列しているのが見えた。
挨拶が終わったからだろうか。その使用人たちの中から何人かが進み出てくる。
「姫様、覚えておいでですか、姫様の乳母だったチコです」
「私は先代女王陛下の女官をしておりました。今は女官長をしております、ベルです」
「そして私が近衛騎士のダンゼントです」
その声に、聞き覚えがあり、そちらに視線を向けたレインはあっと声をあげた。身なりこそ騎士の隊服を着ているが、その顔の下半分ほどを埋める赤いひげには見覚えがある。
「庭師のダンじいや……?」
「ふふ、ダンじいやは仮の姿、今は姫様をお守りする近衛騎士です。おかえりなさいませ、おひいさま」
「ダンじいや……!」
見知った顔があってほっとすると同時に、驚いてしまって、レインは目をぱちぱちと瞬いた。
――くう!うらやましい!ダンゼントさん!
――私も姫様にばあやと言われたい……!
――ダンゼントさんばかりずるい……!
そこかしこから聞こえるひそやかな声は、ダンゼントへの嫉妬がにじんでいる。
(嫉妬? 私に呼ばれたダンじいやに?)
そう思って振り返った先、見渡す限りの使用人たちは、みんな一様にレインのことをあたたかな目で見つめている。
ここのあたたかさはそう、まるでアンダーサン公爵邸のようだ。
よそから来た元奴隷の王女、ということで、そう言った目で見られることも覚悟していたレインは、しかし今、ああ、と思った。
奴隷だったころのトラウマで、私が外の世界を見ようとしなかっただけで、世界はこんなにも優しいんだわ、と。
レインは、この優しい人たちの期待にこたえたい、と、その時初めて強く思った。
女王になりたい、という思いとは少し違う。けれど、この人たちを、この笑顔が崩されぬことがないよう守りたい、と思った。
「それでは姫様、お外は暑かったでしょう。まずおぐしを整えましょうね」
「え……? でも、どこも乱れていないわ」
「え、ああ、ええっと……」
「ふふ、レイン、女官たちは、レインを着飾りたくて仕方ないんだよ」
「そうなのですか!?」
レインが女官たちを振り返ると、うんうんと皆一様に頷いて見せた。
ユリウスはすごい、女官たちの考えていることまでわかるんだわ。そう思いながらレインは「じゃあ、お願いします」と使用人たちへ向けて頭を下げた。
「姫様が頭をさげる必要などございません!」
驚いてレインを止めようとする彼らに、レインはにっこり笑う。
「いいえ、これは私のけじめなの。私は今まで公爵令嬢としてあなたたちに一歩引いてしまっていたわ。ごめんなさい。ここに……王城に来るなら、王女としての覚悟が必要だったのに」
「覚悟……ですか?」
「ええ」
レインは背筋を伸ばした。
「あなたたちに大切にしてもらう、それに見合う努力をする覚悟よ」
そう言ってレインは微笑んだ。
使用人たちがそんなレインを見つめてほう、とため息をつく。
ユリウスがそんなレインを見て目を細め、では、と口を開く。
「私は少し陛下と父上と話してくる。何かあったら飛んでくるから、すぐに呼ぶんだよ」
「ユリウス様ったら、私はそんなに子供ではありませんわ」
くすくす笑えば、ユリウスもそのまなざしを優しく緩める。
じゃあ、行ってくるね、とユリウスが踵を返す。その背が見えなくなったころ、不意に声を掛けられて、レインは振り返った。
「愛されておいでですね、姫様」
「ありがとう。ええと……チコ?」
「はい、チコです、姫様」
「ごめんなさい、幼いころの記憶がないの」
しゅんとうなだれるレインに、チコは笑った。
「三歳のころの記憶ですから、忘れているのも仕方のないことです。ましてや、恐ろしい事件があったころのことですもの。むしろ、忘れてしまってもいいのです。ここにいるものは、みーんな承知しておりますからね」
もう一度、初めましてをすればよいのです。チコはそう言ってレインをドレッサーの前へ先導した。
鏡を見ると、赤い目をした少女が、まっすぐにこちらを見返している。
そういえば、顔を隠さなくなったのはいつからだろう。
この目をひとに見せることが、もう、怖くなくなっていることに気付いて、レインははっとした。
レインの髪をくしけずり、どんな髪飾りがいいでしょうか、と女官たちを交えて話すチコは、それに、と胸を張った。
「忘れることは悪いことだという輩は、このチコがお説教してさしあげましょうね」
そう言ってウインクをするチコに、レインもつられて笑う。
「チコ、ありがとう。……では、ふさわしい髪にしてくれる? 髪飾りも、一緒に選んでくれると嬉しいわ」
「せっかくですし、ドレスも新しいものに変えましょう。我々、美しい姫様を飾れる日を、今か今かとお待ちしておりましたのよ」
先ほどベル、と名乗った女官長が両手にたくさんのドレスを抱えてやってくる。よくよく見れば、後ろでダンゼントが笑っていて。
「じゃあ、お願いするわ」
「お任せください!」
女官たちが声をそろえる。それがおかしくて、レインはまた、声をたてて笑ってしまったのだった。
■■■
レインは強くなった。レインを知らないものは、はレインを無条件に血筋だけで愛されている姫君だと思うだろう。
けれど、血統の良さだけで愛される、だなんてそんなはずありはしない。
レインはいつだって、前を向くために一生懸命だ。
その気高いひたむきさに心を打たれるから、誰もが彼女を好きになる。
もう、レインはユリウスだけに守られるべき存在ではないのかもしれない。
「……リウス」
「……レイン……」
「ユリウス!」
「……なんですか、父上」
「ああ、よかった。聞こえていた」
執務室。ほっとしたような、からかうような声音で、ユリウスの父である前アンダーサン公爵が言う。ユリウスはこのつかみどころのない父に対応するのが面倒になって、それで、と切り返した。
「譲位の話に何か問題でも?」
「いいや、その話は驚くほどスムーズだ」
前アンダーサン公爵が執務机に肘をつき、ユリウスを見やる。
「それよりも、私も久々にレインに会いたくてね」
前アンダーサン公爵に続けるように、別の執務机で書類に署名をしていた国王がいいなあ、それ、とつぶやいた。
「私も会いたいなあ。卒業パーティーではほとんど話せなかったし……。私には王子二人で姫はいなかったから、イリスレインが輝いて見えたよ。姫というものはあんなに可憐なのだねえ」
「姫だから、ではなく、レインだから、ですよ」
世界中の姫君がレインほどの逸材であったなら、どこも戦なんかしないだろう。
後で会わせますから、さっさと書類を片付けてください、と目の前の現国王と王位継承権第一位の前公爵を睥睨し、ユリウスは王位継承の際に必要な手続きを進めていく。
「……ところで、くだんの三人は」
書類から目を離さず、ユリウスはひとつ、確認した。
前アンダーサン公爵が手を動かしながら言う。
「オリバーは今も荒れている。物の破壊を繰り返し、暴れてしかたがないので北の塔に幽閉しているが、このままだと辺境に飛ばすことになるかもしれない」
それに国王が沈痛な表情を浮かべる。やはり血のつながった親子であるゆえに、切り捨てるには情が邪魔をするのかもしれなかった。
「コックス子爵夫人はおとなしい。娘のほうもだ。子爵は何も知らなかったらしく、幼い息子にも罪はないから、連帯責任とは言え、その二人の罰はあまり重くない。……だが、まあ、先は明るくないだろうが」
「社交界では敬遠されるでしょうね。息子の教育次第、というところでしょうか」
「そうだな……。夫人と娘は、イリスレインのお披露目後に北の修道院へ送るのだったか」
ユリウスの言葉に、国王が思いだすように言った。
ユリウスが頷くと、国王は目を伏せた。犯罪者にまで同情する彼は、やはり王には向いていない。それを自覚しているのだろう。国王は書類にまたひとつサインをして、それ以上何も言わなかった。
戒律に厳しく、冬も寒い北の修道院は過酷だ。レインを傷つけ、貶めたものには充分な罰になるだろう。ただ、母親である子爵夫人にはまだ余罪がある。イリスレイン誘拐の手引きをした罪を加算した後は、その修道院からも移動し、より重い罰を受けることになるはずだ。
「これでひと段落ですかね」
「そうだな」
前アンダーサン公爵と国王が頷きあって書類をまとめる。
ユリウスもうなずいて、ペンを置いた。
――はたして、本当にそうだろうか。
相槌をうちはしたが、まだわからないことがある。
取り調べの時にヘンリエッタが言った「ヒロイン」「乙女ゲーム」「悪役令嬢」「ハーレムルート」という言葉。ひとつひとつの単語は推測できるのに、そのつながりの意味が分からない。そのわからないもののために、イリスレインが攫われたというのなら……。
ユリウスはぐっと奥歯を噛んだ。
まだ終わっていない。なにかがまだ、残っている。そう思った。
■■■
ドレスは黄色、ユリウスの目の、琥珀色に少し似ている。
ヒールのないフラットな編み上げシューズを履いて、デコルテはあまり見せないで、とお願いしたレインの容貌に合わせ、えりのつまったAラインのドレスを着せ付けてもらった。
娘らしくハーフアップにした髪に、ユリウスからもらったサファイアのイヤリングに合わせた、サファイアでできた花の髪飾りをつける。
それはひとつひとつの花弁が雫のお形をとっている、細かな細工のされた見事なものだった。
アンダーサン公爵家の使用人の腕もすごいが、王城の使用人の技術もすごい。
「ありがとう、とっても素敵だわ」
「もったいないお言葉です」
やり遂げた顔をしている女官やメイドに笑いかけて礼を言うと、女官長であるのにレインの世話を引き受けると宣言したベルが謙遜する。しかし、その顔には隠しきれない笑顔がにじんでいる。
その時だった。部屋に、高く澄んだ幼い声が聞こえて来たのは。
「ワァ……きれいネェ」
「アレン殿下!」
ベルが声の主のもとに駆け寄る。
「まあ、女性の着替えの場に来てはいけませんよ」
「アレン殿下?」
レインが振り返ると、扉の隣をよちよちと歩きながら、幼い金髪の子供がこちらを見上げて目を丸くしているのが見えた。
「すみません、姫様。さ、アレン殿下、お部屋にお戻りになりましょうね」
「ヤ、なの!」
「いいわ、ベル、チコ」
レインはそっとアレンと呼ばれた子供の前にしゃがみ込んだ。そうすると、アレンの琥珀色の目がきらきらと輝いて、その口はもう一度「きれいネェ」と繰り返した。
――アレン・グレイウォード。オリバーの弟王子。まだ幼く、それゆえにレインとは会ったことがなかった。邪気のない、無垢な顔でレインを見上げるアレンはかわいらしい。不仲というわけではないだろうが、オリバーはアレンのことをほとんど口にしなかった。
「アレン王子、お歳はいくつ?」
「ンとね、あのネ……3ちゃい!」
三本の指を突き出してにこにこと笑うアレンは、レインに「おねえちゃまは?」と尋ね返した。
「私はレイン――イリスレインというの。十八歳よ。アレン王子、よろしくね」
「よろちく、おねがいし……マス!」
「まあ、言葉が上手ね」
「エヘヘ……おべんきょ、しまちた!」
アレンはレインに抱き着こうとして、その手を止めた。
レインが豪奢なドレスを着ているから、皺をつけてはいけない、と思ったのかもしれない。生まれたばかりの時に母が亡くなったらしいアレンは、女官に育てられたという。……こんなに幼いのに、思慮深い子だ。
レインは両手を差し出した。
アレンはいいの?というようにレインと、レインの腕とを見比べていたが、レインが笑って頷くと満面の笑みになってレインの胸に飛び込んできた。
レインはそのままアレンを抱き上げて、頭を撫でる。小さな体はやわらかく、あたたかい。
愛しさがこみあげてくるようだった。ふいに、その時ノックの音が部屋に響いた。
「はい」
「レイン、入ってもいいかい?」
ユリウスの声だった。「もちろんです」とレインが返すと扉が開かれる。
――と、扉の向こうから入ってきたユリウス以外の二人の人物に、レインは目を丸くした。
「お義父様、国王陛下……!」
あわててアレンを抱いたまま臣下の礼をとろうとするレインを手で制して、国王は微笑む。
「いいんだ、イリスレイン。ここにいるのは君の家族だからね」
「おとうたま!」
「おや、アレン、ここにいたのかい」
レインの腕から飛び出して父親のもとに走るアレンは、父王に抱き上げられ、ほおずりをされてその笑顔を輝かせた。
それに微笑み返し、国王がふっとレインを振り返る。
「イリスレイン、私の息子がすまなかったね」
オリバーのことを言っているのだ、とすぐに分かった。レインははい、ともいいえ、とも言えずにあいまいに頷く。
「ユリウスが、君とオリバーとの婚約を解消したのは知っているね? 解消するとき……と言っても、あの勢いは婚約破棄に近いものがあったが……、ユリウスに、私はならば君と婚約をする代わりの人間を見つけてこい、と言ったんだ。そうすれば解消されることもないだろうと……」
本当に、申し訳ないことだったと思うよ。そう言って、国王はアレンを降ろし、頭を下げた。
アレンは不思議そうに父王を見上げている。
「けれど、ユリウスは私がそう言うと、代わりの婚約者には自分がなる、言ってね。驚いたよ。ユリウスの目は本気だったから。本気で、君を傷つける人間には容赦しない、という目だった。だから私も、血がつながらないとはいえ兄妹だろう、という言葉が出なくなってしまってね」
国王はレインを見つめた。まっすぐなまなざしは、国王としてではなく――きっと、レインの身内としてのものだった。
「イリスレイン。君は今、幸せかい」
「――はい」
迷うことなど何もない。レインはためらいなく頷いた。国王が、にっこりと笑顔になって「そうか、そうか」と安堵したように言った。
「おとうたま、どうちた……ノ?」
「イリスレインが、今幸せだという話だよ」
その問答こそが幸せそうで、レインはなぜか胸が痛んだ。痛む?いいや、痛いというほどじゃない。ただ細い針で刺されたような、ちくりとした感覚があっただけだ。
レインはその光景から目を離さないまま、ぼうっとして「ユリウス様」と尋ねた。
「レイン?」
「私の……私の父は、どんな方でしたか?」
「……優しい方だったよ。目の色は緑で、髪は銀で。……レインに、雰囲気がよく似ていた」
「……思い出せないことが、申し訳ないです」
ユリウスの言葉に、やっぱり何も思いだせることがなくて、レインは視線を下に下げた。
ユリウスがそっとレインの背を撫でて言う。
「無理に思いだそうとしなくていいし、思い出せないことをすまなく思う必要なんてないよ、レイン」
ユリウスは穏やかに言った。優しい声音だった。
「レイン、言い忘れたけれど」
「ユリウス様?」
「そのドレスも、髪も、よく似合っている」
「……ありがとうございます、ユリウス様」
レインは微笑んだ。ユリウスの、気分を変えてようとしてくれる言葉が嬉しかった。
■■■
そんなことがあったからだろうか。
その日、レインは夢を見た。
銀髪の、緑の目をした青年と、薄青い髪に赤い目をした、レインによく似た女性が、ゆりかごを覗き込んで笑いあっている。
――レインは、ゆりかごの中からそれを見ていた。
(お父様?お母様?)
するりと喉を通り抜けた言葉は、あぶくのように消えて、音にはならなかった。
でも、レインには確かに、そのふたりが自分を愛していると理解できた。
そういう、優しい目をしていたから。
――レイン、かわいい子、イリスレイン。
――私たちの、宝物。
あたたかな、お湯のような夢。ずっと浸っていたい夢だった。
けれど、それは最後に、誰かの悲鳴のような声と、視界一杯に広がる誰かの血の色で掻き消えてしまった。
――レイン!
自分を呼ぶ少年の声だけが鮮明で――ああ――だから、何もかも失っても、覚えていたのだと思った。
『忘れるのよ、すべてなくしてしまえ。ヘンリエッタの――ヒロインのための物語に、悪役令嬢はいらない』
そんな風に、言い聞かされ、何かをすべてを飲まされて、記憶のすべて、何もかもを捨てさせられたとしても、レインという名前だけは。
意識が浮上する。目が覚めたレインの頬は、涙でぐっしょりと濡れていた。