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第一話 奴隷だった令嬢

「レイン・アンダーサン!俺は貴様との婚約を破棄し、ここにいるヘンリエッタ・コックスとの婚約を結ぶ!奴隷令嬢はさっさとスラムに帰るんだな!」


 こんな公衆の面前で婚約破棄をすればどうなるかわかりますか、とか、奴隷だったのは過去の話です、とか、そのヘンリエッタは男爵令嬢だから、王族と婚約する資格はありません、とか。そういう考えが浮かんでは消えて、けれどレインは結局そのどれもを言葉にすることができないまま「そうですか」と静かに応えを返しただけだった。

 

 レイン・アンダーサンは地味な令嬢だった。薄く青みがかった髪はよく手入れされていて絹糸のようだが、それだけ。いつも分厚いビン底眼鏡をかけていて、前髪を長くおろしたその顔つきを見ることができるものはどれだけいるだろうか。

 

 腰のあたりまで長く伸ばした髪は、その窺い知れない顔から幽鬼のようだと例えられ、ごくわずかな使用人などの親しい人間以外には遠巻きにされるような公爵令嬢。派手なのは肩書だけね、と今レインを罵倒しているオリバー・グレイウォード王太子がかばう、子リスのような顔つきをしたヘンリエッタ・コックス男爵令嬢にあざけられたことは記憶に新しい。

 

 レインは自己肯定感が非常に非常に――非常に低い。だからその罵倒も当然のものだと受け入れたし、今こんな時になっても「結局はこうなる運命だったのよ」としか思えなかった。

 

 そんな風に、思い描いた通りの――例えば、狼狽してわめき散らすだとか――反応を示さないレインに対して、オリバーは焦れたようだった。


「なにか言ったらどうなんだ!この奴隷令嬢!」

 

 どん、と突飛ばされて、レインはたたらを踏んだ。今日のこの卒業パーティーのために新しくあつらえた靴はヒールが高い。ぐらりと傾いだ体に、あ、転ぶ、と思った瞬間だった。


「レイン、大丈夫か!」

 

 ――ああ、いつだって、あなたは私を助けてくださる。


「お兄様」

 

 抱き留められ、レインはほっと息をつくように、その人を呼んだ。レインよりも濃い青の髪――透き通る眼鏡をかけたその人は、眼鏡越しでも周囲がため息をつくほどに美しい。

 

 均整の取れた体をしていて、その腕は今、レインを強く抱き留めてくださった。

 

 切れ長の目を心配そうに揺らし、レインを支えるその人は、ユリウス・アンダーサン。レインの血のつながらない兄にして、若くしてアンダーサン公爵家を継いだ、氷の公爵様だった。


「ゆ、ユリウス様!違うんですのよ、私――その、レイン様にいじめられて」

「違います……!私、そんなこと」

「言い逃れをする気か!レイン・アンダーサン!」


 なぜかユリウスを見て目の色を変えたヘンリエッタがついた真っ赤な嘘に、レインは反論しようとした。けれどすぐに上から降ってきた罵声のようなオリバーの言葉に、ひく、と喉が震え、それ以上の言葉が出てこなかった。


(お兄様だけには、ご迷惑をおかけしたくなかったのに)

 

 王太子が選んだ令嬢だ。たとえそこに証拠がなくたって、ただでさえ元奴隷という瑕疵のついたレインは、ヘンリエッタをいじめた、という罪を問われるだろう。

 大好きな、レインのお兄様。たったひとり、レインをあのごみ溜めのような場所から救ってくださった、レインの神様。


 レインの体が、おこりのように震える。婚約破棄された、という事実にではなく、ユリウスの輝かしい経歴に、自分のようなものが汚れをつけてしまった、ということが、そしてそれが原因で、ユリウス自身に軽蔑されるかもしれない、ということが恐ろしかった。


 ――けれど。


「大丈夫だよ、レイン」


 ユリウスは小さくささやいた。レインにだけ聞こえるような、やわらかな声で。


 はっと振り仰いだユリウスは、レインの髪を優しく撫ぜて、レインを安心させるように微笑んで見せた。


「そうです! レイン様、ひどい!この期に及んで、いいわけをするなんて……」

「黙れ、愚か者!」

「へ……?」


 ユリウスの言葉に、ヘンリエッタはきょとんと目を瞬いた。オリバーも目を丸くしている。

 それはレインも同じで、レインはユリウスの腕に包まれたまま、ユリウスを見上げてぽかんと口を開けた。それはそうだ。いつだって穏やかで、冷静に王太子をいさめる未来の側近であるはずのユリウスが、こんな、全身に怒気をみなぎらせて、あまつさえ「愚か者」などと暴言を吐く姿を、誰が想像できただろう。


 低い声が耳朶を打つ。それは、傷ついた番を守るオオカミの唸り声にも似ていた。

 我慢ならない、というようにわなわなと震えるユリウスは、レインをそっとその場に立たせると、かつかつと靴音を鳴らし、オリバーのもとへ歩み寄った。


 それを何と勘違いしたのか、オリバーが余裕を取り戻し、手をひらひらさせて口を開く。


「そ、そうだ、愚か者だな。王太子の婚約者をいじめるなんて……」

「貴様のことを言っている。オリバー・グレイウォード!そこの女にそそのかされただけなら看過できようが、貴様、今なんと言った。私のレインを、よくも奴隷令嬢などと言ってくれたな」

「ゆ。ユリウス様……?」


 オリバーの襟首をつかみ、首を絞めるように引き上げたユリウスに、ヘンリエッタがおびえたような声を出した。ぎゅうぎゅうと首を絞められ、泡を吹いたオリバーを助けようとする者はいない。皆、ユリウスの剣幕に怯えているのだ。


「貴様も黙れ、ヘンリエッタ・コックス。貴様が私の大切なレインを貶めようと様々に画策したことはすべて調べがついている。今までレインが何も言わなかったから見逃していたが、それが間違いだった」


 ――レインに近づく害悪は、すべて私が排除せねばならなかった。


 呟かれたそれを、正面から受けたヘンリエッタはさあっと顔色を青く変える。


「で、でも、ユリウス様、私、本当にいじめられて……」

「まだ言うか。その頭にはカボチャスープでも詰まっているのではあるまいな。本当に愚かだ。だいたい、王家とレインの婚約など、私自らが破棄して久しい」

「ど、どういうことですか……?」


 今度はレインが声をあげる番だった。だって、レインはいままで、この婚約がアンダーサン公爵家のためになると思って耐えて来たのだ。それを、兄自らが破棄していた、だなんて。


「私は、お兄様のお役には立てなかったのですか……?」

「ああ、違うよ、かわいいレイン」


 今にも赤い目から涙をこぼしそうなレインの目じりをそっとぬぐい、ユリウスはオリバーたちに向けるのとは真逆の表情でレインに向き直った。


「泣かないでおくれ、私のレイン。私があの婚約を破棄したのは、お前を誰にも渡したくないと思ったからだ。お前は今、私の婚約者なんだよ、レイン」

「……え?」


 レインは目を見開いた。だって自分はユリウスとは戸籍上は兄妹のはずで、兄妹は結婚なんてできなくて……。そもそも、王家と公爵家のつながりを増すために婚約をしたのであって、レインとユリウスが結婚してしまえば、その目的もかなわなくなって……。


 あら、あら?目をぱちくりさせているレインに、ユリウスがふっと笑う。いとおしさを形にしたようなその微笑みに、レインは場違いにも頬を真っ赤に染めてしまった。

 混乱して、考えをうまく処理できない。


 レインはぐるぐる回る頭を抱えて、今日までの出来事を思い返した。――そう、それは、ある雨の日のことだった。


■■■


――雨の日に見つけたから、君はレインというんだよ――……。


そう言って、優しく頭を撫でてくださった、あのあたたかい手を覚えている。

昔のレインはいつもおなかをすかせていた。そもそもレインはレインという名前でもなく、ただ名無しと呼ばれる存在だった。


名無し――レインは、ぼろぼろの、擦り切れた麻袋で作った服を着ていた。泥で汚れている顔は、レインの飼い主である領主、その娘の手によるものだ。


レインは、領主一家の奴隷であったが、物のように扱われたことはほとんどなかった。

物扱いならまだましだった。レインは、領主一家の憂さ晴らしの道具で、そこにあるだけでいとわしいなにかだった。


この邸に奴隷はレインしかおらず、だからなのか、レインは使用人たちからも苛立ちのはけ口として扱われていた。今日はお嬢様に、雨の中、沼の中に人形を落としたと言って探させられた。お嬢様が一人でこんなところに人形を持ってくるわけがない。嘘だというのは明らかなことだったが、断ることは許されない。


レインは奴隷だからだ。お嬢様はレインを沼に突き飛ばし、レインの髪が泥で汚れるのを見て喜び、うふふ!と声をあげた。


「名無し!ちゃんと探しなさいよ!見つけないと、食事抜きだからね!」

「……はい、お嬢様」


静かにそう口にしたレインに、お嬢様は何が気に入らなかったのだろう。手にしたかさの先でレインをつついた。つつかれて転んだレインは、泥の中に頭から突っ込んだ。

お嬢様はそれに満足したようににんまり笑ったが、それでかさの先が汚れたのが気に食わなかったらしい。


「あんたのせいでかさが汚れたわ!許さない!名無しのくせに!」


その場に落ちていた石を投げつけられ、それは力なく泥に沈むレインの顔に当たる。

痛い。血が出たかもしれない。伝う濡れた感触が、泥のものと違うこと、それから、鉄錆に似た臭いが鼻をついたから、そう思った。


「見つけるまで帰ってくるんじゃないわよ!」


お嬢様は肩をいからせて邸へと帰っていく。

レインはのろのろと、どうにか体を起こし、立ちあがった。沼の中を手でさぐるが、やはり人形があるようには思えない。

レインは、痛む傷口を汚れた手で押さえながら、とぷん、と音を立てて泥のなかに座りこんだ。

 冬が近い。寒いこのころでは、泥の中で風をしのぐほうが温かい。

 レインは、泥の中に浸るようにして、あるはずのない人形を探した。そうやって、寒い中で濡れていたのがわるかったのか、だんだんと体が震えてきた。


 寒い。熱があるのかもしれない。

 レインはそのままだと立ちあがれなくなる、と思って、震える体を陸へ上げた。


 雨がレインの体に容赦なく打ち付ける。ぐっしょりと濡れた体を一生懸命動かして髪を絞る。そんなことをしても泥は消えない。汚れた名無しは汚いもののまま。このまま朽ちて消えていければどれだけいいだろう。そう、熱でゆだる頭で、ぼんやり思っていた時だった。


「名無し!さぼるんじゃない!お嬢様に言いつけられたいのか!」


 するどい叱責は嵐のようだ。冷たくなった手足が一層冷える。

 あれは誰だったか、使用人のうちの一人だった気がする。


 いつもご主人様に殴られていて、目のあたりを腫らしているレインは、目があまり見えない。

 だからうまくその人を判別できなくて、反応が一瞬遅れてしまった。それがいけなかった。


 ばちいん!という大きな破裂音がした、と思ったら、レインの小さな体はその場からひと一人分くらいの距離を飛んでいた。

 どた、と倒れ込んだレインの体を、使用人の足が容赦なく踏む。きしむような嫌な音がして、レインは呻いた。


「ぁあ……」

「人形は見つけたのか!名無し!」


 耳が聞こえにくい老人特有の大きな嗄れ声。厩番だ、とレインは気づいた。

 レインはいつも、厩の近くの干し草小屋で寝起きする。彼は自分の生活範囲の中にレインのような汚いものがあることをひどく嫌った。


 厩番はレインを足蹴にしながら、脚が悪いために持ち歩いている杖で思い切りレインを打ち据えた。ばしん、ばしん、と響く音が、ただでさえ熱と怪我で弱っていた心を降り砕く。


(痛い……)


 助けて、と言おうとして、やめた。助けを求める先などない。

 助けを呼べば、待っているのは冷たい視線のみ。


 無駄なことだ、と思いながら、レインはおぼろげな意識の中で涙を流した。

 涙は雨に流されて消える。結局は、レインを助けてくれる存在などないのだ、とすべてを諦め――レインの意識は暗転した。


■■■


 目が覚めると、干し草小屋に寝かされていた。

 レインは小さく息をつき、まだ熱っぽい体をゆっくりと起こした。


(……また、死ねなかった)


 レインは自分がまた生きながらえていることに気付いて、うなだれるようにうつむいた。

 死んでしまったほうが楽なんじゃないか、そう思い続けて今日も生きている。


 それなのにレインのこの体はやたらと丈夫で、レインに安息を許してくれはしなかった。

 レインが何事もあきらめるように受け入れてしまうのは、このずっとレインに付きまとう希死観念のせいなのかもしれない。


 足を引き寄せて、小さくうずくまる。

 と、同時に、誰かが干し草小屋の入り口からぬうと顔を出した。


「ご主人様……?」


 レインはかすれた声で己の主人――領主を呼んだ。

 レインに呼ばれた領主はレインの声にわざとらしく嫌な顔をして、まるでレインに話しかけることが唾棄すべきことであるというように足で蹴った。


「きゃ……!」

「この死にぞこないが。パトリシアの命令をこなさなかったらしいな!」


 パトリシアというのは領主の娘のことだ。パトリシアの人形を見つけられなかったことをなじられているらしい。

 レインは目を伏せ、領主の足蹴を耐えるようにおとなしく受けいれた。


 がん、がん、と何度も蹴られる。ただでさえ弱った体が傷だらけになっていく。

 ひとしきりレインを痛めつけてすっきりしたのか、領主はふうと一息ついて、レインを睥睨した。


「名無し、命令を聞かなかった罰だ。今日はそこから出ることを禁じる」

「はい……」


 レインはのろのろと顔をあげ、そして地面に顔をこすりつけた。

 その上から足を乗せられ、レインの口に土が入る。じゃり、と口の中に広がった、苦みに近い味。それにレインはえずきそうになった。


 レインの頭を足蹴にして満足したらしく、領主はレインにもう一度「役立たず!」と吐き捨てて干し草小屋から出て行った。

 ぐしゃ、と崩れ落ちるように横たわったレインの頭に、きゃらきゃらとした甲高い笑い声が降ってくる。パトリシア――お嬢様だ。


「無様ねえ、名無し。ない人形を探して体調を崩すなんて、かわいそう」


 お嬢様の白い手袋をした手が、レインの前髪を掴んで持ち上げる。

 痛みに思わずしかめられたレインの顔をひとつ張って、お嬢様は表情を消した。


「死んじゃえばよかったのよ、あんたなんか」


 ぱん。ぱん。とお嬢様がレインの頬を平手でたたく。


「血の色みたいな汚い目の色。忌々しいわ」


 レインは、殴られすぎてすっかり腫れた目元に爪を立てられ、ぐう、と呻いた。

 しばらくレインの苦しむ顔を見ていたお嬢様は、レインの髪を放り捨てるように振り払ってにっこりとほほ笑んだ。


「でも今日は許してあげる。私は優しいもの」


 お嬢様の傘がレインの隣に突き立てられる。


「今日は王都から公爵様が来るの。そのご子息もね。私は辺境領主の娘だけど、わざわざ私たちの領に来るのだもの。うまくやれば、私と結婚してくださる可能性もゼロではないのよ」


 そう言うお嬢様の目には、なにかたくらみのようなものが見えた。レインは心がざわつく心地がして、それをどうにか止めねば、と思った。けれど、できなかった。レインの心に、お嬢様への恐怖がじわりと染みついていたからだ。


 お嬢様は自身が公爵のご子息を陥れ、公爵のご子息の意に沿わぬプロポーズを受けるのを想像したのか、その場で嬉しそうにくるりと回った。

 そうして、今も地べたに這いつくばったままのレインを見てにやりと笑う。


「ま、あんたには関係ないけれど」


 レインは倒れ伏したまま、じくじくと痛む傷を抱えてぼんやりとお嬢様を見上げた。


(どうして私はこんなに、この人たちから嫌われているんだろう)


 物心がついたときにはすでにこうだった。

 愛されているお嬢様を見れば、レインの受けている仕打ちが普通ではないことくらい分かる。

 汚い奴隷だから?それとも、ご主人様たちが揃ってきみが悪いという、この血のように真っ赤な色をした目がいけないのだろうか。


 それなら――それなら、こんな目、持って生まれたくなかった。


 一度死んで、生まれなおして、普通の目が欲しい。

 お嬢様がまだ何かを言っている。けれどうまく聞き取れない。


 すすり泣くレインが、徐々に反応を失っていくのが面白くないのか、時折傘でレインをつつきながら、甲高い罵声を浴びせてくる。


 ぜえぜえと息をする、熱のあるレインの手当てをするなど、考えてもいないのだろう。今までもずっとそうだった。

 レインは悲しくて悲しくて、今すぐ消えてしまいたいとすら思った。けれどレインは頑丈で、どんなに弱ってもいつも生還してしまう。


 それが苦しかった。

 それから、お嬢様はレインが気を失うまでそこにいたように思う。


 気が付けばお嬢様の気配は消えていて、レインがはっと目を覚ましたのは、あたりがすっかり薄暗くなったころだった。


 傷の痛みと熱でのどがカラカラに乾いていたから、レインはそっと体を起こした。

 遠くの館から漏れ聞こえる音楽と、見える明かりにまぶしく目を細め、レインは少しだけ、とこっそり干し草小屋を出た。


 どうにかして、公爵親子にパトリシアお嬢様のたくらみを知らさねばならない、と思った。

 だって、お嬢様がどんなことをするかわからないけれど、好きでもない相手と結婚するなんてかわいそうだ。どうせ、レインが罰を受けるだけなのだから、大丈夫。

 干し草小屋の外には、ざあざあと雨が降っていた。


 ごくりと喉を鳴らし、雨水を両手にためてすすると、少しだけ喉の熱さが和らぐ気がした。

 夢中になって雨水を飲んでいると、小さくぱしゃ、という足音が聞こえた。ご主人様かお嬢様か、それとも別の使用人か……。その誰だったとしても、干し草小屋から出ていることがばれたら、公爵親子にたくらみを知らせるどころではない。


 そう思ってレインは物陰に隠れようと身を小さくかがませるが、レインの不審な様子に気付いたのか、足音の主はぴたりとその動きを止め、レインに向けてだろうか、戸惑ったように言葉を紡いだ。


「君、どうして……そんなところにいるんだい?濡れてしまうよ、こちらへおいで」


 優しい声だった。レインの姿がよく見えていないのだろう。レインに向かって傘をさし出して、館の光を背ににっこりとほほ笑んだ。ように見えた。

 暗くて、レインにも声の主の顔はよく見えない。けれど、傘をさし出されたのは初めてで、レインは驚いて体をこわばらせた。


「……?どうして来ないの?」

「わ、私は、奴隷なので。奴隷なので、お客様の傘になんて入れません」


 声の主である――おそらくは――少年は領主の使用人ではなかった。使用人にしては、レインに向ける声も態度も優しすぎた。

 そう思ってレインが固辞すると、少年は息を呑んだ。


「タンべット男爵は君を奴隷として扱っているのか!?」

「……ぇ、あ」


 レインはこくん、と頷いた。

 レインの肯定に、少年は驚き、そして怒っているように見えた。


「奴隷はもうずいぶん前に禁止されたはずだ。タンベット男爵はどうして君を……」


 少年が声を荒げる。けれど、そこにパトリシアお嬢様のような恐ろしさはなかった。

 レインのために怒ってくれていたからだろうか。


 レインは前髪の中に隠れてしまった目をぱちぱちと瞬いて、少年の、レインより頭二つ分大きい背を見上げた。

 その時だった。一瞬だけ、さあっと雨が途切れた。雲が風に吹かれて、その位置をずらしたのだ。わずかに訪れた湿った晴れ間の中、ぽっかりとした月明かりがレインと、少年の姿を照らした。


 少年は、美しかった。まるで遠目に一度だけ見たことのあるガラス細工の人形のようだった。

 紺碧の髪に、炯々と輝く青い瞳。眼鏡越しのまなざしは透き通って、驚いたようにレインを見つめている。

 すっと通った鼻梁に、はっきりとした目鼻立ち。こんなに美しいひとが存在するのか、と思うほどきれいな少年だった。彼は、見惚れているレインの両肩をがしりと掴んで、小さく「レイン……?」とつぶやいた。


 どうして、少年がレインの名前を知っているのだろう。

 レインをレインと呼ぶのはレインだけだ。もう失って久しい、奴隷になる前の記憶の中、自分がそう呼ばれていた気がして、レインは自分をレインと呼称していた。


「私は名無し、です。お客様」

「名無し!?タンベット男爵は君を名無しだと……」

「はい」


 ぎゅっと握られた腕が少し痛い。レインが顔をしかめると、少年ははっと気づいたように、まじまじとレインの顔を見つめた。


「ここも、ここも……なんてひどい傷だ……。熱まであるじゃないか、おいで、君。ここにいたら死んでしまう」

「ご主人様のお言いつけです。私はここから出てはいけないんです。本当は、少し出てしまっているから、もうだめなんですけど……」

「そんなことを言っている場合じゃないだろう……!?」

「それに、公爵閣下とそのご子息に、お嬢様がしようとしていることをお伝えしなければならないのです、お嬢様が公爵閣下のご子息になにかして、無理矢理婚約なさろうとしています、と」

「なんだって?パトリシア嬢、なにか企んでいるとは思っていたが、そんなことを考えていたなんて」

「ですから、離してください。今なら私が罰せられるだけで……」

「その必要はない」


 レインの言葉に、少年はきっぱりと言った。


「僕がその公爵子息だ。ありがとう、たくらみを教えてくれて。でも、それより優先することは、君の手当てだ」

「え……?」


 驚きに目を見開くレインを抱えて横抱きにし、少年は傘を脇に挟んで力強く歩きだした。ぽつ、ぽつ、とまた雨が降り始める。


 けれど、温かな腕が、レインをその冷たさから守ってくれた。レインが混乱して何もいえないでいると、安心させるような笑みが降ってくる。暗いなかでもその笑顔の気配はよくわかった。


 どこか懐かしい、慕わしい気配だわ。レインはそう思った。

 その時、遠くからぱしゃぱしゃと走ってくる存在があって、その乱暴な足音から、レインは思いだした恐怖に身を震わせた。この足音は……。


「ユリウス様!こんな雨の中、どこへ行かれていたのですか?」

「ユリウス様、パトリシアも心配しておりました……ん?その腕の中の、もの、は……」


 やっぱり、パトリシアお嬢様とご主人様だ。甲高い、きいきいとコウモリの鳴くような声は親子でよく似ている。

 少年に抱かれているレインを見て、ご主人様は目を見開き、お嬢様はあんぐりと口をあけ、そうして同時に悪魔のように目を吊り上げた。


「名無し!何をしているの!ユリウス様の服が汚れているじゃない!」

「そうだ、それにお前、干し草小屋から出てくるなと言っただろうが!」


 ご主人様のこぶしが勢いよくレインに振り下ろされる。しかし、それがレインにぶつかることはなかった。

 ご主人様のぶよぶよのこぶしを、少年――ユリウスというらしい――の手が、がっしりと掴んでいたからだ。


「ゆ、ユリウスさま!どうして」

「お前たち、今、この子に何をしようとした……?」


 ユリウスが、ひんやりとした声音で言う。それは先ほどの柔らかいものとは真逆で、まるで氷のように底冷えのする声だった。


「ど、奴隷にしつけをしているだけです!わ、私はこいつの主人ですから」

「ほう……お前はこの子を奴隷として所持している、というんだな」

「そうです!」


 ユリウスの青い目が炯々と輝く。眼鏡越しのその目は、獲物を捕らえるオオカミのようだ。


「奴隷がこの国で禁じられているのは、子供でも知っていることだが……知っていて、罪もない子供を奴隷として虐待していたならば、その罪はけして軽くはないぞ、タンベット男爵」

「あ?ああ……!」


 しまった、というようにご主人様――タンベット男爵が口を押さえるが、ユリウスは厳しい目を逸らさない。そうこうしているうちに、雨の庭にもうひとり、ユリウスとよく似た、上背のある青年が歩いてやってきた。向こうには、男爵夫人の姿が見える。


「アンダーサン公爵閣下!雨の中外に出られるなんて……」

「しかし、タンベット男爵夫人、我が息子、ユリウスがこちらにいるというではないですか。親として子を心配するのは当然です」

「心配、ええ、心配!そうでしょうとも!意地汚い奴隷にたぶらかされたご子息を心配するのは当然のことですわ!」


 使用人たちから、レインがユリウスに抱きかかえられている、というのを伝えられたのだろう。男爵夫人はキツネのような目を吊り上げ、レインをにらみつけていた。震えるレインの頭をユリウスの手が撫でると、それも気に食わない、といった様子で、男爵夫人はますます肩をいからせた。


「奴隷……?」


 アンダーサン公爵、と呼ばれた青年が、ユリウスに抱かれているレインを見やる。縮こまったレインにユリウスは笑いかけると、アンダーサン公爵にレインの顔を見せるように近づいた。


「この子を、奴隷として虐待していたのです。父上」


 アンダーサン公爵は、不思議そうな顔をしていたけれど、奴隷、という言葉を聞いてはっと顔を厳しいものに変えた。


「そうか……つらかったね……。え、君……は……!?」


 アンダーサン公爵が、やわらかな手つきでレインの前髪を撫でる。

 そのとき不意に、レインの赤い目が見えてしまったのだろう。驚愕のまなざしでレインを見つめるアンダーサン公爵に、レインはあわてて顔を隠し、うつむいた。


 きみの悪い目を見せてしまったことが、ひたすらに申し訳なかった。


「これは……暁の虹……?」


 アンダーサン公爵がなにか呟く。その言葉の意味はわからなかったけれど、ユリウスは違うようで、アンダーサン公爵の言葉に首肯した。


「父上には、僕の言いたいことがわかると思います」

「ああ……そうだね。これは……大事件だぞ……」


 アンダーサン公爵が、タンべット男爵に向き直る。そうして、硬い声で、口を開いた。


「男爵、この子は我々が引き取る。これは決定事項だ」

「な……公爵閣下、それは」

「奴隷の売買、使役はこの国の法で禁じられている。男爵位をもつ貴殿が知らないはずはあるまい。詳しい話はまたの機会に聞こう」


 アンダーサン公爵の言葉には、おだやかだが有無を言わせぬ迫力があった。何が何だか分からないうちに、話は終わったらしい。

 タンベット男爵はうなだれ、男爵夫人は公爵の迫力に圧倒され何も言えないでいる。

 パトリシアが呆然とレインを見ていた。

 雨がざあざあと降っている。ユリウスは、その雨からすらレインを守るように抱きしめ、庭園の向こう、邸の門に見える馬車へと歩みを進めていった。レインは、それを熱に浮かされた体で、ぼんやりと――夢を見ているように感じていたのだった。




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