病弱系女子を保健室に連れていったら放してくれなくなった
授業中の廊下には誰もいないのが普通だから、二人も足音を鳴らしているとほんのり不吉な心地がする。
片方がふらついて足取りがおぼつかないとあればなおさらだ。
「あと少しだからね、霧崎さん!」
その子の肩を持って、支える形で俺――石間涼誠はある場所を目指していた。
「ごめんなさい、毎度毎度迷惑をおかけして」
よたよたと歩くもう一人は、苦しそうな顔の女の子だ。
赤みがかった黒髪が汗で艶めいている。小さな唇からは熱っぽい息が小刻みに漏れる。
腕を回した背中は細くて弱々しい。
「気にしないでよ。病気なら仕方がないし、俺は授業フケられてラッキーだからさ」
「ふふ、私はおさぼりの免罪符ではありませんよ?」
ふざけてみせると軽く笑ってくれた。けれど、すぐに咳き込んでしまう。
こっちまで喉が痛くなるような音を連発してから、目尻に水晶みたいな涙が浮かんだ。
「よし着いた! ……いないか」
俺は「外出中」のプレートがかかった扉を力いっぱい開けた。
辛そうな人を連れていく先なんて一つしかない。
普通の教室くらいの大きさだけど、学習机や椅子は撤去されている。
くすんだ水色の床に白い壁、入り口の反対側には外へ続く別の扉がある。
患者を診るためのソファーと、薬やら絆創膏やらが入った職員室にあるような長机、そして奥の方には、カーテンで仕切られた低めのベッドが二台。
挨拶も構わず入って、霧崎さんをそこに寝かせてあげた。
「ふう……ありがとうございます」
霧崎さんはちょっと遠慮がちにシーツへ横たわった。
白い布と白い肌が合わさって、黒髪がなんだか映える。くたっとしたポーズが儚い感じを強調している。
横の窓から青空が射して、大人しそうな顔を照らした。
「お安い御用だよ。水いる?」
「お願いします」
長机の死角に小さな冷蔵庫が置かれている。開けるとペットボトルがいくらか入っていた。病人のために常備しているやつなので、勝手にもらっても怒られることはない。
一本を霧崎さんに渡す。
きれいな指が透明のボトルを握った。
日光にきらめく水がとぷとぷと音を立てて彼女の唇に滑っていく。すらりとした喉仏が動く様子を、俺はよくないと思いながら見惚れていた。
「生き返りました……」
「霧崎さんが言うと洒落になんないな」
彼女は霧崎灯さん。俺のクラスメイトで、たぶん一番の人気者だ。
優しくて朗らかで、誰に対しても親しく接してくれる上にとっても可愛い。
清楚って言葉がとびきり似合う。鮮やかな黒髪に、宝石みたいな黒目。整った鼻にちょこんと膨らむ唇。肌は陶器みたいで下手に触れると壊れそうな雰囲気がある。制服が藍色なのもあり、繊細な印象が際立って、男女問わずみんなを虜にする。
俺? もちろん虜だよ?
「ここのお水、私が一番助けていただいている気がします」
問題は、雰囲気に留まらず現実的に体が弱いということ。
昔から病気がちなんだそうで、激しい運動は厳禁。授業中でもよく具合が悪くなって、今みたいに保健室で休んでいる。気絶とか吐いちゃうとかまではいかないものの、急な咳や高熱で苦しむ姿は頻繁に見かける。
授業に参加できない日も多いのに成績は優秀だ。
「いいんじゃない? 俺が拝借したならともかく、目的通りの使い方なんだし」
「そうですが……どうしても、申し訳なくなります。涼誠くんにも」
霧崎さんはペットボトルのフタを閉め、椅子に置いた。
訳あって俺は霧崎さんと特別な関係を築いている。一番の人気者と。
はっきり言って偶然だ。入学式の日に彼女が校門でふらついて、ちょうど隣を通った俺が一緒に保健室を探したってだけ。
それ以来なんとなく気にかけていたら、彼女も頼ってくれるようになって、およそ半年経つ。
授業中もだいたい俺が助ける担当だ。周りからは羨ましがられている。
『美少女の命を救うために立候補したのにどういうことだテメエェェェ!』
『うわあああ保健委員が首を絞めるな!』
……本業の妬みっぷりは尋常じゃない。
他ならぬ霧崎さんに『喧嘩はいけません』と止められてそいつは憤死した。
なので、俺と彼女が二人きりになるのも初めてじゃない。
「全然いいよ。ほしいものとかある?」
「なら、その……」
口ごもる霧崎さん。
両手をお腹の上で重ねてもじもじしている。
わずかに血色が戻ってきたことも相まって妙にエロい。
「すごく厚かましいことなのですが、このまま一緒にいてくださいませんか。一人になると不安なんです」
黒目が俺を見ている。
「なんだ、そんなことか。もちろんオッケーだよ、俺も正直心配だ」
時刻は九時。一時間目が始まってしまった。
戻らないと欠席扱いになるだろうけど、俺の成績なんてどうでもいい。霧崎さんの安心が一番だ。
そう、霧崎さんのためだ。
決して授業が面倒くさいとか、霧崎さんと話せるのが嬉しいとか、そういう下品な私欲じゃなく、かましかけたガッツポーズを寸前で解除するくらい理性のある志だ。
「よかった。涼誠くんは優しいですね。けほっ」
霧崎さんは微笑んで、また咳をする。
体調を気遣いながら雑談するうちに一時間目が終わった。
チャイムにはっとして、霧崎さんの顔を窺う。
「おっ可愛い、じゃなくって、体調よくなったかな」
彼女は寝転がった最初より楽そうにしていた。
まだ油断はできないけども、教室に戻っても問題なさそうな頃合いだと思う。
「どうする? 二限目は受ける?」
「ええと……」
と、彼女はまたもじもじした。そういえばトイレも大丈夫かな。
「もしまたご迷惑をおかけする事態になったら、皆さんに悪いので……」
微妙らしい。なら無理強いはできない。
俺は腰を上げた。
「ノートだけ持ってくるよ。写したいでしょ」
霧崎さんは小さく首を振った。
「できれば、片時も離れてほしくないです」
「といっても、走れば一分もかからないよ」
「その一分の間で、私に何かが起こって、誰も助けてくださらないということが、あるかもしれません」
ふむ、ならしょうがないか。
退屈ではあるようで、彼女はしきりに俺に話題を振ってきた。共通の話題がないからいまいち続かないけど、可愛い女子に積極的に話しかけられるのは悪い気がしない。
二時間目が終わる頃、ようやく保健医が帰ってきた。年配の女医さんだ。
「そろそろ俺はお役ごめんだな」
改めて俺は立った。背もたれのない椅子は腰が痛くなるな。
袖が引っ張られた、と思ったら霧崎さんだった。
「行って、しまうんですか」
「まあ先生帰ってきたから俺いらないだろうし」
「先生は信用できないので、一緒にいてくださいませんか……?」
うーん、信用できないならしょうがないか。
結局三時間目も保健室で過ごすことに。四時間目は国語のテストだ。一切勉強していないけど、さすがに参加した方がいい。俺は席を立つと同時に霧崎さんに掴まれた。
「涼誠くん……」
「ごめん霧崎さん、成績に関わるからさ」
「一緒に放課後の追試、受けてくださいませんか。一人だと不安で」
そっか、一人で追試が不安ならしょうがないか。
四時間目もゆったりと過ぎて、昼休みが始まった。
「さーて昼飯だ」
これまで同様立ち上がる。霧崎さんに掴まれる。
「お腹空いていないので、一緒にいてくださいませんか……?」
「俺はペコペコだから悪いけど」
「お水どうぞ、飲みかけですみませんが」
「いや弁当食わせてくれよ! 薄々思ってたけど途中から引き止め方雑になってないか!」
積もりに積もった不満が爆発し、俺はつい声を張った。
朝はいいとして先生が信用できないってなんだよ! 一番お世話になってるでしょうが!
追試に不安がる要素ないじゃん! 霧崎さん頭いいじゃん!
今までこんなに居残ったためしはない。今日の霧崎さんはちょっと変だ。病人には優しくしたいけど何事にも限度ってもんがある。
当の霧崎さんは――かつてないくらい冷や汗を流していた。
「あっまず……」
思わず「はい?」って口に出ちゃったくらいあからさまに焦っていた。宝石みたいな黒目をこれでもかと泳がしながら跳ね起きると、体に悪そうな速度で首と手を振る。
「そ、そそそそんなことはありません! ほっ、本心からお願いしていますとも!」
「いやいきなり声でかっ! 実は元気なんでしょ!」
「いいえ重傷でしゅ! 涼誠くんがいないと不安でしこたま吐きます!」
「しこたま吐きます!? それもう心の病気じゃないかな!」
「ところがどっこい頭がだるくて喉も痛いです!」
「ところがどっこい!? 本当にどうしちゃったの霧崎さん!」
あれか? 熱のときの異常行動か?
清楚で儚げな霧崎さんらしくない動揺っぷりに俺も頭が痛くなってきた。
「もしかして、私が仮病を働いているとおっしゃりたいんですか? 涼誠くんに疑われるなんて悲しいです」
霧崎さんが両手で顔を覆った。
「そうじゃなくてさ、たぶん俺はいらないっていうか」
「謙遜なさらないでください。涼誠くんは立派な人ですから、自分をお嫌いにならないで」
「謙遜なさったんでもなくてね、いい加減授業に戻らないと後が怖いっていうか」
「私に付き合ってくださったせいにすれば丸く収まります」
「朝と矛盾してない? あー、ほら、休み時間だから霧崎さんの友達が来るはず! 気まずい!」
「抜かりありません。人払いは済ませています」
「抜かりすぎだよ! 一人が不安なのに遠ざけるなよ!」
だめだ、霧崎さんの胸の内が読めない。
俺をからかって遊びたい、にしては全力すぎるし、彼女がここまで意地悪とは考えたくない。
意識が朦朧としている説も微妙だ。どう見ても確信犯だもの。
こめかみを押さえる俺をよそに霧崎さんは再び袖を引いた。
うっすら涙を浮かべて上目遣い。卑怯にもほどがあるよ勝てる男いねえよ。
「涼誠くんの気持ちもわかります。今日のお弁当がお好きな食べ物なんですよね」
「さてはだいぶわかってないね?」
「わがままなお願いであることは承知の上です。でも、私なりに考えた末の犯行なんです」
「犯行って言っちゃうのかよ」
にらみ合う俺と霧崎さん。まじまじ見るとやっぱり美人で、反論する気が失せる。
可愛い顔に負けるな、昼休みを逃したらあと二時間は昼飯にありつけないぞ。
「霧崎さん!」
俺は声を荒らげた。心を鬼にして突っぱねるんだ。
「涼誠くん……」
深呼吸した彼女は、ばっと両手を広げた。
大きくはないけど平らでもない胸を張って、やけに悲痛な顔で俺と向き合う。
「どうしても行かねばならないのであれば、私を倒してからにしてください」
「本末転倒!」
いや霧崎さんが倒れそうだから付き添ったんですが!?
倒す必要があるってことはイコール元気じゃないですか。
ついでに入り口の反対側で立ち塞がっても意味なくないかなあ!
突然の威嚇に俺の威勢はあっさり消し飛んだ。全然怖くはないけど、無視したら泣かれそうな必死さが彼女にはある。
「涼誠くんが最期を看取ってくださるなら悔いはありません」
「しかも死闘なの? やだよ俺、霧崎さんを殺したくない!」
「私も嫌です。しかしそのためらいが戦場では命取りになってしまいます」
「保健室で戦場の心構えを説かれても困るわ! 仮にそうでもいいよ、霧崎さんが死ぬくらいなら俺の命が取られた方がましだ」
「私も後を追います。一人では不安なので」
「なんでだよ! 俺が犬死にじゃんか!」
霧崎さんの世界には俺と彼女しかいないのか? ご両親泣くどころじゃないだろ。
「一思いに、お願いします」
震えながら言う霧崎さん。
「無理だよ……ずるいって」
俺は彼女がいるベッドの端に座った。
倒せるわけがない。ただでさえ触ったら壊れそうな彼女に暴行なんてできようか。
彼女と戦うぐらいなら二時間空腹に耐えてやる。そんで一緒に食べてやる。拳を固めた俺に対して、霧崎さんもまた構えを変えていた。
「で、であれば私からいきます!」
「えっ!?」
驚かされた直後、細い指先が俺の腋をすり抜けて胸をさすった。
重心が後ろに傾く。電灯のまぶしさに目をやられた束の間、後頭部をシーツに受け止められた。
うわ、霧崎さんの真横に!
「えいっ!」
霧崎さんは激しく身をよじって、俺の上に跨った。
お尻が俺の太ももに、両手が肩の両隣に置かれている。
忙しない息遣いが落ちてくる。下半身に体温と柔らかさを感じる。電灯を遮り、俺の視界いっぱいに霧崎さんが――すごいいかがわしい体勢だ! 人払い済ませといてよかった!
シーツから漂う霧崎さんの匂いに俺は頭がピンク色になりかけた。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
「霧崎さん、一体どうして、こんな」
「繰り返し、申し上げた通り、一人では、不安だからです。ふう」
彼女の額から汗の雫があごに降った。とぎれとぎれの口調は重い。
「あなたが他の女の子に、夢中になってしまわないか、毎日、戦々恐々としています」
「他の女の子?」
「……」
「あ、あれ、なんとか言ってよ」
「ごめんなさい、暴れたら気持ち悪くなってきました」
「ええー……」
六時間目の終わりのチャイムを、俺と霧崎さんは保健室で聞いた。
窓から見える校庭は日差しが最高潮だ。一方で俺たちのテンションは沈んでいる。
特に霧崎さんは目に見えて落ち込んでいた。俺を拘束しようとして体調を崩した拍子に、正気に返ったそうだ。
「……私と涼誠くんがお話しできるタイミングは、私が運ばれるときだけです。教室では恥ずかしくてお声をかけることができません」
疲労と羞恥を乗り越えた末に、ようやく彼女は今日の奇行について語ってくれた。
寝ていてもいいのに、わざわざ俺の真似してベッドのへりに腰かけ、肩をくっつけてくる。
「でも、もっと仲良くしたかった。少しでも長引かせられないかと、無茶な理由をつけてしまいました。ごめんなさい」
「最初に焦ってたのはどうして?」
「好意につけこんだことが知られたら、幻滅されてしまうと思って」
幻滅されるかの瀬戸際でところがどっこいするんだね……。
「涼誠くんがとても優しいので調子に乗りました。どんな罰も受け入れます」
「やめてよ。俺は怒ってないってば」
昼休み以来、霧崎さんは反省しまくり謝り倒しだ。ごめんなさいも数えきれない。
丸一日授業をすっぽかしたことで先生に会うのが憂鬱だけど、個人的にはむしろ霧崎さんの新しい一面が見えて嬉しい。
が、彼女は納得いかないらしかった。
「お願いです、罰してください。叱ってください。遠慮は悲しいです。もっともっと親密に、こうして触れ合えるような関係になりたいんです」
「そ、そう言われても」
今度は俺が焦る番だった。
霧崎さんの冷たい指が俺の手の甲をくすぐる。
生温かい息が耳元に吹かれる。
クラス一番の人気者にべったりされたら、男女問わずみんな虜になるに決まっている。
俺? もちろん虜だよ?
「一人では不安なので、ずっと一緒にいてくださいませんか……?」
俺たちが保健室を出たのは、下校時刻ぎりぎりだった。