〈十五〉部族外民
作物の少ない冬営地の生活は、五つの満月を数え、終わりを告げる。
か細く高い木でおおわれた冬営地の荒涼とした視界。その光景に飽いた頃、邑人たちは豊かな夏営地へと、足取り軽く戻ってゆく。
身を縮めて、息を殺しながらの生活もこれで終わりかと、皆ホッとした面持ちであった。
商人エラゴステスがベネスに着いたとき、邑人たちはまだ冬営地から帰っていなかった。
――到着が早かったか?
仕方なく、ただ一人残っていた邑の戦士に会いにゆく。
厳しい顔のその片腕の男は、砂漠にその名を知らぬ者なき戦士、眉の下の彫りの深い眼窩からは、何物にも揺るがぬ鋭い眼光が放たれている。
「戦士ガタウ」
「何か」
座して瞑目する老いた戦士。
「商隊に水を補いたい。井戸を使ってもかまわぬか?」
ガタウは片目を薄く開け、
「必要な量だけを有用に使い、終わったら始末せよ」
「ありがたい」
エラゴステスは、深く感謝の意を伝える。
行商人に現地の礼儀作法は不可欠だ。理解のない者と見られれば信用されないし、信用のないよそ者は砂漠では三日と生きてゆけない。
「戦士ガタウ、邑の者たちはいつこちらに戻るのだ?」
「三日経てば、戻ってこよう」
三日か、ならば待ってもよい。
商隊は金食い虫だ。帳簿、荷役、護衛、エラゴステスはそれらの者たちの食料と賃金を保証しなくてはならない。
商隊の元に戻った彼は、奴隷や使用人に命じて、邑人たちを待つ準備をさせる。
「荷をおろせ! 水を汲め! 天幕を設営する! 邑の井戸以外には足を踏み入れるな! 貴様たちもベネスの戦士の勇名は耳にしていよう!」
男たちがバラバラと作業を始める。
そのどの顔にも、安堵の色がある。
砂漠での商売は厳しい。
方位をわずかでも間違えれば死につながる。
それで大損を出し、命からがら逃げた事もある。
危険な大地だからこそ、商売の旨味も生まれるのだが。
夕方、商隊の設営を終えた所で、くたびれた顔の警備隊長ティグルが、エラゴステスに申し出た。
「戦士ガタウに会ってゆきたい。少しの間ここを離れるが、よいか?」
ティグルは辺境の山岳部族の戦士。エラゴステスの雇う警備隊の長だ。
商隊をねらう強盗たちや、商品をかすめ取ろうとする荷担ぎやロバ飼いたちに目を光らせる事を生業とする彼らは、性質朴訥だが誇り高い。
砂漠で過ごすことを厭わず、盗みや詐欺を決して許さない。
だからこそ、エラゴステスのような行商人は彼ら山岳民族を好んで雇う。
砂漠でお互いの能力を利用しあう、共生関係なのである。
「荷の番には、充分な人数をそろえてあるか?」
「問題ない」
暗い顔でティグルが答える。
「ならば良い」
エラゴステスとティグルは昨日今日の仲ではない。
つきあいも十年を超えるとなれば、二人は友人と言って差し支えなかろう。
関係は雇用者と労働者だが、二人とも辺境の出という共通点もある。
そんな訳で、エラゴステスもティグルの用件については察している。
――この男も、潮時やもしれぬ。
エラゴステスは専用の天幕で涼みながら、その後姿をじっと見送る。
「戦士ガタウ!」
ティグルが、二十歩の所から両手を見せながら頭を下げ、山岳部族の作法で近づいてゆく。
「久しくしております」
警護人にしては、この部族の言葉を流暢に話す。
砂漠をゆく者たちの中でも、特に商人に使われる立場の者ですら、ガタウたちと同じ言語を使える者は極めて少ない。
ティグルの言葉は、ガタウたちから習い覚えたものだった。
言葉まで覚えて意思の疎通を求めるのは、砂漠の戦士たちへの敬意の証なのである。
「うむ、戦士ティグル」
ガタウも返す。
焼いた砂のような赤い肌、筋肉のつまった巌の体躯、そして闇の熾き火のごとき眼光。ティグルは会うつど圧倒される。
この戦士に初めて会って以来、どれほど経ったのであろうか。
砂漠で迷い、仲間を失ったときに初めて屈強で名を轟かせる砂漠の戦士たちと、彼らの中で最高の戦士といわれるガタウに出会い、文字通り命を救われた。
以降ティグルは彼らを敬愛し、この邑に来るたびガタウに会った。
「少しよろしいですか?」
常になく性急に切りだすティグル。
「どうかしたのか」
察しがいい。無愛想さゆえに無神経に見られる事も多いが、優れた戦士は皆、物事によく気を配る。
「先だって、部下を一人、失ってしまいました」
ガタウは瞑目する。
「そうか」
そして、
「何人目だ」
「この十年で、六人目です」
「そうか」
商隊の警護は、過酷な仕事である。
武装した強盗団に勇猛にたちむかう彼らにとって、人死には仕様のない事ではある。
が、当たり前だからといって、先のある若者たちが死ぬのを見るのはやはりつらい。
歳をとる毎に、誰かの死が重くティグルの心のしかかってくるようになった。
――他の長は、抱えたこの重圧を、心の何処におろしているのか。
他人の考えが気になるほど、ティグルは煮詰まっている。それでガタウを訊ねた。
「戦士ガタウは、これまでに何人の部下を亡くされましたか?」
「この十年では」
ガタウは即座に答える。
「三十七人」
その数字と返答の早さにティグルは驚嘆する。
――やはりこの人物、只者ではない。
その戦士長としての力量と明晰な頭脳を、今ティグルは必要としていた。
「仲間の死が、辛くはありませんでしたか?」
「戦士ティグル」
だがガタウは、答えではなく問いを返した。
「戦うのが嫌になったか」
一撃で急所を突かれ、ティグルは言葉をなくした。
まさしく、ティグルは戦いに倦んでいた。
仲間の死をこれ以上目の当たりにするのが、耐えられなくなっていた。
だが、それを認めればティグルは戦士として終わってしまう。
戦士とは、常に戦いに備える生き物である。
戦いを厭うたと認めてしまえば、その者はもう戦士ではない。
ティグルは肩を落とし、長く嘆息した。
――いつから俺の心は、戦士でなくなっていたのであろう。
こんな気持ちで戦えば、ティグルは死ぬだろう。
そしてそれは、商隊の警護の崩壊を意味する。
そうなれば指揮官の死が生み出した混乱に巻きこまれ、ある者は無用に傷つき、そしてある者は無意味に死ぬであろう。
――俺は、立ち直らねばならぬ。
誇りと義務感で、ティグルが己をふるい立たせる。
「戦士ガタウ!」
ティグルが、腰に帯びた反り身の短剣を脇に置き、大きく頭を下げる。
彼らの誇りであり、命ともいわれる短剣を我が身から離すというのは、目の前の相手に何もかもを委ねる、という意味が込められている。
「わが迷いを払ってはくれませぬか!」
ティグルは誇り高き戦士である。恥よりも死を選ぶ男だ。
そのティグルがこのように苦悩をさらけ出し、懇願した。
だがガタウは言う。
「出来ぬ」
「何故ですか!」
「それを克服するのは、」
ガタウはつづける。
「戦士ティグル自身だ」
その通りであった。ティグルは、己の問題を、人に押しつけようとしている。
ガタウはひとつ深呼吸し、
「人は、死ぬ」
ティグルは目を見張る。
「死の価値を決めるのは、死んだ者自身だが」
ガタウは目を開く。
「それを皆に伝えるのは、生き抜いた者のみ」
ティグルはその言葉の飲みこめないながら、意味をさぐる。
「その死を伝える相手がいないのならば、戦士をやめるがいい。戦士ティグル」
ティグルが顔をあげる。
今、共に働く者の多くが、ティグルと同じ部族の若者である。
皆が戦士でもし彼らの身に死が訪れたなら、それを家族に伝えるのが、ティグルの使命である。
死した者たちの名誉を守れるのは、生者のみなのだ。
心の疲れの為に、そんな根本的なことまで忘れていようとは。
――次に砂漠を出たら、エラゴステスに暇をもらい、一度里にもどろう。
もはや義務感だけでは戦えない、ティグルは自分を見つめ直さねばならない。
――まずは我が内の、六の仲間の魂を里に戻さねば。
憑き物の落ちた顔で、ティグルは決意を新たにする。
それから改めて敬意を伝え、
「ありがとう。戦士ガタウ」
深く謝意を示した。
「戦いの中に、自分がすべき行いを忘れていた」
「うむ。長たる戦士は、みな同じ重石を背負う」
ティグルは一礼して去っていった。
部下を失う辛さ、それは経験しなければ解らぬものだ。
それこそが、優れた戦士たるもの全てが、一度はくぐり抜けねばならない試練なのである。
この民族に、風砂に揉まれた丸岩、という言葉がある。
悠久の砂漠に置かれて角が取れ、靭き芯の残る硬い岩を指すものだ。
転じて心の強さを示す、それは砂漠に生きる者の知恵の言葉でもあるのだ。




