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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第四章 邑衆
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〈十四〉嬌声

「カサさあ、」

 それから二日ほどたった夕暮れ、ヨッカがカサの天幕で食事しながら言った。

「このあいだこのウォギに、女の子、来てなかった?」

 カサはあわてた。

 凄いあわてようで、ヨッカの持ってきた熱い料理がはいった手鍋を取り落としそうになり、汁が手の甲にこぼれ、

「あ熱いっ! ああっ、あっ!」

悲鳴をあげて身もだえし、火傷してしまった所にフウフウと息を吹きかける始末。

 みっともない事極まりない有り様だが、あまりに極端なあわてぶりは、ヨッカの質問を語らず肯定していた。

「どんな娘なの?」

 カサは火傷に息をかけている。

「声がさ、聞こえたんだよね。何か凄く楽しそうだった」

 まだカサは火傷に息をかけている。

「どう言えばいいのかな、可愛い声だったよね。あ、これはトカレが言ったんだけど」

「え? トカレと一緒にいたの?」

「いたよ? 最近じゃほとんど毎日こっちの天幕か、トカレの天幕で一緒に過ごすんだから」

 サラッとつづけた言葉は、カサにとって衝撃だった。

 ヨッカとトカレの関係は、かなり深まっているらしい。

「だから、昨日の夜、女の子と一緒にいた?」

 二進も三進もいかなくなってしまうカサ。

「ねえ、何をしている娘? 女の子なら戦士じゃないだろうけど、じゃあ、カラギ? なら俺も知っているはずだから、言いにくいかもしれないけど、絶対に邪魔したりしないよ。それ以外なら、ええと、ザンゼ(畜産階級)? いや、女の子ならソワニ(子育て階級)かも? あ、でもカサならデーレイ(加工技術階級)? じゃあじゃあさ、グラガウノ(機織り階級)にも女の子は多いよね……?」

 興味にまかせて津々訊いてくる。

――ヨッカなら言っても大丈夫。

という信頼感と、

――それでも、隠し事はいつどんな形で漏れてしまうか判らない。

という危惧が渦巻いて、カサの心は千々に乱れる。

 全てを明かしてしまいたい。口走って楽になりたい。

「ねえカサ。俺は自分の事、話したよ? カサだから、言ったんだよ? カサは話せないの?」

 こうまで言われてしまっては、何も言わない訳にはいかない。

「歳上なの?」

「…………うん。一歳だけ、だけど……」

 子供っぽい所もあるが、それでも一応歳上である。

「可愛い?」

「……………………うん」

 それはもう、可愛いのである。そこばかりはヨッカといわず、全世界に宣言したいほどだ。

「どこの職種の娘なの?」

 それだけは言えない。

 言えばヨッカにも迷惑がかかる。

 沈黙に沈黙が重なり、そしてカサが根負けした。

「……ごめんヨッカ。言えないんだ」

 狩りでは見られぬ気弱な返答、そこには、気鋭の若手戦士カサの姿はない。

 だけどこれが、ヨッカの幼なじみの、繊細なカサなのである。

「そう……」

 ヨッカは少し残念そうにするが、これがカサの精一杯だと判ってはいるので、強くは訊けない。

 それでもギリギリまで食い下がり、

「名前は?」

 何とか聞き出そうとするが、カサが沈んだ顔をするのを見て、さすがにここまでと判断する。

「あのさ、俺、トカレに言ったんだ」

 話を代え、ヨッカが恥ずかしげに言う。

「結婚して欲しいって。そしたら、トカレも嬉しいって……」

 照れているくせに、言いたいらしい。

「でも今は、少し時間が欲しいんだって、トカレは言ってるんだ。だからもしかしたらだけど、上手くいくかも」

 上手くはいかないかもしれない。

 即答を避けたのは、ヨッカとの関係に何かが足りないと考えているからだ。

 幸せばかりに目が行って、肝心な部分が見えていないのが、ヨッカのように経験の浅い若者らしいといえよう。

 食事を終えて陽も沈み、ヨッカは自分の天幕に戻っていった。始終機嫌良さそうにしているヨッカを見て、

――ヨッカはトカレと、結婚してしまうかもしれないな。

 そう思うと、友人の幸せを祝福しつつ、仄羨ましくもあった。



 コールアは不機嫌であった。

 原因はもちろんカサである。

 あの日、コールアの自尊心は大きく傷つけられた。

 これまで男性に拒否される事などなかったコールア、それをまるで邪魔者のように扱ったカサに、コールアは強い憤りを感じた。

――許さない……!

 コールアは荒れている。

 目の前にいるどんな人間に対してもきつく当たり、時には手を振りあげる。

 邑長の権威を嵩にきておこなわれる理不尽な暴力にもの申せるのは、邑長をのぞけば戦士階級の者ぐらいのものであろう。

――絶対に、許さない……!

 この時も、前を横切った水を運ぶ女を突き飛ばしたばかりであった。

 女は悲鳴をあげて倒れ、桶を落とし、ぶちまけられた水と泥にまみれるという醜態を演じてみせた。

「邪魔よ」

 睨め下ろして言い放つ。

 女のおびえる表情に、わずかに満足を覚える。

 それでもコールアの気分は晴れない。

 当たり前である。

 苛立ちの大本であるカサはその瞬間も、のうのうとどこかで女と会っているのかもしれない。

 それを考えると、コールアの怒りはさらに膨れあがる。

――お前は一体どこの女と会っているの?

 見知らぬカサの恋人に、コールアは嫉妬する。

 全く気にならなかったカサの女が、どうしてこれほど心に引っかかるのか。

 それは一体、誰なのか。

 この自分を邪険にしてそちらを選ぶとは、どんな女なのだろう。やはり以前話に聞いた、エルであろうか。

 ありえる、と思う。

 エルははつらつとして美しく、それはコールアにはない魅力である。

 もしもカサがエルのような女に惹かれる性質ならば、コールアに対する冷たい仕打ちも納得できる。

 それとも、別の女だろうか。

 それは一体どのような女なのだろうか。

 顔は美しいのだろうか。よく仕事をするのだろうか。よく気がつくのだろうか。

 コールアは煩悶する。

 カサが気になる。

 その全てに気を取られる。

 こんな気持ちは初めてであった。

 ヤムナでさえ、これほどコールアを惹きつけはしなかった。

 今まで欲しいものは全て手に入れてきたコールアに、ただ一つ手に入れられないもの、それがカサなのである。

 手に入れられない鬱屈が、また欲求を膨らませる。

 螺旋を描いて木をのぼるツノ蛇のように、コールアの欲は募ってゆく。

 衝動に堪え切れず、その日もコールアはカサのもとにゆく。

 冬営地の、少しはずれ。

 また、槍を突いている。一心に汗を流すカサ。

 以前は忌々しく醜く思えたその姿に、何故こんなにも惹き寄せられるのであろう。

 コールアが傍らにあれど、カサがこちらを向く事はない。

 コールアが幾ら望めど、カサが振り向く事はないのである。

 甘く、切ない欲求。

 今までの男とは、根本的に違う。

 カサは、コールアに魅力を感じていない。

 何故? 邑の男たちは誰もが、彼女の顔にも、体にも、心を奪われているというのに。

 コールアは解っていない。

 カサという人間の本質は、とても臆病なのだ。

 欲望に任せて迫れば、身をかわすのがカサだ。

 体は発達しても、カサの中心はまだ少年なのである。

 心が未熟な段階で、戦士階級という禁欲的な社会に放りこまれ、そこで生まれた欲望の受け止め方も発散のしかたも知らない。

「フッ!」

 ドシンッ……!

 最後に一つ、力の限り突き込み、そのままの姿勢で残心する。

 ジン……。

 身体を奔る衝撃、目蓋を閉じると、汗がひとしずく顎から落ちた。

 何もかもが静止した一瞬。

 この瞬間、カサは一本の槍であった。

 それは、戦士たちが真実の瞬間と呼ぶ心持ちである。

 喩えようもない静けさと、刹那すべてを閉じこめた美しさ。

 コールアは一瞬、カサの姿に魂まで奪われた。

 その時、攻撃的で自己中心的なコールアの自我は消え、ただカサを見つめるだけの存在になっていた。

――何故こんな気持ちになるの……?

 コールアは戸惑う。

――何故こんな気持ちにならなければならないの……?

 苛立ちまじりの感情。

 人より上から物事を見るのが当たり前のコールアにとってこれまで、他者を敬う気持ちは忌むべきものであった。

 カサが息をつき、ふり返り、コールアに気づく。

 先手を取って圧倒すべしと構えていたコールアだったが、この時は羽化したての蝶の羽のごとく脆く無防備で、頬を染めてうろたえる。

「コールア……」

 カサが警戒する。

 その表情にコールアは傷つき憤慨する。

 それがカサだとはいえ、たかだか戦士にそんな顔をされるなど、コールアには許せない。

「どう、して……どうして逃げたの?」

 どうにか言葉は発したが、カサには響かない。

「腰紐抜けね。女から逃げるだなんて、優秀な戦士だというのも、どうせ噂だけなんでしょう?」

 そんな事を言いに来た訳ではないのだが、無視を決めこむカサに、コールアの口は止まらない。

「ヤムナを殺した事、みな忘れてないわよ」

 帰る用意をしていたカサの手が止まる。

「……僕も忘れてない。片時も、忘れた事がない」

 そして去ってゆく。

 拒絶する背中を、コールアは追えない。

 ヤムナの事などまるで思い出していなかった。



 天幕の天井を見上げながら、ラヴォフは不機嫌な顔をしている。

 日が沈んで三刻(三時間)ほど。隣には、裸の女。ラヴォフが、半ば以上強引に関係を持った女である。名前すら知らないその女に、夫がいる事をラヴォフは知っていたが、そんな事は考慮するに値しない。女に色気があり、外見がラヴォフ好みであった、ただそれだけの事である。

 その女も、行為が終わると、ラヴォフにとっては鬱陶しいだけの存在である。

「おい」

 女を夜具から突き出す。

「帰れ」

 女が、無言で服を着る。優しくもなく、自分勝手に欲望を処理するだけで、喜びも与えてくれない男に強い不満を持っているが、その凶暴さで知れているラヴォフにそれをぶつける事はできない。ただ戸幕を上げて、恨みがましい視線を置いて出てゆく。

「ハッ」

 その視線を鼻で笑い飛ばし、ラヴォフはまた不機嫌に戻ってゆく。

 不機嫌の源は、カサや戦士階級である。

 自分がいつまで経っても戦士として評価されない事に、逆恨みしているのだ。

――なのにあの餓鬼は、周りからあんなにも持ち上げられている。

 ガタウの元、厳しい訓練の末にいまや邑を代表する戦士となったカサ。

 対してラヴォフは、好き勝手暴れるだけで、何の努力もせずにいる。

 傍から見ればその差は一目瞭然だ、

――俺ならもっと巧くやって見せてやるのに……!

 身の程を知らずは相変わらずである。

 ヤムナが生きていた時にも、似たような事を考えていた男なのだ。自尊心は高いが、その実何もしない男。ラヴォフの評価が高まらないのは、自明当然である。

 よく思い出す情景がある。

 ヤムナが死んだあの夜。

 何もできなかった自分。

 自尊心がいたく傷つく記憶だ。

 あの時、戦士としてまともに動けたのは、あのカサだけであった。

 血まみれになりながら、獣と組み合うカサ。

 足がすくんで、動けないラヴォフ。

 血が出るほど唇を咬む。

 この冬営地に来てすら、飽きもせず皮袋を撃つカサ。

 それを見た人々が、カサに対する尊敬を深めてゆく。

――あんなもの、実際の狩りに役に立つ訳がない。

 だが実際に、カサは多くの手柄を上げ、ラヴォフは小物を狩るだけの平戦士だ。

 ガン。

 芯柱を拳で打つ。

 天幕が震え、やがて何事もなかったように夜の静けさが戻る。

 ラヴォフの苛立ちなどに頓着する事もなく、いつもどおりの顔をして、すべてを包む。

 夜空の下、ラヴォフが一人鬱々とカサへの憎悪の純度を高めている。

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