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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第四章 邑衆
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〈十一〉貪欲の蛇

 当初カサを思い通りにしようと考えたのは、エルの鼻を明かしてやりたいという動機からであった。

 最近とみに美しくなったと言われるあの娘の、悔しさにゆがむ顔を見たいという加虐的な気持ちがあった。

 もちろんカサに対しても、自分を無視できない存在にしてやろう、見返してやらねばならないという欲求はあった。

 コールアは、そのどちらをも満たす方法を思いついた。

――あいつを、私の虜にしてしまえばいい。

 男を手玉に取るなど、コールアにとって容易い事だった。

 狙った男を夢中にさせられなかった事など、一度もない。

 カサとて自分の魅力にかかれば、あっさりと陥落してしまうだろう。

――それからは、好きなようにいたぶってやればいい。

 当然、躊躇もあった。

 不具者を相手にする事への嫌悪感。

 だがそれも、カサへの呼び声高さを聞くにつれ気にならなくなった。

 何しろ邑の娘のあいだでは、あのカサこそ、独身の男としては最高の一人だと噂されているのだ。

 そのカサを、コールアのものにする。

 邑の娘たちは、そろって歯噛みするであろう。

 エルはどんな顔を見せるのだろう、それを考えるだけで、久しぶりに晴れ晴れとした気分になれた。

 そして、昼間の出来事。

 カサが見せたあの激しさは、ヤムナにすらなかったものである。

 誰にも見せぬ内側に秘めた、カサの荒々しい本性。

 それを思うだけで、コールアの奥底から、絶え間なく淫靡な情欲がわきあがってくる。

 あの腕に、抱かれたい。

 あの心を、傷つけたい。

 あの体を、組み敷きたい。

 あの魂を、独り占めしたい。

 邑長の天幕の中、コールアは加虐の予感に一人ほくそ笑む。

 父親は今、天幕の中にはいない。

 大方またどこかの寡婦の所にでも通っているのであろう、ならば翌朝近くまでは帰ってこない。

 幼少の頃に亡くなったコールアの母親の事など、頭の隅にもないのだろう。

 そんな父親を、コールアは絶えず軽蔑していた。

 コールアの貞操観念が正常に育たなかったのも、そんな父親の姿を見ていたからだ。

――そろそろ刻限かしら。

 太陽が落ちて、ずいぶん時間が経った。

 もう充分カサをじらしただろうと、コールアは天幕から顔を出す。

「いるのでしょう?」

 戸幕から出て返事を待つが、夜闇には沈黙だけが満ちている。

――まさか、来てない何て事はないわよね。

 不安になる。

「……ねえ、いるんでしょう?」

 ひたりと足音。

 呼吸まで殺したカサが、すぐ傍に立っていた。

 ヒッ。

 コールアが息を呑む。

 カサが、自分を殺しに来たのかと思ったのだ。

 だがカサの目に危険が色はないのをすぐに悟り、コールアは胸をなでおろす。

「入りなさい」

 命令口調は父ゆずりである。

 が、カサは動かない。

「大丈夫よ。父はいないわ」

 コールアが天幕の中に消え、警戒しながらも、カサはそれに従う。

「そこに座りなさい」

 指し示されたのは、夜具のかたまり。

 贅沢なコールアの寝床である。おそるおそる腰をおろすと、尻に頼りない感触が返ってくる。むせ返るような女の匂いが染みている。

「飲んで」

 差し出された椀には、酒がなみなみと注がれている。

 酒精が男の欲望を解き放つ事を、コールアはよく知っていた。

 形だけ口をつけるカサに、

「飲み干しなさい」

 コールアが命令する。

 カサはあきらめ、椀の中身を一気に流し込むが、強い酒に慣れておらず、途中でむせる。

 咳き込む胸元に、酒がこぼれる。

 息苦しそうに咳をつづけるカサ。

 その胸に、コールアが頭を寄せる。こぼれた酒を舐めとり、真っ赤な戦士のトジュを解きにかかる。

「な……んっ……にを!」

 胸を這いまわる不快感にカサは顔をしかめる。

 はだけた胸板を見つめて、コールアは驚く。

――凄い……!

 鍛え込まれた胸板は、力感ほとばしるようである。

 服の上からは細く見えるカサだが、その下に隠れた筋肉は、なみいる戦士たちの中でも抜群の質を誇っている。

 呼吸に上下する柔らかな筋肉に、見とれる。

 こんなに見事な男の肉体は、見た事がない。

 ヤムナですら、これほど美しくはなかった。

 体質もあるのだろう、若く張りのある肌の下、巻きつく脂肪の薄い筋肉は、普段は柔らかく、力を入れると彫りの深い筋が浮く。

 片腕を失ってなお、カサの体は美しかった。

 カサの肉体の持つ全ての要素が、コールアの情欲をかきたてる。

――この男を、自分の物にしたい……!

 淫猥な欲望を掻き立てられ、コールアは我慢できなくなる。

 カサに馬乗りになり、帯を解き、装束をするりと落とす。

「あなたもそのつもりで来たんでしょう……?」

 妖艶に笑う。

 天幕の隅の灯りを受けてさらされたのは、見事な裸身であった。

 白い肌、豊かな胸、柔らかい腰の輪郭。

 だがカサは、そのときのコールアの表情に慄いた。

 欲望に濡れた瞳。

 上気する頬。

 舌なめずりする、赤い唇。

 そしてコールアが、カサにのしかかる。

 それは、ツノ蛇が、縞トカゲの子供を飲み込む動作に酷似していた。



 その夜も、ウハサンはカサを監視していた。

 だが、その夜のカサはいつもと違った。

 人目を避けて天幕を出たのはいつも通りだが、まず方向が違う。いつものカサなら、まず邑の外に向かうのに、その夜に限っては、邑の中心部に向かうのである。

――どこに行くつもりだ……?

 いやな予感がしたが、尾行をやめる訳にはいかない。

 慎重に相手の死角へとまわりこみ、足音を消して近づく。

 カサが動きを止める。

 すぐにウハサンも、気配を殺す。

――今日こそ行き先を突き止めてやる。

 意気込んで後を尾けるが、カサは邑でも屈指の戦士、ウハサンごときすぐに気配を読まれ、振り切られたりはぐらかされたりと裏をかかれてしまう。

 そのたびにウハサンはカサの姿を見失い、歯がゆい思いをしてきた。

 だが、この夜のカサは違う。

 まず気がそぞろである。

 目配りにに警戒心がなく、足運びにもいつもの慎重さがない。

 気配とは、足音、きぬ擦れ、呼吸、視線、匂い、そういった生命活動の総合である。

 それらを慎重に制御し、獲物に近づく技こそ、戦士たちの真骨頂なのだ。

 だが今のカサはそのどれもが散漫で、これではウハサンでなくともたやすく追尾できるだろう。

――ここがカサの通っていた場所、だと! まさか……。

 目的地にたどり着き、ウハサンは驚く。

 そこは、邑長の天幕であった。

 しばらく待つと、いやな予感は的中した。

「いるの?」

 コールアの声。

 ウハサンは飛び上がりそうになった。

 だが、動いたのはカサ。

 コールアの死角に回り、周りに誰もいないか、確認したのである。

「……いるんでしょう?」

 ヒ。

 コールアの短い悲鳴が聞こえた。カサに気づいたようだ。

「入りなさい」

 ウハサンは我が目を疑う。

 まさか、コールアがカサを呼んだのだろうか。

 そして、決定的な一言。

「大丈夫よ。父はいないわ」

 ぶん殴られたような衝撃。

 この夜更けに、天幕の中で二人っきりになる意味。

 間違いない。カサの相手は、コールアだ。

 ウハサンのこめかみに血管が浮く。

 カサへの殺意が、たぎってゆく。

――コールアだと? あいつはヤムナの恋人ではないか!

 そのヤムナが死に、コールアは男たちと気ままに関係を持つようになった。

 その節操のなさに、たえず胸をかき乱されていたのが、ウハサンである。

 ウハサンは、永い事コールアを思慕していた。

 あの美しい姿、立ち居ふるまい、その全てを恋慕していた。

 それをあきらめたのは、彼女がヤムナの恋人だからであった。

――ヤムナなら、仕方あるまいと思えた。

 男として劣る自分が、相手にされぬのも、ヤムナの恋人ならば手が届かぬと諦められた。

 だが、ヤムナの死後、彼女が浮名を流すのは、ウハサンから見てもつまらぬ男ばかり。

 誰かとの噂を聞くたびに、ウハサンの心は槍に貫かれた砂ギツネのように荒れ狂った。

 そして今夜、ウハサンは信じられない事実を目のあたりにする。

 あのカサが、コールアの閨房の片割れなのである。

 ウハサンの胸の内で、嫉妬の炎が燃えさかる。

 今までカサに抱いていた羨望が、かすむほどの強い感情。

 怒りに指先は震え、見開いた目じりには涙がにじむ。

 計算高い男だ、ここまで感情をあらわにするのは珍しい。

 今までコールアへの気持ちを抑制できたのは、所詮相手が別世界の住人だからである。

 ヤムナであってもそれは同じ、ヤムナはウハサンたちの支配者であり、友人ではなかった。

――それが、カサだと?!

 あの、カサ。

 ヤムナの地位を奪い去り、今やそれ以上のものを手に入れんとする男。

 それが、よりにもよってコールアを情人にしていたとは。

――……許せぬ……。

 突き上げるような怒りに、ウハサンの思考はまともではない。

 いかにカサを苦しめるか、それしか考えられなくなっている。

――許せぬ!

 カサへの敵意を新たにするウハサン。

 今まで保ちつづけていた害意は、耐えがたき殺意にまで鬱屈してしまっている。

 そのカサが、天幕の中に消える。

 飛び込んでカサを打ちすえる事を夢想しつつも、結局実行に移さない。

――コールアを、抱くのか……!

 あの白い肌に、カサの手がかかる所を想像し、ウハサンは煩悶する。

 ウハサンが欲しくてたまらない物を、カサはたやすく手に入れてしまう。

――……何故だ……!

 物陰から二人の密会が行われている天幕をにらみ、

――カサが、優秀な戦士だからだというのか……!

 ウハサンはヨロヨロと天幕に近づく。

 息が荒い。

 中で行われている男女の狂態に懊悩しつつも、彼の性器は著しく勃起してしまっている。

――なにをしている?

 中で動きがある、それを察した瞬間だった。

「やめろ!」

 戸幕を引きちぎらんばかりに払いのけ、カサが飛び出してきた。

 ウハサンは慌てて身を隠すが、カサは目もくれず走り去った。

「ま、待ちなさい!」

 夜具で胸元を覆ったコールアが出てくる。口惜しげにカサの消えた方向をにらみ、口の中で悪態をつく。

「……私を莫迦にして……!」

 どういう事であろう、カサはコールアの相手を拒んだようである。

 それはつまり、二人の関係はそれほど深いものではないのかもしれない。

 コールアが、呆けたように突っ立っているウハサンを見つける。

「――何よ」

 文句でもあるのか?

 そう言いたげに、ウハサンを見下す。

 ウハサンはひるむが、コールアの扇情的な瞳が自分の方に据えられた事に、自虐的な満足を覚える。

「……フン!」

 興奮冷めやらぬ様子で踵をかえし、天幕内に消えるコールア。

――決めたぞ、コールア……。

 ウハサンは一人ごちる。

――お前を、俺の女にしてやる……!

 暗い情熱が、ウハサンを満たしてゆく。その顔に、浅ましい笑いが浮かぶ。

「……フフッ……フフッ……フフフフフ!」

 湿った笑い声を抑えられない。

 ウハサンの中で、漠然としていた野望が、確かな形をとり始めた。

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