〈十一〉貪欲の蛇
当初カサを思い通りにしようと考えたのは、エルの鼻を明かしてやりたいという動機からであった。
最近とみに美しくなったと言われるあの娘の、悔しさにゆがむ顔を見たいという加虐的な気持ちがあった。
もちろんカサに対しても、自分を無視できない存在にしてやろう、見返してやらねばならないという欲求はあった。
コールアは、そのどちらをも満たす方法を思いついた。
――あいつを、私の虜にしてしまえばいい。
男を手玉に取るなど、コールアにとって容易い事だった。
狙った男を夢中にさせられなかった事など、一度もない。
カサとて自分の魅力にかかれば、あっさりと陥落してしまうだろう。
――それからは、好きなようにいたぶってやればいい。
当然、躊躇もあった。
不具者を相手にする事への嫌悪感。
だがそれも、カサへの呼び声高さを聞くにつれ気にならなくなった。
何しろ邑の娘のあいだでは、あのカサこそ、独身の男としては最高の一人だと噂されているのだ。
そのカサを、コールアのものにする。
邑の娘たちは、そろって歯噛みするであろう。
エルはどんな顔を見せるのだろう、それを考えるだけで、久しぶりに晴れ晴れとした気分になれた。
そして、昼間の出来事。
カサが見せたあの激しさは、ヤムナにすらなかったものである。
誰にも見せぬ内側に秘めた、カサの荒々しい本性。
それを思うだけで、コールアの奥底から、絶え間なく淫靡な情欲がわきあがってくる。
あの腕に、抱かれたい。
あの心を、傷つけたい。
あの体を、組み敷きたい。
あの魂を、独り占めしたい。
邑長の天幕の中、コールアは加虐の予感に一人ほくそ笑む。
父親は今、天幕の中にはいない。
大方またどこかの寡婦の所にでも通っているのであろう、ならば翌朝近くまでは帰ってこない。
幼少の頃に亡くなったコールアの母親の事など、頭の隅にもないのだろう。
そんな父親を、コールアは絶えず軽蔑していた。
コールアの貞操観念が正常に育たなかったのも、そんな父親の姿を見ていたからだ。
――そろそろ刻限かしら。
太陽が落ちて、ずいぶん時間が経った。
もう充分カサをじらしただろうと、コールアは天幕から顔を出す。
「いるのでしょう?」
戸幕から出て返事を待つが、夜闇には沈黙だけが満ちている。
――まさか、来てない何て事はないわよね。
不安になる。
「……ねえ、いるんでしょう?」
ひたりと足音。
呼吸まで殺したカサが、すぐ傍に立っていた。
ヒッ。
コールアが息を呑む。
カサが、自分を殺しに来たのかと思ったのだ。
だがカサの目に危険が色はないのをすぐに悟り、コールアは胸をなでおろす。
「入りなさい」
命令口調は父ゆずりである。
が、カサは動かない。
「大丈夫よ。父はいないわ」
コールアが天幕の中に消え、警戒しながらも、カサはそれに従う。
「そこに座りなさい」
指し示されたのは、夜具のかたまり。
贅沢なコールアの寝床である。おそるおそる腰をおろすと、尻に頼りない感触が返ってくる。むせ返るような女の匂いが染みている。
「飲んで」
差し出された椀には、酒がなみなみと注がれている。
酒精が男の欲望を解き放つ事を、コールアはよく知っていた。
形だけ口をつけるカサに、
「飲み干しなさい」
コールアが命令する。
カサはあきらめ、椀の中身を一気に流し込むが、強い酒に慣れておらず、途中でむせる。
咳き込む胸元に、酒がこぼれる。
息苦しそうに咳をつづけるカサ。
その胸に、コールアが頭を寄せる。こぼれた酒を舐めとり、真っ赤な戦士のトジュを解きにかかる。
「な……んっ……にを!」
胸を這いまわる不快感にカサは顔をしかめる。
はだけた胸板を見つめて、コールアは驚く。
――凄い……!
鍛え込まれた胸板は、力感ほとばしるようである。
服の上からは細く見えるカサだが、その下に隠れた筋肉は、なみいる戦士たちの中でも抜群の質を誇っている。
呼吸に上下する柔らかな筋肉に、見とれる。
こんなに見事な男の肉体は、見た事がない。
ヤムナですら、これほど美しくはなかった。
体質もあるのだろう、若く張りのある肌の下、巻きつく脂肪の薄い筋肉は、普段は柔らかく、力を入れると彫りの深い筋が浮く。
片腕を失ってなお、カサの体は美しかった。
カサの肉体の持つ全ての要素が、コールアの情欲をかきたてる。
――この男を、自分の物にしたい……!
淫猥な欲望を掻き立てられ、コールアは我慢できなくなる。
カサに馬乗りになり、帯を解き、装束をするりと落とす。
「あなたもそのつもりで来たんでしょう……?」
妖艶に笑う。
天幕の隅の灯りを受けてさらされたのは、見事な裸身であった。
白い肌、豊かな胸、柔らかい腰の輪郭。
だがカサは、そのときのコールアの表情に慄いた。
欲望に濡れた瞳。
上気する頬。
舌なめずりする、赤い唇。
そしてコールアが、カサにのしかかる。
それは、ツノ蛇が、縞トカゲの子供を飲み込む動作に酷似していた。
その夜も、ウハサンはカサを監視していた。
だが、その夜のカサはいつもと違った。
人目を避けて天幕を出たのはいつも通りだが、まず方向が違う。いつものカサなら、まず邑の外に向かうのに、その夜に限っては、邑の中心部に向かうのである。
――どこに行くつもりだ……?
いやな予感がしたが、尾行をやめる訳にはいかない。
慎重に相手の死角へとまわりこみ、足音を消して近づく。
カサが動きを止める。
すぐにウハサンも、気配を殺す。
――今日こそ行き先を突き止めてやる。
意気込んで後を尾けるが、カサは邑でも屈指の戦士、ウハサンごときすぐに気配を読まれ、振り切られたりはぐらかされたりと裏をかかれてしまう。
そのたびにウハサンはカサの姿を見失い、歯がゆい思いをしてきた。
だが、この夜のカサは違う。
まず気がそぞろである。
目配りにに警戒心がなく、足運びにもいつもの慎重さがない。
気配とは、足音、きぬ擦れ、呼吸、視線、匂い、そういった生命活動の総合である。
それらを慎重に制御し、獲物に近づく技こそ、戦士たちの真骨頂なのだ。
だが今のカサはそのどれもが散漫で、これではウハサンでなくともたやすく追尾できるだろう。
――ここがカサの通っていた場所、だと! まさか……。
目的地にたどり着き、ウハサンは驚く。
そこは、邑長の天幕であった。
しばらく待つと、いやな予感は的中した。
「いるの?」
コールアの声。
ウハサンは飛び上がりそうになった。
だが、動いたのはカサ。
コールアの死角に回り、周りに誰もいないか、確認したのである。
「……いるんでしょう?」
ヒ。
コールアの短い悲鳴が聞こえた。カサに気づいたようだ。
「入りなさい」
ウハサンは我が目を疑う。
まさか、コールアがカサを呼んだのだろうか。
そして、決定的な一言。
「大丈夫よ。父はいないわ」
ぶん殴られたような衝撃。
この夜更けに、天幕の中で二人っきりになる意味。
間違いない。カサの相手は、コールアだ。
ウハサンのこめかみに血管が浮く。
カサへの殺意が、たぎってゆく。
――コールアだと? あいつはヤムナの恋人ではないか!
そのヤムナが死に、コールアは男たちと気ままに関係を持つようになった。
その節操のなさに、たえず胸をかき乱されていたのが、ウハサンである。
ウハサンは、永い事コールアを思慕していた。
あの美しい姿、立ち居ふるまい、その全てを恋慕していた。
それをあきらめたのは、彼女がヤムナの恋人だからであった。
――ヤムナなら、仕方あるまいと思えた。
男として劣る自分が、相手にされぬのも、ヤムナの恋人ならば手が届かぬと諦められた。
だが、ヤムナの死後、彼女が浮名を流すのは、ウハサンから見てもつまらぬ男ばかり。
誰かとの噂を聞くたびに、ウハサンの心は槍に貫かれた砂ギツネのように荒れ狂った。
そして今夜、ウハサンは信じられない事実を目のあたりにする。
あのカサが、コールアの閨房の片割れなのである。
ウハサンの胸の内で、嫉妬の炎が燃えさかる。
今までカサに抱いていた羨望が、かすむほどの強い感情。
怒りに指先は震え、見開いた目じりには涙がにじむ。
計算高い男だ、ここまで感情をあらわにするのは珍しい。
今までコールアへの気持ちを抑制できたのは、所詮相手が別世界の住人だからである。
ヤムナであってもそれは同じ、ヤムナはウハサンたちの支配者であり、友人ではなかった。
――それが、カサだと?!
あの、カサ。
ヤムナの地位を奪い去り、今やそれ以上のものを手に入れんとする男。
それが、よりにもよってコールアを情人にしていたとは。
――……許せぬ……。
突き上げるような怒りに、ウハサンの思考はまともではない。
いかにカサを苦しめるか、それしか考えられなくなっている。
――許せぬ!
カサへの敵意を新たにするウハサン。
今まで保ちつづけていた害意は、耐えがたき殺意にまで鬱屈してしまっている。
そのカサが、天幕の中に消える。
飛び込んでカサを打ちすえる事を夢想しつつも、結局実行に移さない。
――コールアを、抱くのか……!
あの白い肌に、カサの手がかかる所を想像し、ウハサンは煩悶する。
ウハサンが欲しくてたまらない物を、カサはたやすく手に入れてしまう。
――……何故だ……!
物陰から二人の密会が行われている天幕をにらみ、
――カサが、優秀な戦士だからだというのか……!
ウハサンはヨロヨロと天幕に近づく。
息が荒い。
中で行われている男女の狂態に懊悩しつつも、彼の性器は著しく勃起してしまっている。
――なにをしている?
中で動きがある、それを察した瞬間だった。
「やめろ!」
戸幕を引きちぎらんばかりに払いのけ、カサが飛び出してきた。
ウハサンは慌てて身を隠すが、カサは目もくれず走り去った。
「ま、待ちなさい!」
夜具で胸元を覆ったコールアが出てくる。口惜しげにカサの消えた方向をにらみ、口の中で悪態をつく。
「……私を莫迦にして……!」
どういう事であろう、カサはコールアの相手を拒んだようである。
それはつまり、二人の関係はそれほど深いものではないのかもしれない。
コールアが、呆けたように突っ立っているウハサンを見つける。
「――何よ」
文句でもあるのか?
そう言いたげに、ウハサンを見下す。
ウハサンはひるむが、コールアの扇情的な瞳が自分の方に据えられた事に、自虐的な満足を覚える。
「……フン!」
興奮冷めやらぬ様子で踵をかえし、天幕内に消えるコールア。
――決めたぞ、コールア……。
ウハサンは一人ごちる。
――お前を、俺の女にしてやる……!
暗い情熱が、ウハサンを満たしてゆく。その顔に、浅ましい笑いが浮かぶ。
「……フフッ……フフッ……フフフフフ!」
湿った笑い声を抑えられない。
ウハサンの中で、漠然としていた野望が、確かな形をとり始めた。




