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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第四章 邑衆
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〈三〉母御

 薬湯を飲ませて次の朝日がのぼるころ、母親が意識を取りもどした。

「ラシェ……?」

「お母さん!」

 顔色もよく容態は安定しており、山は越えたと、ラシャはようやく安堵した。

「少し寝なさい、ラシェ……」

「うん……! うん……!」

 ラシェは泣きながらうなずいた。



――ラシェのお母さんは、大丈夫だったのだろうか。

 翌日のカサは、ずっとその事を考えていた。

 ガタウに迷惑をかけてしまったが、カサが詫びつ礼を言うと、

「うむ」

いつも通りの返事をした。

 そのガタウにもちゃんとした報告がしたかったのだが、それにはまずラシェと会わなければならない。

 夜、カサはいつも待ち合わせしていた岩の上で待った。

 薬を渡した場所で待ったほうがいいかと思ったが、礼を言いたければこちらにも寄るだろうと、やはり岩の上で待つ事に決めた。

 ラシェは来なかった。

 薬が効かなかったのか、母親の看病で忙しいのか。

 それとも母親が元気になり、もうカサに会う必要もないと思ったのか。

――ラシェが笑っていられるのなら、それでもいい。

 待ちぼうけを食わされても、カサはもう鬱々としていない。

 誰かの役に立てるのは嬉しい事だし、それがラシェならばなお良い。

 そもそも礼が欲しくてした事ではない。

 一日分だけ欠けた月が、カサを見下ろしていた。



 翌日の昼、食休みの間に、ソワクが鍛錬するカサのもとに来た。

 ガタウへの挨拶もそこそこに、ソワクがカサにつめ寄る。

「お前、エルに何したんだ?」

 その声に、険しいものがある。

「え?」

「エルの奴が、凄く怒っているらしい。ゼラが話を聞いたら、お前が原因だって言ったそうだぞ」

 カサの顔が驚きから、これから叱られる子供のものに変わる。

「僕、失礼な事をしたかもしれない」

「何だ。もしかしてお前、強引に迫ったんじゃないだろうな。酔いにまかせてエルを」

「ち、違う、そんな事はしてないよ!」

「じゃあ何したんだ?」

「エルと、話をして……」

「おう」

「それから、踊りに誘われて……」

「うむ」

「だけど踊れないから、途中で帰っちゃったんだ、僕」

「……」

 ソワクが絶句した。だがカサを見るその瞳の中に、呆れとは違うものが混じっている。

「ソワク、なんかがっかりしてない?」

「だってお前、こりゃ絶対カサがエルを押し倒したんだって思ったからよ」

「そ、そんな事する訳ないよ!」

「だったらこの話で押し切ってお前にエルを貰わせて」

「何を考えているんだ、ソワク」

「そしたらお前は晴れて俺の弟だなあと思った訳だよ」

 えらく勝手な話である。

「何でそうなるの。晴れてないよ。エルも嫌がるだろう」

「何だつまらん。つまりエルはお前に振られてむくれてやがるって訳だ」

「振られたなんてそんな」

「じゃあ貰え」

「どうしてそうなるの」

 いい加減疲れてきたカサは、ソワクの相手をしていられなくなる。

「そろそろ時間だ」

 二歩下がって二人を見ていたガタウが、カサを促す。

「はい」

 カサもこれに従うふりをして、強引なソワクの追及をかわす。

 心底残念そうに帰ってゆくソワクの姿が可笑しくて、カサの頬はしばらく弛みっぱなしであったが、何故かいつもより浮ついたように見えるガタウが、

「惚れた女がいるのか」

 などと真面目くさって聞いてくるので、カサは返事ができないほどあわてた。

 毎度の仏頂面でも、カサにはガタウまで自分の事で面白がっているのが感じられた。

 ガタウの感情がくみ取れたのは、いつも一緒にいるおかげだろう。

 別に、そんな感情は読めなくてもいいのだが。



 夜、カサがあの岩にゆくと、ラシェが先に待っていた。

 逢えると期待していなかったので、ラシェの姿を認めて驚く。

「お母さん。どうだった……?」

 勢い込んで訊くが、振り返るラシェの背筋にまとわりつくのは、儚げな悲しみ。

 身にまとう虚脱。

 涼しげなまなじりが、赤く腫れている。

 力ない頬。

 ほつれた前髪。

 泣き疲れたその表情で、カサは全てを悟る。

――駄目だったんだ……。

 鳩尾に、えぐられるような痛みが走る。

 一日がかりで母親を弔い、泣きじゃくる弟を寝かしつけて、ラシェはようやくここに来れた。

 体も心も芯まで疲労し、打ちひしがれている。

 なのに、

「昨日は来られなくてごめんなさい。それと、薬をありがとう」

 空の椀をさしだすラシェの声は、感謝に溢れている。

 その健気さが痛々しい。

――僕は、莫迦だ。

 カサが無力な自分を責める。

――何をいい気になっていたのだろう。

 浮かれていた気分が、見るまに冷えてゆく。

――僕はラシェを、助けられなかった。

 椀を握りしめて、カサはうなだれる。

「ごめん」

 かみ締めた奥歯が、ミシリと軋む。

「ううん。いいの」

 ラシェの声に昂ぶりはなく、それだけに痛々しさが増す。

「ごめん」

 カサの目から、悔し涙がこぼれる。ラシェがカサの拳を両手で包み、

「ううん。私、嬉しかった。カサが私なんかの事で、こんなに力になってくれて」

――私なんかなんて、言わないで。

 心でそう叫べど、実際にカサができたのは、子供のように首を降る事だけ。

「あの薬を飲んだ後、お母さんずいぶん楽になって」

 ラシェの声は、どこまでも優しい。

「私に、もう寝なさいって、言ってくれて」

 とても優しい。

「最後に、ありがとうって……!」

 優しすぎる声が、涙に潰れる。

 カサはラシェを引き寄せ、その涙を胸に受けとめる。

 ラシェが声もなく泣きはじめる。

 カサも泣いている。

 あの夜、大巫女が調合したのは、病気を回復させる薬湯ではなく、主に仙人掌に含まれる麻痺成分を用いた鎮痛剤、もしくは麻酔に近いものだった。

 症状を聞いて、ラシェの母はもう助からぬと判断していたのであろう。

 愛し合う二人が、互いを支えるように抱きあい、声を殺して泣く。

 一年越しの二人の邂逅が、悲しいものに終わった事を知るのは、二日欠けた月だけ。


 風が吹く。

 固く抱きあい、互いの胸に秘めた悲しみと、漏れだす嗚咽を、いずこかの地へ運んでゆく。

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