〈三十三〉再逢
三章最終回です。
この年、戦士たちが狩った獣の数は、二十と八頭。
食糧不足の影響がまだ残っていたために、普段よりもやや多く獲物を持ち帰った。
戦士たちの帰還は七日ほど遅れたが、祭りはいつも通りの満月に行われた。
作物は豊作で、次の冬は問題なく越せそうなことに、邑人たちは安堵していた。
作物というがこの民族は根本的に農耕をしない。
動物は人の手で狩るもので、植物は精霊たちの贈り物、という訳だ。
ただ食用になる植物が密生する場所の雑草を抜いたり、石を取りのぞいたりという簡単な手はかける。
ごく原始的な農耕作業といえるかもしれない。
さて、食料が豊富に手にはいったこの夏、祭りはいつにも増して盛大なものとなった。
部族外民であるサルコリにまで、酒が振る舞われるという具合である。
忌まわしい冬を振り払うように人々は踊り、飲み、かつ大声で唄う。
辛い記憶を、湧き立つ興奮で洗い流す。
彼らの感情の奔流から、少し離れた所に、カサはいる。
踊る事もなければ、唄う事もない。
酒すら、舌を湿らせる程度に口にするのみ。
篝火からまき散らされる火花の中で熱狂する人々の中に、カサはいない。
もう何年も、そこにカサの居場所はない。
「――カサ?」
自分を呼ぶ女性の声に、過剰に反応してしまう。
驚いた顔を見られたのは、ソワクの義理の妹、エルである。
「どうしたの?」
「ああ、いや……やあエル」
失望の色を隠しきれないカサに、エルの自尊心が刺激される。
「誰だと思ったの?」
動揺を見透かした質問に、カサがうろたえる。
「来なかったの?」
「え?」
「待ち合わせていたのでしょう?」
エルは勘違いをしているようである。
カサは憂いを含んだ目で、
「――いや、別にしていないよ」
そう答えて遠くを見る。
「じゃあ、私がここに座っても、いいよね」
「うん」
何がしたいのだろうと、傍らに席を取るエルをカサは見る。
「頂戴ね」
そう言って置いてあったカサの椀を取り、酒をクッと流しこむ。滑らかな喉が、きれいに動くのに、カサは見とれる。
「あっ……ダメだ。きついね、このお酒」
特別に振る舞われた火酒である、酒精の強さは醸造酒の倍以上。
エルにはきつ過ぎたかもしれない。
「ソワクが、戦士は強い酒に慣れなきゃって言うんだ。でも飲めないから、どうしようかと思ってた」
「いやだ、ずるい。私が手伝ってあげた事になるのね」
エルが笑い、つられてカサもふっと頬を緩める。
カサのまとう陰鬱な空気が、エルの明るさに吹きはらわれてゆく。
「どうして踊らないの?」
「うん……」
言葉をにごす。
エルもそれ以上は深追いせず、
「聞いたよ。狩り場で他の邑の戦士たちと一緒になったんでしょ?」
「うん。イサテの戦士たち。みんな良い戦士たちだった」
「カサはそこで皆に褒められたって聞いたわ。すごいじゃない」
エルに褒められ、カサが苦しそうに笑う。
「そんなは事ない」
「でもみんなが褒めてるわ、カサのこと。カサは若い戦士の誇りなんだって」
「誰が言ってたの?」
「ソワクとか、他に一緒にいた戦士も」
寂しげな笑い。賞賛を受ける事は、カサにとってまだまだ苦痛である。
「みんな、大げさに褒めてるんだよ。僕はそんな……」
言葉をさがす。
「そんなに、大した戦士じゃない」
「そんな事ないわ」
カサは黙りこみ、会話が途切れる。
どんな話題を選んでもカサの心にもぐりこめない事に、エルは疲労を覚える。
カサを讃える声は日に日に高まっているのに、どうしてカサはこんなにも頼りなげなのだろう。
最初に会った時、エルはカサの持つ繊細さに惹かれた。
手を差しのべたくなるもの悲しさ、小動物にも似た懸命さ、そんな雰囲気を、エルはカサの中にかいま見た。
だが、カサの消極的な姿勢に、一旦は仲を進める事をあきらめてしまう。
以後、たくさんの男たちから誘いを受けたが、いずれもエルの心を惹くには足りなかった。
いつも心にカサを据えていた訳ではないが、見かければ気にかけるし、祭りになると探してしまう。
――私はカサの事を、好きなのだろうか。
それが判らない。
そうだと断言できるほど、エルはカサを知らない。
――そろそろ結婚相手を見つけたら?
ここの所、姉がよく言う。
カサが理由で相手を決めかねている訳ではないが、自分が結婚を考える年頃なのもわかる。
この部族における貞操に対する観念は明らかではないが、倫理観が厳密で閉鎖された社会では、お互いの目が監視となり、男女にあまり自由はないという。
簡単に男と女が関係を持つという事は、思うほどにはなかった。
とはいえコールアの様に性に奔放な者もおり、自由な性愛もあったろう。
いつの時代も若い者たちは、周囲の目をはばかりながらも、お互いの相手を心のままに選ぶものである。
そして今、エルの横にはカサがいる。
酒精がまわり始めた頭の中で、片腕を失くし背を丸めたカサの姿に、手を差しのべたい衝動を覚える。
背中にすがりつき、元気づけてあげたいと思う。
それは男女というよりも、姉が弟に、母親がわが子に持つような感情である。
「――来て」
エルがカサの手を取る。
「踊ろうよ」
その笑顔に引き寄せられるように、カサも立ちあがる。
「僕は、いいよ」
「駄目よ。お酒を飲んであげたじゃない。さあ来なさいな」
まるで姉のような口ぶりで、エルはカサを牽引する。
酒気に頬を染め、とろけるような笑いを浮かべるエルに、カサは導かれる。
祭りの囃しにあわせて踊る邑人の中に割りこみ、エルと向かい合わせで踊る。
最初遠慮がちに体を動かしていたカサも、やがて踊りの中に飲みこまれてゆき、そのうちに大きく踊るようになる。
「そうそう! 巧いよカサ!」
笑いながら踊るエル。拍子に身をまかせ、恍惚となり始めている。はつらつとしたその体がカサに預けられ、花のような匂いに、カサの頭は麻痺する。
その姿に、カサの記憶の深い場所が、刺激される。
――カサ。
脳裏に閃いたのは、ラシェの笑顔と、なめらかな声。
閃光のように訪れた痛みに、カサの踊りは唐突に終わる。
「……カサ?」
異変を感じたエルがカサを見あげる。
その瞳の奥にたたえられた底知れない悲しみに、エルはひるむ。
「帰るよ」
人々のあいだを抜けて、カサは姿を消した。
後に残されたエルが、呆然とそれを見送る。
祭りの囃子は、まだ鳴り止まない。
冷え切った心を抱いて、カサは邑を離れた。
祭りの囃子から少しでも遠ざかろうと、おぼつかない足取りでたどり着いたのは、初めてラシェと出会った、あの丘である。
――ああ。
嘆息する。
自分はいつまでラシェを引きずらねばならぬのか。
恋などしたくない、どうでもいいと切り捨てたいのだ。
いつまでもラシェの事ばかり考えていては、他の人間に迷惑がかかる。
戦士階級での失態は、そのまま誰かの死につながる。
もう忘れてもよい頃だろうと、カサは何度も何度も己に言いきかせる。
なのに、カサはまたここに来ている。
大地。
風。
月。
その全てがあの時のままにある。祭りの囃子を背中に聞きながらカサは目を閉じ、
そして、
そして信じられないものを見た。
「ラシェ……!」
そこにいたのは、カサがたえず望み、焦がれ、狂おしいほどに想った一人の少女。
「……カサ……」
満月の下、堅い大地の上、優しい風が吹く中でカサが見つけたのは、まさしくラシェ、その少女であった。
ラシェが、泣いていた。
その涙に濡れた頬。
嗚咽に握りつぶされた声。
悲しみに震える指先。
カサの足元にひれ伏して、ラシェが懇願する。
「お願いします……」
カサは困惑する。
「……助けて……カサ、助けて……!」
祭りの夜、ついに二人は再会する。
傷だらけで立ちすくむ少年と、
悲しみに打ちひしがれた少女が。
この話で、第三章終了となります。
次回は四章幕間、1月31日早朝の投稿です。




