〈二十四〉一の槍
危ぶむ周囲をよそに、カサは淡々と狩りをこなした。
二の槍、三の槍、終の槍。その全てで、カサは充分な仕事をした。
心身ともに万全と言えないながらの完璧と言っていい狩り。
いまやカサの腕に疑問を持つものはいない。
ガタウがそのカサに一番槍をさせると言い出したのは、その遠征で獣を二十も狩った頃である。
「次の狩りには、お前に一番槍を任せる」
戦士長たちが集まる中で、そうカサに命じて見せたのである。
「無理だ!」
ソワクの発言は、ほとんど絶叫である。
カサの顔はいまだに晴れがひいておらず、左目は半分閉じたような状態である。
「一の槍は、その他の槍とは違う!」
ソワクの言葉は、他三人の二十五人長の心の内と同じであっただろう。
一の槍の困難は、ガタウとて知っている。
ガタウこそこの砂漠で狩りに最も精通した者なのだ。
「俺も、カサに一の槍は尚早に思う」
ソワクにつづいたのは第四の二十五人長、リドーである。バーツィやソワクに比べて影は薄いが、堅実な性格とその腕は一目置かれている。
「大戦士長。考え直してくれ」
二十五人長ラハム。ガタウの次に高齢の戦士である。
「カサの腕は皆が認めているが、今は頃合が良くない」
少年の腕を認めさせようとして、ガタウが無理を通そうとしているのではないか、というのだ。
だがガタウは、
「問題ない」
と、返すのみ。
言い出したら聞かないガタウである。皆が徒労を感じ始めた中、最後まで抵抗したのはソワクだ。
「カサは怪我をしている。コブイェックは怪我をした者に襲いかかる。カサでは危険だ」
だがガタウが
「お前はどうか」
と聞いたのはカサ自身である。
「僕は大丈夫です」
すんなりと答えるカサだが、その顔にはまだアザが残っている。
「カサ!」
ソワクが声を上げる。
「僕は大丈夫です。いつでもできます」
カサとしても、ソワクの心配は理解できる。
だが今のカサに必要なのはただ一つ、大きな穴の空いた心を埋めてくれる何かなのだ。
――その何かが一の槍だと言うのならば、僕は挑みたい。
それがカサの、本心である。
死ぬかもしれない。
知っている。
望む所だ。
それこそ、死の危険こそ今カサの望むものなのである。
あの初めての狩りの遠征の、最後の夜。
ブロナーたちが餓狂いの牙に無残に散ったあの闇から、カサの心は抜け出せていない。
――逃れられないのなら、こちらから立ち向かうのみだ。
奇妙な充実感の中に、カサはいる。
ラシェを失った空虚さから生まれた、自分はもういつ死んでもいい存在なのだという投げやりな覚悟。
それがカサを、死地に駆りたてる。
飢えに狂った瞳の前に。
内臓を引き裂く爪の前に。
咽喉笛を喰い千切る牙の前に。
涼やかな眼を持つ娘の傍などではなく、憎しみの目を向ける獣の前こそが、カサのいるべき場所なのだ。
だから、カサは決然と言った。
「僕が、一の槍を、打ちます」
揺るぎなき強き眼。
据えたその瞳はまるで若きガタウだと、カサを見た全員が思った。
その目を前にして、異を唱えられる者はいなかった。
「オオオオオオオオオオオオオオオオ!」
鬨声が響く。
巨大な獣を取り囲んで、戦士の唄が響きわたる。周囲の戦士たちの中から、小柄で隻腕の男が、獣の前に進み出る。滑らかな肌。強い瞳。
カサだ。
槍を低くかまえ、すり足で近寄る。
「ヤアアアアアアアアアアアアアアア!」
彼我の距離は、2イエリキ(約六メートル)程度。獣が、飢えた目でカサを向く。
「ハー! ハー! ハッ! ハッ!」
眼と眼が、正面から合う。腹の底から沸きあがる恐慌を、カサは力づくで押しかえす。
「イヤー! アー! ヤヤヤヤヤ!」
ついと槍を上げると、獣も立ち上がる。自分よりも背の高いものを前にすると、獣は自分をより大きく見せようと後ろ肢で立ち上がるのだ。その性質を利用して、戦士たちは獣を狩るのである。
四方を囲まれて、獣が胸を膨らませる。
「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
獣が吼える。
頭を丸ごと齧れるほど顎を広げ、その叫圧でカサを吹き飛ばさんとする。
血と苦痛と恐怖の記憶が、カサの心胆を沸騰させる。
手の平、脇、そして背筋にどっと汗がにじむ。
体内を暴れる血に、膝が震えだすのを感じる。
――これが、一の槍。
獣と相対する一の槍は、他の槍とは違うとされている。
一の槍をこなしてこそ、戦士。
技術や腕力よりも、真の勇気が求められる一の槍こそ、戦士の狩りの、真骨頂なのである。
――まず呼吸を戻そう。
浅くなりそうな喉での呼吸を深い腹式呼吸にもどし、身のうちの恐怖と獣の威圧感、その両方を肚に呑む。
呼吸が落ち着くと、震えが止まった。
力一杯握ってしまいそうな槍から、余分な力を抜く。
揺れていた槍先がぴたり、宙に静止する。
――腕は使わず、腰で撃ち込む。
ガタウの教えが、カサの脳裏を駆け抜ける。軸足を踏み込み、蹴り脚を足を引き寄せる。
一歩、さらに一歩。
――槍の間合いに入った。
次にカサが動いた時が、狩りの始まりの合図となる。
その時こそ、戦士としてのカサの命運の決まる時だ。
「ゴルッ……ゴルッ……ッ」
カサを見下ろす血走った眼。喉鳴りが小刻みなのはまだ若い個体だからだろう。獣、コブイェックの生態についていまだ詳しい事は解らないが、大きさから考えて少なくとも三十年以上は生きるのではないだろうか。
カサの目の前にいるコブイェックは十歳前後、青年期に入りつつある個体であろう。
血の気の多い年齢である。それだけにどういう行動を起こすか判らない。
肉体は成長しきっていないが、非常に危険な大きさの獣である。
――油断するな。
終の槍を受け持ったソワクが、獣を挟んで正面から向き合うカサを、不安な眼で見ている。
カサの狩りの腕は知っている。
その槍の鋭さ的確さは、若手ではソワクと並ぶであろう。
だが、ソワクは思う。
――カサには、力が足りない。
単純に、筋力と体重が足りないのである。
一の槍に必要なのは先ず獣を恐れぬ勇気、そして暴れる獣に堪えられる足腰の粘りと、槍を保持する腕力である。
この後者二つ、成長期のカサにはまだない。
ソワクが槍を取リ直す。
いざカサの危機となれば、二の槍三の槍をとばし、己が槍で獣に止めを刺すつもりだ。
夜闇が力を増してゆく。
それにつれて、灯した松明の火もはぜて勢いを増し、カサと獣の周囲から時間の感覚を奪ってゆく。
――うむ。
カサの後ろ姿を見守りつつ、心の内でガタウがうなずく。
誰も気づいていないであろうが、今、カサと獣の呼吸が、一致している。
獣が息を吸えば、カサも息を吸い、カサが息を吐けば、獣も息を吐く。
獣と呼吸を合わせる事によって、獣の動きを読み、その機先を制する事ができる。
長年ガタウが試行錯誤し、手に入れた極意を、カサは本能的に知っている。
その類まれな戦闘感覚と、一途な性格をガタウは信じた。
――ここ暫く、この少年は槍に集中している。
カサの私生活を、ガタウは何も知らない。
ガタウがカサに託すのは、槍の使い方だけで良い。
それ以外に人に教えられる事など、自分には何ひとつ無い。
だから、カサの事も知る必要はない。
そのガタウをしてこう思わせた。
――こいつに一の槍を経験させるのは、今しかない。
今カサは、戦士として何度目かの成長期に入っている。
今のカサなら、一の槍の骨子を、少ない経験で完全に掴むであろう。
その時カサはソワクを超える。
一の槍の骨子を掴んだならば、カサの前にある姿はただ一つ。
ガタウの立つ孤高の頂。
――その全てを受け継ぐ能力を持つ戦士を、俺は遂に手に入れた。
込み上げる熱い感情は、歓喜に似ている。
――あとはお前が、その一の槍を、完璧に務めて見せるだけだ。
ガタウの期待通りになった時、カサには資格が与えられる。
ガタウと同じ場所に立てる素質を持つ、その孤独な資格を。
この狩りの成功を願う戦士長たちに反して、カサの失敗を願う者もいる。
もちろんナサレィやトナゴ、ウハサン、そしてラヴォフたちである。
――死んでしまえ。
カサの槍を見るたびにそう願っている。
そしてその願いは、ずっと裏切られつづけてきた。
だが今回はカサにとって、初めての一の槍である。
――あいつが死ぬなら、今この時しかない。
槍先落としの結果になれ、強くそう願っている。
――だがもしもこの狩りを、カサが無事に乗り越えてしまえば……。
その時、カサの名声は揺るぎなき物となろう。
カサはまだ、齢十八(我々の暦で十四歳~十五歳)。
その歳で三の槍を取ったという話すら聞いた事がないのに、よりにもよって一の槍である。
――もしもこの狩りを、カサが成功させてしまったら……。
そうなれば、カサはラヴォフたちなど手の届かない人間になってしまうであろう。
カサは戦士長として名誉を受け、ラヴォフたちの明るい未来は閉ざされる。
死んだヤムナが、彼らに約束した明るい未来を、あのカサの槍が殺してしまう。
だから、願う。
――……今ここで死んでしまえ……!
渦巻く思惑の中心で、カサが獣に立ち向かう。
獣の目にぴたりと止めていた槍を、ゆっくりと下ろす。
一の槍、最後の予備動作。
もはや引き返す事のできぬほど、カサと獣の間に漂う緊張感は張り詰めている。
次にどちらかが動けば、全てが決する。
指一本動いていないのに、カサの顔にはびっしりと汗が浮き、獣の息は上がっている。
交錯する視線。
熱気がわだかまり、ゆらゆらと立ちのぼる。
カサの眉に汗が溜まり、顎から雫が落ちる。
そして、その雫が砂に弾ける直前。
「フッ」
カサが動いた。目にもとまらぬ瞬速の槍先の軌道を、確認出来たのはガタウのみ。
――良し。
ボギュッ!!
膝元に滑り込み、膝蓋骨を砕いた槍が、頑健な獣の後肢をあらぬ方向にへし折る。
一瞬、風が停止する。
想像を超える一撃に、誰もが唖然とした。
無理もなかろう。
今カサが突いた槍は、
この一の槍は、
これは紛れもなく、
――大戦士長と、寸分違わぬ槍だ……!
それは、多くの戦士が挑戦し、あのソワクでさえ会得する事の叶わなかった、後肢を砕き圧し折る最高の一の槍。
「ゴワァッッッッッ……!!」
唯一動けたのは、カサに突かれた獣のみ。激痛に悶えるその体を、カサは槍を突いた姿勢のままどっしりと受け止める。
「何をしている」
獣の両隣の、二の槍と三の槍を受け持つ八人の戦士長に向かってガタウが叱咤する。
「二の槍! 三の槍!」
ガタウに喝を入れられ、ようやく戦士長たちが動く。
左右八本の槍が連続し、それぞれが獣の急所を的確に突く。
苦痛に身をよじる獣を、戦士たちは完全に押さえ込んだ。
そして終の槍。
獣の背後にソワクが進み出る。
――カサ……!
「エイッ!」
裂ぱくの気合い。
ソワクの槍が獣の心臓を貫く。
獣の体から生命が抜けてゆき、戦士たちが一斉に槍を抜く。地響きを立てて崩れる巨体。
砂煙の向こうで、カサが冷徹な目で全てを見通していた。
――お前の、勝ちだ。
いくばくかの口惜しさと、心を埋め尽くす賞賛。
ソワクは、カサが己よりも優れた戦士である事を、心から認めた。
ーーお前はその歳で、大戦士長の孤独をも継ぐのか。
その道の険しさを想い、ソワクが悲しい目をした。
周囲の注目の中、カサは倒れた獣の前で残心していた。
汗はすでに乾き、表情からは緊張が抜け落ちている。
手のひらに残る、一の槍の余韻に心を委ねるカサ。
何年にもわたってカサを苦しめつづけてきた、餓狂いの金色の眼が、槍を握る手の中で風化してゆく。
なのに、後に残るのは空虚さばかり。
――終わった。
心の独白は、狩りの終わりだけを示したものではない。
カサの内部で、大切な何かが終焉を告げてしまった。
悲しみを忘れるために、必死でしがみついていた何かが。
――僕にはもう、何も残っていないのだ。
力なく腕を下ろす。あれだけ恐ろしげに見えていたコブイェックの眼が、今はただもの悲しい。
無残に殺されてしまったこの生命の怨念が、恨めしげにカサを責めているように見える。
カサの槍先が血に濡れている。
カサ自身の骨で出来たその槍先は、以前は純白だった。
今その槍先は、数え切れないほど獣の血にまみれ、磨滅し、褐色がかっている。
――これはきっと、僕の魂の色だ。
大量の返り血に染め上げられ、殺した獣たちの生命を吸い取ったカサの魂は、きっとこんな色に違いない。
艶のない、乾いた血の色。
今までカサが重ねた罪の色。
そんな自分に、愛される価値を誰が見いだせよう。
砂漠に風がもどる。
血まみれの骸の上にも、
悲しい眼をした戦士の足元にも、
隔てなく吹きつける。




