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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第三章 砂漠
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〈二十〉悔苦

 カサの告白から逃げるように離れ、誰もいない、何も見えない砂漠の真ん中で、ラシェはうずくまって泣いた。

 誰にも聞かれぬよう、声を殺してただ泣いた。

 膝をつき、砂を両手で握りしめ、悲しくて悲しくてどうしようもない心の叫びを、美しい歌声を紡ぐ口をきつくつぐんで泣く。

――どうして私は、サルコリに生まれてしまったのだろう。

 暴れまわる心の最奥で、自分の出自を呪う。

――私がサルコリでなければ、カサに何もかも捧げられるのに。

 幸せの頂点から、残酷な痛ましい現実を見た。

――私がサルコリでなければ、カサの全てを受け止めてあげるのに。

 いつも助けを求めるような、カサの悲しい瞳を想う。

 優しくて繊細で、傷つきやすい心を想う。

――私はカサを傷つけた。

 我が身をかき抱く。

 その手に力がこもり、爪が白い皮膚にくい込む。

――カサの気持ちを受け入れれば、カサは命を投げ出しても私を守るだろう。

 あんなに傷ついて、それでも必死にがんばって戦士階級に自分の居場所を作ったのに、ラシェのために全て捨てることになる。

 そうなれば、カサは酷く鞭打たれてサルコリに転落する。

――あんなに優しいカサを、私は殺そうとしたのだ。

 血の滲み始めた肩は、己に対する怒り。

――私なんか、生きていてはいけない。

 かみ締めた唇が破れ、顎に血がつたう。

――私なんか、死ねばいいんだ。

 粗末ない服の胸元で、漏れる嗚咽を押し殺してラシェが泣く。

 カサが愛しく、サルコリに生まれた自分が呪わしかった。

 見下ろす半分を少し欠けた月は、何も言わない。ただ冷たく見下ろすだけであった。



「フッ!」

 ドカッ!

 カサの槍が砂袋に撃ちつけられる。

 その傍らには、いつものようにガタウの姿があるが、その顔はいささか強張っている。

 いつもの無表情ではない、不機嫌なのである。

「フッ!」

 ドカッ!

 原因は、カサ。

 槍が乱れている。

 打ち込みが乱雑で、昼になる前に、石輪を三つも砕いた。

 散漫な突きを改めよと叱りつけるガタウを、カサは胡乱な眼でにらみ返すばかり。いつものように、素直に謝る様子もない。

――こいつは、言っても無駄だな。

 ガタウは徒労を嫌い、カサを放っておく事にした。

 若い戦士だ、心揺さぶられる事も多かろう。

――だが長引けば、運動に悪い癖が染みついてしまう。

 それをガタウは危惧するが、今しばらくは静観を決める。

 無駄に浪費する事はないと、石輪は取り外したままだ。

「フッ!」

 ドカッ!

 打ち込むカサの腰に、槍尻から強烈な衝撃が伝わる。

 打ち込むごとに痛みは益々増し、陽が天頂を過ぎて久しい今では、一撃ごとに激痛を超え、脊柱に無感覚が広がる。

 朝、ガタウが来る前から一度も休む事なく、カサはここで槍をしごきつづけている。槍を握る左手は、血豆が潰れ、厚くなったはずの手の平がずる剥けて、槍が前後するにあわせて赤黒い血が飛び散っている。

――やり過ぎだな。……だが、

 ガタウは体力の限界を見極めるために、カサの動きを凝視している。

――今は、止めてもやめるまい。

 砂袋をにらむカサの目に、強い光が宿っている。

 食い縛る歯が軋み、口の端に血が滲む。

 体の苦痛など何ほどのものであろう、眉間の皺に刻まれた魂の深手は、カサをひたすら駆り立てている。


 突け。


 もっと強く突け。


 まだまだ強く突け。


 その身が滅ぶまで突け。


 そこまでカサを駆り立てるのは、怒り。


――……ラシェ!

 魂が、乾いた砂のようにラシェを欲している。

 怒りはラシェに対してのものではない。

 身の程をわきまえず、幸せを望んだ、自分への怒り。

 片輪者のくせに、皆と同じものが手に入れられると自惚れた、自分への怒り。

 その驕りが今、自分を苦しめているのだとカサは思う。

――お前なんかが、ラシェを好きになる事が間違っていたのだ。

「フッ!」

 ドカッ!

 背骨を痛みが駆け上がる。そのおかげで、一瞬だけ自分の惨めさを忘れられる。

――ラシェのような娘が、お前のように醜い者を受け入れてくれる訳がないだろう。

「フッ!」

ドカッ!

 痛みがまだ足りない。もっともっと、もっと苦痛を。一撃で我が魂を砕く強き苦痛を。

――お前など、あの夜、獣に引き裂かれて死んでしまえばよかったのに。

「フッ!」

 ドカッ!

 胃液がせり上がり、食いしばった歯の間から飛沫が噴き出す。だがカサは槍を止めない。

――お前のような、お前のようないびつな存在が、ラシェを好きになっていいと思ったのか。

「フッ!」

 ドカッ!


 脳裏に、悲しそうなラシェの顔。


 涙を浮かべた、絶望の表情。


――ラシェを傷つけて、許されると思うな。

「フッ!」

 ドカッ!

――ラシェ……。

 どうして、こんなに心を奪われてしまったのだろう。

 今のカサには、ラシェが必要なのだ。

 無くてはならない存在なのだ。

 抱きしめられなくていい。そこにいて、時々笑ってくれるだけで良いはずだった。

――なのに、ああラシェ。

 その幸せを、自らの手で壊してしまった。

 幸せで仕方がなかった時間を過ごすうちに、更なる幸せを、あともう少しの幸せをと、高望みしてしまった。

 蜃気楼のように、見えるが触れないものに、手が届くと錯覚してしまった。

 許せなかった。

 カサからラシェを奪った、カサという欲深く、醜い男が許せなかった。

「フッ!」

 ドカッ!

 だからこれは、罰。

「フッ!」

 ドカッ!

 カサが、カサに与えた、罰。

「フッ!」

 ドカッ!

 カサは与えられたこの罰を、甘受せねばならない。いや、甘受するだけでは飽き足らない。その身が滅んでも、魂は苦痛に満ちた旅をつづけるべきだ。未来永劫、そうやって苦しみつづけるべきだ。

「フッ!」

 バキャッ!

 槍先を保持する槍身の先端がついに砕けた。

 革紐にからまった石の槍先が、拘束に身もだえし、無残に転げ落ちる。

 ゼエゼエと肩で息をするカサ。

 疲労で手から槍が落ち、乾いた音を立てた。

「気が済んだか」

 ガタウが訊いた。

 ずっとそこにいたのを、カサは忘れていた。

「いいえ」

 首を振るカサ。

――こんなものじゃ、足りない。

 膝も腕も唇も、瘧のように震えているが、カサはまだ満足しない。

――もっと、痛みを……。

 だがガタウはそれを許さなかった。先の潰れた槍を拾い上げ、

「今日はここまでだ」

 一方的に宣言し、去っていった。槍がなければ、何をする事もできない。

「クッ……!!」

 ドスンッ。

 砂袋に拳を叩きつける。

 滅茶苦茶に槍を叩きつけられた革袋は、この一日で、なめした表面が粉を吹いたようにささくれ穴が開いていた。

――ラシェ……。

 膝が落ち、砂袋に力なくもたれかかる。

 だが名を呼べど、胸の中にラシェの姿はない。これからも、ないだろう。永遠に、ないに違いない。

 いつの間にか陽は落ち、夕焼けに気づかぬまま、夜が訪れていた。

 そんな事にも気づかないで、カサはただ胸の中の大きな傷口を持て余している。

 周りから見れは、それはただ若者が幼い恋に破れただけだろう。

 違うのだ。

 傷ついた孤独な魂同士が、互いに純粋すぎるがゆえに触れ合う事を赦されぬのだ。

――ラシェ。

 カサの魂が、ひたむきに一人の少女の名を叫びつづけている。



 夜、ラシェと約束していた、あの岩の上にカサが座っている。

 誰も来ない。

 朝になっても、誰も来はしないだろう。

 カサの中で、生まれて初めての恋が死に、冷たくなってゆく。

 カサは一人で、それに耐えている。



 ラシェにとって、毎日が身を焦がすほどの痛みに満ちたものになった。

 まず、笑えなくなった。

 弟に何をせがまれても、虚ろな作り笑いを返し、おざなりに相手をするだけである。

――カサ!

 時折、火を飲み込んだように呼吸がつまる。

 少年の顔を、声を、姿を思い出すたびに、痛みは訪れた。

 それはラシェを容赦なく打ちのめし、癒す事なく地上に放りだした。

 時が経つほどに、ラシェは自分が失った物の大きさを知る。

 いつの間にかこんなにも、カサの事を想っていた自分を、いまだ血を流しつづける胸の奥で思い知る。

――こんなにも大切に想っていただなんて。

 そのカサの胸の中を、ラシェも自分自身の臆病さゆえに、逃げ出してしまった。

 いくら想えどラシェは薄汚いボロを纏ったサルコリだ。

 誉れ高き戦士と添い遂げるなど、許されるはずもなかろう。

ーーだから、これでよかったのだ。

 これ以外に、選択の余地はなかったのだ。

 そんな事は判っている。

 なのにこの胸の痛みはどうだろう。

 この、狂おしいほどカサを恋しがる気持ちはどうだろう。

――私なんか、生まれて来なければよかった。

 ただ呼吸をするだけの一刻一刻が、灼けた炭を押しつけられるように息苦しい。

――私のような者は、死んでしまえばいいんだ。

 ラシェもまた、カサと同じ結論に達している。

 だがラシェの場合それを実行できない理由がある。

 幼い弟と、体の弱った母である。

 もしもラシェが斃れれば、二人もまた厳しい砂漠では生きてゆけず、時を待たず死ぬであろう。

 二人に対する責任感だけで、ラシェは生を選んだ。

 槍で苦痛を紛らわす事で、カサもまた、惰性の生を選んだように。

「……ラシェ?」

 母が、ラシェを呼ぶ。

「なに?」

 返事はあるが、顔に生気がない。

「ずっと顔色が悪いよ。大丈夫なのかい?」

 元気のない娘に気を揉んでいる。

 母に気苦労をかけてはいけない。

 ラシェは無理に笑いを形作る。

「大丈夫よ。月のものが来ただけ」

「本当かい? この前も、そう言ってたじゃないか」

「本当よ。そんな事もあるわ」

 あれこれと理由をつけて、母の追究をかわす。弟が膝に絡みついて、

「つきものもの? ってなに?」

 澄んだ目を向けてくる。

 瞳の色の深さに、つかの間カサの面影を見る。

 胸の痛みがぶり返す。

 あの夜から慟哭しつづける、身の程も知らずカサを想いつづける愚かなサルコリの娘を、ラシェは胸の奥深くに押し込む。

「何でもないのよ。カリムは遊んでらっしゃい」

 優しく答える姉に、だが弟は首を振る。

「つきもものがわるいの?」

 ラシェの目が、戸惑いを隠せなくなる。

「つきもものをやっつければ、お姉ちゃんはげんきになるの?」

 幼い真っすぐな目に浮かぶ涙。そんなに自分は心配をかけていたのかと、ラシェの胸が痛む。

「大丈夫。もう元気になった」

 ラシェは笑う。さっきより、少しだけ自然な笑み。

「ほんと?」

「本当よ? カリムのおかげね」

 カリムが可愛い笑いを浮かべる。

「さあ遊びに行きましょ。なにをして遊びたい?」

「いしけりっ」

 ずっとそうするつもりだったのだろう。手の平から蹴りやすそうな、丸く滑らかな石を取り出す。

「そうね。石蹴りをしよう」

 ラシェはふり返り、

「ちょっとカリムと遊んでくるわ。ご飯の前には戻るから、火だけお願い」

 母は幾分ホッとして、

「解った。ベネスには近寄らないようにね」

 子供の頃から繰り返された注意が、ラシェの心の傷に、微かに触れる。その痛みを無視して、

「うん、判ってる。お母さんも、ゆっくりしてて」

 薄汚れたウォギを出ると、やや強い風が吹いていた。

 カリムとラシェの衣服にツェガン、乾燥したつむじ風がからまる。子供の姿の少ない、サルコリの集落の向こうに、カサと待ち合わせたあの荒野が待ち受けている。

「お姉ちゃん! はやく! はやく!」

 カリムが一人で駆けてゆく。

――あの岩にゆけば、今もカサは待っているのだろうか。

 ラシェを待ちつづける、あの寂しげな後姿。

 思い出すだけで、無性にその背が恋しくなる。

 首を振り妄想を払い、潤いの少ない現実に目を向ける。

 あの場所にはもう行くまい。

 あのようにカサを傷つけておいて、また会いに行こうなんて、あまりに身勝手過ぎるし、それにもう一度カサに会ってしまえば、恋しくて二度と離れられなくなってしまうのだろう。

 カリムの笑顔がこちらを向いている。

 それだけが、今のラシェの救いになっている。

――カサが、今も私を待っているなんて、あるはずがないわ……。

 自分は、カリムの笑顔のためだけに生きていこう、そうラシェは誓う。

――……さよなら、カサ……。

 決別。

 ラシェもまた、カサの存在を、人生から切り離す努力を始めた。

「お姉ちゃんお姉ちゃん!」

 カリムを見つめる、優しい瞳。

 睫毛が濡れて、陽光が色彩豊かに分裂する。

 その中で、愛しい弟の姿が、逃げ水のように揺らぐ。

「お姉ちゃん?」

 カリムが困ったような目を向けてくる。

「お姉ちゃん?」

 どうしてそんな顔をするんだろう。

 ラシェは笑っている。


 笑っているのに

 瞳にはとめどなく流れる大粒の涙が。

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