〈二十〉悔苦
カサの告白から逃げるように離れ、誰もいない、何も見えない砂漠の真ん中で、ラシェはうずくまって泣いた。
誰にも聞かれぬよう、声を殺してただ泣いた。
膝をつき、砂を両手で握りしめ、悲しくて悲しくてどうしようもない心の叫びを、美しい歌声を紡ぐ口をきつくつぐんで泣く。
――どうして私は、サルコリに生まれてしまったのだろう。
暴れまわる心の最奥で、自分の出自を呪う。
――私がサルコリでなければ、カサに何もかも捧げられるのに。
幸せの頂点から、残酷な痛ましい現実を見た。
――私がサルコリでなければ、カサの全てを受け止めてあげるのに。
いつも助けを求めるような、カサの悲しい瞳を想う。
優しくて繊細で、傷つきやすい心を想う。
――私はカサを傷つけた。
我が身をかき抱く。
その手に力がこもり、爪が白い皮膚にくい込む。
――カサの気持ちを受け入れれば、カサは命を投げ出しても私を守るだろう。
あんなに傷ついて、それでも必死にがんばって戦士階級に自分の居場所を作ったのに、ラシェのために全て捨てることになる。
そうなれば、カサは酷く鞭打たれてサルコリに転落する。
――あんなに優しいカサを、私は殺そうとしたのだ。
血の滲み始めた肩は、己に対する怒り。
――私なんか、生きていてはいけない。
かみ締めた唇が破れ、顎に血がつたう。
――私なんか、死ねばいいんだ。
粗末ない服の胸元で、漏れる嗚咽を押し殺してラシェが泣く。
カサが愛しく、サルコリに生まれた自分が呪わしかった。
見下ろす半分を少し欠けた月は、何も言わない。ただ冷たく見下ろすだけであった。
「フッ!」
ドカッ!
カサの槍が砂袋に撃ちつけられる。
その傍らには、いつものようにガタウの姿があるが、その顔はいささか強張っている。
いつもの無表情ではない、不機嫌なのである。
「フッ!」
ドカッ!
原因は、カサ。
槍が乱れている。
打ち込みが乱雑で、昼になる前に、石輪を三つも砕いた。
散漫な突きを改めよと叱りつけるガタウを、カサは胡乱な眼でにらみ返すばかり。いつものように、素直に謝る様子もない。
――こいつは、言っても無駄だな。
ガタウは徒労を嫌い、カサを放っておく事にした。
若い戦士だ、心揺さぶられる事も多かろう。
――だが長引けば、運動に悪い癖が染みついてしまう。
それをガタウは危惧するが、今しばらくは静観を決める。
無駄に浪費する事はないと、石輪は取り外したままだ。
「フッ!」
ドカッ!
打ち込むカサの腰に、槍尻から強烈な衝撃が伝わる。
打ち込むごとに痛みは益々増し、陽が天頂を過ぎて久しい今では、一撃ごとに激痛を超え、脊柱に無感覚が広がる。
朝、ガタウが来る前から一度も休む事なく、カサはここで槍をしごきつづけている。槍を握る左手は、血豆が潰れ、厚くなったはずの手の平がずる剥けて、槍が前後するにあわせて赤黒い血が飛び散っている。
――やり過ぎだな。……だが、
ガタウは体力の限界を見極めるために、カサの動きを凝視している。
――今は、止めてもやめるまい。
砂袋をにらむカサの目に、強い光が宿っている。
食い縛る歯が軋み、口の端に血が滲む。
体の苦痛など何ほどのものであろう、眉間の皺に刻まれた魂の深手は、カサをひたすら駆り立てている。
突け。
もっと強く突け。
まだまだ強く突け。
その身が滅ぶまで突け。
そこまでカサを駆り立てるのは、怒り。
――……ラシェ!
魂が、乾いた砂のようにラシェを欲している。
怒りはラシェに対してのものではない。
身の程をわきまえず、幸せを望んだ、自分への怒り。
片輪者のくせに、皆と同じものが手に入れられると自惚れた、自分への怒り。
その驕りが今、自分を苦しめているのだとカサは思う。
――お前なんかが、ラシェを好きになる事が間違っていたのだ。
「フッ!」
ドカッ!
背骨を痛みが駆け上がる。そのおかげで、一瞬だけ自分の惨めさを忘れられる。
――ラシェのような娘が、お前のように醜い者を受け入れてくれる訳がないだろう。
「フッ!」
ドカッ!
痛みがまだ足りない。もっともっと、もっと苦痛を。一撃で我が魂を砕く強き苦痛を。
――お前など、あの夜、獣に引き裂かれて死んでしまえばよかったのに。
「フッ!」
ドカッ!
胃液がせり上がり、食いしばった歯の間から飛沫が噴き出す。だがカサは槍を止めない。
――お前のような、お前のようないびつな存在が、ラシェを好きになっていいと思ったのか。
「フッ!」
ドカッ!
脳裏に、悲しそうなラシェの顔。
涙を浮かべた、絶望の表情。
――ラシェを傷つけて、許されると思うな。
「フッ!」
ドカッ!
――ラシェ……。
どうして、こんなに心を奪われてしまったのだろう。
今のカサには、ラシェが必要なのだ。
無くてはならない存在なのだ。
抱きしめられなくていい。そこにいて、時々笑ってくれるだけで良いはずだった。
――なのに、ああラシェ。
その幸せを、自らの手で壊してしまった。
幸せで仕方がなかった時間を過ごすうちに、更なる幸せを、あともう少しの幸せをと、高望みしてしまった。
蜃気楼のように、見えるが触れないものに、手が届くと錯覚してしまった。
許せなかった。
カサからラシェを奪った、カサという欲深く、醜い男が許せなかった。
「フッ!」
ドカッ!
だからこれは、罰。
「フッ!」
ドカッ!
カサが、カサに与えた、罰。
「フッ!」
ドカッ!
カサは与えられたこの罰を、甘受せねばならない。いや、甘受するだけでは飽き足らない。その身が滅んでも、魂は苦痛に満ちた旅をつづけるべきだ。未来永劫、そうやって苦しみつづけるべきだ。
「フッ!」
バキャッ!
槍先を保持する槍身の先端がついに砕けた。
革紐にからまった石の槍先が、拘束に身もだえし、無残に転げ落ちる。
ゼエゼエと肩で息をするカサ。
疲労で手から槍が落ち、乾いた音を立てた。
「気が済んだか」
ガタウが訊いた。
ずっとそこにいたのを、カサは忘れていた。
「いいえ」
首を振るカサ。
――こんなものじゃ、足りない。
膝も腕も唇も、瘧のように震えているが、カサはまだ満足しない。
――もっと、痛みを……。
だがガタウはそれを許さなかった。先の潰れた槍を拾い上げ、
「今日はここまでだ」
一方的に宣言し、去っていった。槍がなければ、何をする事もできない。
「クッ……!!」
ドスンッ。
砂袋に拳を叩きつける。
滅茶苦茶に槍を叩きつけられた革袋は、この一日で、なめした表面が粉を吹いたようにささくれ穴が開いていた。
――ラシェ……。
膝が落ち、砂袋に力なくもたれかかる。
だが名を呼べど、胸の中にラシェの姿はない。これからも、ないだろう。永遠に、ないに違いない。
いつの間にか陽は落ち、夕焼けに気づかぬまま、夜が訪れていた。
そんな事にも気づかないで、カサはただ胸の中の大きな傷口を持て余している。
周りから見れは、それはただ若者が幼い恋に破れただけだろう。
違うのだ。
傷ついた孤独な魂同士が、互いに純粋すぎるがゆえに触れ合う事を赦されぬのだ。
――ラシェ。
カサの魂が、ひたむきに一人の少女の名を叫びつづけている。
夜、ラシェと約束していた、あの岩の上にカサが座っている。
誰も来ない。
朝になっても、誰も来はしないだろう。
カサの中で、生まれて初めての恋が死に、冷たくなってゆく。
カサは一人で、それに耐えている。
ラシェにとって、毎日が身を焦がすほどの痛みに満ちたものになった。
まず、笑えなくなった。
弟に何をせがまれても、虚ろな作り笑いを返し、おざなりに相手をするだけである。
――カサ!
時折、火を飲み込んだように呼吸がつまる。
少年の顔を、声を、姿を思い出すたびに、痛みは訪れた。
それはラシェを容赦なく打ちのめし、癒す事なく地上に放りだした。
時が経つほどに、ラシェは自分が失った物の大きさを知る。
いつの間にかこんなにも、カサの事を想っていた自分を、いまだ血を流しつづける胸の奥で思い知る。
――こんなにも大切に想っていただなんて。
そのカサの胸の中を、ラシェも自分自身の臆病さゆえに、逃げ出してしまった。
いくら想えどラシェは薄汚いボロを纏ったサルコリだ。
誉れ高き戦士と添い遂げるなど、許されるはずもなかろう。
ーーだから、これでよかったのだ。
これ以外に、選択の余地はなかったのだ。
そんな事は判っている。
なのにこの胸の痛みはどうだろう。
この、狂おしいほどカサを恋しがる気持ちはどうだろう。
――私なんか、生まれて来なければよかった。
ただ呼吸をするだけの一刻一刻が、灼けた炭を押しつけられるように息苦しい。
――私のような者は、死んでしまえばいいんだ。
ラシェもまた、カサと同じ結論に達している。
だがラシェの場合それを実行できない理由がある。
幼い弟と、体の弱った母である。
もしもラシェが斃れれば、二人もまた厳しい砂漠では生きてゆけず、時を待たず死ぬであろう。
二人に対する責任感だけで、ラシェは生を選んだ。
槍で苦痛を紛らわす事で、カサもまた、惰性の生を選んだように。
「……ラシェ?」
母が、ラシェを呼ぶ。
「なに?」
返事はあるが、顔に生気がない。
「ずっと顔色が悪いよ。大丈夫なのかい?」
元気のない娘に気を揉んでいる。
母に気苦労をかけてはいけない。
ラシェは無理に笑いを形作る。
「大丈夫よ。月のものが来ただけ」
「本当かい? この前も、そう言ってたじゃないか」
「本当よ。そんな事もあるわ」
あれこれと理由をつけて、母の追究をかわす。弟が膝に絡みついて、
「つきものもの? ってなに?」
澄んだ目を向けてくる。
瞳の色の深さに、つかの間カサの面影を見る。
胸の痛みがぶり返す。
あの夜から慟哭しつづける、身の程も知らずカサを想いつづける愚かなサルコリの娘を、ラシェは胸の奥深くに押し込む。
「何でもないのよ。カリムは遊んでらっしゃい」
優しく答える姉に、だが弟は首を振る。
「つきもものがわるいの?」
ラシェの目が、戸惑いを隠せなくなる。
「つきもものをやっつければ、お姉ちゃんはげんきになるの?」
幼い真っすぐな目に浮かぶ涙。そんなに自分は心配をかけていたのかと、ラシェの胸が痛む。
「大丈夫。もう元気になった」
ラシェは笑う。さっきより、少しだけ自然な笑み。
「ほんと?」
「本当よ? カリムのおかげね」
カリムが可愛い笑いを浮かべる。
「さあ遊びに行きましょ。なにをして遊びたい?」
「いしけりっ」
ずっとそうするつもりだったのだろう。手の平から蹴りやすそうな、丸く滑らかな石を取り出す。
「そうね。石蹴りをしよう」
ラシェはふり返り、
「ちょっとカリムと遊んでくるわ。ご飯の前には戻るから、火だけお願い」
母は幾分ホッとして、
「解った。ベネスには近寄らないようにね」
子供の頃から繰り返された注意が、ラシェの心の傷に、微かに触れる。その痛みを無視して、
「うん、判ってる。お母さんも、ゆっくりしてて」
薄汚れたウォギを出ると、やや強い風が吹いていた。
カリムとラシェの衣服にツェガン、乾燥したつむじ風がからまる。子供の姿の少ない、サルコリの集落の向こうに、カサと待ち合わせたあの荒野が待ち受けている。
「お姉ちゃん! はやく! はやく!」
カリムが一人で駆けてゆく。
――あの岩にゆけば、今もカサは待っているのだろうか。
ラシェを待ちつづける、あの寂しげな後姿。
思い出すだけで、無性にその背が恋しくなる。
首を振り妄想を払い、潤いの少ない現実に目を向ける。
あの場所にはもう行くまい。
あのようにカサを傷つけておいて、また会いに行こうなんて、あまりに身勝手過ぎるし、それにもう一度カサに会ってしまえば、恋しくて二度と離れられなくなってしまうのだろう。
カリムの笑顔がこちらを向いている。
それだけが、今のラシェの救いになっている。
――カサが、今も私を待っているなんて、あるはずがないわ……。
自分は、カリムの笑顔のためだけに生きていこう、そうラシェは誓う。
――……さよなら、カサ……。
決別。
ラシェもまた、カサの存在を、人生から切り離す努力を始めた。
「お姉ちゃんお姉ちゃん!」
カリムを見つめる、優しい瞳。
睫毛が濡れて、陽光が色彩豊かに分裂する。
その中で、愛しい弟の姿が、逃げ水のように揺らぐ。
「お姉ちゃん?」
カリムが困ったような目を向けてくる。
「お姉ちゃん?」
どうしてそんな顔をするんだろう。
ラシェは笑っている。
笑っているのに
瞳にはとめどなく流れる大粒の涙が。




