表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第三章 砂漠
60/176

〈十一〉邂逅

「す、座らない?」

 カサにすすめられて、ラシェが、カサのそばに腰をおろす。

 と言っても二人の間には三人分の空間がある。カサもそうだが、ラシェは警戒を解いていない。

 サルコリだからだろう。そういう生き方が、染み付いているのだ。

 ベネスの者は怖い。

 サルコリを、人間だとは思っていない。

 誰もがラシェに、サルコリに害意を持っている人間に見える。

 だから、三人分の空間が必要なのである。いまさらカサがラシェに非道をするとは考えられないが、だからと気を許した訳でもない。

 あぐらをかく、カサ。

 膝を抱える、ラシェ。

 月が地平線に消えるまで、二人は無言でいた。

 邑を振り返ると、まだ明かりののぞく天幕がちらほら見える。新月近い月は、夜の浅いうちに沈む。星が夜空を満たし、今はもうお互いの顔すら判らぬほどの闇が砂漠に下りている。

「……あ……」

 カサが何か言おうとする。

 ビクリ。

 闇の中でラシェが身を堅くする。必死で振り絞ったカサの勇気が萎えてゆく。

 また、沈黙。

 互いに途方に呉れている。

 カサは思う、なぜあの時、呼び止めてしまったのだろう、なぜ、並んで座ろうなどと提案してしまったのだろう。

 ラシェも思う、なぜあの時、立ち止まってしまったのだろう、なぜ言われるがままに、並んで座ってしまったのだろう。

 星々が、二人を見下ろす。名もなき風が、凪いでゆく。

 時間が経つほど、カサは焦りを覚えた。

 とっさに呼び止めてしまったが、何をどうしてよいやら判らず、混乱だけが胸の内を満たす。

 だが、ラシェの方は、時間と共に落ち着きを取りもどしてきた。

 どうやらこちらに危害を与えるつもりはない読み、カサと名乗るこの少年に、安心し始めている。

「……ねえ……」

 ラシェがカサに声をかけた。

 ずっと黙っていたので、ノドがかすれ、ラシェは羞恥を覚える。

「……え? あ、あの、何?」

 カサの慌てた声に、小さく笑い、ホッとする。

――この子の方が、よほど怖がっている。

 それで、勇気が出た。ラシェから声をかけても、大丈夫だ。

「この前、見てたよね」

 暗闇でなければ、カサが真っ赤になったのが見えただろう。

「……うん……」

「あの事、誰にも言わなかったの?」

 言われてカサは驚く。

「い、言ってない」

「そう」

 滑らかで掠れがちなラシェの声に、表現できない心地良さを覚える。

 少し離れた所にあるはずの姿を想像して、カサは体が熱くなるのを感じる。

「声、声をかけようかって、思ったけど……踊り、邪魔しちゃいけ、ないかなって、思って」

 喉が渇いて、変な所で言葉が切れる。どうして自分はこうも口下手なのだろうか。

「どうして?」

「え、あ、踊り、巧いから、見ていたくて」

 踊りが巧いと言われ、ラシェの鼓動が一拍強く高鳴った。それを押しとどめ、質問を修正する。

「どうして、誰にも言わなかったの?」

 カサがラシェを見る。暗がりに浮かぶ人の形の中に、瞳がふたつ、輝いている。

 いつからかラシェは、カサをじっと見詰めていたようだ。

 カサは、頭の中を整理する。

「そんな事、話さないよ」

 先ほどまでとは違う、落ち着いた声。

 ラシェを見返すのは、深い夜を映した、綺麗な瞳。

「どうし、て?」

 ラシェの胸がひとつ高鳴る。

「言わないよ。誰かに言うなんて、考えもしなかった」

 急に目の前の少年が、大人に思え始める。

 どうしたんだろう。声音に混じる寂寞感を、ラシェは敏感に感じ取る。

「どうして言わないの? 私は、サルコリよ?」

 自分の言葉に、一瞬強く胸を刺す痛み。

 なぜだろう。自分はサルコリなのに、その事をカサに言うのが辛い。

 だが、カサは気にした様子もない声で返す。

「どうしてサルコリなら、誰かに言うの?」

「だって、サルコリは穢れてるんだよ? サルコリが祭りに出ると、よくない事が起きるんだよ?」

 思わず語気に力がこもる。カサは感心したように言う。

「そうなの? 初めて聞いた」

 ラシェは戸惑う。

 自分は、言わなくてもいい事を言ってしまったのだろうか。

「……言うの?」

「言わないよ!」

 カサが断言するので、ホッとする。いつの間にか、ラシェの警戒心は消えている。

「本当?」

「本当だよ!」

「嘘だ」

「嘘じゃないよ」

 カサもいつになく饒舌だ。

「言わないよね」

「言わないよ」

「……」

「信じられない?」

 カサが訊ねると、ラシェは

「うーん……」

 と、どっちつかずの声を上げる。

「じゃあさ」

 なぜカサがそんな提案をしたのか、後々自分で思い返しても判らなかった。きっと、最初に出会ったときの印象が強すぎたのだろう。

「じゃあ、踊ってくれない、かな」

「え?!」

 さすがに面食らったようだ。

「あの、踊り、見たいから。そしたら、誰も言わないから、約束するから」

 ラシェのうろたえを拒否と受けとり、カサはまたもしどろもどろになる。

「だ、駄目よ!」

 慌てるラシェ。さすがに恥ずかしいらしく、膝をかき抱き、身を縮めてしまう。

「だ、だって、見たいから」

 慌てて何を言っているのか、自分でも判らない。

「駄目! 駄目よ絶対!」

 ラシェも必死だ。

 人前で踊るなんて、そんな事できる訳ない。

 母に教わる以外では家族にだって、踊りを見せてはいないのに。

「どうして? あんなに巧いのに」

 カサも後には引けない。

 かなり恥ずかしい要求をしているという自覚はある。

 だからここでラシェに拒否されてしまうと、カサの恥知らずな要望が宙に浮きっぱなしになってしまう。

「踊ってよ」

「駄目!」

「どうして? 僕は見たいよ」

「駄目、駄目駄目!」

「どうして駄目なの?」

「だって、恥ずかしいもの!」

「恥ずかしくなんてないよ。ラ、ラシェの踊りは巧いよ!」

 ラシェ、という名をどさくさに呼んでしまう。

 その新鮮な興奮に、カサは一人で勝手に恥ずかしくなる。

「……本当に、見たいの?」

 名前を呼んだ事に、効果はあったようだ。ラシェからカサに対する態度が、少し軟化する。

「本当、本当だよ。ラシェの踊りは、巧いよ」

 ラシェは黙ってしまう。カサからは判らないが、闇の向こうで照れ臭さに、身をよじらせている。

「そんなに、見たいの?」

 最後の抵抗は、ラシェの誇りである。カサが見たがるから、仕方なく踊るのだ、と言う体裁を取りたいのだ。

 ここで嫌だったら、などと腰の引けた事を言ってしまえば、ラシェはまた態度を堅くしただろう。

 だがカサは、ラシェの顔を真っ直ぐに見詰め、はっきり言った。

「見たい」

 ラシェは考える。いや、考える様子をカサに見せる。後は、ラシェが納得するまで少しの間待てばいいのである。

 そして、カサは待った。

 やがてラシェが立ち上がる。

「そんなに、見たい?」

 カサを正面から見る、均整の取れた立ち姿。指先まで漲る力感に、カサの心が震える。

「う……」

 口の中がカラカラに渇いていた。それまでの滑舌はなりを潜め、下手な笛のように、声が裏返る。

「うん」

 何とかそれだけ答える。ラシェはただ立ち上がっただけだが、もう踊りは始まっていると、カサは感じている。

「じゃあ、ちょっとだけ」

 ラシェが足元を探り、地面の平坦を確かめる。

 一歩、

 二歩。

 カサから離れて、くるりと振り返る。

「いくよ」

 指先を、風に舞う衣服のようにゆるりと持ち上げ、低く、微かに、唄が始まる。

「……あ……」

 動きを止める。

「……何? どうしたの?」

「あのね、唄ってくれない?」

「え?」

「唄は、余り得意じゃないの」

「そんな事ないよ!」

 あの時聴いた唄は、囁くような小声だったが、カサの知る限り最高の唄であった。

「でも……」

「う、巧いよ! ラシェの唄は巧い!」

 名前を呼びあう事で、距離感が縮まるのを二人とも感じている。

「じゃあ、ね……」

 ラシェも、その距離を縮めようとしている。

「カ、カサも、唄ってくれない?」

 カサ、の名を呼ぶ時のその顔は、恥ずかしげに、伏せられている。

「唄うって、そんなの、駄目だよ……」

 まごついたのは、ラシェが余りにも、無防備に見えたからだ。判りやすく言うと、

――可愛い……。

 と思ってしまったのである。それはさて置き、唄である。

「どうして?」

「だって、僕は下手だし、人前で唄った事なんて、ないし」

「私だってないよ。私には唄わせて、自分が唄わないのずるい」

 膨れて、ラシェ。

「僕の唄なんて、邪魔だと思うけど……」

「でも、唄えるんでしょ?」

「うん」

「私なんて踊るのに、カサだけ何もしないなんてずるいわ!」

 ここまで言われては、カサも後に引けない。元より自分が言い出した事である。

「……解かった。何を唄えばいいの?」

「どんな唄、知ってる?」

「ええと」

 すぐには浮かばない。

「“渡り鳥”は、知ってる?」

「うん」

「じゃあ、それで」

 ラシェが笑い、カサはその笑顔にドキリとする。きらめく瞳と歯が自分だけに向けられていたのを、過剰に意識した。

 カサはあわてる。

 知っている、とは言ったものの、唄えるかどうかは自信がない。

 “渡り鳥”は難解な唄だ。ゆるく長い旋律の中に、発声が難しい所が幾つもある。

 どんな唄だったろう、唄い出しはどうであったか、いつ唄を始めればいいのか。

 カサは迷う。自然な立ち姿勢のラシェは、制止していながら、今にも踊り始めそうでもある。

 唄い始める? もう少し、待つ?

 戸惑いの中、唄は始まる。


  枝を咥えた 渡り鳥が

  ヒネ松の上で 円を描く


 唄い始めたのは、ラシェ。滑らかな高音。カサもあわててつづく。


  舞い上がり

  風を掴んで 広げた羽が

  大きくはためく


 唄に合わせて、ラシェの手が、ゆるり、ゆるりと舞い始める。


  一羽 二羽 三羽 四羽 五羽 六羽 

  そして 七羽目が


 ラシェの伸びのある声に対して、声変わりを終えたばかりのカサは、ザラザラと砂風のようにおぼつかない。


  渡り鳥が 七羽

  夕陽の地平から 朝陽へと飛んで行く


 ラシェが踊る。

 背を大きく反らせ、両手を羽のように開く。

 カサはラシェの唄を追いながら、その姿に渡り鳥を見る。


  悲しい死を迎えた 魂を

  嘴に咥えて 飛んで行く


 踊りの終焉と共に、遠く地平へ消えてゆく渡り鳥。

 そこにカサが見たのは、最初の狩りを追えた遠征の帰り、ディクスに揺られ、薄目で見た渡り鳥の群れ。

 あの、青すぎる空。

 あの、悲しいやるせなさ。

「――どうだった?」

 踊りを終えたラシェが、興奮と、いくぶんかの照れくささが混じった声で聞いてくる。

 カサは答えられなかった。

「……ねえ」

 恥ずかしくなったラシェが急かす。

 カサは何も答えられない。

「ねえ、どうだった? 私、ちゃんと踊れていた?」

 そこで気づく。カサの体が震えている。聞き取れないくらい小さく、嗚咽が漏れている。

「――泣いてるの?」

 カサが首を振る。子供が駄々をこねて親の手を拒絶するように、首を振りつづける。

「ちがっ、うん、……違う…っ……だっ……」

 ようやく搾り出した声は、言葉にならない。左の掌で顔をつかみ、背を丸めて小刻みにしゃくりあげる姿は、星明かりの下でも苦悩が窺える。

 ラシェは、うろたえた。

 なぜカサが泣いているのかが解らない。

 ラシェよりも一つ歳下とは言え、成人した男が、子供のように泣いている。

 闇夜の中、二人きりで、それも、自分の唄と踊りを見て。

――この人は、とても辛い思いをして来たのだ。

 ラシェもまた、泣く。辛い事があった時に、そして辛い事を思い出した時に。

 子供の頃は、所かまわず泣いていた。

 今は、夜具の中、誰にも悟られぬようそっと泣く。

 父を、思い。

 母を、想い。

 弟を、憂い。

 そして、自分を取りまく世界の、理不尽さを知って。

 一番よく泣くのは、父の思い出に心をはせる時だ。

 もう会えない父。

 優しく、頼りがいのあった父。

 打ち据えられ、苦しんで息を引き取った父。

 ラシェの目蓋に、涙がにじむ。

 カサの涙に、共鳴して。

 先ほど渡り鳥の羽を形づくっていた手が持ちあがり、そっとカサの頬を撫でる。

「カサに、辛い事がたくさんあったのね」

 カサが声を殺し、背を震わせている。

 その表情は読めないが、濡れた瞳が揺らいでいるのが判る。

 しなやかなラシェの指が、零れ落ちる涙を一滴、すくい上げる。

「誰かが、死んだの?」

 こらえ切れず、カサが泣き始める。

 声を上げて、泣き始める。

 慟哭。

 今まで我慢していたものが、一気に噴き出した。

 まだ何も知らぬ子供であった事、何の説明もされず戦士として母の膝の上から引きずり出された事、大人たちの間で、冷たい眼にさらされた事、獣に襲われ、親切にしてくれたブロナーやヤムナたちが目の前で殺された事、そして今なお心にこびりついている恐怖と激痛の記憶、獣に食いちぎられ、片腕を失ったまま戦士として鍛え上げられ、死の恐怖から逃れようと、日々槍をしごきつづけた事、二度目の遠征での、終の槍の事、祭りに出て、邑の中での居場所のなさに失望した事、普通に生きたいと望めば望むほど、己の存在の矮小さに悲しくなる事。

 その全てを、カサの心を圧殺しつづけていた諸々の出来事を、浮かび上がっては押し殺し、どうにもならぬ物と片づけ、頭を低くして耐えてきた。それら全ての記憶が、とめどなく胸に浮かんでは過ぎてゆく。

 泣きつづけるカサ。

 静かに見守り、頬を撫でるラシェ。

 打ち震える体の芯。

 ヒルデウールのような、感情の奔流。

 その終わりに、生まれ変わった世界のように、カサの心が晴れ渡ってゆく。

 カサは、感じる。

――心が、楽になっている。

 長い苦節の後にだけ在る安息。

 この星空の下で、カサは戦士になって以来初めて、心を拘束する重い枷が外れてゆくのを感じた。

 優しく頬を撫でる、涼やかな眼を持つ少女に見つめられながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ