〈五十一〉遺されしもの
カサの戻ったその夜に、マンテウは息を引き取った。
齢誰も知らぬほど年老いた、ベネスの大巫女。
この死は砂漠に小さくない波紋を呼ぶであろう。
だがそのすぐ後には、新たなマンテウとしてアロが控えている。
次の祭りまでにアロはその名を捨て、新たなマンテウとして邑に君臨する。
一つだけ書き加えるならば、マンテウの死に顔も、この上なく安らかであった。
次の日、コールアが邑から姿を消した。
カサの帰還にあわせて各地に散っていった商人たちについていった、という話が伝わっている。
商人は鼻の大きい小男で、茶をよく扱っていたそうだ。
「コールアを、うちの娘を知らないか……?」
前夜に邑の集会で、邑長の地位を更迭されたカバリが、涙を浮かべながらコールアの姿を探しているのを、多くの邑人が目にしている。
そのカバリも、程なく姿を消している。
がらんどうになった大天幕を覗き込み、コールアを追って邑を出たのだと皆が無責任に噂した。
カサの持ち帰った獣の頭部を見て、初めて自分たちの戦士がいかなる怪物と戦っていたのかを知り、邑人の戦士たちへの崇敬は高まった。
だがその戦士たちですら、カサの言葉通りの場所に首のない死骸を見つけると、十八トルーキ(6メートル)にも達したであろうその巨躯に、言葉をなくした。
マンテウへの報告を済ませた後、自分の天幕に運び込まれたカサは、すぐに熱を出して寝込んでしまった。
当然であろう、邑にたどり着けた事が不思議なくらい満身創痍である。
看病はもちろんラシェ、その日から付きっ切りで、カサをかいがいしく世話した。
カサの天幕には、弟のカリムを呼びつけるとき以外誰も入れないという徹底ぶり。
これにはソワクも参ったが、さっさと帰れもうカサは誰にも渡さぬと、えらく情の濃い事を言い張るラシェに、呆れて苦笑いしなぎら肩をすくめてゼラの元に退散した。
ヨッカですら面会できなかったというのだから、それは厳しい謝絶だったようで、そのせいで今や邑ではカサとラシェの仲は、火傷しそうなほどに熱い事にされてしまっている。
間違ってはいない。
看病の甲斐あって、カサは見る間に回復していった。
五日と経たずに立ち上がれるようになり、カサは天幕を、自らの手で邑はずれに移動した。
事前に邑人には知らせてはあった。
カサについてゆきたい者がいるならば、その近くに天幕を建てよ、と。
身分は問わぬ、サルコリであろうがベネスであろうが、ついてきたい者だけが、来るべしと。
三日が経ち、誰も来なかったが、カサは泰然としていた。
――別にラシェと二人きりでも、それはそれで良いや。
ラシェは家事全般ができるし、二人分くらいなら、小動物を狩りながらでも充分に生きてゆけるなどと、ご都合な事を考えている。
一方のラシェは、不満げである。
訊けばもっとカサの看病をしたかったらしく、回復の早いのが気に入らないのだとか。
カサは仕方なさそうに笑った。
この先ラシェに看病してもらう機会は、幾らでもあるだろう。
二人はその生ある限り、ずっと一緒にいるのだから。
さて、二人が結ばれたのは、カサが天幕を移したその夜である。
まだ傷が多く残り、体に不自由の多かったカサだが、ラシェが強く望むので、その晩二人はそのようになった。
そのころにはラシェは当然の顔でカサと暮らすようになり、昼も夜もずっとカサの傍にいた。
天幕を張りなおすのも手伝い、カサも自然それを受け入れた。
そして夜、二人は抱き合って眠る。
一つの寝具に包まる、カサとラシェ。
もう誰も二人を分かつ事などできないのだと、その顔は安らかだった。
二人は寄り添い、満ちたりた眠りに落ちてゆく。
二人以外の人間が、カサたちの近くに天幕を立てたのは、四日目の事である。
ついに現れた新たな邑人。
エルであった。
「エル、あのね……」
ラシェは強情だったと反省し、ずっと謝りたかったのだと伝えた。
それはエルも同じで、
「私こそごめん、ラシェ」
謝るなり、隣に天幕を建てる。
カサとラシェの間柄が気にならぬでもなかったが、エルのカサに対する想いはとっくに褪せてしまっており、今さら取り戻せないほど萎んでしまっていた。
邑に戻ったカサの、あの獣じみた姿。
あんなものはエルには手に負えない。
――それよりも、ラシェだ。
思い込んだら周りには目もくれず突進してしまう、一つ歳下のサルコリ娘から目が離せないのである。
――私がついてあげなきゃ、いつか酷い目を見てしまうわ。
勝手にそう決めつけてしまっている。
とにかくエルが近所に住み始めた事で、ラシェとカサは翌日から、隣に漏れる物音やら声やらで、えらく冷やかされる羽目になるのだが、それでもエルの参加で、今まで迷っていた邑人やサルコリたちが続々カサの下に集まっていた。
中にはエル目当ての男もいたが、ただ良い相手を見つけて欲しいと、カサもラシェも願っている。
そして新たな集落はあっという間に人口五十人を超え、カサが出発と決めた日までには、百人を超えそうな勢いで増えていった。
半分はサルコリで、半分はベネス。
その中に、何人かの若い戦士も含まれていた。
エルは率先して動き、彼らを右へ左へとてきぱきと捌いた。
物怖じしないエルの、ソワクに似た気風がここで活きた。
その手並みは鮮やかで、カサとラシェはただ呆気に取られるばかりだった。
――それにしても、二人はいつの間に、こんなに仲良くなったのだろうか。
姉妹か親友のようにコロコロと笑いあうラシェとエルを見て、カサは不思議に思う。
邑分けが落ち着けば、いずれそれも訊けるだろう。
今は何より熟さなければならない仕事がたくさんある。
新たな邑の構成を、カサは色々と考えている。
資材がたくさんある訳ではないので、あまり職種分けはしないでいよう。
男たちは、できるだけ多くを戦士として鍛錬しなければならない。
その際、ガタウがカサに槍を仕込んだあの砂袋を突く方法が、力を発揮する筈だ。
槍の鍛錬に、理にかなった訓練法。
ガタウはカサに、大きな贈り物を幾つも残してくれた。
この訓練と育成の手順がなければ、カサに戦士を育てるなど思いもよらなかったであろう。
上手くいくかどうかは定かではないが、ガタウには幾ら感謝してもし足りぬほどの恩を、カサは感じている。
大戦士長ガタウ。
思えばあの人こそ、カサの父親的存在であった。
彼との別れで、カサはようやく親離れができたのかもしれない。
独り抱えつづけていたヤムナたちへの引け目も、今ではほとんど感じなくなった。
カサを戦士としての生に縛りつけたのはガタウだが、男として一人立つ事を教えたのもやはりガタウ、それこそ父親の役割ではないか。
邑を作るとなると、カサにも覚悟が必要だ。
ブロナーは勿論、何より辛かったカイツの死に想いを馳せる。
――嫌われても良い、だがもう二度とあのような失敗はしない。
それは、人の上に立つ者の気構えでもある。
必要あらば嫌われ、恐れられる事にも積極的になろう。
ガタウのように。
人当たりの良さだけでは、人を率いてはゆけない。
さて、人々を受け入れるうちに、嬉しい事があった。
ラハムがカサたちに合流してくれたのである。
「先の短い年寄りの手など、要らぬかもしれんが」
不敵に笑い、大荷物を背負い集団に合流する。
なりゆきとはいえ戦士長の座を失い、長年連れ添った妻もしばらく前に亡くしており、身軽な身分ではあった。
――この若き戦士長の行く末を、もう少し見ていたい。
あとは死ぬだけと思っていた自分の人生だが、今ラハムにはそんな欲求が芽生えている。
「あなたが来てくれるのなら、こんなに心強い事はない。心から歓迎します」
そう言葉にして、カサはラハムを大変に遇した。
彼からはまだ学ぶべきものがたくさんある。
ガタウ亡き今、傍にいてくれてこれほど頼れる戦士もそういまい。
「新たな邑の場所は、決めているのか?」
という問いに、カサはガタウに教わったあの邑跡をあげる。
ラハムもその場所を知っていたらしく、
「うむ。この人数、あそこならば問題あるまい」
力強く賛同してくれる。
その上、
「夏営地はそこで良いとして、まずはこの冬を越えるための冬営地は決めてあるのか? 何なら心当たりがあるが」
と提案までしてくれた。
「どんな場所ですか?」
「半月ほどの距離で少し遠いが、水が出る所を知っている。水源の今の状態は判らないゆえ、先遣隊として数名を率いて俺が確認しよう」
ヒルデウールが来る前に確かめておいた方がいいとラハムは言い、カサもそれに賛成する。
ラハムのおかげで心配事が劇的に解消し、新たな邑が具体的な形を取り始める。
多くの知恵を持つラハムの存在は、カサにとってこれからも心強いものとなるだろう。
ベネスの天幕も大半が冬営地に移り、今や邑は閑散としていたが、カサたちの集落には活気が満ち溢れていた。
やがて、カサが新たな邑へと出発する日が来る。
次回、本編最終話。