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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第五章 流転
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〈五十〉大凡の始末

 カサの試練は終わっていない。

 最後の役目がある。

 それは、巫女に真実の地で起きたすべてを語る事。

 皆に導かれ、ラシェに支えられて、カサは広場に出る。

 皆がぞろぞろとカサにつづく。手を貸そうとする戦士たちを、

「誰もカサには触らないで!」

 ラシェが大声を張りあげ、自分一人でカサを連れてゆくと言いはる。

 みな苦笑しながら、仕方なしにその様子を見守る。

 広場ではすでに、巫女たちが待ち構えていた。

 真ん中に、マンテウ、その両脇に、巫女と見習いたち。

「大巫女様……!」

 驚きの声が上がる。

 マンテウが立っている。

 両手を巫女に支えられてはいるものの、自分の足でしかと立っているのである。誰もが座っているマンテウしか知らない。

 移動する時は、座板ごと運ばれていたほど高齢の老婆なのである。

 マンテウが彼らに歳経て震える手をかざす。

 カサはラシェに支えられ、その面前に立つ。

「……ガタウ、は……」

 カサが、目を閉じ首を振る。

 アア……。

 悲嘆のため息が漏れる。

 最高の戦士が一人、この砂漠から姿を消した。

 これを嘆かずにおれようか。

「戦士ガタウは巨大な獣と戦って、死にました。だけど負けた訳ではありません。戦士ガタウは、その獣を斃して死んだんです」

 ウウム……。

 うなり声。驚嘆混じりのため息だ。

 カサが、胸に牙を吊り下げた革紐を首から抜き、マンテウに渡す。

「……これは……」

「戦士ガタウの、牙です」

 マンテウが受け取り、牙の一つ一つを吟味する。

 その数全部で十。

 うち三本が、ガタウ最初の試練で手に入れたもので、残りは今回の遠征で斃した物だ。

 今度の真実の地への遠征で、ガタウは前回の倍以上の獣を狩った事になる。その中でもっとも大きな片目の牙を、マンテウが愛しそうに撫でる。

 その牙に、この老いた巫女は何を見ているのであろう。

「……あの男、は……」

 そこから言葉が不明瞭になり、

「……すべてから、解放された、のだな……」

 カサは力強くうなずき、

「はい。戦士ガタウの死に顔は、とても安らかでした」

 またため息が漏れる。

 不意にこみ上げた涙を、ソワクが顔をつかんで隠す。

 永きにわたり、ガタウを心の師と仰いで生きてきたこの若き大戦士長は、ガタウの歩んできた人生の厳しさにくり返し思いをはせ、そして心を痛めていたのである。

――戦士ガタウよ……。

 だが熱い涙は内面に押しとどめる。

 顔を覆った手を下ろすと、そこにはいつもの飄々としたソワクだ。

 涙は人に見せる物ではない。

 心で泣いても、顔は笑う。

 ガタウとは大きく違っているが、それがソワクの信ずる指導者の在り様だ。

「……そちら、を……」

 マンテウが、カサが下げているもう一本の革紐を指す。

 カサは、ラシェの助けを借りてそれをマンテウに渡す。

「おお……!」

 今や最も高齢となった戦士ラハムが、ひときわ大きな感嘆の声を上げる。

 カサの革紐には、二十近い牙がくくりつけられていたのだ。

 そのどれもが、熟練の戦士ですら見た事がないほどに大きい。

「そして、これを」

 ソワクが斑の頭部を持ってきていて、それを掲げて見せる。

 巫女たちが悲鳴を上げて身を引いたが、マンテウは身を乗り出し、ガタウの狩った一番大きな牙よりも、更に大きな牙に触れ、

「……長い、戦いであった、ようだな……」

 カサはうなずく。

 カサが試練に旅立って、もう二ヶ月。その半分近い日数を、この獣と闘いに費やした。

「この"斑"は、恐ろしく強い獣でした」

 カサが獣の頭部をまじまじと見る。

 不思議と恐怖も嫌悪感もない。

 今はただ、戦い抜いた疲労と虚脱、お互いの持てる力をぶつけ合い、魂の交流をかわした者のみが持ちえる親近感だけが、カサの掌に残っている。

「ここから、四日の場所まで、この獣は僕を追ってきたんです」

 戦士たちが息を呑む。

 カサが斃さねば、この獣が邑を襲っていたのかも知れぬのだ。

 考えただけで、生きた心地もないだろう。

「この獣の魂を、追い祓ってやってくれないか」

 ソワクがマンテウに頼む。

 獣は、死んですぐ牙をはずさないと、魂が牙にこもり、その牙は獣を斃した戦士につきまとい、やがてその身に禍をもたらす。

 だがマンテウは首を振る。

 もはや遅し、の意味である。

 ソワクが歯噛みする。

 カサはそれで良いと思っている。

 斑は、そして餓狂いはカサの内面に棲む獣性そのものなのだ。

 あの闘いの中、斑の中に己と同じ荒ぶる本能を見出したとき、カサはこの獣と離れられぬ繋がりを知った。

――あいつは今も、僕の中に生きている。生きてあの長い牙をむき、僕を内側から喰らおうとしている。

 そう感じている。

 今、カサとこの獣は表裏一体、一つの生命になったのである。

 この獣を忘れぬ限り、カサは獣という生き物の恐ろしさを、いつまでも忘れる事はない。

 カサにとって斑こそ狩り場の化身であり、己の獣性の象徴なのだ。

「……手を……」

 マンテウの求めるまま、カサは手を差し出す。

 皺だらけの手が、傷だらけの手を包み、マンテウが吟味するように目を閉じる。

「……おおお……」

 マンテウの老いし骨がわななく。

 巫女が寄りその体を支えるが、マンテウの手はカサを離そうとしない。

「……ラシェ、アロよ、こちらに、手を重ねよ……」

 二人はしばし困惑し、そしてマンテウの言葉に従う。

「……心に、歌を奏でて、みよ……」

 ラシェは竈の唄を、アロは精霊の唄を心に浮かべた。

「あ……」

 脳裏に広大なる啓示が流れ込み、広がる。

「……これこそが、砂漠、いや……」

 感激に打ち震え、

「……世界の、真実なのだ、戦士カサ……」

 老婆は涙を流している。

 三十年以上も前にマンテウは、まったく同じ誉れに預かる事ができた。

 その戦士は見返りに何も受け取らず、そしてついに砂漠に消えた。

 だが彼の遺した一粒種、同じ魂の輝きを放つこの戦士が彼の魂を救い、そしてまたこの年老いた巫女に、果てしない世界の叡智を示してくれたのである。

――おお精霊よ……。

 感謝の念に涙がとめどなく流れる。

 これでもう思い残す事は何一つ無い。自分はいつ死んでも良い。

 巫女の感動が収まった頃合いを見て、カサは、

「大巫女。僕の願いを告げてもよろしいでしょうか」

 仰天する。今のカサは、どう見ても死にかけの重傷人である。

「急がずともいいだろう、カサ。それよりも、今はゆっくり休め」

 ソワクが傷ついた身体を案じるが、

「今告げたいんだ。ここで。皆の前で」

 カサの決意は固い。

 巫女はうなずき、

「……言うが、良い……」

 カサがマンテウと並んで皆を向く。

 誰もが、大体予想をつけている。

 出てくるはずの言葉を待って、ヨッカやトカレ、エルやその他の邑人は、皆まぶしげにカサを見る。

 唯一ラシェだけが、照れくさそうに笑っている。

 そして、カサが己が望みを宣言する。


「僕は、新たな邑を作ろうと思う」


 それは、誰も予期せぬ言葉であった。

 だが、カサの中にずっと燻っていた望みでもあったのである。

――毎年のように、どこかで邑が生まれては、死んでいる。

 そして、イサテのパデスは、こうも言ったのである。

――小さな邑には、サルコリがない。

 今この邑に留まるのならば、ラシェをサルコリでなくするしか二人が結ばれる道はない。

 だがそれでは、ラシェはいつまでも鬱屈を抱えるだろう。

 ラシェは誇り高き精神の持ち主である。

 肩肘張った醜い虚栄心などではなく本物の自尊心、それを持つラシェはサルコリである事をやめようとはしないであろう。

 だから、カサは選択する。

 ラシェにとって、自分にとって最も良い未来を。

「……邑分け、か……」

 カサの望みを、マンテウが言葉にする。

 邑分け。

 知る者は少ないが、カサの望みはそのように呼ばれている。

「つまりそれは、カサが邑長になり戦士を率いるという事か」

 誰かが言う。

「つまりそれは、この邑を出て、どこかの地にゆき新たな生活を始めるという事か」

 また、誰かが言う。

「つまりそれは……」

 つまりそれは、つまりそれは、人々が新たな可能性を口々に叫び、収拾のつかない騒ぎになる。

 その端で、悲鳴を上げて倒れる男がある。邑長カバリである。

 邑分けは邑長にとって最大の汚点、カバリに邑を率いる能力のなかったという明確な証となろう。

 カバリはこの先、無能な長として永く語られる事になるであろう。

 邑分けに騒ぐ者たちは、今更カバリの動向になど注意も払っていないが。

 それらすべてを、遠巻きに見ていた女がいる。

 カバリの娘、コールアである。

――カサが、この邑を出てゆく……。

 ほっとしている。

 その心中では、すべてがどうでもよい事に成り果てている。

 カサは自分の元から去る。

 なのにそこに未練がましく留まる事は、コールアのように気位の高い女にとっては耐えがたい。

――私もこの邑を、出てゆこう。

 退屈も屈辱も哀れみも、もうたくさんだ。

 こんな汚い邑など、自ら捨ててやる。

 幸い今なら商人も多い。

 彼らに話をつけて、商隊に紛れ込もう。

 大きな商隊を率いる者がいい。

 父のように醜い生き方の人間にもうんざりだ。

 このようにみすぼらしく汚い邑などとは捨てて、もっと刺激のある世界でこそ自分は生きるべきなのだ。

 見返りならある、コールア自身だ。

 自分自身を商いの品に、これからは生きてゆこう。

 安売りはしない。カサほど優れた男以外に、抱かれてなるものか。

 自分を貶すくらいならば、死を選ぶほうがいかほどましであろう。

 コールアが群集を離れる。

 それに気づくものも、またいない。

 カサを囲む人々は、まだ熱狂している。

 カサの邑。

 それは一体、どのような邑なのであろうか。

 邑長はカサ。

 そして戦士長もカサ。

 だがその規模は? 新たな邑の場所は? 様々な声が縦横に飛び交う。

「カサ!」

 ラシェがカサの正面に回り、

「なら私が、カサの邑の最初の邑人になるわ!」

 声高らかに、宣言する。カサは優しく腕の中のラシェを見つめ。

「僕を、信じてくれる?」

 ラシェは優しくカサを見返し、大群衆の中央で、待ち焦がれた恋人の頬を両手指先で包み、


「もちろん」


 カサだけに聞こえる声で、小さく小さく囁いた。

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