〈四十九〉帰還
ラシェが今日も夕陽に祈っている。
その後ろに連なる人の数は更に増え、今や二百を超えんとしている。
彼らは、ラシェに祈っている。
砂漠にひざまづく、奇跡の娘。
いつしかそのような偶像が、ラシェに重ねられている。
ラシェは彼らを無視する。
自分の存在は、奇跡でもなければ神秘的でもない。
ただ愛する男を待つだけの、どこにでもいるつまらない娘だ。
夕陽に祈る。
ただひたすら。
大巫女、マンテウに言っていない事がある。
あの祭りの頂点で、ラシェはもう一つ、啓示を受けていた。
それは、目蓋の裏にまでに焼きつくような、鮮明さだった。
夕陽を背に、太陽から歩いてきたようにカサが帰ってくるという、ラシェのもっとも待ち望む光景。
口にすれば遠ざかりそうで、誰にも言えなかった。
もしかしてアロも見たかもしれないが、マンテウには語らなかった。
――カサは、必ず帰ってくる。
ラシェがそう強く信じつづける事ができたのは、啓示がずっと心に残っていたからだ。
そして今日も、ラシェは祈る。
夕陽に向かって。
邑は、いつしか夏を終えていた。
本来ならばもう冬営地への移動を始めなくてはいけないのだが、ほとんどの邑人がまだ夏営地を離れようとはしなかった。
ここで、カサの帰りを待つために。
――早く冬営地に移らねば、ヒルデウールが来てしまうぞ。
焦れて急かす者も多かったが、それでも邑人も商人も夏営地に留まりつづけている。
彼らはカサの生還を信じているのか。
もしもそのように問われたならば、否、と答えるだろう。
現実ほとんどの邑人が、カサとガタウの生存を、絶望視していた。
それでも、彼らがここで待ちつづけたのは、ラシェの存在があったからだ。
奇跡の娘。
だが、祭りを二月、冬営地への移動を始めるはずの日から一月も過ぎ、そろそろ邑人の我慢も、限界に達している。
――幾ら信じても、結局は死んでしまったのだ。
消極的な諦観が、邑人たちの間ににじわじわと浸透している。
幾ら待てど邑に戦士が帰らぬ事が、悲観を日ごと裏付けている。
今日もまた夕空の下には、空虚な地平線が広がる。
夕陽と大地、ラシェが祈る先には、ただそれだけしかない。
風が吹く。
その時ラシェが立ち上がる。
驚きの顔。
だがその視線の先を幾ら探せど、誰も何も見つけられない。
後ろで祈っていた一同の困惑をよそに、ラシェの口から一人の戦士の名がこぼれる。
「……………カサ……………」
何名かがその名を聞き取れたが、地平線にはやはり何も見つけられない。
皆が不思議そうに顔を見合わせる。
「カサ……」
ラシェが、よろめくように前に足を運び、
「……カサ!」
そして、走り出す。
「カサ!」
サルコリの娘、奇跡の子の背が遠ざかってゆく。
だが幾ら見わたせど、誰も何も見つけられない。
見ていた人間の中でも皮肉っぽい者などは、あのサルコリ娘は、恋人の姿を待ちすぎて、おかしくなったんじゃないのか、そんな耳打ちをしている。
だが群衆もやがてラシェに引きずられるように、その後を追う。
見つけた。
ラシェは確かに、見つけたのである。
あの太陽の中に、遠い夕陽の中に、カサがいる。
ラシェは眼が良い。
カサと待ち合わせをしていても、いつも先に相手を見つけるのはラシェであった。
そのラシェの眼にだけ、カサの姿は映ったのだ。
カサを見つける事なら、この砂漠にラシェよりも得意な者はいない。
それだけラシェがカサを強く求めているからだ。
「…………カサ!」
息が切れ、手足が重くなってもまだラシェは走る。
「……カサ……カサ!」
走るラシェの後ろに、何百という人々がつづく。
その足音が、大きな騒音となって夕陽の大地に響く。
「カサ―――――――!」
その時、邑人たちの眼にも、その姿が飛び込んでくる。
無数の死肉鷲をひき連れた、何か重い物をぶら下げた、片腕の男。
左腕。
――カサだ!
足の速い何人かがラシェを追い抜いてゆく。一時も早く、この砂漠に現れた新たな英雄にまみえる為に。
彼らはラシェを次々に追い越し、後方に置き去りにする。
カサの帰還は、カサの姿が確認されぬうちから邑を駆け巡っていた。
モークオーフ、戦士階級は言うまでもなく、ザンゼ、グラガウノ、ソワニ、カラギ、デーレイ、そして邑に逗留する商隊、ありとあらゆる人間が、カサの姿を求めて殺到する。
サルコリにまでその報は届き、総勢千名を超える人間が一気に集う。
彼らの勢いに、群れていた死肉鷲がパッと四散する。
そして、誰もが凍りつく。
両足を引きずり、歩いてきたのは紛れもなくカサ。
気弱げに笑う、子供に懐かれた優しい戦士。
日々修練を怠る事なく、誰もがその努力に敬意を払わずにはいられない真面目な男。
だが、そこにいたカサはまるで別人だった。
満身創痍。
全身のありとあらゆる場所に、ありとあらゆる種類の傷を作り、ズタズタに破れたトジュのみをまとって、額にその切れ端を巻いている。
風を孕んだあの銀の髪は色素を失い、砂まみれで乱れ、白く変色してしまっている。
首には、無数の巨大な牙が吊り下げられている。
そして嗤いながら世界のすべてを脅迫する、青い瞳。
それは明らかにカサだった。
そいつはどう見ても、皆の知るカサではなかった。
ハアハアと息を漏らしながら、周りに血と肉片がこびりついた口で嗤い、黒ずんだ孔の様な眼で強い殺意をみなぎらせている。
近づけば、喰らい殺す。
何も言わぬ眼が、周囲にそう告げている。
誰も、それ以上カサに近づけない。
「カサ……なのか……!」
走る男たちをすっ飛ばし、一番にその元に駆け寄ったソワクでさえ近づけなかった。
不用意に寄らば、ソワクであっても殺されていたであろう。
この名だたるベネスの、新たな大戦士長となったソワクでさえ近づけないのだから、他の者たちは、もっと近づけない。
だが彼らがもっとも恐れているのは、カサが左手に下げた、その物体であろう。
カサが手に握るのは、獣の牙、
誰も見た事のないほど長い、獣の牙。
そう、長きに渡る死闘を繰り広げた、斑の牙である。
だが、その牙に、まだ何かがぶら下がっている。
大きな、
それはとても大きな、
苦しげに眼を剥いた、
獣の頭部。
半ばで折れた槍が、左の眼窩から後頭部までを貫き、脳の中枢を完全に破壊している。
それを見た女が息を呑み、悲鳴も上げず卒倒する。
世にも恐ろしげな獣の面相。首から下は歪に、まるで食い千切られたように途切れている。
ぶえ。
カサが口から何かをこぼす。
それは毛と絡まり合った、皮と肉。
「喰った……のか、この獣を」
断面が粗いのは、カサがその干からびた首の肉を食らい、血をすすって腹を満たしたからだ。
食い千切られたような断面、ではない。
食った痕、なのである。
凄絶であった。
カサが生きてここにたどりつくには、ここまで人間性を捨てねばならなかったのだ。
その胡乱な目が、邑人たちを一瞥する。
ーーうまそうだなあ。柔らかくて、温かくて、瑞々しくて、ああ、今すぐ噛みちぎりたいなあ。
邑人たちに食欲をむけ、唾液を垂らす。
その心にはもはや理性の光は片鱗すらない。
ただ渇きを癒すだけの、獰猛な本能だけがカサを突き動かしている。
ヨッカは、変わり果てたカサの姿に慄然とする。
――これが本当に、あのカサなのか……?
巨大な獣の頭部を左手に、足を引きずり、新鮮な肉が沢山並んでる光景に嗤いを浮かべ、涎を垂らしながら落ち窪んだ目で、誰から喰らおうかと邑人たちを一人一人検分している。
ヨッカの体が震える。
恐怖。
ヨッカばかりではない、今ここについたエルも、それ以外の皆も、このカサを前にしてすくみ上がっている。誰も動けないのは、動けば食い殺されるから。普通の邑人だけではない、戦士階級の者たちですらこのカサを前にして、指一本動かせない。大戦士長のソワクまでもが、眼前の獣の気配に呑まれてしまっている。
誰もカサに近寄らないのではない。
誰もカサに近寄れないのだ。
いや、今一人後れてきた少女が、人ごみをかき分け、カサの前に進み出る。
「カサ……」
この荒んだカサの姿を前にして、その顔は、喜びに満ち溢れている。
「カサ……!」
少女がカサに近寄る。その歩みは迷いなく、あまりに無防備で、誰もそれを止める事ができない。いや、止めるという行動すらカサの放つ殺気に圧し潰される。
カサが、肉食獣の目でラシェを見る。
――喰らい殺されるぞ!
制止の声すらあげられない。誰もがラシェの死を、目の前の惨劇を覚悟する。
遠巻きに見ていたエルが、脳裏のおぞましい光景に涙し、悲鳴を上げそうになる。
「……や、め……」
――やめて! やめて! ラシェ!
全身をゾッと恐怖が駆けぬける。
ラシェは躊躇うことなく両手でカサの顔を優しく包み、
「――お帰りなさい」
にっこり微笑みかける。
誰も直後の惨景を疑わなかった。
だが、カサの顔に、微かな表情が生まれる。
「アッーー……アッ………、ラァ……」
ラシェのまとう花の香りに、その瞳が確かな焦点を結ぶ。
「ラ、アッ……シェ……」
ずっと叫んでいたのであろう、カサの声は渇きに割れ、まるで獣である。だが、言葉を取り戻したカサの目に、理性の光が宿る。
「ラ、シェ……!」
カサの手から獣の頭が滑り落ち、重い音とともに土煙をたてる。
獣性の消えた顔に、優しい笑みが浮かび、ラシェと視線を交わす。
「……ラシェ……!」
カサが腕を持ち上げラシェを抱くよりも早く、ラシェがカサの首にかじりつく。
「カサ……!」
不遇の恋人同士が、数々の苦難を乗り越え、今みなに認められて抱き合う。
二人ともこの日をどれだけ待ちわびた事か。
ラシェの花の匂いを胸いっぱいに吸い、カサは今生きている幸せを、心の底からかみ締める。
ラシェもまた、恋人のの胸の中で、カサの存在を強く確かめる。
カサからは強い獣臭がしたが、そんな事はまったく気にならない。
愛おしい人が生きて己の腕の中にいる、これ以上何を望む事があろうか。
感極まる二人に、周囲もようやく緊張を解く。
「カサが帰ったぞ!」
「戦士の帰還だ!」
「砂漠に、新たな英雄が生まれたのだ!」
口々に声を上げ、誰もがカサをラシェから奪い取ろうとするが、ラシェはもうカサを誰の手にも渡そうとしない。
カサの体は、これよりその命果つるまで、ラシェただ一人のものなのだ。
それを見てみなが笑い、カサも笑う。
歓声が、カサを包んでいる。
先ほどの沈黙を砂漠の彼方へと吹き飛ばさんとする、大歓声が。
カサを囲む邑人が叫び、それを取り囲む商隊の者たちが祝福の声を上げる。
こだまする歓声は、やがて波紋となりて砂漠の端々に届くであろう。
それを届けるのも、エラゴステスら商人の大きな役目の一つなのである。