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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第五章 流転
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〈四十九〉帰還

 ラシェが今日も夕陽に祈っている。

 その後ろに連なる人の数は更に増え、今や二百を超えんとしている。

 彼らは、ラシェに祈っている。

 砂漠にひざまづく、奇跡の娘。

 いつしかそのような偶像が、ラシェに重ねられている。

 ラシェは彼らを無視する。

 自分の存在は、奇跡でもなければ神秘的でもない。

 ただ愛する男を待つだけの、どこにでもいるつまらない娘だ。

 夕陽に祈る。

 ただひたすら。

 大巫女、マンテウに言っていない事がある。

 あの祭りの頂点で、ラシェはもう一つ、啓示を受けていた。

 それは、目蓋の裏にまでに焼きつくような、鮮明さだった。

 夕陽を背に、太陽から歩いてきたようにカサが帰ってくるという、ラシェのもっとも待ち望む光景。

 口にすれば遠ざかりそうで、誰にも言えなかった。

 もしかしてアロも見たかもしれないが、マンテウには語らなかった。

――カサは、必ず帰ってくる。

 ラシェがそう強く信じつづける事ができたのは、啓示がずっと心に残っていたからだ。

 そして今日も、ラシェは祈る。

 夕陽に向かって。

 邑は、いつしか夏を終えていた。

 本来ならばもう冬営地への移動を始めなくてはいけないのだが、ほとんどの邑人がまだ夏営地を離れようとはしなかった。

 ここで、カサの帰りを待つために。

――早く冬営地に移らねば、ヒルデウールが来てしまうぞ。

 焦れて急かす者も多かったが、それでも邑人も商人も夏営地に留まりつづけている。

 彼らはカサの生還を信じているのか。

 もしもそのように問われたならば、否、と答えるだろう。

 現実ほとんどの邑人が、カサとガタウの生存を、絶望視していた。

 それでも、彼らがここで待ちつづけたのは、ラシェの存在があったからだ。

 奇跡の娘。

 だが、祭りを二月、冬営地への移動を始めるはずの日から一月も過ぎ、そろそろ邑人の我慢も、限界に達している。

――幾ら信じても、結局は死んでしまったのだ。

 消極的な諦観が、邑人たちの間ににじわじわと浸透している。

 幾ら待てど邑に戦士が帰らぬ事が、悲観を日ごと裏付けている。

 今日もまた夕空の下には、空虚な地平線が広がる。

 夕陽と大地、ラシェが祈る先には、ただそれだけしかない。

 風が吹く。

 その時ラシェが立ち上がる。

 驚きの顔。

 だがその視線の先を幾ら探せど、誰も何も見つけられない。

 後ろで祈っていた一同の困惑をよそに、ラシェの口から一人の戦士の名がこぼれる。


 「……………カサ……………」


 何名かがその名を聞き取れたが、地平線にはやはり何も見つけられない。

 皆が不思議そうに顔を見合わせる。

「カサ……」

 ラシェが、よろめくように前に足を運び、

「……カサ!」

 そして、走り出す。

「カサ!」

 サルコリの娘、奇跡の子の背が遠ざかってゆく。

 だが幾ら見わたせど、誰も何も見つけられない。

 見ていた人間の中でも皮肉っぽい者などは、あのサルコリ娘は、恋人の姿を待ちすぎて、おかしくなったんじゃないのか、そんな耳打ちをしている。

 だが群衆もやがてラシェに引きずられるように、その後を追う。

 見つけた。

 ラシェは確かに、見つけたのである。

 あの太陽の中に、遠い夕陽の中に、カサがいる。

 ラシェは眼が良い。

 カサと待ち合わせをしていても、いつも先に相手を見つけるのはラシェであった。

 そのラシェの眼にだけ、カサの姿は映ったのだ。

 カサを見つける事なら、この砂漠にラシェよりも得意な者はいない。

 それだけラシェがカサを強く求めているからだ。

「…………カサ!」

 息が切れ、手足が重くなってもまだラシェは走る。

「……カサ……カサ!」

 走るラシェの後ろに、何百という人々がつづく。

 その足音が、大きな騒音となって夕陽の大地に響く。

「カサ―――――――!」

 その時、邑人たちの眼にも、その姿が飛び込んでくる。

 無数の死肉鷲をひき連れた、何か重い物をぶら下げた、片腕の男。

 左腕。

――カサだ!

 足の速い何人かがラシェを追い抜いてゆく。一時も早く、この砂漠に現れた新たな英雄にまみえる為に。

 彼らはラシェを次々に追い越し、後方に置き去りにする。

 カサの帰還は、カサの姿が確認されぬうちから邑を駆け巡っていた。

 モークオーフ、戦士階級は言うまでもなく、ザンゼ、グラガウノ、ソワニ、カラギ、デーレイ、そして邑に逗留する商隊、ありとあらゆる人間が、カサの姿を求めて殺到する。

 サルコリにまでその報は届き、総勢千名を超える人間が一気に集う。

 彼らの勢いに、群れていた死肉鷲がパッと四散する。

 そして、誰もが凍りつく。

 両足を引きずり、歩いてきたのは紛れもなくカサ。

 気弱げに笑う、子供に懐かれた優しい戦士。

 日々修練を怠る事なく、誰もがその努力に敬意を払わずにはいられない真面目な男。

 だが、そこにいたカサはまるで別人だった。

 満身創痍。

 全身のありとあらゆる場所に、ありとあらゆる種類の傷を作り、ズタズタに破れたトジュのみをまとって、額にその切れ端を巻いている。

 風を孕んだあの銀の髪は色素を失い、砂まみれで乱れ、白く変色してしまっている。

 首には、無数の巨大な牙が吊り下げられている。

 そして嗤いながら世界のすべてを脅迫する、青い瞳。

 それは明らかにカサだった。

 そいつはどう見ても、皆の知るカサではなかった。

 ハアハアと息を漏らしながら、周りに血と肉片がこびりついた口で嗤い、黒ずんだ孔の様な眼で強い殺意をみなぎらせている。

 近づけば、喰らい殺す。

 何も言わぬ眼が、周囲にそう告げている。

 誰も、それ以上カサに近づけない。

「カサ……なのか……!」

 走る男たちをすっ飛ばし、一番にその元に駆け寄ったソワクでさえ近づけなかった。

 不用意に寄らば、ソワクであっても殺されていたであろう。

 この名だたるベネスの、新たな大戦士長となったソワクでさえ近づけないのだから、他の者たちは、もっと近づけない。

 だが彼らがもっとも恐れているのは、カサが左手に下げた、その物体であろう。

カサが手に握るのは、獣の牙、

 誰も見た事のないほど長い、獣の牙。

 そう、長きに渡る死闘を繰り広げた、斑の牙である。

 だが、その牙に、まだ何かがぶら下がっている。


 大きな、


 それはとても大きな、


 苦しげに眼を剥いた、


 獣の頭部。


 半ばで折れた槍が、左の眼窩から後頭部までを貫き、脳の中枢を完全に破壊している。

 それを見た女が息を呑み、悲鳴も上げず卒倒する。

 世にも恐ろしげな獣の面相。首から下は歪に、まるで食い千切られたように途切れている。

 ぶえ。

 カサが口から何かをこぼす。

 それは毛と絡まり合った、皮と肉。

「喰った……のか、この獣を」

 断面が粗いのは、カサがその干からびた首の肉を食らい、血をすすって腹を満たしたからだ。

 食い千切られたような断面、ではない。

 食った痕、なのである。

 凄絶であった。

 カサが生きてここにたどりつくには、ここまで人間性を捨てねばならなかったのだ。

 その胡乱な目が、邑人たちを一瞥する。

ーーうまそうだなあ。柔らかくて、温かくて、瑞々しくて、ああ、今すぐ噛みちぎりたいなあ。

 邑人たちに食欲をむけ、唾液を垂らす。

 その心にはもはや理性の光は片鱗すらない。

 ただ渇きを癒すだけの、獰猛な本能だけがカサを突き動かしている。

 ヨッカは、変わり果てたカサの姿に慄然とする。

――これが本当に、あのカサなのか……?

 巨大な獣の頭部を左手に、足を引きずり、新鮮な肉が沢山並んでる光景に嗤いを浮かべ、涎を垂らしながら落ち窪んだ目で、誰から喰らおうかと邑人たちを一人一人検分している。

 ヨッカの体が震える。

 恐怖。

 ヨッカばかりではない、今ここについたエルも、それ以外の皆も、このカサを前にしてすくみ上がっている。誰も動けないのは、動けば食い殺されるから。普通の邑人だけではない、戦士階級の者たちですらこのカサを前にして、指一本動かせない。大戦士長のソワクまでもが、眼前の獣の気配に呑まれてしまっている。

 誰もカサに近寄らないのではない。

 誰もカサに近寄れないのだ。

 いや、今一人後れてきた少女が、人ごみをかき分け、カサの前に進み出る。

「カサ……」

 この荒んだカサの姿を前にして、その顔は、喜びに満ち溢れている。

「カサ……!」

 少女がカサに近寄る。その歩みは迷いなく、あまりに無防備で、誰もそれを止める事ができない。いや、止めるという行動すらカサの放つ殺気に圧し潰される。

 カサが、肉食獣の目でラシェを見る。

――喰らい殺されるぞ!

 制止の声すらあげられない。誰もがラシェの死を、目の前の惨劇を覚悟する。

 遠巻きに見ていたエルが、脳裏のおぞましい光景に涙し、悲鳴を上げそうになる。

「……や、め……」

――やめて! やめて! ラシェ!

 全身をゾッと恐怖が駆けぬける。

 ラシェは躊躇うことなく両手でカサの顔を優しく包み、

「――お帰りなさい」

にっこり微笑みかける。

 誰も直後の惨景を疑わなかった。

 だが、カサの顔に、微かな表情が生まれる。

「アッーー……アッ………、ラァ……」

 ラシェのまとう花の香りに、その瞳が確かな焦点を結ぶ。

「ラ、アッ……シェ……」

 ずっと叫んでいたのであろう、カサの声は渇きに割れ、まるで獣である。だが、言葉を取り戻したカサの目に、理性の光が宿る。

「ラ、シェ……!」

 カサの手から獣の頭が滑り落ち、重い音とともに土煙をたてる。

 獣性の消えた顔に、優しい笑みが浮かび、ラシェと視線を交わす。

「……ラシェ……!」

 カサが腕を持ち上げラシェを抱くよりも早く、ラシェがカサの首にかじりつく。

「カサ……!」

 不遇の恋人同士が、数々の苦難を乗り越え、今みなに認められて抱き合う。

 二人ともこの日をどれだけ待ちわびた事か。

 ラシェの花の匂いを胸いっぱいに吸い、カサは今生きている幸せを、心の底からかみ締める。

 ラシェもまた、恋人のの胸の中で、カサの存在を強く確かめる。

 カサからは強い獣臭がしたが、そんな事はまったく気にならない。

 愛おしい人が生きて己の腕の中にいる、これ以上何を望む事があろうか。

 感極まる二人に、周囲もようやく緊張を解く。

「カサが帰ったぞ!」

「戦士の帰還だ!」

「砂漠に、新たな英雄が生まれたのだ!」

 口々に声を上げ、誰もがカサをラシェから奪い取ろうとするが、ラシェはもうカサを誰の手にも渡そうとしない。

 カサの体は、これよりその命果つるまで、ラシェただ一人のものなのだ。

 それを見てみなが笑い、カサも笑う。

 歓声が、カサを包んでいる。

 先ほどの沈黙を砂漠の彼方へと吹き飛ばさんとする、大歓声が。

 カサを囲む邑人が叫び、それを取り囲む商隊の者たちが祝福の声を上げる。

 こだまする歓声は、やがて波紋となりて砂漠の端々に届くであろう。

 それを届けるのも、エラゴステスら商人の大きな役目の一つなのである。

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