〈四十七〉獣
五日目の夜に、邑跡にたどりついた。
気が急いているせいであろう、カサの歩みは速く、予定よりも半日早く目的地に到着できた。
荷を降ろし、井戸に取り付き大急ぎで喉を潤して、空の革袋に水を貯める。
ヨッカが持たせてくれた酒の袋にも水を入れ、火を熾して食事を取り、そのまま横になる。
夜空。
星に満ちた闇の中央で、月が欠けつつある。
――邑を出て、どれほどの時間が経ったのだろう。
狩り場の最奥、真実の地。
そこで過ごした時間はあまりに濃密で、その期間が一月にも満たぬという事が、いまだカサには信じられない。
ガタウと共に戦い、そしてガタウが斃れ、思い出すだに背筋が凍る経験を幾つも積んだ。
あの獣、斑との長い戦いはその最たるものだ。
カサは目蓋を閉じる。
星月の微かな光線はさえぎられ、カサは安らかな眠りに落ちてゆく。
――……。
誰かが、カサを呼んでいる。
槍を振りあげ、カサに何かを伝えようとしている。
その声が小さすぎて、聞き取れない。
カサはもどかしくなり、そちらに近づいて耳をそばだてる。
まだ何も聞こえない。
カサはもっとその声の傍に近づき、
「カサ!」
名前を呼ばれて、跳ね起きる。
そしてカサは、恐ろしいものを目にした。
星空をさえぎり、カサを押しつぶそうと、巨躯をもたげてくる、獣。
月を頭に冠し、ギラつく大きな眼がカサを見下ろしている。
全身傷だらけで、折れた槍が、腰に刺さったままになっている。
荒い息が漏れる口元では、怒りと食欲に、粘りの強い唾液が糸を引いている。
そして、眼。
炯々と輝く瞳が、恐ろしいほどの熱を伴ってカサを焼く。
斑だ。
カサを追ってきたのだ。
真実の地を出て、狩り場を越え、ここまでカサを追ってきたのだ。
怒りに猛り、食欲に狂った、立てば十八トルーキ(約六メートル)を超える獣が、カサを引き裂き、その血肉を食らうべく、動かぬ後ろ肢を引きずり、狩り場から遥か離れたこの地まで、気の遠くなるような追跡をつづけてきたのである。
カサは恐怖する。
――こいつは、狂っている。
眼が狂っている。
その牙も、爪も、全身に狂気が充満している。
狂った獣がカサにのしかかり、その牙をむき出しにし、噛み砕かんと迫る。
恐怖にまみれた一瞬の対応としては、カサの判断は的確であった。
後ろに下がらず、獣の脇の下を転がり抜けたのである。
そして、一気に走り出す。
食料も水も、何も持たず。
首にかけた革紐と牙が重い。
手には折れた槍があるが、槍先のないこんな物では奴に傷一つつけることも難しい。
戦えば、勝ち目どころかカサには抵抗する手段すらないのである。
眼に刺すような痛み、視界が赤く染まる。
かわした際に爪がかすめたのであろう、カサの額が割られている。
皮膚は鋭く深く裂け、微かに骨が露出している。
――……眼が……!
頭部の出血は、量が多くなる。
血はとめどなく流れ出し、目に入る。
手で押さえるが、そんなもので出血は止まらない。
カサは闇夜を必死で走る。
「ゴワアッアアアアアアアアアアアアアッアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッアアアアアアアッアアアアッアアアアアアッアッアアッ!!!!」
怒り狂った獣が、生じた身内の憎悪を搾り出すがごとく咆哮する。
――逃げられまいぞ!
奴が、脅迫してくる。
――どこまで逃げようと、必ず貴様を追い詰めてやる。貴様に安穏な夜などもはやないと思え!
そうカサに告げている。
こびりついた叫び振り払うように、心を喰らい始めた恐怖におびえ、カサはただ走る。
二昼夜走った。
いや、もはや走ったなどとは言えまい。
無我に手足を引きずり、ただ必死に邑を目指しただけだ。
奴の姿はとうに見えなくなっているが、追ってきているのは間違いない。
額に細く裂いた布を巻いて出血を止めたが、それでも血を多く失い、カサは酷く消耗している。
――殺される……!
涙が止まらない。
恐ろしかった。
狩り場を越えてまでカサに追いすがる、斑の執念が、恐ろしくてたまらなかった。
――僕は、殺されてしまう!
怯えはもはや、体の一部のようにカサに貼りついて離れない。
恐怖に追い立てられ、ひたすら逃げる。
逃げればどうなるというものでもないが、逃げるしかない。
そしてついに精も根も尽き果て、カサが倒れる。
カラカラに渇いた喉から力ない咳がこぼれる。
胸元から、青い木片が転がり落ちる。
髪の綺麗な女が浮き彫りにされた、青の木片。
カサはラシェを夢想する。暖かく、柔らかいラシェ。
花の香りのする少女。
ビュウッ!
ツェラン、湿気を含んだ重い風が吹き、カサはとっさに身を縮める。
風鳴りを獣の遠吠えと勘違いしたのである。
カサは懸命に立ち上がろうとし、また倒れる。
折れた槍が手から離れて、転がる。
咳。
――もう、駄目だ……。
純然たる絶望がカサの心を侵す。
自分はもうここで死ぬ。
生まれ育ったあの邑まであとたったの四日か五日の行程だというのに、そこにたどり着けば幸せが待っているというのに、カサはここで死んでしまうのだ。
無残な現実だった。
あと少しという所で、手の平からこぼれ落ちた幸せ。
疲労困憊の中、木片を指先でもてあそび、カサは何もかもあきらめる。
――ごめん、ラシェ……。
すべてを放りだし、心折れ、絶望に身を任せたやるせない安堵感。
あと少し、あと少しだというのに。
あと、少しだというのに……。
何かが、カサの内部で警戒の声を上げている。
重要な何かが、カサの思考から抜け落ちている。
――あと少し……。
判然としなかった念慮が、そこで急激に形を取った。
――あと少しで、奴が邑にたどり着いてしまう……!
邑は、もうほんの鼻先。
――僕は、それを案内してしまったのだ。
なんという失態。
このままカサが死んでも、それで終わりではなかった。
斑は賢い。
獣とは思えないほど知恵が回る。
カサの逃げる先が、カサたちの集落である事に気づかない訳がない。
カサは自分の愚かさに、腹が立つ。
奴が邑にたどり着けば、惨劇が始まるであろう。
ヨッカ、ソワク、
――そして……ラシェ!
彼らに死の危険が迫っている。その原因を作ったのはカサ自身だ。
グ。
カサが槍を握る。
折れた槍だが、かまうものか。
ガタウは、折れた槍で“片目”に止めを刺した。
カサはガタウではない。
あの獣に勝つなど、相打ち覚悟ですらできるとも思わない。
――だが、やらねばならぬ。
カサは、覚悟を決める。
生きるのはやめた。
ここで命を捨ててやる。
――だが、斑。貴様も無事では済まさない。
五体満足で邑にたどり着かせてなるものか。
この命をくれてやっても奴を止められぬのなら、腕の一本、爪の一つでも殺いでやる。
少しでも多くの手傷を奴に負わせ、苦しめてやる。
カサの眼がギラリと輝く。
革紐にくくった中から牙を一本抜き、短い槍を作る。
力を抜き、槍を左手にぶら下げる。
死を覚悟した、
いや
死を決意したその顔は凄絶な力を帯び、見る者がいればガタウと見まごうであろう。
カサの瞳にガタウと同じ闇が宿っている。
――奴を、斃す。
カサの意識が急速に変容してゆく。
斑を迎え撃つために、己の奥深くに眠る獣性をひとつずつ開放させてゆく。
幸せも悲しみも、人間的な記憶全てを、鬱屈した怒りで塗りつぶしてゆく。
ヨッカや、セテとの暖かな幼少期。
ガタウやソワクとの、戦士階級における、厳しくも心地よい一体感。
そして、ラシェとの、密やかでくすぐるような甘い時間。
己自身を人間に縛りつける最後のつながり。
それらすべてを根源的な破壊衝動のすり鉢に放り込み、噛み砕き、黒々とした闇の内腑に飲みくだす。
――僕はここで死ぬだろう。
己のすべてを賭してカサが死に場所を決める。
――あいつは大喜びで僕を喰らうだろう。
奴の気配が迫る。
己の骸を涎まみれにして喰い千切る様が、脳裏に克明に浮かぶ。
――そんなことを許すのか? あの腹立たしい獣が、まるで弱い獲物を喰らうように僕を喰らう、それを許すのか? やつが僕の腕を、足を、腸を楽しんで喰らい、僕の血を啜る、そんなことが許せるのか?
暁光が、東の空を照らす。
――ふざけるな。喰われるぐらいなら喰ってやる……。
カサの意識が、急速に獣じみた衝動に呑まれてゆく。
――ああ、大きくてうまそうな肉だなあ。
その巨体の輪郭が、朝陽の中に浮かび上がる。
――あいつを殺して喰らうの、愉しみだなあ。
口の中に涎が湧く。
カサがジュルルと唾液を引き、歯を剥いて嗤う。
朝陽が昇る。
光が赤い大地を水平に舐め、すべての輪郭を浮かび上がらせている。
カサは独り立っている。
欲望を剥き出しに嗤っている。
その表情は読み取りづらいが、もはや人間の心を宿してはいない。
砂丘の尾根から、後ろ肢を引きずって黒き獣が姿を現す。
真っ黒で大きな塊が地平の向うから迫る。
斑だ
そして、一人と一頭は向かい合い、
同時に――吼えた。
二頭の獣の絶叫が、朝の空気を焦がす。