〈四十五〉風説と真
今度の冒険の発端となった、カサという戦士の恋人を見て、最初は皆が落胆する。
多くのベネスの者は、カサが何より惹かれる涼しげな目より、まず裂け目だらけの服を見る。
そんな風に遠目に見るならば、その少女、ラシェはみすぼらしいサルコリ女でしかない。
――所詮、被差別階級の娘ではないか。
誰もが内心そう思う。
だがひとたび少女が祈りを始めると、そんな中傷は消える。
無論、口さがない者が全くいなくなる訳ではないが、ひとまずは口をつぐむ。
ラシェの持つ神秘的な雰囲気に何かを見出す者は、日を追うごとに増えつづけている。
サルコリたちも、自分たちの中から出た寵児として、ラシェをあがめるように見る者たちが出てきている。
あれだけ疎んで避けていたくせに、いつの間にかラシェは彼らサルコリにとって希望の存在となっていた。
同じサルコリにありながら、他の部族の者たちをも魅了してしまう女。
邑を訪れる商人たちの中にも、わざわざラシェを見に来る者がいる。
サルコリらがそのような行動に至ったのは、大巫女が語ったとされるべネスの来歴を耳にしたからである。
サルコリは罪人やその血縁の子孫だが、ベネスもまた罪人の末裔だという。
この話が真実だとすれば、サルコリが虐げられるもっとも大きな理由は、消滅してしまうのである。
サルコリの多くがこの噂にしがみつき、ベネスの多くがそれを苦々しく思う。
――この話は、かのマンテウが語られたそうだ。
そしてマンテウからその話を引き出したカサもまた、被差別から解放へと向かう旗手として、希望とともにサルコリの間でラシェと等格の存在として崇められ始めた。
二人はサルコリに解放をもたらす存在として、徐々に神格化が進んでいる。
――サルコリの解放だなんて、そんなの私たちとは関係ないのに。
視線に晒されたラシェは、集める視線の変質に戸惑っている。
いつもどおりに挨拶をし、いつも通りに生活をする。
いまだにひどい言葉を浴びせかける者も居るが、ラシェは気丈にふるまっている。
エルは焦れていた。
カサが帰ってこない。
通常、真実の地に向かう試練は、早くて一月あれば終わるとされているのに、一月半を越えても、カサは帰ってこない。
――もうガタウとカサは、死んでしまったのではないか……?
これもまた噂である。
あのガタウが同行してすらこれだけ帰還が遅れているのだ。
楽観は日ごと失望へと色変わりしている。
ラシェは、相変わらずあきらめる色を見せるでもなく、懸命に夕陽に祈りつづけている。
もうごまかす事はできまい。
エルは、ラシェを好きになってしまっている。
いくら叩かれようと折れぬ心が、そして、一途にカサを思いつづける姿が、エルを捕らえて離さないのである。
エルは、ラシェのように生きたかった。
それ故、ラシェが傷つく所を見たくないのである。
だが、ラシェはカサを信じて祈りつづける。
今日もまた、夕陽に向かい、祈りつづけている。
昨日、エルは我慢できず、鬱憤をラシェにぶつけてしまった。
夜、ラシェの天幕を訪ねて、何となくその話になったのだ。
帰るかどうかも判らぬカサを想いつづけるラシェを、見ていられなかった。
ラシェは常々、カサが死ねば自分も死ぬと公言していた。
その言葉を聞くたびに、エルの苛立ちは募るのである。
「そんな事言わないでよ! もしも本当にカサが帰ってこなかったらどうするのよ!」
この言い方に、ラシェがカチンときた。
「もしも本当にだなんて、帰ってこなければ、私は本当に死ぬつもりよ」
「そんな事ばかり言って、せっかく邑の人たちもラシェの事を認めてきているのに!」
エルは、選ぶ言葉を間違えた。
ラシェは本心では死ぬつもりなどないのだと、言外に語ってしまった。
そしてそれは、エルの本音でもあった。
――何だかんだ言っても、その時になれば、恋人の事ぐらいで死ぬ者などいない。
エルならそう考える。
ラシェは違う。
ラシェにとっては、カサのいない砂漠など、息をする価値もない世界である。
カサこそラシェの生きる意味そのものなのだ。
一度カサに別れを告げた時、ラシェの生活は、あまりにつらいものに変わった。
幼いカリムがいなければ、ラシェは母が亡くなった後に緩慢な死を選んだだろう。
あの時ラシェは、生きる意味を見失ったのだ。
――今のこの命は、カサに貰ったものなのだ。
はぐれ戦士たちから乱暴に扱われた事件を発端とした、あの一連の騒動でカサに救われて以来、ラシェはずっとそう思って生きてきた。
だからカサが死ねば、自然ラシェも死ぬべきものだ。
「カサは、死なないわ!」
そういう啓示を、ラシェは祭りの時に受けている。
だからラシェは、カサが生きて帰る事を疑ってはいないし、もしそれが叶わないのであれば迷わず死を選び、そして精霊の世界でカサと結ばれたいと考えるのである。
その心情はエルにとって理解すら及ばない領域にある。
「そんな事、判らないじゃない! カサがいくら優秀だからといって、帰って来れるなんてどうして言えるのよ! たくさんの戦士が、真実の地で命を落としてきたのよ!」
ラシェが言葉につまる。
――どうしてエルは、こんなにひどい事が言えるのだろう。
エルもカサが好きだと言ったではないか。
なのに、なぜ平気な顔でカサが死ぬかもしれないだなんて言えるのだろう。
「……エルは、カサの事を信じていないの?」
ラシェは目にいっぱいの涙をためている。
エルは、カッとなる。
「ラシェが死ぬだなんて、そんな事簡単に言うからじゃない! もしラシェが死んだら、カリムはどうなるの? その事を考えて、まだ死ぬだなんて言えるの?」
正論だが、それは言い逃れだ。
ここでカリムを話題に持ち出すのは、負けを認めたに等しい。
「……カリムは」
ラシェは暗い顔になる。
もしもラシェに心残りがあるとすれば、それはカリムの事だけである。
だが、それも含めてラシェは決めてしまっている。
「カリムはもう十歳なのだから、何でもできるわ。繕い物もできるし、かまどを作って煮炊きもできるし、天幕のたたみ方だって知ってるもの」
その無責任な物言いに、エルはまた腹を立てる。
「天幕がたためても、一人で冬営地まで移動できる訳ないじゃない!」
エルの言うとおりなのである。
だから自分の無責任さも、ラシェは自覚している。
ラシェは最近、カリムに言い聞かせている。
――カリム、今私たちがこうしていられるのは、カサのおかげ。カサがいなければ、私は死んでいた。
二人きり、夜の天幕内で。
――もしカサが帰ってこなければ、私もカサのもとに行く、カリム、あなたは一人で生きていかなければならない。
カリムは神妙にうなずいた。
そしてこの時も姉たちの会話を、天幕の端で手遊びしながら聞いていたカリムは、神妙に答える。
「ぼく、できる」
カリムは、こちらを見ない。
「一人でも、何でもできる」
カリムはラシェに似て、一本気だ。
もうすでにつらい人生を覚悟しているのであろう、その表情は断固としている。
「無理よ!」
エルは激する。
こんなエルを見るのは、ラシェも初めてだ。
「だってカリム! あなたはまだ子供なのよ?! 自分の事ができるなんてのは、大人になってからでないと!」
「私たちは、サルコリだから」
返すのは、ラシェだ。
「サルコリでは、ベネスの子たちのように、歳十七になるのを待ってはくれないわ。動ける者は、みな働かなければならない。この歳で一人になることも、珍しくはないの」
エルが何か言おうとし、無言で立ち上がり、そして怒った顔で天幕を出てゆく。
せっかくラシェの身を案じて言ってあげたのに、ラシェは少しも耳を貸そうとしない。
――あんな強情な娘、勝手に死ねばいい。
腹立ちまぎれにそんな事まで考える。
この憤懣の原因に、エルも気づいている。
エルは、ラシェほどカサを好きではない。
それを思い知らされて、エルは頭にきたのだ。
唇を噛みしめて歩くうちに、涙がにじむ。手の甲で目元をぬぐうと、もう止まらなくなる。
前方をにらんで涙を流しながら大股に歩くエルを、鍋をかき混ぜているカラギの女が怪訝そうにみている。
天幕に取り残されたラシェは、落ち込んでいる。
エルにあのような事を言われたのも悲しかったが、最後の最後に、自分はサルコリだ、などという了見の狭い言葉を発してしまった事を悔やんでいる。
――サルコリだとかベネスだとか、一番気にしているのは私だ。
サルコリだと自分を蔑む者を莫迦にしていたラシェだが、これでは自分も、サルコリに冷たい仕打ちをする者と変わらないではないか。
これでよくカリムに、ベネスとサルコリは代わらないなどと、言えたものだ。
自分に腹が立ち、涙が出そうになる。
だが、ラシェは泣かない。
もう泣かないと、決めたのだ。
カリムが、目に涙をためて、手遊びをつづけている。
ラシェは抱きしめてやろうかと思ったが我慢する。
カリムは強くならなければならない。
いつまでも子供ではない。
そして今日も、ラシェは夕陽に祈る。
カサの帰りを信じつつ。