〈四十四〉逃亡の糸口
“斑”は、手ごわかった。
肩で息をし、後方に方向に目を向ける。
その間も足を動かす事は忘れない。
ひと所に留まれば逃げられまい。
生きるためには移動しつづける必要があった。
もう四昼夜、カサは寝ていない。
食事もしていない。
――次に襲われれば、逃げられないかもしれない。
常にそう思いつづけながらも、ここまで何とか凌いできたが、それも限界だった。
時に意識は朦朧とし、気がつけば襲われていた事が、くり返されていた。
――何としても、狩り場まで……!
そこまでたどり着ければ、カサに地の利がある。
振りきれぬにしても、巨石を生かして相手の後背を突ける。
か細い希望にすがりつきながら、一歩また一歩とカサは足を運ぶ。
その選択は、ガタウが取ったものとまったく同じであるとは、カサ自身も知らない。
気づいたら、また倒れている。
ーー立ちあがれ、そして歩け。
カサが頬の内側を食い千切り、痛みで覚醒を保つ。
背後に迫る、あいつから逃げねばならぬ。
ガタウのようにただ逃げ、生き伸びる。
そして愛するラシェのもとに帰るのだ。
ベネスの邑には、日ごと人が増えていた。
ガタウとカサの伝説に、商機を見いだす者たちである。
その中にあって、ティグルもまた、興味深くこの戦士たちの試練に、耳をそばだてている。
一度、部族が狩り場と呼ぶ地域に足を踏み入れた事がある。
砂嵐が空を隠し、エラゴステスが雇った案内人が方角を見失った。
案内人は、散々彼らを引き回した上、巨石の並ぶ不思議な土地に彼らを導いた。
そこでエラゴステスの商隊は、砂漠の戦士たちが戦うという獣に遭遇した。
――こいつは、コブイェックだ……!
そう言い残し、案内人は真っ先に絶命した。
何と無責任な話であろうか。
案内人は、よく砂漠を知らない人間だったに違いない。
実際に目の当たりにしたコブイェックは、話に聞くよりも恐ろしい猛獣であった。
その体躯巨大にして、毛は硬く鋭く太く、革は非常に厚かった。
火も矢も毒も効かず、武器は長い腕と鋭い爪に阻まれ、近接兵器の剣などそもそも届かない。
狡猾で残忍、獲物への執念旺盛なる肉食獣であった。
その日だけで、ティグルは仲間を三人失った。
うち二人は彼と同じ、山岳民族出身の戦士。
守るべき人足も四人が殺された。
それでも獣による犠牲者がそれしきで済んだのは僥倖であった。
彼らの商隊は多くのラバを引き、移動力は十分だったのに、荷を捨ててもなお獣の追撃が速かった。
間一髪、狩り場に移動してきた戦士たちと出会えなければ、彼らはあのまま全滅していただろう。
戦士たちはベネスの者で、そのとき獣をしとめたのが、あのガタウだった。
以来、ティグルは砂漠の戦士たちとその英雄ガタウに、大きな尊敬を寄せるようになった。
この部族の言葉を覚え、幾つもの邑で彼らの狩りの話をたくさん聞いた。
ティグルはこの試練と名づけられた戦いの困難を、砂漠以外の者で身をもって知る数少ない人間なのである。
問題は体臭ではなく、新鮮な血の混ざった呼気の処理だった。
場所はすでに狩り場。
見慣れた風景が目に入り始め、地形を利用できるようになっている。
狩り場にたどり着いて、まず罠をしかけた。
とうに体力は限界を超えていたが、無理を押して歩速を上げた。
斑を嵌める仕掛けのために、少しでも奴と距離を取らねばならない。
倒れないよう口の中を噛んでズタズタにしながら得た距離で、一周するのに二刻かかる大きな円を描き、一つの場所をくり返し回り始めた。
――斑が自分の臭跡をたどっているのなら、その習性を利用してやる。
足跡、汗、血液、唾液、尿。
あらゆる手段を使い、カサは痕跡を残した。
そのためこの一帯にだけカサの気配が濃密で、彼我の距離が獣ですら簡単には判別できなくなっている筈だ。
斑は濃厚なカサの痕跡を追い、ひと所を回りつづけるだろう。
そこをカサは狙う。
二昼夜にかけて入念に罠を施し、仕掛けは十分と、もう二刻(二時間)、身を隠した場所で微動だにせず待ちつづけている。
無数に並ぶ、巨石の影。
円形に痕跡を残した少し内側、そこで待ち伏せし、斑の不意を突く計画だ。
今まで追う立場の斑だったが、ここで逆転し、狩られる者となる。
成功すれば、命を獲れずとも、奴は慎重になるであろう。
追跡が鈍れば逃げる機会を生み出せるし、上手くいけばそれ以上の成果を得られる。
――ここは狩り場、僕ら戦士の地だ……。
頭をヒザの間に埋め、胸元の空間で呼吸する。
問題は体臭ではなく、意識を保つために噛み千切った口の中の、新鮮な血の混ざった呼気の処理。
だからカサは、呼気にもにわずかな仕掛けを施した。
ミシリ。
土が踏みにじられる足音が、鼓膜を圧迫する。
ーー奴か……それとも別の獣か。
ミシリ……ミシリ……。
一歩また一歩、獣が近づいてくる。
片方の後肢を引きずり、前肢を主に前進している。
ーー間違いない……斑だ。
ここまで追ってきた執着心に、カサは怖気を覚える。
すぐ傍まで近づいてきた気配に息を殺し、カサは手の中の槍に感覚を集中する。
――僕は戦士、この土地の覇者は僕たちだ……!
カサが己を鼓舞する。
ここで殺される訳にはいかない。
カサは、生きねばならないのである。
獣が近づく。
呼吸も発汗も心拍も抑え、カサは気配を殺す。
目を閉じ気配を探ると、数イェリキ先、たった数歩の場所を、巨大な存在が近づいてくる。
濃密な獣の体臭と、刺激物混じりの緊張が風に充満する。
大気と岩と砂に自分を同調させ、気配を消すカサ。
それは己を完全に無防備にするという事でもある。
見つかれば、死ぬ。
暴れまわる恐怖を宥めすかし、指先一つ、口の中で舌を動かす事も許されぬ数瞬。
獣が鼻を鳴らし、カサの臭跡を検めている。
無限のように長い一刹那。
……ノソリ。
そしてついに、獣はカサの傍を通りすぎる。
――これは誘いか、それとも騙しおおせたのか……。
疑念が渦巻く。
これまでに、何度となく裏をかかれた相手である。
踊りかかったとたん、奴は狙い済ましてこちらを振りかえり、カラギが動物の肉をさばくように、カサを食らうのではないか。
そんな恐怖がカサの意識に刻みこまれている。
だが躊躇してはならない。
一刹那の迷いが生死を分ける、それが戦士と獣の戦いなのだ。
斑は憤怒していた。
獲物が臭跡を用いて弄した策は瞬時に見抜いた
かつ、狼狽した獲物が放つ特有の体内物質も嗅ぎ分けていた。
すばしこい獲物だったが、足跡や臭跡での撹乱なら、灰色ギツネですらもっと巧みに行う。
恐怖と手傷で獲物はもはや疲労困憊、程なくこの口にその肉を喰らい、貪欲なる胃を満たすだろう。
真実の地の王の、自らの片肢を砕いた憎き二本足。
弱き狩られるべき動物に、ここまでの深手を負わされた、目もくらむ屈辱と怒り。
強い衝動が、斑の感覚を鈍らせた。
小便跡を嗅ぎ、一日以上経ったものと興味をなくし、逃走の痕跡つづくほうへと向いた瞬間、砂の中から槍とカサが現れ、腰から下を地に埋めながら、後方から大腿部に渾身の一撃を放つ。
呼吸するための空気穴に、二日前の臭跡を用いた、周到で大胆な偽装。
敏速なカサの一撃に、獣の対応が寸時滞る。
槍先はまだ無傷な側の大腿を貫通、その先端が膀胱と小腸の一部を潰す。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
槍は狙ったよりも低い部位に刺さったが、それでも大腿付け根の骨盤を砕いた感触が、カサの手に残る。
――やった……!
だが深く貫入した槍身は苦痛に収縮した肉に巻きこまれ、カサが槍を抜く前に獣の前肢に払われて真っ二つに折られてしまう。
「……クッ!」
カサは横に身を転がし、砂を跳ね飛ばし地面から腰を抜き距離をとる。
斑は腰が萎え、両前肢のみでその巨大な身体を支えていた。
――こっちは無傷だ!
そして身を翻して逃げ出す。
――やった……!
完璧な感触だった。
あの様子では、もはや後ろ肢は使い物になるまい。
命は奪えなかったが、これで奴はもうカサをを追ってはこれない。
「フッ…………ハ……アハハハハハ!」
折れた槍身を狩り場の青い空に掲げ、カサは笑いながら一目散に逃げる。
逆襲は成功、無傷で斑に深手を負わせた。
安堵し、軽くなったこの足取りなら、半日あれば狩り場を抜け出せる。
長い逃走劇の末、カサはついに自由の身になったのだ。