〈四十一〉斑の追跡者
カサは満身創痍である。
――なんて奴だ……!
背後を見る。
闇と砂を含んだ風にさえぎられて見えないが、"斑"の気配がもうそこまで来ている。そしてその気配は、幾日にもわたってカサを追い回しているのだ。
恐ろしい敵であった。
ガタウが相打ちに持ち込んだあの獣よりもさらに大きく、機敏にして老獪。いかにカサが命がけの槍を突けどその全てを楽々としのぎ、熾烈極まりない攻撃を仕掛けてくる。それも思いもかけない方向から。
カサは、じわじわ追い詰められていた。
疲れを知らぬ追跡者に、身も心も消耗しきっている。
「うっ……!」
吐く。先ほど無理に詰め込んだ干し肉だ。
噛んだままの状態で、ほとんど消化できていない。
――吐いちゃいけない……。
ガタウがそう言っていた。
だからカサはガタウに従う。
ガタウは間違えない。ガタウは嘘を言わない。生前見せたガタウの強さのみが、今のカサを支えている。そこにしがみつかねば、疲弊した心は今すぐにでも折れてしまう。
「グ……ッ」
吐いた物を、地に口をつけ、カサは砂ごとすすりこむ。無理やり飲み下し、追っ手を確かめる。
背後を見たのが、いけなかった。
ブン!
風を切る音。
転がってかわす。カサの上体があった所に奴の前肢がふり抜かれる。間一髪である。カサはうろたえる事なく冷静に槍をくり出す。足運びに砂煙が舞い、槍先と爪が交錯し、火花が散る。
獣が吼え、カサも吼える。
気がつくと、倒れていた。
逃げながら力尽き、気を失っていたようだ。
体を起こす。
手元には槍、背負った荷物は、いつの間にかすべて失っている。
胴巻きはまだ残っているが、獣の爪に大きく裂かれ、中に収納していた肉が、いくつか零れ落ちている。
――これがなければ、自分は死んでいただろう。
ガタウの周到さにカサは深く感謝する。胴巻きは食料を収容するだけではなく、獣の爪にさらされたカサの身代わりにもなってくれた。
手ごたえは、有った。
槍先についた血はまだ新しい。
痛烈な一撃を奴に叩き込んだ。
あの程度で死ぬとは思えないが、後肢の片方を破壊したので追跡は困難になるはずだ。
不思議な事に、奴に追い回されるようになって、他の獣に出くわさなくなった。
獣たちも気づいているのであろう、カサがこの地の王の標的になった事を。
獲物を横取りすれば、それはその獣にとって死を意味するのだ。
カサは立ち上がる。
ここで距離を稼ぎ、傷や体力を回復しなければ、カサの命など今日すら乗りきれない。
心もとなくなった干し肉を口に放り込み、槍一つを手に、カサは歩く。
後方に、腹をすかせた斑の気配に怯えながら。
カサが深手を負った。
失った右腕をまたやられた。
骨が小さく露出し、出血している。
裂けたショオで縛って止血し、最後の肉を食って胴巻きを棄てる。
カサに残るはたった一本の槍。
だが今やカサには、その槍を振るう力すら残っていない。
後肢をつぶしたと油断して、前方への注意がおろそかになっていた。
――まさか、あの状態でこっちに気取られず追いこし、待ち伏せするとは……。
必死に抗戦したが、獣を止めるに足りうるほど有効な打撃を加える事はできなかった。
それどころか、大きな傷を負わされてしまう始末。
力量の差は、歴然としている。
カサでは勝てない。
そして、逃げ切れない。
今やカサは、自分がどこに向かっているのかも、分からなくなっている。
何と莫迦莫迦しい事か。
逃げようにもこんなに煙った空では太陽すら見えず、方角もおぼつかない。砂漠の真実どころか、邑への道程も判らない。今のカサは、ただあの強大な獣の姿におびえ、逃げ惑っているだけの小動物だ。
――死んでなるものか……。
カサは歯噛みする。
その意識に閃くのは、ラシェの姿。
花の香りをまとう、涼しげな瞳の優しい少女。
――死んでなるものか……!
カサは歯軋りする。その脳裏に浮かぶのは、道半ばに斃れた、ガタウの姿。
ガリッ。
歯を食いしばりすぎて、奥歯が欠ける。
カサは歩く。ひたすらに歩く。
ビュウウゥッ……!
やがて風が砂煙をさらい、前方の視界が大きく開ける。