〈三十八〉戦士ガタウ
満月。
獣が咆哮する。
そのギラついた、たった一つの銀の虹彩が二人を捕らえる。
いや、カサなどには、眼もくれない。
その眼が射抜くのは、ガタウ。
片目のその獣が、ガタウの存在を認めて絶叫する。
「ゴワアアアアアアアアアアアアアアア!!!!! アッアッア! ア! ア! アアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
獣が吼えた。
大地さえ揺るがすその声量は、物理的な力となってカサたちの体を震わせる。
――なんて大きな獣だ……!
カサが愕然とする。
その獣は大きすぎた。
直立すれば体高十七トルーキ(約五,六メートル)に達するであろう巨体。
これは一般にコブイェックと呼ばれる四足獣、その成獣平均の1.5倍近い大きさであり、縦に大きいという事は、奥行きも幅もそれに比例して大きく、体重を割り出すと三倍近い異常な大きさの個体だった。
カサは戦慄する。
こんなのは、人間の手に負える生き物ではない。
自分はここで死ぬ。
この獣に立ち向かう力など、人間は持ち合わせていない。
――ラシェ……!
大切な人を想い浮かべ、必死に勇気を奮い起こすカサ。
だが獣の圧倒的な姿の前に、その熱量はあまりにもはかない。
「やはり生き永らえていたか……!」
だが、おびえるカサの横で、ガタウは狂喜していた。
「……ついにまみえる事ができたな……!」
恐怖と興奮、絶望と歓喜。
そう、この個体と再びまみえる事こそ、この真実の地で、ガタウが何よりも求めた物なのである。
「遭いたかったぞ“片目”よ! 貴様をこの槍で斃す事が、この俺のただ一つの望みだったのだ!」
片目とよばれた獣が顎を開く。
人の手首から肘ほどまでもあろうかという、巨大な牙。ガタウの記憶にあるものよりも、その長さが増している。背も伸びたらしい。あの時も大きかったが、十五トルーキ(約五メートル)程度であった。
「ゴワアアアアアアアアアアアアアアアッアアアッアアアアア!!!! アッアアアアアッアアッアアアアアアアアア!!!!」
巨大な肺からふりしぼられる、長く耳をつんざく咆哮。
「どうした! 喰らいたいか! お前の目玉を奪ったこの俺を!」
ガタウが絶叫に応ずる。
この男がこんなに興奮しているのを、カサは初めて見る。
「さあ来い! 食ってみろ! 俺のこの、残った腕をも食らって見せるが良い!」
片目が残った右眼でガタウをにらむ。
左目を奪われて以来、片目はずっとその姿を追い求めていた。
そしてガタウも、ずっとこの獣を求めていたのである。
己の右腕を喰らった、この獣を。
獣は執拗であった。
そのときガタウは齢二十。
面立ちにはまだ甘さも残り、邑では最高の戦士と呼ばれていたが、今ほど突出した槍を備えていた訳ではなかった。
――こいつをしのぎきれば、邑に帰れる……!
その思いだけで、ガタウは己を保っていた。
今では名も思い出せぬ、愛しき女の待つ邑へ。
ふくよかなその胸に抱かれて安らかに眠る事だけが、ガタウの求めるものであった。
だが砂漠の真実を手に入れ、あとは邑に帰るだけというガタウの前に、この獣が立ちはだかった。
その巨体にガタウは絶望した。
こんなものが、狩れる訳がない。
この獣は、槍を取って獣を狩るという行為のなしえる限界を、はるかに超えた存在だ。
――逃げるしかない……!
問題はその方法だった。
二晩にわたって、ガタウはこの獣から逃げつづけていた。
振り切っても、獣はガタウの痕跡をたどって追跡してくる。
――どうする……。
ガタウは考える。
状況は閉塞していた。
打開するには、何か決定的な展開を作らなければならない。
でなければただ己の死が待つのみ。
巨大な分だけ鈍重であっても、移動するだけならば獣の方が早いのである。
迷ったのはわずか数瞬であった。
ただ逃げるのは不可能。
何としても一撃、それも痛烈な一撃を奴に加えねばならない。
ガタウには、確信があった。
――狩り場に抜ければ、奴を撒く事ができる。
大小の岩が並ぶ狩り場。
そこに入ってしまえば、地の利は自分に働く。
だがそこに至るのもまた至難の業。
ガタウは悲鳴をあげる肉体を酷使し、文字通り血を吐きながら前進した。
ガタウは砂煙の向こう、接近しつつある奴の気配に感覚を集中する。
獣が猛追し、ガタウに肉迫する。
裂帛の気合いが、獣の咆哮と重なる。
頭蓋眼窩に槍が到達した瞬間、獣の鋭い爪が薙ぐ。
その戦いで獣の片目を奪ったものの、ガタウは腕を失った。
千切れた自分の腕を右手にぶら下げ、ガタウは半生半死で邑に帰りついた。
だが、彼を待っていたはずの人間はいなかった。
彼が帰り着くその前夜に、女は死んでいた。
「オオオオオオオオオオオオオオオオ!」
ガタウが声を上げる。カサが覇気をふりしぼり、ガタウに並ぶ。
「ヤアアアアアアアアアアアアアアア!」
無理やりに声を張り上げる。
「ハー! ハー! ハッ! ハッ!」
二手に分かれ、片目を挟撃する陣形を取る。
「イヤー! アー! ヤヤヤヤヤ!」
片目はカサを見ない。
ガタウにだけ注意を払っているようだ。戸惑いつつもこれを好機と見たカサが、片目の膝に一息に槍を突きこむ。
が、片目はカサも見ずに動き、その一撃をかわした。
――え?
剛強な前肢が、間髪いれずに動く。
とっさにカサは身をよじるが、前肢がうなりを上げてカサをかすめ、槍を根元から粉砕する。
吹き飛ぶカサ。
「――カサ! 生きているか!」
ガタウが片目から目を離さず叫ぶ。
カサは一回転して身を起こすが、手の中の槍は棒切れと化し、紙一重で命を拾ったと悟る。
「やっ……槍を壊されました!」
――これでは戦えない!
片目と遭遇した際に捨てた荷物にある予備の槍を、取る暇をこの獣が与えるだろうか。
ーーいや、片目は僕を見ていない……。
未熟な若い個体など無視して構わぬ。
ガタウのみが、自分の敵である。
カサが荷物に駆け戻る。
片目はガタウと対峙している。
ガタウがそれを迎え撃つ。
お互いがお互いのみを見ている。
そこに割り込む隙など微塵も見えない。
カサが槍先を向け隣に並ぼうとするが、
「お前は、見ていろ!」
カサは困惑する。
この強大な敵と、飽くまで一人だけで対決する気なのだ。
「こいつは、俺の獲物だ……!」
瞳を爛々輝かせ、ガタウが歯を剥いて笑う。
――まるで獣だ。
背筋が凍える。
我を忘れて昂るガタウ。
それはカサの知らぬ、強烈に生命力を漲らせた男の姿だった。
「.そうだ、俺は、貴様に再び遭いまみえるためだけに生きてきた。俺の鍛えたこの槍が、通用するかどうか、それだけを夢見て」
そのためだけに、並ぶ者なき領域、己の骨が着いたその槍先が、真っ黒に染まるほどひたすら槍を磨きつづけたのだ。
ガタウをそこまで押し上げたのは、怒り。
誰にも見せぬ胸のうちに、火にかけた脂のごとく沸騰しつづけた怒り。
発散されぬがゆえに、冷える事なく沸騰した怒りだけが、ガタウを突き動かしつづけたのである。
――……ガタウ……!
その情念をカサは理解する。
カサもまた同じように、哀苦と喪失感と寂寞を燃料に、己を鍛えつづける人間だ。
そして戦士たちの頂点、壮強無比な槍使いの真理にガタウは到達した。
――ガタウならば、一人であの片目を斃せるかもしれない。
戦士は皆、狩りにおいて一つ想いを胸に秘めている。
たった一人、槍一つで獣と対峙し、斃す。
誰もがそうありたいと願い、狩りの地にて獣の強さを思い知らされ、誰もが棄てたその想いを、己を磨き続ける事で成し遂げてしまった男。
ガタウが真実の地より戻った時、胸にぶら下げていた、誰も見た事がないほど大きな三本の牙は、いまや砂漠の伝説である。
――だが、この獲物は大きすぎる……!
それらの牙ですら、片目の牙の前では粗末な代物であった。
とにかく肉体が大き過ぎる。
いかなガタウとて、一人で立ち向かうのは無謀極まりない。
大きいだけではない、カサの槍を見ずに避ける機敏さと洞察力、そして間髪いれず反撃する素早さも兼ねそなえている。
――ガタウを、一人で戦わせてはいけない!
そう思えど、カサの割って入る余地などどこにもなかった。
カサが駆け寄ろうとした動きを合図に、双方が動く。
それは壮絶な闘いであった。
咆哮し、槍を突きこむガタウ。
咆哮し、牙を剥いて爪をふるう“片目”。
槍と牙、槍と爪。攻防がめまぐるしく入れ替わり、理性を待たぬ者たちの叫びが、虚無の砂漠に響く。かすめた牙と爪と槍先。毛が舞い、皮が弾け、肉が裂け、血が噴き出す。猛り狂った一人と一頭が、痛みも疲労も意に介さず血と唾液混じりに叫び、腕を振るい、地を蹴る。
その戦いの激烈さは、カサをその場に釘づけにした。
恐怖も痛みも忘れ、怒りと破壊衝動にその身をゆだねた二頭の獣。
互いが互いの血を求め、その甘美さに酔いしれる。
その荒々しさと、美しさ。
二者のかたわらに立つカサにとって、世界はこの二つの生命に集約されているようにさえ見える。それほどこの闘争は、神々しく劇的であった。
「ガアアアアアア! アッアッア!」
片目が叫ぶ。
長く拮抗してきた戦況に、動きがある。
一方の消耗が大きく、動きが鈍りだした。
もう一方は、いまだ動きを緩める事なく、攻撃しては下がり、相手が隙を見せては流血を増やしてゆく。
勝敗が決しつつある。
有利なのは、ガタウ。
何とこの戦士は、人でありながらかくも巨大な獣を圧倒していた。
その技量と、それを支えた執念に、驚愕せぬ者はおるまい。
片目はいつしか全身が血にまみれ、息があがりだしている。
ガタウがその正面に立ち、槍を低く下げる。
片目が槍先に視線を集中したと見るや、それをゆっくりと持ち上げる。
朦朧とした片目が、つられたように立ち上がる。
――決める気だ……!
それは、一の槍の作法。
だが、狙うのは膝ではない。
ただ一箇所。
心臓である。
ガタウが槍を、片目の中央にぴたりと決める。
片目は動かない。
いや、動けないのだ。
いまや片目は、ガタウの意思によって動かされている。
一つの槍を挟んで知った、その作用。
カサはガタウの勝利を確信する。
ガタウが息を吸い、そして、
「フッ!」
槍先が空気を切り裂く。
この砂漠で最高無比の、一の槍にして終の槍。
もはや避ける手はないと思われた。
だがそれこそが、片目の誘い。
相手が有利になると見て、自分の不利を演出し、この槍を誘発したのだ。
ガタウの強固な精神への干渉を、同じく強固な精神で対抗し、片目が吼える。
ドジュルッ!
槍が片目の肉を破る。
突き出された、右の前肢を。
心臓を狙ったガタウの一撃。
“片目”はそれを、右前肢を犠牲に受け止めた。
ガタウが鍛えつづけた槍先とその技量を、前肢一本で受けきった。
生死の際の知恵比べで、片目はガタウを上回った。
ガタウが反応するよりも早く片目が動く。
前肢に刺さった槍を
左の前肢でへし折るり
右前肢に槍の先端をぶら下げたまま振り上げ
ガタウに殺到する。
右の前肢が、ガタウに叩きつけられる。
この時、ガタウは避けるべきであった。
この攻撃を避け、カサの救援を待つべきであった。
だが、ガタウは退かなかった。
折れた槍を腰に溜め
ささくれたその先端を心臓に向け
獰猛に吼え
片目の懐に
凶暴なその腕の内側に
全身全霊を込め突きこんだ。
捨て身の一撃。
すべてを奪われたガタウの、たぎる怒りが、この土壇場で命を捨てさせた。
カサは、動けなかった。
ガタウの槍が、一瞬早く片目の胸の真ん中に突き刺さり
片目の爪が、その直後にガタウを薙ぎ
そして双方のけ反って倒れても、まだ、カサは動けなかった。