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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第五章 流転
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〈三十八〉戦士ガタウ

 満月。

 獣が咆哮する。

 そのギラついた、たった一つの銀の虹彩が二人を捕らえる。

 いや、カサなどには、眼もくれない。

 その眼が射抜くのは、ガタウ。

 片目のその獣が、ガタウの存在を認めて絶叫する。


「ゴワアアアアアアアアアアアアアアア!!!!! アッアッア! ア! ア! アアアアアアアアアアアアアッ!!!!」


 獣が吼えた。

 大地さえ揺るがすその声量は、物理的な力となってカサたちの体を震わせる。

――なんて大きな獣だ……!

 カサが愕然とする。

 その獣は大きすぎた。

 直立すれば体高十七トルーキ(約五,六メートル)に達するであろう巨体。

 これは一般にコブイェックと呼ばれる四足獣、その成獣平均の1.5倍近い大きさであり、縦に大きいという事は、奥行きも幅もそれに比例して大きく、体重を割り出すと三倍近い異常な大きさの個体だった。

 カサは戦慄する。

 こんなのは、人間の手に負える生き物ではない。

 自分はここで死ぬ。

 この獣に立ち向かう力など、人間は持ち合わせていない。

――ラシェ……!

 大切な人を想い浮かべ、必死に勇気を奮い起こすカサ。

 だが獣の圧倒的な姿の前に、その熱量はあまりにもはかない。

「やはり生き永らえていたか……!」

 だが、おびえるカサの横で、ガタウは狂喜していた。

「……ついにまみえる事ができたな……!」

 恐怖と興奮、絶望と歓喜。

 そう、この個体と再びまみえる事こそ、この真実の地で、ガタウが何よりも求めた物なのである。

「遭いたかったぞ“片目”よ! 貴様をこの槍で斃す事が、この俺のただ一つの望みだったのだ!」

 片目とよばれた獣が顎を開く。

 人の手首から肘ほどまでもあろうかという、巨大な牙。ガタウの記憶にあるものよりも、その長さが増している。背も伸びたらしい。あの時も大きかったが、十五トルーキ(約五メートル)程度であった。

「ゴワアアアアアアアアアアアアアアアッアアアッアアアアア!!!! アッアアアアアッアアッアアアアアアアアア!!!!」

 巨大な肺からふりしぼられる、長く耳をつんざく咆哮。

「どうした! 喰らいたいか! お前の目玉を奪ったこの俺を!」

 ガタウが絶叫に応ずる。

 この男がこんなに興奮しているのを、カサは初めて見る。

「さあ来い! 食ってみろ! 俺のこの、残った腕をも食らって見せるが良い!」

 片目が残った右眼でガタウをにらむ。

 左目を奪われて以来、片目はずっとその姿を追い求めていた。

 そしてガタウも、ずっとこの獣を求めていたのである。

 己の右腕を喰らった、この獣を。



 獣は執拗であった。

 そのときガタウは齢二十。

 面立ちにはまだ甘さも残り、邑では最高の戦士と呼ばれていたが、今ほど突出した槍を備えていた訳ではなかった。

――こいつをしのぎきれば、邑に帰れる……!

 その思いだけで、ガタウは己を保っていた。

 今では名も思い出せぬ、愛しき女の待つ邑へ。

 ふくよかなその胸に抱かれて安らかに眠る事だけが、ガタウの求めるものであった。

 だが砂漠の真実を手に入れ、あとは邑に帰るだけというガタウの前に、この獣が立ちはだかった。

 その巨体にガタウは絶望した。

 こんなものが、狩れる訳がない。

 この獣は、槍を取って獣を狩るという行為のなしえる限界を、はるかに超えた存在だ。

――逃げるしかない……!

 問題はその方法だった。

 二晩にわたって、ガタウはこの獣から逃げつづけていた。

 振り切っても、獣はガタウの痕跡をたどって追跡してくる。

――どうする……。

 ガタウは考える。

 状況は閉塞していた。

 打開するには、何か決定的な展開を作らなければならない。

 でなければただ己の死が待つのみ。

 巨大な分だけ鈍重であっても、移動するだけならば獣の方が早いのである。

 迷ったのはわずか数瞬であった。

 ただ逃げるのは不可能。

 何としても一撃、それも痛烈な一撃を奴に加えねばならない。

 ガタウには、確信があった。

――狩り場に抜ければ、奴を撒く事ができる。

 大小の岩が並ぶ狩り場。

 そこに入ってしまえば、地の利は自分に働く。

 だがそこに至るのもまた至難の業。

 ガタウは悲鳴をあげる肉体を酷使し、文字通り血を吐きながら前進した。

 ガタウは砂煙の向こう、接近しつつある奴の気配に感覚を集中する。

 獣が猛追し、ガタウに肉迫する。

 裂帛の気合いが、獣の咆哮と重なる。

 頭蓋眼窩に槍が到達した瞬間、獣の鋭い爪が薙ぐ。

 その戦いで獣の片目を奪ったものの、ガタウは腕を失った。

 千切れた自分の腕を右手にぶら下げ、ガタウは半生半死で邑に帰りついた。

 だが、彼を待っていたはずの人間はいなかった。

 彼が帰り着くその前夜に、女は死んでいた。



「オオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 ガタウが声を上げる。カサが覇気をふりしぼり、ガタウに並ぶ。

「ヤアアアアアアアアアアアアアアア!」

 無理やりに声を張り上げる。

「ハー! ハー! ハッ! ハッ!」

 二手に分かれ、片目を挟撃する陣形を取る。

「イヤー! アー! ヤヤヤヤヤ!」

 片目はカサを見ない。

 ガタウにだけ注意を払っているようだ。戸惑いつつもこれを好機と見たカサが、片目の膝に一息に槍を突きこむ。

 が、片目はカサも見ずに動き、その一撃をかわした。

――え?

 剛強な前肢が、間髪いれずに動く。

 とっさにカサは身をよじるが、前肢がうなりを上げてカサをかすめ、槍を根元から粉砕する。

 吹き飛ぶカサ。

「――カサ! 生きているか!」

 ガタウが片目から目を離さず叫ぶ。

 カサは一回転して身を起こすが、手の中の槍は棒切れと化し、紙一重で命を拾ったと悟る。

「やっ……槍を壊されました!」

――これでは戦えない!

 片目と遭遇した際に捨てた荷物にある予備の槍を、取る暇をこの獣が与えるだろうか。

ーーいや、片目は僕を見ていない……。

 未熟な若い個体など無視して構わぬ。

 ガタウのみが、自分の敵である。

 カサが荷物に駆け戻る。

 片目はガタウと対峙している。

 ガタウがそれを迎え撃つ。

 お互いがお互いのみを見ている。

 そこに割り込む隙など微塵も見えない。

 カサが槍先を向け隣に並ぼうとするが、

「お前は、見ていろ!」

 カサは困惑する。

 この強大な敵と、飽くまで一人だけで対決する気なのだ。

「こいつは、俺の獲物だ……!」

 瞳を爛々輝かせ、ガタウが歯を剥いて笑う。

――まるで獣だ。

 背筋が凍える。

 我を忘れて昂るガタウ。

 それはカサの知らぬ、強烈に生命力を漲らせた男の姿だった。

「.そうだ、俺は、貴様に再び遭いまみえるためだけに生きてきた。俺の鍛えたこの槍が、通用するかどうか、それだけを夢見て」

 そのためだけに、並ぶ者なき領域、己の骨が着いたその槍先が、真っ黒に染まるほどひたすら槍を磨きつづけたのだ。

 ガタウをそこまで押し上げたのは、怒り。

 誰にも見せぬ胸のうちに、火にかけた脂のごとく沸騰しつづけた怒り。

 発散されぬがゆえに、冷える事なく沸騰した怒りだけが、ガタウを突き動かしつづけたのである。

――……ガタウ……!

 その情念をカサは理解する。

 カサもまた同じように、哀苦と喪失感と寂寞を燃料に、己を鍛えつづける人間だ。

 そして戦士たちの頂点、壮強無比な槍使いの真理にガタウは到達した。

――ガタウならば、一人であの片目を斃せるかもしれない。

 戦士は皆、狩りにおいて一つ想いを胸に秘めている。

 たった一人、槍一つで獣と対峙し、斃す。

 誰もがそうありたいと願い、狩りの地にて獣の強さを思い知らされ、誰もが棄てたその想いを、己を磨き続ける事で成し遂げてしまった男。

 ガタウが真実の地より戻った時、胸にぶら下げていた、誰も見た事がないほど大きな三本の牙は、いまや砂漠の伝説である。

――だが、この獲物は大きすぎる……!

 それらの牙ですら、片目の牙の前では粗末な代物であった。

 とにかく肉体が大き過ぎる。

 いかなガタウとて、一人で立ち向かうのは無謀極まりない。

 大きいだけではない、カサの槍を見ずに避ける機敏さと洞察力、そして間髪いれず反撃する素早さも兼ねそなえている。

――ガタウを、一人で戦わせてはいけない!

 そう思えど、カサの割って入る余地などどこにもなかった。

 カサが駆け寄ろうとした動きを合図に、双方が動く。

 それは壮絶な闘いであった。

 咆哮し、槍を突きこむガタウ。

 咆哮し、牙を剥いて爪をふるう“片目”。

 槍と牙、槍と爪。攻防がめまぐるしく入れ替わり、理性を待たぬ者たちの叫びが、虚無の砂漠に響く。かすめた牙と爪と槍先。毛が舞い、皮が弾け、肉が裂け、血が噴き出す。猛り狂った一人と一頭が、痛みも疲労も意に介さず血と唾液混じりに叫び、腕を振るい、地を蹴る。

 その戦いの激烈さは、カサをその場に釘づけにした。

 恐怖も痛みも忘れ、怒りと破壊衝動にその身をゆだねた二頭の獣。

 互いが互いの血を求め、その甘美さに酔いしれる。

 その荒々しさと、美しさ。

 二者のかたわらに立つカサにとって、世界はこの二つの生命に集約されているようにさえ見える。それほどこの闘争は、神々しく劇的であった。

「ガアアアアアア! アッアッア!」

 片目が叫ぶ。

 長く拮抗してきた戦況に、動きがある。

 一方の消耗が大きく、動きが鈍りだした。

 もう一方は、いまだ動きを緩める事なく、攻撃しては下がり、相手が隙を見せては流血を増やしてゆく。

 勝敗が決しつつある。

 有利なのは、ガタウ。

 何とこの戦士は、人でありながらかくも巨大な獣を圧倒していた。

 その技量と、それを支えた執念に、驚愕せぬ者はおるまい。

 片目はいつしか全身が血にまみれ、息があがりだしている。

 ガタウがその正面に立ち、槍を低く下げる。

 片目が槍先に視線を集中したと見るや、それをゆっくりと持ち上げる。

 朦朧とした片目が、つられたように立ち上がる。

――決める気だ……!

 それは、一の槍の作法。

 だが、狙うのは膝ではない。

 ただ一箇所。

 心臓である。

 ガタウが槍を、片目の中央にぴたりと決める。

 片目は動かない。

 いや、動けないのだ。

 いまや片目は、ガタウの意思によって動かされている。

 一つの槍を挟んで知った、その作用。

 カサはガタウの勝利を確信する。

 ガタウが息を吸い、そして、

「フッ!」

 槍先が空気を切り裂く。

 この砂漠で最高無比の、一の槍にして終の槍。

 もはや避ける手はないと思われた。

 だがそれこそが、片目の誘い。

 相手が有利になると見て、自分の不利を演出し、この槍を誘発したのだ。

 ガタウの強固な精神への干渉を、同じく強固な精神で対抗し、片目が吼える。


 ドジュルッ!


 槍が片目の肉を破る。

 突き出された、右の前肢を。

 心臓を狙ったガタウの一撃。

 “片目”はそれを、右前肢を犠牲に受け止めた。

 ガタウが鍛えつづけた槍先とその技量を、前肢一本で受けきった。

 生死の際の知恵比べで、片目はガタウを上回った。

 ガタウが反応するよりも早く片目が動く。


 前肢に刺さった槍を


 左の前肢でへし折るり


 右前肢に槍の先端をぶら下げたまま振り上げ


 ガタウに殺到する。


 右の前肢が、ガタウに叩きつけられる。

 この時、ガタウは避けるべきであった。

 この攻撃を避け、カサの救援を待つべきであった。

 だが、ガタウは退かなかった。


 折れた槍を腰に溜め


 ささくれたその先端を心臓に向け


 獰猛に吼え


 片目の懐に


 凶暴なその腕の内側に


 全身全霊を込め突きこんだ。


 捨て身の一撃。

 すべてを奪われたガタウの、たぎる怒りが、この土壇場で命を捨てさせた。

 カサは、動けなかった。

 ガタウの槍が、一瞬早く片目の胸の真ん中に突き刺さり

 片目の爪が、その直後にガタウを薙ぎ

 そして双方のけ反って倒れても、まだ、カサは動けなかった。

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