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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第五章 流転
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〈三十六〉自らの業

 今日もラシェは、砂漠の遥か彼方に祈りをささげている。

 今日もそれを、後ろからエルが見ている。

 黄昏の中で、エルは自分以外の観察者に気づく。

――コールアも、ラシェを見ている……。

 不穏な展開を予感するが、コールアの眼には今までの険がない。

 それよりも顕なのは困惑。

――あのサルコリの娘は、私よりも強い。

 本人はそれを認めまいが、コールアはラシェを恐れている。

 ふとエルの視線に気づく。

 コールアはいつものように忌々しげににらむ。

 エルはのぞき見がばれたような気分で、気まずくなって視線をそらす。

 多くの女がエルのようにするのは、コールアの方が優れているからだと、少し前までは思っていたーーそれはまるで、砂ネズミや赤ウサギがツノ蛇から逃れるように、そのようにするのだと。

 ならばラシェは、コールアよりも優れているのだろうか。

 ツノ蛇が、砂ギツネから逃れるように、コールアはラシェを避けている。

 だが、本当にそうなのだろうか。

 ラシェとのあの一件で、コールアの価値観は根底からくつがえされ、砕かれ砂漠の礫となってに粉々に飛び散った。

 それをかき集めて再構築するには、ラシェとカサを物語る唄がどのようなものになるのか、それを見届けなければならない。

 ラシェが祈る。

 エルとコールアがそれを見つめる。

 砂漠に陽が沈む。



 陽が沈み、邑に夜が訪れる。

 サルコリの集落もとっぷり闇に沈む。

 そのサルコリの中に、まだ真新しい天幕の張られた一角がある。

 汚い天幕が並ぶ中、その一角は明らかに周囲から浮いている。そこに住むのは、戦士階級を追われた件の男たちだ。

 彼らの凋落は、見目にも明らかである。戦士のみに許された赤いトジュやショオは取り上げられ、粗末な生成りのトジュのみを身にまとっている。

 後遺症にも悩まされている。

 ウハサンは、カサに蹴り上げられた際に睾丸を片方潰され、骨盤を砕かれて歩行が困難になった。

 キジリはいまだに血を吐き、デリは潰された鼻と頬骨が陥没したままの面相で、その上嗅覚を喪失した。

 ナサレィはウハサンよりもひどく、脊椎に損傷を受け、首から下全身に痺れと震えが残っている。

 誰よりもひどいのはラヴォフだ。

 顎の骨は砕かれたまま、いびつに癒着し、門歯と犬歯全てと、臼歯の多くが抜け落ちて口が閉まらなくなり、涎を垂らしつづけている。

 口蓋を破った門歯が脳を浅く傷つけ、髄液が漏れ、絶え間ない頭痛と時々襲う悪寒に悩まされつづけている。

 舌と口が自由に動かせないので声は言葉にならず、手足も痺れて一人では立ち上がる事もできず、ラヴォフの天幕は自身の体液と汚物で、異臭を放っている。

 仲間たちの誰も、ラヴォフに手を貸そうとしない。

 見捨てられた彼らの中で、ラヴォフは仲間にさえ見捨てられていた。

 彼らの怪我や後遺症の多くは恒常的なものであり、この先回復する見込みはないであろう。

 唯一異常もないのはトナゴであるが、こちらも誰も相手にしない。

 もともと皆から疎まれてきた男である。

 サルコリに放逐されたとて、哀れに思う者もいない。

 彼らと交わるサルコリは、一人としていなかった。

 サルコリはベネスから放りだされた者を警戒するが、この元戦士たちは、働かぬくせに気位だけ高く他のサルコリを蔑むので、サルコリたちは早くも彼らを嫌っていた。



 新月。

 彼らの天幕の並ぶ一角に近づく影がある。

 人影は二人、男女である。

 二人が真新しい天幕の一つに忍びいる。

 息を殺し、中の人間を確かめる。

 異臭に眉をしかめながら、横たわっている男の顔をのぞき込み、目的の人物である事を検める。

 音なく戸幕を下ろし、炉を吹き熾して灯りにする。

 片割れの男がその人物の上にまたがり、腕を押さえる。

 女が布を水に浸し、絞らずにその人物の顔に押しつける。

 男が目を覚ます。

 ラヴォフだ。

 息ができない。

 誰かが胸の上に乗り、体が起こせない。

「――――!」

 叫ぼうとするも声が出ない。か細い熾き火に浮かびあがる二人の顔が、ラヴォフの眼に映る。女の顔に見覚えがある。強引に関係を持った女だ。好きな時に抱き、それが終わるとさっさと寝床から蹴り出した女。自分の所有物のように欲望の捌け口にだけ使っていた女。

 その女が、ラヴォフに復讐に訪れた。

 男は、ラヴォフの知らない人間だった。夫である。ずいぶん前からラヴォフと妻の関係に気づいていたが、凶暴なラヴォフに手を出す事ができず、憤懣やるかたない日々を送っていたのだ。

 だがラヴォフが自身の愚行によりべネスをたたき出され、不具となり、誰からも顧みられずサルコリに落ちると、この機に煮えくり返った怨念を晴らそうと二人でこの天幕に忍び入ったのだ。

 驚愕に見開かれたラヴォフの眼。

 だが濡れ布巾にふさがれた口では助けも呼べず、重い障害を残した手足では男を払いのける事もかなわない。

 見下ろす男女の表情は、憎しみに満ちている。特に女だ。必死に抵抗したというのに、この男は力ずくで自分を汚した。それも笑いながら。

 女はラヴォフの言いなりになりながら、この日をずっと待っていた。

 この卑劣な男の命を、己の思うままに奪う事ができるこの夜を。

「―――! ―――!」

 抵抗するラヴォフを、二人は必死で押さえつける。ラヴォフの眼からは涙、口に溜まった唾液が気管に入り、喉が激しく痙攣する。鼻も口も濡れ布巾で押さえられていて、ろくに歯のない口では咬みつく事もできず、やがてラヴォフの視界は酸欠で黒く塗りつぶされてゆく。血が上った頭は割れるように痛み、喘鳴にあえぐ肺に空気が入ってくる事はない。

 見下ろす女の目に浮かんだ憎悪の色は、あの夜、ヤムナたちを殺した獣と同じものだった。

――奴だ、奴がこんな所にまで来た! 食い殺される! 誰か助けてくれ!

 混乱して、現在と過去が混濁した意識から発された悲鳴は、誰にも届く事なく、やがて恐怖の中幾度か痙攣し、ラヴォフの呼吸が停止する。

 程なく心臓も停止、瞳孔が開き、ラヴォフは絶命した。

 最後の瞬間、ラヴォフは命乞いしたかもしれない、哀れに謝罪して贖罪を求めたかもしれない、だがそれを聞くものはおらず、憎まれし罪人としてただ死んだ。

 その死をしつこいほど確認した後、夫婦は天幕を出る。

「ヒッ!」

 鉢合わせたのはトナゴである。

 人を殺したばかりの二人の目は、異様な輝きを帯び、夜目にも判る殺気を放射していた。

 おびえるトナゴを無言でにらみつけ、二人はべネスへと帰ってゆく。



 翌日、ラヴォフが死んでいるのがウハサンによって発見された。

 前夜目撃した一部始終を、トナゴは誰にも言わなかった。

 誰にも言えなかったし、この先も言う事はあるまい。

 一言でも漏らしてしまえば、あの二人は、次はトナゴをも殺そうとするかもしれない。

 そうなればトナゴはあのギラついた眼におびえながら、生きて行かねばならない。

 サルコリに落ち、どれだけ無様に思われようと、ラヴォフの様に無残に死ぬのは御免だ。

 恐怖から追われ、一度として立ち向かう事なく逃げ続けたトナゴ。

 魂が弱く歪ゆえに、何一つ成し遂げず、誰からも顧みられずにいずれただ死ぬ。

 それがラヴォフやトナゴの様な者の末路であり、この砂漠の掟なのだ。



 サルコリでのラヴォフの死は、自然死として、何の騒ぎになる事もなく処理された。

 その死は誰に知らされる事もなく、死体は弔われることなく、死肉鷲の巣の近くに打ち捨てられた。

 砂漠の信仰にしたがうなら、ラヴォフの魂は精霊になれず、永劫に苦しみつづける悪霊として砂漠をさまようだろう。

 死を悼む者は一人としていなかった。

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