〈三十三〉それぞれの原風景
カサが思いつめた顔で訊くと、ガタウは一拍おき、
「無論。死んだ戦士は忘れぬ」
ヤムナが死んで以来ずっと、カサは一つの罪悪感を抱きつづけていた。
もちろんヤムナだけではなく、カサの指導者であったブロナーの事も、ウォナとソナジの死も、カサの心に深い傷となりて、痛みつづけている。
しかしあえてヤムナの事だけ訊くのは、共に戦士となった中で、将来をもっとも嘱望されていた存在だったからだ。
ゆえにヤムナの死は、カサが戦士階級で犯した数々の過ちの中で、もっとも大きな損失なのだ。
「ヤムナは、」
次の言葉が、喉に詰まる。
「どれほどの、戦士になったと思いますか?」
これがずっと訊きたかった。
カサは、ヤムナが欠けた穴を充分に埋められたのか、それとも今のカサ程度では、全然力不足なのか。
――ヤムナなら、これくらいの事は簡単にするに違いない。
ガタウに与えられたどんな難関をくぐり抜け、どんな目標を達成しても、カサがどこかでそう考えていた。
ヤムナには及ばない。
お前の槍では、ヤムナの穴を埋められぬ。
頭の中で響くそんな声も、憑かれたように槍を振るいつづけた理由の一つではあった。
「お前と同じくして成人になったあの若者ならば」
カサが身を乗り出し、ガタウの言葉を待つ。
「大した戦士にはならなかっただろう」
「え?」
カサが怪訝な顔をする。
「ヤムナですよ? 大戦士長。僕と同じ年に、戦士になったあのヤムナです」
「知っている。お前の年では一番身体が大きく、有望とされていた」
勘違いしている訳ではなさそうだ。
「あの男ならば、やがては戦士長にはなれたかもしれぬ。だが、あのままの心持ちでは、二十五人長にはなれぬ。俺が戦士階級を率いるうちは、あの者に獣への槍は任せない」
「ど、どうしてですか?」
必死にヤムナの穴を埋めんとしていたカサにとって、ガタウの評価は聞き捨てならならなかった。
「身体の素質のみならば、あの若者はソワクにも劣らなかったであろう。体が大きく、力もあり、機敏さも持ち合わせていた」
ならば何が足らぬというのか。
「だがあの若者には、魂が備わっていなかった」
「魂?」
「己が戦士足りうる魂だ。飽く事なく己を鍛え、そして臆する事なく獣に立ち向かう。戦士の魂だ」
カサは黙り込む。
ヤムナにそれが欠けていると、考えた事もなかった。
「あの若者は、己の名誉にばかり気を取られていた。お前に強い妬みを持っていた」
ガタウの指摘に、覚えがあった。
「ソワクが優れているのは。己を過信せず鍛錬を厭わず、そして眼前の敵を見くびらない気質だ。邑にあって人の考えを読む賢明さをも持ち合わせている。次に戦士たちを率いる戦士は、ソワクを置いて他には居るまい」
ソワクは他人を評価するとき、自分の感情をおりまぜない。
努力をひけらかさず、だが鍛錬は決して手を抜かず、戦いにおいては決して諦めず、そして全てに対して潔い。
乾燥した風のように心地よい男らしさは、カサも尊敬する所である。
「お前の良い所は、ひたむきな所だ。体は小さいが飲み込みも良く、やれと言われた事は止めろと言うまで止めない。それが出来た者は、俺の見てきた数多くの戦士たちの中で、お前だけだった」
突然褒め上げられ、面映くなるカサ。
「初めての狩りで新顔戦士に与えられる牙を、あの若者が喜んで受けとったのを覚えているか」
「はい」
カサは重々しくうなずく。
「ソワクも同じく牙を差し出されたが、固く辞した。己の胸に飾るのは己が狩った牙だけと言い張り、戦士長になって終の槍をこなすまでは、最初に渡された牙を一本ぶら下げるのみであった。それがソワクとあの若者の差だ」
ガタウらしい率直な評価。
ヤムナは戦士長の器ではない、所詮はウハサンらのような愚物の頭領でしかないと断じたのだ。
「とはいえ真実は判らぬ。あの若者も、生きておれば槍に懸命なったやも知れぬ。だが所詮死んでしまった者だ。考えても生き返らぬし、槍も振るわぬ」
カサはつめていた息を、長々と抜く。
「はああああ……」
脱力。
訊いてしまえば呆気ない。
これまでの心労は何だったのか、こう言われてしまうと記憶の中のヤムナは、ソワクと比べてあまりに矮小に思える。
――ちがう。僕たち他の戦士とは比べ物にならないほど、ソワクが大きいのだ。
頼もしいあの広い背中。
カサがいかほど努力しても、追いつけるなどと思えないほど、ソワクは大きい男だった。
なぜか笑いがこみ上げてくる。
可笑しげに肩をゆすり、革袋の酒を口に含む。
ヨッカの造った甘い酒は口当たりよく、つかえが取れた喉に、滑るように落ちてゆく。
「大戦士長、いえ、戦士ガタウ」
「……何だ」
ガタウと呼ばれた方に、引っかかってしまうガタウ。
カサはなぜか楽しそうだ。
「戦士ガタウはもしかして、僕の名を知らないんじゃないですか?」
遠慮のない質問だった。ガタウが初めて見る変な顔をする。
――これは図星だ。
それがまた可笑しくて、カサは肩をゆすって楽しげに笑う。
この五年間以上に及ぶ師弟関係、その間、カサは一度も名を呼ばれた記憶がないのだ。
「………………………カサ、であろう」
これだけの間一緒にいて、名前すらきちんと憶えていてくれなかったとは、何と薄情な話であろう。
カサは笑い転げ、
「これからは僕の事を、名前で呼んでください。良いでしょう?」
まだ笑っているカサに、
「……分かった」
難しげな例の顔で、ガタウは了承する。それからカサの手から酒をひったくり、ぐっと飲む。
「……酒も、四十年ぶりか」
長いため息の後で、そう漏らす。
「四十年もの間、ずっと飲まなかったのですか?」
長く黙り込み、
「ああ」
ガタウは、渦巻く思い出の中に、己を浸しているようだ。しばらく何か考え込み、
「真実の地に赴き、俺は何もかも失った」
カサが、ガタウを見る。
「初めて俺が彼の地を目指したのは、お前と同じく女と連れ添うためだった」
遥かに狩り場の方角ーー真実の地を睨み、ガタウは語り始める。
誰にも明かさなかった、深すぎる心の傷を。
それは次のようであった。
ガタウには、想い合う女がいた。
二人は、人目を忍ぶ仲だった。
相手は巫女で、マンテウの後継者とされた優れた踊り手でであった。
関係が露見し、
二人はカサとラシェと同じように追い詰められ、
女との幸せをつかむため、ガタウは真実の地に赴いた。
そこは、地獄のような場所であった。
獣が荒れ狂い、砂塵と血風が空を濁す地。
これが真実だというのならば、
その地こそ、世界の真実なのだというのならば、
この世は永劫の地獄である。
ガタウはたった一人で何頭もの獣と闘い、退け、逃げ、斃し、その牙をもぎ取った。
そしてついに、世界の真実に触れた。
代償は、左腕。
今まで出会った事もないほど強大な獣に、ガタウは左腕を喰われてしまった。
千切れた腕を手にぶら下げ、ガタウは満身創痍で、邑へとたどり着いた。
だがガタウが戻る前に女は死んでいた。
胎に子がいたが、それも共に死んだ。
邑についた時、ガタウは瀕死だった。
大巫女すらさじを投げたほど絶望的な容態。
だが渦巻く怒りが、ガタウを長らえさせた。
真実の地を越え、世界の真実に触れたというのに、ガタウは何も望まなかった。
女と子が死んだ事で、ガタウの望みは宙に浮き、今日まで誰にも告げられる事はなかった。
単身真実の地に臨み、その試練を越えたガタウの名は、砂漠に響き渡った。
そこまでして得る事ができたのは、たった三本の牙。
砂漠に轟く名声も大きな牙も、ガタウにとっては何の価値も無い物であった。
命永らえたガタウは、ただ槍を鍛えた。
全てを奪ったこの地に、再び臨むために。
その執念だけが、ガタウを突き動かしていた。
「あれから長い時が経った。左腕も、女の死も、俺たちの子も、今や全てが遠き遺物と成り果てた。しかし俺は、俺が失った何かをあの場所で取り戻さねばならん。あの日以来それが、俺の生きる意味となっていた」
長い話が終わる。
他人からすれば、月並みな悲恋の物語であろう。
だが、目の前の男を知るカサにとって、それは、何にも増して重みのある歴史であった。
――ラシェは、大丈夫だろうか。
女が死んでいたというくだりが、カサの不安をあおる。
もしもラシェの身に不幸があったならば、カサは生きる意味さえ失くしてしまうだろう。
想像するだけで焦燥が胸を焼き、いても立ってもいられなくなる。
今すぐ邑にとって返し、ラシェの無事を確かめたくなる。
「案ずるな。あの娘ならば、心配はなかろう」
ガタウの声に、優しいものが含まれている。
カサとあのサルコリの少女に、若かりし日の己と恋人を重ねたのだ。
病弱なガタウの恋人とは違い、しかしカサに寄り添うあの少女の、何と魂の勁き事か。
気丈にガタウをにらんだあの眼。
今や名前すら思い出せぬ恋人も、あんな眼をしていたかもしれない。
「あの娘とは、どれ程の仲なのだ」
ガタウは軽い好奇心で訊いたのだが、
「え……!」
カサは絶句する。
何と答えにくい質問だろう。
「どれ程って、別に、それ程じゃあ」
要領を得ず、返事できないカサ。
「あんな騒動を起こす程睦まじいのだ。いつから体を交わし、いつ頃に将来を誓い合ったのだ」
ガタウが思いの外ずけずけと訊く。
「な、何もしていません! そりゃ、毎晩のように逢っていたけど……!」
聞いたガタウがものすごく怖い顔をして、
「毎晩逢っておきながら、体を交わしてもおらんのか」
酒精のせいか、たった二人でこの地に来たゆえの親密さなのか、今宵のガタウは妙に興味を前に出す。
「か、交わしてません!」
「何故だ」
なぜと問われてもカサなのだ、そんなに簡単にラシェを押し倒す事ができれば、世話など要らない。
「なぜって……」
カサは言葉を失うが、時を同じくしてラシェも同じ事を訊かれ、同じように恥ずかしがっていたと知れば、どう感じるだろう。
「だって、ラシェの事は、好きだけど、それでも、だから、大切にしたくて……」
あれこれとぶつくさと言い訳がましいカサ、ふとガタウを見ると、様子がおかしい。
「グッ……!」
奇妙に喉を鳴らし、肩をグイっとゆすった。
喉に地這い鳥の頭骨でもつまらせたのかと思う。
「グッ、グッ、グッ」
ガタウが、笑っている。
笑みを浮かべているのではない、肩を揺すって笑っているのである。
さも可笑しそうに、右手で作った拳を額に当てて、必死に声を押し殺しているのである。
「……戦士ガタウ?」
カサが心配して顔をのぞき込むと、ガタウが堪えきれずに噴き出した。
笑い声の大きさは、腹の力と肺活量に比例する。
体の弱ったマンテウの笑いはか細く、大柄な戦士ソワクの笑いは豪快である。
そしてガタウは、ソワクにも増して力強い男なのである。
つまり、
「ガァ――――ッハッハッハッハッハッハッハッハ!!」
カサがこれまで聴いた事がないくらい、どでかい声でガタウが笑い出したのだ。
「ハ――ッハッハッハッハッハッハッハッハ!!」
のけぞり、膝をやかましく叩き、目じりには涙さえ浮かべている。
ガタウの信じられぬ行動に最初は唖然としていたカサも、そのうちに我に返り、笑いつづけるガタウに抗議する。
「戦士ガタウ、笑いすぎではないですか……?」
「ハッハッハッハッハッハッハ!!」
「ガタウ?」
まだ笑い、さらに笑い、それでも笑う。
カサが膨れて酒を飲み干し、ふて寝しても、ガタウはずっと笑っていた。
カサは戦士階級で、いやこの砂漠でただ一人、ガタウに心ゆくまで笑われた男になってしまったのである。
この光景を目の当たりにすれば、ベネスにいる百人の戦士全てが目を剥いて引っくり返るであろう。
満ちゆく月が彼らを見下ろしている。
何を語るでもなく、明日の命をも知れぬ彼らを、ただ眺める。




