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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第五章 流転
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〈二十九〉奉る夜

 祭りの夜がやってくる。

 浮き立つ拍子で心を騒がせ

 踊りに没入させてゆく

 沈む太陽の向かいから

 昇り始めたあの満月が

 空の頂点に至るまで

 唄と踊りと炎と酒の

 魂の饗宴がつづくのだ



 祭りの開催を広場に集う邑人と共に待ちながら、エルはかつてないほど緊張している。

――ラシェのせいだ。

 ラシェが前日あんなに騒ぐので、こちらまで眠れなかった。

 カッとくると相手が邑長でも見境がなく咬みつくくせに、たかだか祭りで何を怯むのか。

――ラシェは今ごろどうしているのであろう。

 巫女たちは、祭りの直前まで姿を見せない決まりである。

 だからエルがラシェを見るのは、祭りが始まってからとなる。

 昔から祭りは大好きだったが、こんなにも心逸るのは初めてだ。

 エルがラシェを気にかけ始めたきっかけは、コールアとの衝突を目の当たりにしたときである。

――やった! あのサルコリ娘、凄い!

 ラシェがコールアを張り倒した瞬間、内心快哉した。

 エルはコールアが大嫌いだった。

 当然であろう。

 生まれが良いからとどの職にも属さず、好きなようにふるまうコールアを苦々しく思わぬ成人はいないし、見た目の麗しさを鼻にかけて男を次々と代えるコールアを嫌わぬ女はいない。

 トカレなどはコールアに同情しているが、心情的にコールアを好いている訳ではない。

 そのコールアを、ラシェは手加減無用で張りたおした。

 コールアの横暴ぶりを知らないのもあるだろうが、理不尽な暴力を前に臆せず立ち向かえるのは、ラシェの強さが為せるわざだろう。

――と、思うのだけれど、しゃべるとラシェは普通の女の子なのよね。

 しばらくラシェと一緒の時間を過ごしたが、いくら観察してもそこらの女の子と大差ない。

 見た目、薄汚れた服だけはサルコリらしいが、中身はやはり普通の女の子なのである。

 服といえば、カサが出立する日に着たあの水色のレキク、よく似合っていたのに、なぜかあれ以降一度も袖を通さず、汚れた服ばかりを着ている。

「私はサルコリだから」

 寂しげにいう。

 サルコリではカサと結ばれる事など許されないのに。

 やがてカサが帰れば、ラシェはサルコリではなくなるだろうに。

 だからエルは、今からでもラシェが綺麗な服を着ていた方がいいのではないかと思うが、

「私はサルコリだから」

の一言で、後は頑なであった。

 広場にはすでに篝火が灯され、邑人の多くが集い、櫓に巫女を待つばかりとなっている。

 空は東から暗色を強めつつあり、西の空の朱色が消えぬうちに祭りは始まるはずだから、もはや猶予はほとんどない。

――まだ来ないのかしら。

 同じ機織り階級、グラガウノの仲間たちと世間話をしながら待つ。

 昂ぶりが少し怖い。

 カサを誘った祭りでも、こんなに怯んだりしなかった。


  ゥオウゥッ……。


 どよめき。

 巫女たちが広場に面した天幕から整然と並んで出てくる。

 その最前列、アロの横にラシェがいる。

 珍しく、大巫女までが唄い手のやぐらの足元に姿を見せている。

 エルはそんな異変にも気づかないで、ただラシェの様子に気を揉んでいる。

「あれが……あの、サルコリの娘か……!」

 そのラシェを見て、邑人たちが感嘆の息をつく。

 巫女の祭り装束を身にまとったラシェは、神秘的であった。

 もとより生活感の薄い顔立ちである、それが純白の装束とあいまって、えもいわれぬ浮世離れした清純さをかもしている。

 白い肌はいつもに増して輝き、見た目麗しい者が多いとされている巫女たちの中でも、ラシェの涼やかさは際立って神々しい。

 まるで、生まれた時から巫女であったかのよう。

「たかがサルコリだ。すぐに使い古しの布のように、ほつれが出始めるさ」

 この期に及んで負け惜しみを吐く者も中にはいた。

――ラシェには、こういう服が似合うのだ。

 エルはため息をつく。

 そして気づいた。

 サルコリらしいボロを着れど、どうしてもラシェが普通の女の子に見えたのか。

 ボロを着たラシェに、違和感があったからだ。

 あの薄汚れた服は、ラシェの醸す風に合っていなかった。

 背筋を真っ直ぐにすっくと立つラシェの清廉さは、ボロを着せてもおおい隠せるものではなかったのだ。

――ああ、そういう意味の“綺麗”だったんだ。

 そう、ラシェはあそこで唄うべき人間なのだ。

 今までサルコリ娘と見くびっていた人間は、ラシェに対する印象を大きく変えざるを得ないであろう。

 自分もその一人でありながら、エルは痛快な気持ちになる。

 ラシェとアロが、共に櫓に上がる。

 二人の手を借り、大巫女まで上る。

 皆が驚いている。

――大巫女は、何をなされるつもりか。

 そして櫓の上にはアロ、ラシェ、そして大巫女がそろう。

 その下で、伴唄の巫女たちが櫓の足元を固める。

 打鼓と土笛の楽隊が彼女たちをさらに囲み、唄の態勢が整う。

 何かが始まろうとする沈黙に、吸い寄せられるように邑人たちが櫓に近寄る。

 夜空。

 大地。

 そして風が吹く。


「……邑を守る精霊よ。慈悲の御心でわれ等を導きたまえ……」


 大巫女、マンテウによる祝詞が滔々流れはじめ、アロとラシェが立ち上がる。

 アロは櫓の中央に進み出て踊りの準備を整え、ラシェは目蓋を閉じ息を大きく吸い込む。

 やがて祝詞が止み、土笛と打鼓から旋律がこぼれだす。

 それを追うように巫女たちが伸びのある声でさえずり始める。

 鍛えこまれた彼女たちの喉は、洗練された一つの楽器である。

 アロが、ゆるりと動く。

 踊りの始まりだ。

 そして、

――ラシェが、唄う……!

 この高揚はなんだろう。

 怖いような、待ち遠しいような。

 切ないような、嬉しいような。


 そしてラシェがついに

 体内に溜め込んだ唄を解き放つ。


  砂漠の全てを 知悉する

  精霊達に 耳を傾けよ


 “精霊の唄”だ。

 祭りの最初に必ず唄われる唄である。

 邑人たちは、一人残らず二人の巫女に見蕩れている。


  唄と踊りに 魂を乗せ

  邑を守る 御霊を誘え


 彼らが注目するのは、ただ一人の少女。

 誰よりも巫女らしい、巫女でない少女。


  それは危急を 知らせる風


 その名はラシェ。

 サルコリに生まれ、サルコリに育った少女。


  精霊達に 耳を傾けよ

  唄と踊りで その言を聴け


 “精霊の唄”が終わる。

 邑人たちは、自分たちが心を奪われ、踊る事すら忘れていた事に気づく。

 ホオウ……。

 陶然とため息が響く。

 何と鮮やかな唄声か。

 透明な力に満ちた伸びのある声は、懐疑的な邑人からもそうでない邑人からも、言葉を奪うほど魅了してしまった。

 たった一つ唄を唄うだけで、ラシェが櫓にいる事を疑問に思う者は消えうせた。

「なんと素晴らしい……」

 誰かが感嘆を漏らす。

 また伴奏が始まり、伴唄がつづく。人々は我に返る。

「皆の者! さあ踊ろうぞ! 今夜は祭りだ! 踊らぬ者に、精霊の祝福は授けられぬぞ!」

 誰かが言い、

「そうだ! この度の祭りの唄い手は、かつてないほど素晴らしいではないか! これで踊らねば、いつ踊る!」

 また誰かが言う。

 よく見るとソワクだ。

 なんと露骨な身内びいき。

 それでもエルは機嫌が良い。

 ラシェが皆に認められた事が、どうしてこんなに誇らしいのだろう。

 ラシェが唄い、アロが踊り、二人に引きずられて、皆が唄い踊る。

 エルがいて、ソワクがいて、ゼラがいて、ヨッカとトカレもいる。カリムと、その友達もいる。

 怒涛のように唄い踊る邑人たちを櫓から見下ろしながら、ラシェの意識は陶酔状態にあった。

 体は昂ぶっているが、心のもっとも深い部位、魂と呼ばれている場所は風紋のようにさざなみ、波打ちながらも冬の井戸水のように冷たく冴えたまま。

――私は今、唄の中にいる。

 魂でラシェはそう感じている。

 いつの間にか唄は五つ目を数え、“子のための涙を流す母の唄”が紡がれている。


  仙人掌を細く 震わせる風は

  子を亡くした 母の声


 胸をふくらませて風をため

 首をかしげて喉を笛に

 腰をくねらせて拍をもたせ

 手足の末端で響きを調節する。

 今ラシェは全身で唄を奏でる一つの音管装置だ。


  柔らかな腕の中から すり抜けた

  子の姿を求め 流離う声


 己が魂が、いまだ知らぬ領域にたどり着こうとしている。


  その声を聴いたなら 耳を塞がねば

  母は彼の者を 子と勘違いし


 そこにたどり着く事こそが、唄と踊りの目的であり極地である事を、ラシェは生まれる遥か前より知っていた。


  砂漠の果てに 連れ去るであろう

  そして彼の者は 永劫を流離うであろう


 自らそうとも気づかぬうちに、ラシェは踊り、アロも唄う。二人の踊りが同調し、唄が和し、その魂が遥かな高みへと上昇する。二人を遮る見えない遮幕は消え、反発は解け、アロのラシェに対する嫉妬も霧散する。二柱の巫女は螺旋を描きながら、たった一つの唄を形作る。そこには邑人もおらず、祭りも無く、唄と踊りすら存在しない。光のような、闇のような、雑音に満ちていながら無音の、表現しがたき混沌が二人を包み込み、

そして、


  生まれ

  存在し

  営み

  死ぬ 

  死と生の両極

  その圧倒的な意味が心に流れ込む

  二人ははラシェでありながらアロであり

  人を見つめる精霊であり

  全てが渾然した砂漠である


 気がつくと、息を切らして櫓の上にただ立っていた。アロがラシェを見、ラシェもアロを見る。

――今のは一体、何だったのだろう。

 邑人たちが呆然と座り、横たわっている。

 篝火も半分が消え、多くの酒甕が空になり、横倒しになっている。

 楽団も、今は誰一人旋律を作らず、拍子を打たない。

 天頂には、満月。

 祭りが終わったのだ。

 自分たちは、すべての唄を消費しつくしたのだ。


 そんなラシェとアロの後ろで、マンテウが満足げに笑っている。

 二人が精霊と対話した事を、この老婆だけは知っている。


 満月。

 風が砂を丸く巻き

 祭りの終焉を告げた。

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