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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第五章 流転
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〈二十八〉奉り支度

 祭りの前日である。

 邑の中央に櫓が組まれると、邑人たちの心には緩やかだが力強い祭りの囃子が鼓動を始める。

 みな独特の高揚の中にいる。

 一年(約三百日)でこの一夜だけ、邑人は階級や性別を忘れ、大いに飲み、唄い、踊り、心を解き放つ。

 人々はこの夜のために今日までのつらい日々を生き、そして魂の穢れを落とす事で、明日からこの厳しい砂漠を生きる気力を充す。

 今年の祭りで、人々が注目にしているものがある。

 ラシェの唄だ。

 誰もおおっぴらには言わないが、邑のそこかしこで騒ぎを起こすあのサルコリ娘が、一体どんな唄を聴かせるのかと、ある者は不安を口にし、別の者は期待に胸膨らませている。

 あのアロを押しのけて唄い手になったのだから、相当な巧者に違いないとか、いや所詮サルコリだとか、いやいやあのカサが、唄声にほれ込んで恋人に望んだらしいなどと、好き勝手に噂している。



 当のラシェも、かつてないほど緊張している。

 初めはカサ一人の前でも緊張したのだ。

 千人を超える邑人たちの前で唄うなどという事態に、冷静でいられようはずがない。

――どうしようどうしようどうしよう!

 恐怖のあまり混乱するラシェ。

 このまま邑を逃げ出してしまおうかと、本気で考え始めている。

「少し落ち着いたら?」

 エルがうろたえるラシェに呆れ顔で言う。

 最近エルは、ラシェの天幕によく来る。

「だって、だって落ち着けないよ! だって、明日はみんなの前で唄わなければならないんだよ?」

 だってだってと喧しいラシェに、エルも音をあげ、

「そんなのずっと前から判っていたことだわ。まあ、くれぐれも失敗しないようにね。もし失敗したら、笑ってあげる」

冷たく突き放し、ラシェの天幕を出る。

「ま、待ってよエル! 一緒にいてよ!」

 しがみつくラシェをふり切り、

「こっちはこっちで祭りの緞帳の用意があるの。大変なのは皆なのよ」

付き合っていられないと仕事へ行ってしまう。

 ラシェが本格的にあわてだす。

 煩悶し、懊悩し、苦悩し、そしてついにアロが迎えに来て、哀れラシェを巫女の天幕に連れ去ってしまう。

「カリム、あのね、今夜はね」

「お姉ちゃんいってらっしゃい」

 涙ぐみ助けを求める視線を送ってくる姉を、カリムがつまらなそうに欠伸して見送る。

 これからラシェは、一晩かけて巫女の天幕で祭りの準備をする事になるのだが、独りぼっちの夜も、カリムはまったく寂しがってくれないようだ。

――なんて薄情な弟なんだろう!

 ベネスに来てカリムはずいぶん逞しくなり、甘えんぼが見違えるようだと喜んでいたくせに、こんな時だけご都合である。

 やがて無情にも天幕にたどりつき、大巫女の前に、売り飛ばされる奴隷よろしく突き出されるラシェ。

「脱いで」

 いきなりなのである。

「ど、どうして?」

 愚図愚図と何とか引き伸ばしを図るラシェに、アロは容赦しない。

 文句ばかり言う腹立たしいサルコリ娘の汚い事極まりないボロ衣装を数人がかりで無理やり剥ぎ取り暴れようとする手足をそんな物知るかと押さえ込み清めの香油を砂ギツネの丸焼きを仕込むがごとく一片の遠慮もない手つきで全身くまなくこれでもかこれでもかと塗りたくるとラシェもついに抵抗は全くの無駄と悟りついには丸焼きにされる砂ギツネのごとく両手を上げ身動きをやめてされるがままにさせた。

 ラシェが終わるとアロである。

 自ら純白の巫女衣装をはらりと優雅に落とし、巫女や見習いの娘たちに香油を塗らせる。

 三十そこらであろうその体の線は、豊満なくせに緩んだ所がなく、香油の光沢とあいまって官能美の化身のような陰影を見せている。

 栄養が不足気味に育ち、女らしさにまったく自信のないラシェは胸元を隠して羨ましそうにアロの体を見ている。

 アロの勝ち誇った笑いにカチンと来たが、負けは瞭然。

 ほかの巫女たちもたがいに香油を塗り終えると、次は祭り装束の着付けである。

 踊りが優雅に見えるように、たるみと幅を大きく取り、絞るところは絞って女性的な華奢さを際立たせている衣装は、ラシェがこれまでに見たどんな衣装よりも華やかである。

 周りの巫女たちが着付けを終えた姿は、鮮やかな清潔さをもって目に迫り、

――この姿を、カサが見たらなんて言ってくれるだろう。

そう考えずにはいられない。

 やせぎすのラシェが着てアロのように似合うかどうかは、本人ですら疑問に思っているが。

 巫女たちが終わると、最後は大巫女である。

 同じ工程を経て、身奇麗にされてゆく老婆を眺めながら、自分にも何か手伝えないだろうかとウロウロするが、

「じっとしていなさい」

 ぴしゃりアロに叱られてしまう。

 大いに不満顔だが、正装となると帯すら自分で締められぬラシェにできる事はない。

 終わると、小さな祭壇が設けられ、大きく灯した焚き火の前で、祈祷が始まる。

 祭壇の最前に大巫女、そのすぐ後ろにアロとラシェ、そして巫女、巫女見習いと並ぶ。

 火の前で長々と精霊への祝詞を述べつづける大巫女に、ラシェはしだいに欠伸を我慢できなくなる。

「……ねえ、これはいつまでつづくの?」

 小声でアロに聞く。アロはラシェをにらみつけて、

「話しちゃ駄目」

 またぴしゃりと言われる。

 祈祷が止み、二人が首をすくめる。

 再び霊詞を述べはじめる大巫女の後ろで、アロがとても嫌な笑いを浮かべて、

「明日の朝まで、この儀式はつづくわ。寝るのはその後。祭りまで、巫女は声を出しちゃ駄目だから、もう喋っちゃ駄目。良いわね」

「……明日の朝!」

 悲鳴を上げそうになるラシェを、アロが物すごい目でにらみつける。

 神聖な儀式をこれ以上冒涜するなという視線である。

 だがラシェはそれ所ではない。

――このまま、明日の朝まで寝られないって事?

 もちろん、寝られないという事なのである。

 明日の祭りのために、あらかじめ邑を守る精霊を呼ぶこの儀式は、祭りの前段階として無くてはならない重要な工程なのだ。

 ラシェは絶望する。

 絶望しても祈りはつづく。

 いっそ卒倒してしまいたいが、打たれ強いサルコリの体は、そう簡単には卒倒してくれない。


 運命や巫女のしきたりや、そして自分を丈夫に産んでしまった母を、ほんのちょっとだけ呪いながら、ラシェは長すぎる夜を、耐えに耐える。

 満月に一日足りない月が、笑ってそれを見ている。

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