〈十四〉死の手
月明かりに、黒き毛づやが濡れたように光る。
ノシリ、獣の前肢が彼らとの距離をつめた。
一人残らずいたぶり殺すつもりだろう。
コブイェックは殺戮を愉しむ。
ザッ!
だがその前進を、ブロナーが制した。
獣の行く手をふさぐように現れ、その鼻先に油断無く槍先を向ける。
「構えろ!」
一喝するが、誰も動こうとはしない。
「このまま喰らい殺されたいか! 貴様らも槍を構えよ!」
再び怒鳴られ、皆が慌てて槍を構えた。
チャ!
不揃いに並んだ槍先を鳴らし、一団は獣と対峙する。
獣は足を止め、値踏みするように彼らをねめ回した。
目が餓狂い、ヅラグとよばれる金色している。
獣のもっとも危険といわれる状態だ。
その瞳の向こうにチロチロとくすぶる食欲に、みな慄く。
「ヒッ、ヒッ、ヒッ!」
今にも窒息しそうな呼吸はトナゴだ。集団の最後尾、他の者に隠れるように、腰が引けたまま槍を顔の前に突き出している。
望むところだと嘯いていたシジも、震える槍先をおびえた様子で見ている。
シジだけではない、気の強いヤムナやラヴォフでさえ極度の怯えは隠せない。
――くそ、拙いぞ。
この遭遇は、コブイェックとの遭遇を軽視してしまったブロナーの責任だ。
――もっと早くに引き返させるべきだった。
今さら省みても仕様がない。今は、いかにしてこの窮地を切り抜けるかだ。
だがブロナー以外の手勢は、幼さの抜け切らない新顔の戦士たちばかり。
状況は絶望的だった。
――どうしよう。
麻痺した頭で、カサは眼前にあぎとをむいて待ち受ける死を、強く予感する。
――このままじゃ、みんな死んでしまう。
全身にいやな汗がどっと噴き出す。手元に槍がやけに重く頼りない。
ゴクリ。
つばを飲む音が耳の裏で、居心地悪く響く。
「……フォッ! ……フォッ!」
耳ざわりな獣の息が、牙のまわりで湯気と化す。
何度も見たはずのその牙の長さに、あらためて戦慄を覚える。
あの牙を持ってすればカサの身体など、あっという間に噛み砕かれ、引きちぎられてしまうに違いない。
何をすべきか、カサは必死で考える。
――獣を、悩ませなくては。
下手に動けば獣の攻撃本能を刺激するだけだ。
カサはとっさに浮かんだ考えに、自分の運命をを委ねた。
「オッ、オオオッオオオオオオオオオオオオッ!」
一の鬨声。
ブロナーのすぐ右に乗り出したカサが、腰だめに槍を構え、必死で声を張り上げた。
重圧に今にもかき消えそうな声だったが、それがこの少年の精一杯で、もちろんこの巨大な獣を怯ませるほどの力は無い。
――この小僧! 何をしていやがるんだ!
先ばしるカサに、息を殺していた新顔の戦士たちが苛立ちをあらわにする。
だが、カサはやめない。
「ヤアアアアアアアアアアアアアアア!」
小さな身体で、渾身声をふりしぼる。
「オイッ、止せッ……!」
「カサッ……! この腰紐抜け……!」
獣を刺激せぬよう、ウハサンやヤムナが後ろから擦れ声でカサを制止する。
「ハー! ハー! ハッ! ハッ!」
声が、身体の芯から出はじめた。
「イヤー! アー! ヤヤヤヤヤ!」
「クソッ! カサッ……! 静かにしろ…!」
彼らのひるみとは裏腹に、ブロナーはカサに活路を見い出した。
――そうだ、これは狩りだ。
自分一人でこの窮地を乗り越えねばならない、その意識がブロナーの心を追い込んでいた。
――これは、狩り、ならば必要なものは明白。
ブロナーは戦士、そして目の前の獣は獲物なのだ。
いかなる相手であろうとも、戦士が狩りを前に逃げ出すことは出来ない。
狩りこそ、戦士の存在意義なのだ。
――この餓狂いを、狩る。
ブロナーは腹を決めた。彼を苦しめた恐怖は彼方へと去り、覚悟の種火が身体の奥の炉に火を点す。
「オオオオオオオオオオオオオオオオ!」
ブロナーがカサに唱和する。
「声を出さんか! 貴様らも戦士なのだろう!」
ブロナーの一喝に、一瞬の動揺。そして、
「ヤアア!」
「アア、アアアア!」
「ヤアアアアアアアアアアアアアアア!」
声に声が、重なってくる。ヤムナが、ラヴォフが、ウハサンがカサたちにつづく。
「ハー! ハー! ハッ! ハッ!」
さらにシジとウォナが、もう幾人かが加わった。
「イヤー! アー! ヤヤヤヤヤ!」
「ヤヤヤ……」
最後にトナゴが、及び腰ながらもつづく。
全員が、一つ唄を謡う。
戦士の狩りの始まりだ。
一の鬨声を奏じると、瞬間、餓狂いが戸惑うように首を巡らせた。前進を止め、困惑したようにぐるりとその場を回る。
二の鬨声をうなり、彼らは勢いづいた。
三の鬨声で強く吐気すると、彼らはがぜん勢いづく。
――いける。
絶望を必死に拭い去ろうという前向きな思考が、ようやく彼ら全員に芽生える。
四の鬨声で唱和がまとまりを見せはじめる中、ブロナーは槍に集中する。
――急くな。急いては槍を正しく穿てぬ。
今のこの勢いは、枯れ葉を焼いたような細い火だ。
ツェズン、つむじ風のひと吹きにも耐えられまい。
大切に時間をかけて、この火をもっと大きなものに移さねばならない。
――それには包囲だ。
「ヤムナ! ラヴォフ! 前に出ろ!」
ブロナーが叫ぶ。
左右から二人が進み出る。ヤムナのほうがやや堂々としているか。
「三組に分かれろ! ヤムナは単独で背後を取れ! ウハサンとシジは右に回りこめ! ソナジとウォナはラヴォフにつづいて左だ!」
戦士達は恐る恐る、獣に気圧されながらも左右に展開する。
「正面、一番槍は俺が行く! 左手ラヴォフを筆頭に二番槍! 右のソナジとウォナは三番槍だ!」
ラヴォフが面々を見た。その目には恐れ、そして決然とした怒りがある。
「終の槍はヤムナ! 背後に回れ! 狙いどころは背骨のすぐ左、肺の下にある心の臓だ! よいな!」
気合の乗った声で、ブロナーが指示をとばす。
「カサとトナゴは俺の背後! 槍は低くかまえ、コブイェックの目につけよ!」
カサが三歩さがり、トナゴはオドオドと引けた腰で歩を進める。
が、獣から見て半身が隠れるよう、ややブロナーの背後に位置している。
内心舌打つブロナー。
わずかな頭数の中では、この二人ですら戦力。幼いカサですら必死に声をふりしぼり槍をかまえているのに、包囲が完全でなければ、一番槍を仕損じてしまうのに。
――トナゴはこの有様か。もはや居ない物とするしかない。
今すぐ槍を捨て、その緩んだトジュの腰紐を絞り上げてやりたいがそんな余裕は無い。
目の前の餓狂いに意識を集中する。
最も重要なのは、一番槍。
獣のうごきを縫いとめる役割をはたす。
つづいて重要なのが、終の槍。
獣の息をしとめる、締め一撃。
この二つが完全でこその狩りなのだ。
しかしブロナーといえど、一番槍は一度もなく、終の槍も数えるほどしかない。だがそれを悟られては、戦士たちの士気にかかわる。
――落ち着くのだ。俺がうろたえれば、皆ここで命を落とす。
恐怖にしびれそうな意識を沈静させようと、大きく、そしてゆっくりと息を吸い、吐く。
ス――――、
フ――――、
ス――――、
フ――――。
鼻から吸い、口をすぼめて吐く。手負いのコウクヅのように暴れ、跳ね回っていた心音が、少しずつ静まる。すべり下りてくる脈拍を、軽く握った槍を持つ手に感じながら、ブロナーが小さく足を踏み出した。一同を風のように緊張が駆け抜ける。
――狩りが、はじまる。今までで最も絶望的な狩りが。
カサの喉が、潤いを求めてグルリと動いた。すでに口の中は干からび、飲み下すつばもない。
「オオオオオオオオオオオオオオオオ!」
ひときわ大きな声を上げる。
「ヤアアアアアアアアアアアアアアア!」
ゴロゴロと耳障りな獣の吐息を、絞り出した声でかき消そうと誰もが必死だ。
「ハー! ハー! ハッ! ハッ!」
後のない状況が、彼らの気持ちを一つにまとめていた。
「イヤー! アー! ヤヤヤヤヤ!」
一段と大きく、唄が響きわたる。
ジリ……。
ブロナーが距離をつめる。気圧されたコブイェックが前肢を上げ、二足立ちになる。
「ゴアアアアアアアアアアアア!」
威嚇のひと吼え。
そびえたつ圧倒的巨体に、新顔戦士たちが本能的に恐怖する。
ブロナーが不敵に口許をゆがめた。
――いい流れだ。
一の槍を入れるには、獣を後ろ肢で立たせなければならない。
そのために戦士たちは周りをとり囲み、槍を高々と振りあげるのだ。
ジリ……。
またブロナーが半歩つま先を進める。
餓狂いとの距離が2イエリキ(約6メートル)を切ろうとする。
カサの体の芯が震えた。
ドクドクとこめかみで感じる血流が、拍子を早める。
――大丈夫。大丈夫。
おのれに言いきかせ、懸命に心を静める。
――大丈夫、戦士長にまかせていれば大丈夫。
そうしてこれまで無事にこれたのだから、今もそうしていればいい。
ブロナーが自分を守ってくれると約束したのだ。
カサだけではない、すべての戦士たちがブロナーと餓狂いの対決を、息を呑んで見つめている。
ブロナーがまた距離をつめた。
これで彼我の間は、2イエリキ(約6メートル)を大きく割った。腰にかまえた槍先と餓狂いの間には、6〜7トルーキ(2メートル強)の空間しかない。
――もう二歩。
一番槍までの距離をそう測る。
鬨声に気づいた仲間が駆けつけても、ブロナーと餓狂いの対決は決定してしまっている距離だ。
槍尻をにぎる手が汗でヌルついている。
いざ突き込んだ時に滑ってしまいそうで、一度槍を離して腰布で拭いたくなる。
――クソッ。
些細な事が気になるのは、眼前の相手に集中できていない証拠だ。
忌々しげにブロナーは餓狂いを睨みつける。
眉間を寄せると、油っ気の多い汗が右目に入る。
反射的に片目が瞑ってしまった。
汗を拭いたいがそれも出来ない。
――こんな時に。
焦ってはいけない。
自分の目も手のことも頭から締め出して、ブロナーは目の前の巨体だけに意識を集める。
そしてまた一つ足を運ぶ。
――もう一歩。
ギリギリまで張りつめた、千切れ飛ぶ直前の弦のような恐怖と闘志のせめぎあい。
いつの間にか唄が消えてしまったことに、誰も気づいていない。
餓狂いと正対するブロナー。
まばらな円を描いてそれを取り囲む戦士たちの血走った目。
その中心で荒い息をつき飢えた牙を見せる餓狂い。
「ゴルルゥ……、ゴルルゥ……」
威嚇をこめたコブイェックの喉鳴りが、警戒のうなりに変わる。
閉じられたこの世界の中に他の物音は、何一つない。
ジ……リ……。
最後の半歩をブロナーが踏む。槍を腰だめに低くかまえ、コブイェックの右後ろ肢付け根に狙いを定めた。
――やるのか?
――本当に突くのか?
ブロナーが一の槍を打てば、一気に槍ぶすまで狩りを完遂させなければならない。
一瞬の足並みの乱れがこの場全員の命を奪う、それが狩りなのだ。
ブロナーが腰を落とす。
――完璧なる一の槍をこの手に……!
半ばまで腹に息をため、
――戦霊たちよ、我に力を……!
止め、
――……!
滑り込むように槍先を餓狂いに突き込もうと前方に体重をかけた
その瞬間。
「ヒアアアアアアアアアアアアア!!!」
悲鳴。
――誰だ。
槍を投げ出して逃げてゆく太った背中、その戦士の名は
――トナゴ。
戦士たちが動揺し、包囲が崩れる。
殺戮が始まった。