〈二十五〉衝突
ラシェが食料を受け取りに行った、ある昼である。
その日に出る食料の余り、根菜や燻製肉の歯切れなどをサルコリに与える場所があり、ラシェもそこにお世話になっている。
ソワクに頼めば、邑人たちと同じようにカラギの世話になる事もできたであろうが、それをよしとしないのがラシェである。
「こんにちは」
挨拶をすれども、誰も返事をしない。
特別扱いをされているラシェと目を合わせるサルコリはいない。
ここでもラシェは孤立無援である。
だがこうなるとラシェは気丈だ。
ふて腐れてしまえば誰かの思う壺、ラシェは返事がない事を知りながらも、挨拶を欠かさない。
いまだ返事は返ってこないが、ソツキなどはそれでも人目のない時は話しかけてくれたりする。
それはラシェにとっても、数少ない元気づけられる材料である。
この日ソツキには会えなかったが、ラシェは気にした様子を見せず自分の天幕に帰ってゆく。
その際、カラギの作業が行われている天幕が並ぶ間を通るのだが、そこでラシェは初めてコールアと出会った、それは次のようであった。
ラシェが天幕のそばを通るときに、ヨッカと目が合った。
カサの一番の友人だというヨッカは、カサに聞いていた通り、とても親切にしてくれている。
毎日のようにラシェたちの元を訪ねては、何か食べ物を置いていってくれる。
そしていつも、
「何か足りない物はないか。困っている事はないか」
そう訊いて、事あるごとに手を貸してくれようとする。
カサが帰ってくるその日まで、ラシェたちを守ってくれようというのであろう。
もちろん親切はありがたい。
――できるだけ誰の手も借りずに生きよう。でなければ、サルコリはいつまでも無駄飯食らいのままだ。
ラシェにはラシェの矜持がある。
それに従って生きる事で、ラシェは自分に誇りをもてる。
だからラシェのヨッカに対する返答は、いつもこのようであった。
「ありがとう。でも、物は足りています。気は遣わないでください」
ヨッカはもどかしかったであろう。
今この時に、命を危険にさらしているかもしれないカサ。
ラシェはヨッカに目礼だけで通りすぎる。
目障りなサルコリの娘と親しくしているという話が伝われば、ヨッカにも迷惑がかかってしまう。
ヨッカは少し何か言いたげな顔をするが、委細承知してラシェをそのまま行かせる。
そしてラシェが、カラギの天幕を通り抜けようとしたその時である。
「みすぼらしいわ」
ラシェの前方をさえぎる影。
白と黒の衣装に、派手な刺繍の入った太い帯。
背はカサより少し高く、ラシェよりも高い所にある目が、傲岸にこちらを見下ろす。
ラシェはピンと来る。
――これが邑長の一人娘なんだわ。
多数の男をとっかえひっかえしているという、邑で噂の放蕩娘。
――確かに顔立ちは、美しいけれど。
だが、その裏にある荒んだ空気が、ラシェには良い印象を与えなかった。
邑長の権力と生来の派手さ。
そういった薄っぺらな物にしがみついている中身の無さが、透けて見える。
こういう手合いは相手にしても仕方がない。
ちょうど仕事の忙しい時間で周りには人目が多く、揉めていい事は何一つ無い。
ラシェが無視して脇を通り抜けようとした時である。
「どこへ行くの? 穢れたサルコリの娘」
ラシェの歩く前をふさぐ。
こちらを逃がさない構えだ。
皆の前でサルコリをいたぶろうというのである。
ラシェは莫迦莫迦しくなり、
「……どいてくれない」
ラシェがコールアを真正面から見たその時である。
パンッ。
乾いた音が鳴る。
そしてバラバラと、抱えた荷物が地に落ちる音。
頬を押さえたラシェが、地に伏している。
苛立ったコールアが、生意気なサルコリ娘を叩き、それから突き倒したのである。
「サルコリは、サルコリの中で生きるがいいわ。穢れた者は、穢れた中で生きるべきなのだから」
動かないラシェに、勝ち誇ったようにコールア。
転がる燻製肉のかけらを踏みつけ、
「カサはあなたなんかが想いを寄せても良い人間ではないの。だってカサは、誉れある戦士なのだから」
ラシェがゆっくりと立ち上がり、体についた砂を払う。
「分ったら」
コールアが肉片を踏みにじる
「早くここから消えなさい」
完全に貶めの言葉。
これまでラシェの存在がずっと気に入らなかった。
これでこのサルコリ娘も身の程を知り、自分の住処へ逃げ帰るだろう、満悦顔のコールアも、見物していた邑人も同じように思った。
「フン」
コールアが鼻であざ笑う。
だが、見下したラシェの目に、強い光が宿っている事に、コールアは気づかなかった。
パァン!
さっきよりもはるかに大きな音。
悲鳴。
コールアが倒れる。
皆、愕然としている。
コールアは言わずもがな、燻製作業の半ばのカラギたちも、機を織っているグラガウノたちも、駆け回る子供や、それを追いかけるソワニたちも、たまたま通りかかったザンゼといった者たちも、みな動きを止めて騒ぎの中心の二人を見ている。
頬を押さえ、驚愕の目で相手を見つめている豪奢な邑長の娘と、それを受け止めなお悠然と立つ、汚い服をまとったサルコリの娘。
ラシェが、コールアを力の限り張り飛ばしたのだ。
ありえない光景である。皆が目を見張るのも無理のない話であろう。
「……な、にを……!」
屈辱に打ち震えながらコールアがラシェの狼藉を言いたてようとするが、ラシェの気迫に呑まれてか細い声は言葉にならない。
背も体格もコールアの方が豊かで逞しいのに、今ここに立つラシェは、それを凌駕して余りある威圧感がある。
赤い大地を踏みしめる両の足、伸びた背筋とぴしりと張られた胸、そして凛とした表情にその瞳、向けられた者が涼しさを感じるような切れ長の目に宿る黒い瞳が、物理的な力を持ったようにコールアを圧倒している。
「……あなたが今踏んだその肉は、」
ラシェの声も震えている。
だがそれは怒りによるものだ。
「カサが命を賭けて狩った肉よ……!」
ラシェがこぼした食料を拾い上げる。
コールアが怯えてビクリと身を震わせる。
踏みつけにされた肉から砂を払い、ラシェがコールアを見下ろす。
「カサや、カサの物を踏みつけにするなんて、許さない。もしもまだあなたがこの肉を踏みつけにしようとするのならば……」
そこで言葉を切り、怒りをにじませた声で、
「……私はあなたを、殺すわ」
――私が、殺される?
傷つけられる意味を思い知り、そしてその先に死があるという実感が、コールアをさらに怯ませる。
だがラシェは、それ以上の事は何もせず、無言で自分の天幕へと去っていった。
一部始終を見ていた邑人たちの中に、コールアと同じ歳の娘の姿がある。
エルである。
エルはグラガウノ(機織階級)に属しており、今起こった二人の衝突を、すぐ目の前で目撃してしまったのだ。
当然、二人の会話も聞いている。
聞いてはいるが、信じられない内容であった。
――サルコリが、邑長の娘を叩くなんて。その上脅すような言葉を吐くだなんて。
それはあってはならない事なのである。
コールアといえば、邑では誰もが恐れていた女なのだ。
邑長の力が弱まったとはいえ、あのコールアが打たれたままでいるはずがないのに、
――なのに、あの子はどうしてあんな事ができたのかしら。
コールアが怖くないのであろうか。
サルコリだから、邑長の怖さを知らないのであろうか。
それともサルコリだからこそ、人を平気で打つのだろうか。
コールアがよろけつつ立ちあがり、やがて呆然とした顔でどこかへ消える。
それを見て、人々はホッとしたようにざわめきを取り戻す。
「驚いた。まさかあのサルコリの娘が、やり返すとはな」
「まったく、サルコリというのは礼儀も知らぬ。だがあの鼻持ちならない邑長の娘も、これで少しは静かになるやも知れぬ」
「しっ。そのような放言は後が怖いぞ。衰えたとはいえカバリの娘、何をしてくるやも知れんからな」
無粋な笑い声が上がる。
エルは黙々と機を織りつつ何かを考えている。
この一件により、エルの中でラシェの存在が変化した。