〈十九〉掟を越える者
邑が騒いでいる。
表向きは平静を保ち、邑人は皆いつもと変わらない風を装うが、その内側には何十年ぶりという邑を沸かせる事件が進行している。
戦士カサによる、真実の地へと向かう試練。
この物語は、やがて砂漠全域に伝えられるだろう。
カサは、あの戦士ガタウの手塩にかけた弟子なのだ。
砂漠の試練を見事乗り越えた、生ける伝説、あの戦士ガタウのすべてを継ぐ者として。
そして風が吹き、カサが邑を立つ日が、来る。
そのとき、もう一つ大きな風が吹くのだ。
前夜、カサは長たちの集まる、戦士のセイリカ(大天幕)に呼ばれた。
ガタウに言われた物、食料、槍身、槍先、革紐や革袋、そして槍を持ち運びしやすいように改良した背負子、それらすべての用意を終え、カサは言われるままにこのセイリカまで持ってきた。
「来ました」
「入れ」
大きな戸幕をよけて、中に入る。四人の二十五人長、そして二十人の戦士長、カサの代理として、ラハム、皆が座って待っていた。
彼らの面々を見て、カサは胸が熱くなる。
孤立無援のカサとラシェを救ってくれたのは、彼らなのだ。
邑全体を敵に回す事も厭わず、カサに手を貸してくれた。その事に対して、カサは言葉にできないほど、感謝の気持ちであふれている。
カサは座る一同の前に進み出、
「みんな、有難うございます。僕なんかの為に……」
「もうよい、カサ」
直接の上役に当たるバーツィが、頭を下げるカサを手で制する。
「荷物を置いて、座るがいい」
カサは言われた通りにする。
「それが、大戦士長が用意しろと言った物か?」
ソワクだ。
「はい」
カサは恭しくうなずく。
見回すと、妙に気の抜けた空気。みな尻の座りの悪い顔をしている。
件のガタウがまだ来ていないのである。
皆を集めたのが、ガタウであるにもかかわらず。
時間に厳しいガタウである。遅れるなどという話はついぞ聞かない。
バッ。
戸幕がはじかれたように跳ねよけられる。
「皆揃ったか」
噂をすれば、ガタウである。
皆が言葉を失っている。
ガタウは、カサが持ってきた物と、まったく同じ荷物を背負っている。
その意図をすぐに察し、ラハムがつめ寄る。
「大戦士長ガタウ、どういうつもりか!」
呆気に取られていた他の者たちも、その意味に気づき、
「大戦士長!」
「な、何を考えておられるのか!」
騒然とする一同を前に、ガタウはまた信じられない行動に出る。
荷物を背負ったまま、口元をぐいと持ち上げたのだ。
皆が声を失う。
今ここに獣が乱入しても、これほど驚かなかったかもしれない。
――大戦士長が、笑っている。
そう、あのガタウが戦士たちを前にして、笑っているのだ。
不敵に、いや悪戯っぽくとも取れる笑いである。
「俺は、真実の地にゆく」
カサについて、自分も向かうと言う。
「何を言われるのだ! 大戦士長たる身でそのような勝手が、まかり通ると思われるのか!」
「カサが心配なのは判るが、考え直してくれ!」
「大戦士長! 我らにはまだ、大戦士長が必要なのです!」
熱くなる戦士たちの中で、冷静なのはラハムだ。
「確かに真実の地には、一人で向かわねばならないという決まりなどないが」
真実の地に一人で向かい、帰ってきたのは、ガタウだけ。
多くの場合、
「だが何も、大戦士長が行く事はあるまい。皆の言う通り、考え直してはくれまいか」
だがガタウは、顔に笑いを貼りつかせたまま、
「ついて行くのではない。俺が行きたいから、行くのだ」
そしてこう言い切る。
「誰も俺を止める事はできぬ」
その目がすっと細まる。
「砂漠の真実を手に入れた者には、一つだけ、掟を越える事を許される」
皆は何が言いたいのかと、互いの顔を見合わせる。
「俺は、砂漠の真実を手に入れた時に、掟を越えることを許されている身なのだ」
「あ……!」
声を上げたのは、ラハムだ。
当時の事情を知るのは、戦士階級では今やラハムただ一人だった。
「そうか……あの時……!」
ううむとラハムが唸る。
ガタウが邑に戻った時、全ては失われていた。
ゆえに、ガタウの願いはこの数十年の間、行使されず宙に浮いたままになっていたのだ。
「今の話、真実か」
訊いたのは、唯一沈黙を守っていたソワクだ。
ガタウがカサについて行くという話には、納得している顔だ。
「……うむ」
悔しそうに、ラハムがうなずく。ガタウを止める手がないと知り、己が腹立たしいのだ。
「もうマンテウ(大巫女)には伝えてきた。許しは得ている」
それでもう、誰も何も言えなくなる。
言い出したらきかないガタウである、説得が無駄なのは皆が知っている。
誰もが歓迎しがたい面持ちである。
ガタウなのだ。
これまで永きに渡って彼らを導いてきた、比類なき最高の戦士。
それが今、彼らの元を去るという。
生きて帰ってこれるかどうかも判らぬ所へ行くと言うのだ。
これを惜しまぬ者がいようか。
ガタウが、大戦士長として最後の言葉を与える。
「ソワク」
ソワクは立ち上がり、
「はい」
ガタウの言葉を待つ。
「明日からお前が、戦士たちを導くがいい」
意味は単純にして明確。
大戦士長の座の禅譲である。
誰もがその言葉に込められた重さに、耳鳴りを覚えるほどの重圧を覚える。
――これで、戦士階級は変わってしまうのだ。
ソワクを頂点とした新たな戦士階級。
皆が予期し、そしてやがて来るであろうと思っていた未来の唄。
それが今突然現実になった。
「戦士九十五名の命、全て任された」
この日を、唯一覚悟していたのはソワクだろう。
ガタウに最上礼を示し、それを受ける。
大役をまかされた身内に、奮えるような重みを知る。
「これにて俺は、大戦士長ではなく、ただ一人の、戦士ガタウとなる。皆、しぶとく生きよ」
背を向け、天幕から出てゆく。
「だ、大戦士長……!」
カサがその背に追いすがろうとしたが、半ばで足を止めてしまう。
「お前が行かずとも、俺は行く」
ガタウは歩みを緩めず、振り返りもせず、戸幕の向こうに姿を消す。
ここ数年激動のつづいたべネスの戦士階級で、もっとも大きな事件が静かに起こり、そして閉じる。
これより戦士階級は、再編成へと向かうであろう。
だがそこに、ガタウの姿はない。
残された彼らは、まだ動けない。
この大きな異変を受けいれるには、今しばしの時間が必要だった。