〈十七〉カサの選択
天幕の中にカサを引き入れて、ラシェはまたあわてる。
――どうしよう! カサと二人っきりだわ!
自分で誘っておいて、どうしようもないものである。
カサはラシェに勧められるまま腰を下ろしており、いまさら出て行けとも言えまい。
あわててカリムの姿を捜すが、その頃にはもう石を蹴ったり棒を振り回したり、新しくできた友達と楽しくやっている最中だ。
逃げ場のないこの事態にラシェはまた慌てふためき、途方に暮れる。
「ラシェ、綺麗だ……」
カサが唐突につぶやく。
大胆な発言に、ラシェも驚いたがカサも驚いている。
「な、何言っているのよ! もう!」
「ご、ごめん……」
ラシェは怒って見せているが、内心は天にも昇るような嬉しさと恥ずかしさの狭間にある。
「カサも、昨日、私のために……」
立ち上がってくれて嬉しかった、という一言を、中々口にできない。
ラシェの返事を待たずにカサが、
「ラシェの天幕には、色々な物があるね」
せまいウォギを見回しながら、嬉しそうにいう。
「そんな事ないわ。普通よ」
胸の高鳴りを抑えながら、カサの天幕の中を思い出すラシェ。
「カサの天幕が、寂しいだけだよ」
槍と、夜具と、そのほか最低限の物しかないカサの天幕。
贅沢品は、壺につめた茶ぐらいのものか。
確かにラシェの天幕内は、べネスに比べると物が多い。
食料以外の何もかもを、自分で用意せねばならないサルコリの生活圏内が、雑多になるのは仕方のないことだ。
そこでふと気づく。
もしもカサが獣を狩って、ラシェが家の事をすべてすれば、二人だけで生活できるのではないか。
――カサと、たった二人での生活が……。
夢のような考えに、ラシェはしばし浸りきってしまう。
何一つ、しがらみに縛られない、カサとの二人っきりの毎日。
その思いつきがあまりに楽天的と知りながらも、ラシェはがあまりに幸せな夢想を切り上げられない。
大体、狩りは一人でできるものではないし、それに幼いカリムをどうするというのだろう。
ラシェはなんとか現実に戻る。
カサは、まだ物珍しそうに天幕の中を見ている。
心配事のかけらもなさそうなカサに、ラシェがちょっと膨れる。
――本当、子供みたいなんだから……!
ウロウロと落ち着き場所を探していたラシェだが、意を決して、カサの前に座す。
ペタン、そんな座り方だ。
「ねえカサ」
ラシェの強い瞳を真っ向受け、カサはひるむ。
二人の関係において、上位はラシェである。
「本当に行くつもりなの?」
カサの顔に緊張が走る。
答えはもう、決まっている。
それも、昨日今日決めたのではない、去年の狩りで、イサテのパデスから話を聞いて以来、カサの中でずっと渦巻いていた希望である。
――真実の地に赴き、世界の真実に触れて、ラシェと結ばれる。
その困難の大きさを、何度考えた事であろう。
だがそれを乗り越えねば、カサにもラシェにも未来はない。
――この先、誰の目を気にする事もなく、ラシェと一緒にいられる。
矛盾した話だが、もしもそれが叶うのならば、カサはこの命を投げ出しても良いとすら思っている。
この先一生、などと贅沢は言わない。
たった一日、ラシェとすごせるならば、カサはそれで本望だった。
だがその言い分がどれ程正くとも、邑に残されるラシェにとってはただの身勝手に思える。
沈黙を守るカサに、焦れだしたラシェが、問い詰めようとした時である。
「居るのか」
地響きのような低い声。
カサが反射的に中腰になる。
「――います」
カサは立ち上がり、ラシェに済まなそうな視線を投げかけて、戸布をくぐる。
そこには、射るような目のガタウ。
カサの様子を見に天幕を訪ねるも誰もおらず、付近の者にヨッカとのやり取りを訊いてここに来た。
そのヨッカとソワクが、彼らの様子を見ており、息を詰めて成り行きを見守る人だかりを、その後ろに背負っている。
「もう作業は終わったのか」
叱責を覚悟し、カサが身を縮める。
「――はい」
深呼吸を一つし、
「ならば、次の作業だ」
ガタウが踵を返す。
「まって!」
ラシェがそれを止める
呼び止めたのはカサではない、あろう事かガタウだ。
「ラシェ……!」
とどめようとするカサを無視し、
「カサを、どうする気なんですか!」
ラシェがガタウに食いつく。ガタウは足を止めるが、振り向かない。
「どうしてカサを連れて行こうとするんですか!」
連れて行く、という言葉に、ガタウがピクリと反応を見せる。
「いいんだ、ラシェ……!」
「良くないわ! だって、死んじゃうかもしれないのよ!」
そっと押しとどめようとするカサだが、それで止まるラシェではない。
騒ぎに気づいた近辺の天幕から、人々が顔を出す。ソワクもいる。
「カサは、行かせない!」
カサをかばうように背にやり、ラシェがガタウに叫ぶ。皆、驚いている。
例のサルコリ娘が、今度はあの大戦士長にかみついているのである。
それも、敵意をむき出しにして。
あの邑長カバリでさえ、ガタウに対峙する時は、かなり気を配っていたというのにだ。
だがラシェは臆する事なく、今度はガタウに挑みかかっている。
ガタウが振り向き、ラシェの目を見る。
歴戦の大戦士長の威圧感に、ラシェは気圧される。
この世の底まで通ずるような深い穴。
光さえ返さぬガタウの目は、底なしの井戸孔のような、得体の知れぬ怖さがあった。
「ラシェ、いいんだ」
カサはまた言うが、ラシェが引くはずもない。
「カサは、誰にも渡さない……!」
そのときガタウの目が、すっと細くなる。その奥に、剣呑さを増しながら。
――殺される……。
ラシェの直感がそう叫ぶ。
邑長カバリさえひるんだ、ガタウの殺気。
それを強烈に感じながらもラシェは、ガタウをにらみ返す。
膝が震え、脂汗がどっと出る。
歯の根が合わず、カチカチと音を立てる。
だがラシェは、背中にかばうカサを渡そうとはしない。
――死んでもカサは、渡さない!
ラシェは勇気を振り絞り、カサを守ろうと必死の構えをみせる。
その真剣さに、ガタウの顔がふと緩む。
微妙な変化にカサは驚く。
刹那、まるでガタウが微笑んだように思えたのだ。
気のせいであろう、あのガタウが、微笑む事などあろうはずがない。
ガタウは背を見せて、
「それを決めるのは、俺ではない」
結論をカサに預け、歩き出す。
カサは迷い、そしてラシェをそっと退けて、ガタウの方に歩みを進める。
「……カサ……?」
ラシェは傷ついた顔をしているだろう。
「カサ!」
泣き顔を見る勇気が、カサにはない。
「行かないでカサ……」
ラシェが泣く。
「行かないでよ! カサ!」
恋人が、自分ではない何かを選ぼうとしている。
「行ったらもう、帰ってこれないんだよ!」
カサの心に刺さる槍は、ラシェの涙声だ。
「カサが行っても、私は幸せになんてなれないよ!」
ガタウは歩き出す。カサはそれに着いてゆく。
「もしカサが死んでも、私はカサ以外の人なんていらない!」
今振り返れば、カサはもう行けなくなるだろう。
「私は、ずっとあなたを想うから! だから、絶対に死なないで!」
カサの拳が力の限り握りこまれている。
「カサが死んだら、私も死ぬから!」
カサは歩く。
一歩ごと心臓を、貫かれるような痛みに堪えながら。
「カサ!」
一瞬歩みが遅くなり、
――僕が行かなきゃ、ラシェに、平穏な日なんて来ないんだ。
そしてカサはもう、迷わなかった。
後に残されたラシェは、ずっとそこで泣いていた。
吹きさらしの、風の中で。