〈十三〉冒険
「遅えぞ」
闇の中で誰かが言った。声からするとウハサンだろう。
「カサのやつがブロナーに気付かれそうになって……」
トナゴが早速カサに責任を押し付けた。
「ゴメン」
素直に謝るカサ。
「まだ来てない奴は?」
「ウォナとシジが」
「オイ。俺は居るぞ!」
ウォナの声。
満ちゆく月明りでかろうじて人影はわかるが、岩陰に潜む皆の顔は判別しずらい。
「シッ、でかい声出すな。じゃあ残るはシジだけか。アイツはいい加減だからな。絶対に一番最後だと思ってたよ」
ヤムナがそう言うと、みな低く笑う。冒険前の興奮が、彼らを包み込んでいる。
「来たぞ」
体を低く保った人影が近づいてくる。シジだ。
「オウ」
「遅えぞ」
なじるように、ウハサン。
「そうか?」
シジは気にした様子もない。誰かが笑い、カサもこっそり含み笑いした。
「行くぜ。夜が明けちまう」
ヤムナにつづいて、他の者たちも立ち上がる。
足早に野営地から離れ、南に回りこんで、巨石のゴロゴロと転がる狩り場にそろって足を踏み入れた。
その様子を、離れて見守る者がいる。
ブロナーだ。
カサたちの後を尾けて来たのだろう、巧みに闇を拾いながら彼らの後につづく。狩り場に入る段階で止めようか迷ったが、今しばらく見過ごす事にした。
この手の肝試しは、若い戦士たちの間で毎年必ずのように行われる。
――血で思い知るまでは。
ブロナーはしばし躊躇したが、狩り場もさほど深くまで踏み込まねば、そうそうコブイェックには遭遇しまいと我慢を決め込むことにした。
自分がまだ新顔戦士だった頃を思い出しながら、ブロナーは彼らを追う。
何か小動物の二三でも狩るのを待ってから退散させよう、こんな早くから水を差すこともあるまい。
「オイ、そろそろやばいんじゃないか?」
一番に弱音を吐いたのはトナゴだ。
「うるせえトナゴ。黙ってろ」
「あんまり深く行くと、コブイェックが出ちまうよ」
「おもしれえじゃねえか。そん時は俺たちで狩っちまおうぜ」
「無、無理だよ。戦士長も居ないのに……」
いい加減痺れを切らしたラヴォフが、
「うるせえ! 黙ってねえとテメエから狩っちまうぞ!」
本気で恫喝されて、トナゴはしゅんとする。
「見ろよ、まだカサのほうが肝が据わってるぜ。なあ、カサ!」
「ウ、ウン」
ラヴォフに肩を抱え込まれて気の無い返事を返すカサ。それをトナゴが恨めしそうににらむ。
「オイ静かにしないか。獲物が逃げちまう」
ヤムナの叱責も、
「ハッ」
とラヴォフは意に介さない。
生来の気質で、ヤムナに強い対抗心を持っている。
それをねとつく視線で遠巻きに追うのがウハサンだ。
機を見るに敏なこの男は、いつでもヤムナのそばに居る。
「シッ」
斥候右側のウォナが静止し聞き耳を立てる。
獲物の気配を感じたのだろう、カサもわずかな獣臭をかぐ。
つられて他の戦士たちも、ウォナの視線の先を注視する。砂ギツネ、いや甲殻四足獣だろうか。まさか、コブイェックということは有るまい。それならばもっと強い獣臭がある筈だ。いやしかし、微風ながら風上は隊列の横方向だ。湿った夜気――ティランが獣のまとう強い獣臭を散らしているのかもしれない。
動揺が広がり始めた頃、キッ、小さな鳴き声とともにウォナの足元に小さな影が走った。
「ウワ!」
大げさに何人かが飛びのく。間髪入れず白い槍が走った。
ガッ!
硬質の槍先が、早足に地面をはいまわる影を地面に縫いつけた。
赤砂ネズミだ。胴を貫かれ四肢をひくつかせている。
大きさは長い尻尾あわせ半トルーキ(約17センチ)弱。ちょこまかとせわしなく動くが噛まれても軽い怪我で終わるので、子供の“戦士ごっこ”などによく追い掛け回される小動物である。
「腰紐が抜けてるぜウォナ。小物だ」
槍先に刺したまま赤砂ネズミを掲げて、ヤムナが言った。
「ハア、赤砂ネズミかよ。脅かしやがる」
照れ臭げに、ウォナ。
「そりゃお前の方だぜ、この槍先外れめ!」
「変な悲鳴上げやがって! 女みたいな奴だ!」
ウォナにつられて飛び上がった者たちが、自分たちの怯えを打ち消すように怒鳴る。
「ヘヘヘ」
周りの揶揄にも軽い照れ笑いだけで応じる。
「なんだよ、なんか出たのか?」
及び腰のトナゴ。
隊列の最後尾、トナゴとラヴォフに挟まれたしんがりの真ん中から、カサは見た。前衛たちが飛び上がる中、ヤムナが事前に槍を構え、うす暗闇の中獲物をしとめるのを。
――やっぱりヤムナはすごい。
その一瞬の判断に、カサは感心していた。
自分では、とてもああは行くまい。
ウォナよりも大きな声を上げて飛び上がってしまうかもしれない。
今でさえ逃げ出したいほど縮こまっているのだ。
「俺ならもっと早く仕留めてやれるのによ」
ラヴォフが忌々しそうに漏らす。
そんな風に、姦しい新顔集団は知らず知らず、狩り場もかなり奥まで足を踏み込んでいた。
幾度か夜行性の小動物に仰天させられ、巣穴で丸まっている中型の灰色ウサギを一匹狩りした辺りであった。
――そろそろ声を掛けるか。
いい加減ブロナーが見切りをつけ始めた頃である。
最初に気づいたのはカサ、嗅ぎなれた、それも最悪の臭いが鼻をつく。
ーーコブイェック、それも、さっきと同じ臭いだ……!
「おい。なんか変な臭いしないか」
「……これは、おいヤムナ!」
先頭集団が足を止める。ヤムナとウハサン、中央の二人がそれに追いつくのを、カサは落ち着かない気持ちで見た。
――さっきの臭いは、赤砂ネズミなんかじゃなかった?
まとわりつくような視線。
考えれば分かる、小さな砂赤ネズミのはなつ程度の臭いなど、隊列なかばのカサにそうそう届くものではない。
――だとしたら……まさか、獣はずっと僕らを追いかけていた?
その考えに、首もとがゾワっと総毛立つ。
どこからだろうか。稜線に隠れて、もしくは八方に転がる巨石の裏側、いや、鞠草転がる闇の向こう、いや違う。
――もっと……もっと近い!
気配を感じて背骨周辺に悪寒がはいのぼり、一瞬で呼吸が苦しくなる。
慌てて槍を構えるカサを、ラヴォフとトナゴが不思議そうに見ている。
ブロナーもそいつの気配を感じていた。
彼らに追いつこうと足を踏み出したその時、風向きが変わる。
方角にあわせて向かいから吹く風が、気まぐれに群れ鳥座からの横風に変わる。
スェレズン――やや湿気を含んだ夜の風が、スェガラン――獣の臭いを含んだ風に変じた。
――いかん!
「オイ!!」
前を行く集団を呼び止めようとしたその時だった。
ズルリ。
闇の中から、
真っ黒な巨体が、
隊列の横っ腹に
その凶暴な姿を現した。
全員が息を呑む。
その距離3イエリキ(約9メートル)、縄張りの中なんてものじゃない、一息で殺戮できる範囲に獣がいる。
怒れるその目を見れば解かる。細かく途切れるその荒い息を聞けば解かる。力の入ったその肩を見れば解かる。
――同族でも殺し合う距離だ。
一度その様子を、ブロナーは見たことがある。
発情期を外れて出会った雄と雌だった。相手の喉にガッチリと牙を食い込ませた雄は、雌が絶命するまでその顎を寸時たりとも緩めはしなかった。飛び散る血とめくれ上がった喉笛と千切れた毛皮、相手の死に満足したその雄は、満足げに後ろ足で立ち上がると、大きく咆哮した。同属でも躊躇なく喰らい殺す強烈な闘争本能は、ブロナーのような古強者でさえおののかせた。
そしてその黒く巨大な、飢えの狂気に駆り立てられたその獣は、あの時のように後ろ足で立ち上がると、満天の星空めがけ、大地の支配と殺戮を宣言するがごとく、長く大きく吼えた。
「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
純黒の毛並みと純白の長い牙を持つ巨大肉食獣。
コブイェック。
夜の王。
その圧倒的な威圧感の前に、誰一人動ける者は居なかった。