〈十五〉厄介の数
夫が大きな荷物を背負ったサルコリの娘と男児、そして何十人もの邑人を引き連れてきたのを見て、ゼラは仰天する。
一体何が起こったというのだろう。
大地のどこをどう踏み、どんな風が吹けばこんな大袈裟な事態がまかり起きるというのであろう。
さっきまでは平和な一日が順調に進んでいるだけであった。
今では見当もつかない事態に巻き込まれている。
とはいえそこで人生云々と考え出すほど、ゼラは尻の重い女ではない。
子を三人も産み、四人目を授かっている母である、この程度で驚いていては戦士の妻など務まらない。
「一体なんなの?」
ゼラが夫にだけ通じる顔を見せる。
この顔を見せられたとき、ソワクは何もかもの説明をゼラから強要されるのである。
「いや、それが俺にも良く解らん」
摩訶不思議な顔をして、ソワクが首をひねる。
どうやら夫も持て余しているらしい。
「で、お客は、そこの二人だけだよね」
後ろの数十人がみな関係者と言うのならば、それはもうゼラの手に余るのである。
「ああ。そこだけは間違いない」
ソワクはまだ首をひねっている。
事態についていけないのは、ソワクとて同じであるらしい。
ゼラはラシェとカリムを招きよせ、
「取りあえず、二人とも中に入りなさい。荷物はそこに置いておいて、ソワク。あんたはこの鬱陶しい人だかりを払っておいて。まったく、気が静まらないんだから」
「で、でも……」
ラシェは躊躇している。
このように大きなバライー(家族用天幕)に足を踏み入れた事もないのがその理由の一つなのだが、それよりも荷物を目の見える所に置いておきたいのだ。
「大丈夫、誰も盗ったりはしないよ」
ラシェの躊躇を察してゼラ。だがその意味を、ラシェは
――こんなに汚い天幕、誰も盗ろうとしないという事だろうか。
そんな邪推もゼラにはお見通しだったようで、
「ここは戦士階級二十五人長の、ソワクの天幕よ。その客の荷物に手をつける不届き者なんていやしないから、安心なさい」
わずかに言葉を交わしただけだが、ソワクと呼ばれたこの大男に、皆が敬意を払っているのラシェにもは分かる。
「……分かった」
恐る恐る荷を降ろすと、カリムもラシェの隣で荷を降ろし、どこかへ走ってゆく。
「あ、カリム! 待ちなさい!」
「放っておきなさい。子供は遊ぶのが仕事よ」
ゼラがそれを押しとどめる。
「それとも、あの子にも聞かせたい話なのかい?」
首を振るラシェ。
ゼラが天幕の中から二番目の子と下の子を追い出し、
「お昼まで遊んでらっしゃい! お昼になったら、あの子も連れて帰っておいで」
あの子とはカリムであろう。
走っていったゼラの子らは、まだ三歳と二歳だが、ゼラの言葉を聞いた誰かが二人を連れて帰ってきてくれるだろう。
子供の世界にも、掟はあるのだ。
「入りなさい。遠慮なんてしないで」
いつの間には、ソワクは人払いを終えている。
すっかりゼラに主導権を握られた形で、ラシェが天幕の中に入る。
分厚い戸幕をあげるのにてこずりながら転がり込むと、中にはゼラとは別に女が一人いた。
若く美しい女だ。
むこうもこちらに視線を送りながら戸惑っている。
「そこに座って」
ゼラに促され、若い女の斜向かいに座る。
まじと見るとゼラと良く似ている。
エルである。
ゼラの妹で、歳はラシェより一つ上になる。
ラシェはエルの事など知りもしないが、エルはラシェを知っていた。
カサの恋人の、美しいサルコリの女。
あのカサが、サルコリ女を救うために邑全体を敵にまわしたというから、それは話題になるだろう。
邑の女の関心を独り占めしているカサを、独り占めしている女、それがラシェなのである。
エルもまた、カサに心惹かれる一人だった。
――この娘が、カサの、想い人……。
不躾な程まじまじと見てしまう。
美しい女だと聞いていたから、まずラシェの持つ涼やかさに拍子抜けする。
噂など当てにならぬものである。
きっと皆、カサがそれだけ惚れたのだから、美しくなければならぬという先入観でもあったのだろう。
実際目の前にいるラシェは、美しいという形容は的外れである。
醜い訳ではない。
顔立ちは整っているが、いうなれば端整、いや、清廉という言葉の方がしっくり来るであろう。
一方のラシェは、エルの視線に、モジモジしている。
面識のない人の天幕の中で、面識のない人間と膝をつき合わせているのである。
カサを挟んだ恋敵の二人が、お互いの存在を持て余しているところに、ソワクが帰ってくる。
ウー。
どうしてか睨みをきかせるラシェに困り果てながら、ソワクはその前に座る。
火にかけた何かの湯を、ゼラが人数分の椀に注いで配る。
カサの所で飲んだ物よりもずいぶんと薄いが茶のようである。
ラシェは真っ先に口をつけながらも、ソワクから目をそらさない。
何で自分ばかりこんな目にあわなきゃならんのだと、ソワクは莫迦莫迦しくなりながら、自分の茶に口をつけ、それからラシェに訪ねる。
「それで、俺のせいでどんな目にあったんだ?」
ラシェが、何かあわてて喋ろうとして舌を焼く。
「しぃ、あつっ……!」
「おい大丈夫か?」
「あなたゾーカの所で、私がカサの、その……!」
恥ずかしくて、とても言えない。
冷静に考えると、こうしてべネスまで乗り込んできた事の方がよっぽど恥ずかしいはずなのだが、そっちはそっちで後回しだ。
「結婚する」
「そうよ!」
「するのだろう」
「し、しないわよ!」
ラシェはそこから声を落とし、ものすごく小さな声で、
「……今は」
とつぶやく。
最後の部分、ソワクには聞こえなかったが、エルには聞こえた。
エルがムッとラシェをにらむが、ラシェの視線はあっちを向いていて、その睥睨にまるで気づいていない。
「そのせいよ! あたしが、カサと結婚するだなんて言ったせいで、天幕をつぶされちゃったのよ!」
「どうして天幕がつぶされるんだ?」
「戦士と結婚したら、私がベネスの人間になるとでも思ったのよ!」
なるほど。
ようやくソワクにもつかめてくる。
つまりラシェを妬むものが、サルコリの中にもいる、という訳だ。
ソワクはため息をつく。
誰かが幸せになれば、それを妬む者が出てくる、それは集団において当たり前の心の働きであろう。
――俺もまだまだ思慮が足らんな。
ソワクはがっくりとうなだれて言う。
「すまん。俺の手落ちだ」
あんまりあっさり謝られて、ラシェは調子が狂う。
しかし、謝りながらも、言うべき事は言わねばならぬとソワク。
「だが、そのゾーカとか言う男をそこで懲らしめておかねば、またお前の元に災いの手が届いたかも知れぬ。必要が生じてあの物持ち男にきつく言い聞かせたのだ。そこは理解しろ」
「それは、ありがとう、だけど……」
毒気を抜かれて、ラシェにもこれ以上強く言い張る事ができなくなっている。
「だけど、謝られても……私たちには、天幕を張る場所もない」
ラシェは、途方にくれる。
「そうだな……ともかく、お前たちの住む場所を考えねば」
ソワクは考え、
「ここに住むか?」
「無理よ」
即座に却下したのは、ゼラ。
今ここに住むのは、ソワクとゼラと、幼子二人。
カリムはともかく、ラシェの寝る場所がない。
よしんば無理をして住んだとして、ここではラシェはくつろげない。
「じゃあ、隣に天幕を建てろ」
皆が呆れる。
ソワクは何を考えているのであろう。
ここはベネスの土地で、ラシェはサルコリなのである。
天幕を組む材料すべてを持ってきてはいるが、ここに組み立てるのはあまりに掟破りであろう。
どこか安全な場所を確保してもらおうと押しかけただけなのに、そう抗議するも
「そうは言うが、今のお前に安全な場所などないぞ」
ソワクは言う。
「サルコリで疎まれ、ここでもサルコリのお前は疎まれるだろう。どこに建てようと逃げ場はない。ならばここに建ててしまうしかない。ここならば俺の目が届くし、そうそうつまらん目にも遭わんだろう」
そこまで言われると、なんとなくそんな気になるものなのだが、ラシェはまだ躊躇している。
だがソワクはラシェのためらいなどに気を揉まない。
「そうと決まれば、さっさと組み立てるか」
表に出て、ラシェの荷物を探り出す。
「ちょっと! 待って! 待ってってば!」
「あきらめな。こうなったらこの人、周りの言う事なんて訊きやしないわ」
ゼラである。
「それに、ここなら確かに誰も手を出せないわ。あんたカサの想い人なんだろ? だったらあの人も、目の届く所に置いておきたがるよ。なんてったって、カサはソワクの大のお気に入りなんだから」
言葉の端々に、あきらめと達観が見える。
「おい! エルも手伝え! そこの布を取れ! そう、そうだ。おい何してんだ! お前の天幕だぞ。お前が手伝わないでどうするんだ!」
戦士長らしく張り切って指示を飛ばす。
かくて邑のど真ん中、ソワクの立派なバライーの横に、ラシェのぼろ布の塊のような天幕が並び立つ事となった。
――もうどうにでもなれよ。
ここまでベネスに踏み込んでしまったのだ、やけっぱちになるしかない。
ソワクが張り切ったおかげで、見る間に天幕は組みあがってゆく。
足蹴にされたものの、骨組みが無事だったのは幸いだと、ラシェは無理やり前向きに考える。
一緒に手伝ってくれている、エルという娘の視線が妙に険しいのが気になったが。
また人が集まってくる。
もうソワクも追い払わない。
だからラシェも気にしない事に決めた。