〈十三〉拒絶反応
ラシェが明け方、自分の粗末な天幕に戻った時に、隣のサルコリ女とちょうど鉢合わせた。
ソツキ、という年増の女で、ラシェとは親しくしていた一人だ。
だがラシェが挨拶しようとすると、ソツキはさっと目をそらし、無言で去っていった。
その様子が、まるでラシェから逃げるようで、しばらく呆然と立ちすくむ。
――何だったんだろう。
気を取り直し、まだ朝早いうちに水を汲みにゆくと、そこでもサルコリ女たちが、ラシェを気まずそうに無視する。その様子が、あまりにもあからさまである。
何となく、ラシェも気づき始めている。
――私は、避けられている。
思い当たるのは、やはりカサとの事だ。
だがそれで自分が避けられるというのは、どういう事か。
――何か、私の知らない出来事があったのだ。
気まずくも水汲みを続けながら、嫌な胸騒ぎを覚える。
自分の天幕へ戻ると、カリムが眠たげに目をこすり、ラシェを待っていた。
「もう起きたのカリム。すぐにご飯を作るから、少しの間待っていてね」
だがカリムから返ってきた言葉は、思いもよらぬものであった。
「お姉ちゃん、カサとけっこんするの?」
危うく汲んできた水をこぼしそうになる。
ーー心臓が口から跳びだすかと思った。
「え、カ、カリム、どうして、どういう、なんで……?」
ラシェは仰天してしどろもどろ、まともに言葉も出てこない。
「だって、みんなそういってるよ?」
「エ……?」
みんなとはやはり、今朝会ったあの女たちの事だろうか。
話が広まるのが早すぎる。
――真実の地に、ゆくがいい。
重苦しい、あの年老いた戦士の声が心に反響するする。
あの人が、カサがいつも言っていた大戦士長なのだろう。
戦士たちを率いる、戦士階級の最高権力者。
サルコリにすら、その名を知らぬ者はいない。
「お姉ちゃんは、カサとけっこんするの?」
服のすそをつかむカリムの小さな手を引いて、天幕の中に導きながら、
「……しないわ。私は、誰の妻にもならない」
勝手に真実の地へ行くと決めたカサに、ラシェは一抹の反発をおぼえる。
カリムが残念そうな顔をする。
それから、食事の用意を始めるラシェの手元を見ながら、
「カサって、やさしいね」
今度は鍋を取り落としそうになる。
「カリム、カサに会ったの?」
弟がカサを名前で呼んでいる時点で、ラシェは何か気づくべきであった。
「きのう、あいにいったら、やりで皮のふくろをつついてたよ。それからカサがたのんでくれて、ベネスの子供たちとあそんだの。それから二人でここにかえってきたの」
呆気に取られる。
特にカサがここまで来た、という所でラシェは絶句した。
継ぎはぎだらけのこの天幕。
それは、いつも綺麗なショオとトジュ、織り上げて何年もたっていない一人用の天幕を持つカサとの、大きな隔たりのような気がして、ラシェは身を隠せる所があったらどこでもいいから隠れたい気持ちになる。
――こんな天幕を、見られた……。
ラシェがその場にへたり込む。
――何も、ここまで来なくてもいいのに!
そのおかげでラシェは、カサに救われたのだが、それはそれ、これはこれ。
「はい、カリム。早く食べなさい。今日はカサの所に行っちゃだめよ」
「いやだあ。今日もいくんだもん」
「だめよ!」
八つ当たりである。
カリムがぶっすり黙る。
いたたまれぬ羞恥に身もだえしながら、ラシェはいつもより乱暴にカリムに食事をさせる。
カリムもいつもより怖い姉に、今日はいい子にしている事にする。
隙あらば、またカサの所に行こう、とも企んでいる。
朝の仕事をあらかた終え、ラシェは天幕を出て、昨日カサに助けられた枯れ谷に足を運ぶ。
グディとラゼネーに絡まれ、六人もの戦士たちに押さえ込まれ、汚されそうになった記憶に顔をしかめ、ラシェは地面にへばりつくように何かを探す。
手には太い棒。
また何かあれば、危害を加えようとする者を、それで追い払うなり何なりしようというのであろう。
――あ……!
目当ての物はすぐに見つかった。
赤い木片。
昨日ナサレィに捨てられた、戦士の浮き彫りが彫られたものだ。
――よかった……。
ラシェは涙が滲むほど安堵して、それを拾い上げ胸に抱く。
カサに逢えない間、ラシェにとってこれがカサの形見になるのだ。
これを無くしてしまう事は、カサとのつながりを失ってしまう事に等しい。
胸元で握りしめた木片が、ラシェの手の温みで少しずつ熱を持つ。
その熱が、カサの体温のように思えて、ラシェは愛しさに胸が締めつけられる。
――カサ……。
「ラシェ……?」
「わああ!」
唐突に名を呼ばれ、ラシェは反射的に木片を振り上げる。
「どうしたんだい?」
「あ、何だ……ソツキ」
そこにいたのは、今朝方ラシェを避けた三十女だ。
「あんた、戦士と良い仲なんだって……?」
人目をはばかりながら、ソツキが問う。
対するラシェは、初心である。
「エエ、な、何? どうしてそんな話になっているの?」
「ゾーカの奴だよ。あんたが、戦士と通じてるって、言いふらして回ってるんだ」
ゾーカの名に、襟首がぞわっとあわ立つ。
そうだ、ゾーカはいまだにラシェを狙っているはずだ。カリムだって危ない。
だがそっちの不安は、次のソツキの言葉に消し飛ぶ。
「昨日の晩に何人も戦士が来て、さんざん怖い目に合わせたらしいよ。あんたに手を出すと、とんでもない事になるって脅かして帰ったそうさ」
「戦士……」
カサだろうか。
「五六人いたんだって。みんな身なりのしっかりした男たち。戦士の長じゃないかって。グディとラゼネーも随分な目を見たようよ。しばらくは乱暴もできないだろう。いい気味ね」
ざまあみろと言わんばかりに笑うソツキの様子に、ラシェはとりあえず胸をなでおろす。
だが、安心するのは早かった。
「それで、あんたが戦士の嫁になるって噂がたっちゃったんだ。僻みっぽい連中が、あんたの事を悪く言ってる」
それで皆が、妙によそよそしいのだ。
ソツキがあたりを憚りながら、声をひそめる。
「中にはあんたの事、どうにかしてやろうって連中もいるんだよ! だからあんた、さっさとここから逃げ出さないと! 何とかその相手の男の所にでも、転がり込んじまいな!」
あまりの驚きに、地面がグラリと揺らいだ。
ラシェが走り出す。
天幕には、カリムを残したままだ。
もしカリムに何かあれば、ラシェはもう誰も許せないだろう。
息切れし、手足が重くなるまで走って、やっと天幕に戻る。
天幕は、そこにあった。
叩き潰された状態で。
その前で、カリムが泣きそうな顔で立ちすくんでいる。
「カリム……!」
ラシェが弟を抱き寄せる。
怪我などは無いようだ。
だが誰がこのような事をしたのだろう、ラシェの腹の中で、負けず嫌いの虫が騒ぎだす。
「大人がいっぱいきて、みんなでけったんだ」
ラシェに悔し涙が浮かぶ。
なんという卑劣なやり口であろう。
サルコリが善人ばかりなどとは思っていなかったが、こんなに下らない人間が、こんなにもいるのだ。
これだからサルコリは魂が穢れていると言われても、何も言い返せまい。
ラシェが立ちあがる。
――負けてたまるか。
しぶとさなら、人一倍のラシェである。
潰れた天幕を片づけ始め、荷物をまとめだす。
「カリムも手伝って」
姉の指示に、弟は無言で従う。
サルコリで十歳ともなれば、一通りの事ができなければならない。
家具を片づけ終えると、ラシェとカリムはその全てを背負って歩きだす。
自棄になって足を踏ん張っているのは、怒りを見せつけるためだろう。
いつの間にか姉弟の周りには、多くの見物人が集まっていた。
この中には、天幕を足蹴にした人間もいるに違いない。
そんな人間たちにしょげ返ったところを見せるのは余りにも腹立たしい。
大股で集落を出てゆくラシェたちを見送る表情は、哀れむやら妬むやら、様々であった。