〈十二〉昏き深奥
明け方近くに、カサはようやく作業を終えた。
細かい手仕事の連続で目が疲れ、眉間が重い。
一食ずつ小分けにしまった胴巻きを横にやり、手足を放り出すように倒れこみ、長いため息をつく。
「はああぁぁ……」
目蓋が重く、手足の末端が痺れている。
作業を終えた安堵で気が抜け、どっと疲れが出る。
閉じた目蓋をさえぎるように、左腕をかざして顔に置く。
手の中に、人を殴った感触が残っている。
怒りに支配された中で、無我夢中の動きであったが、ここに来てようやく、カサはこの長い一日の経験を、一つずつ吟味する。
跳ね上がる自らの拳。
叩き潰される顎、鼻、頬。
その感触のおぞましさに、カサの体と心が、ゾッと冷える。
外科的な整形の技術などない時代である、彼らの多くは、元の面相に戻る事はないだろう。
ラシェを助けるためとはいえ、取り返しのつかない暴力に及んだ後悔が、今さらながらカサの心を凍えさせる。
ニヤつくラヴォフの顔が浮かぶ。
ラシェを蹂躙しようとした、人の心を持たぬ戦士。
その笑みを、顎の骨ごと叩き潰した感触。
脳裏で反復される記憶に反応して、カサの拳が握りこまれる。
ーーやめろやめろやめろ。
その拳がまだ獲物を求めているような気がして、カサは胸元の筋肉をつかんで恐怖に耐える。
ラヴォフは今、生死の境をさまよっているという。
拳をたった一度振るえば、カサは気にいらぬ者を叩きのめし、その気になれば殺せるのだ。
ーーお願いだやめてくれ。
己の手の破壊力に、カサは慄いている。
何よりもおぞましいのが、あの時カサ自身が人間を破壊する行為に、喜びを覚えていた事だ。
彼らの肉体を、渾身の力で打ち据えた時、喩えようのない歓喜が背筋を奔りぬけた。
ーーアア、そうだ、オレはずっとこうしたかった。
心の内奥に棲む、歯止めのきかぬ凶暴性。
まるであの、ラヴォフのように。
まるで獣ーー餓狂のように。
カサの手に力がこもる。
――もしもこんな恐ろしい欲望が、僕の大切な人たちに向いたりしたら……。
戦士階級の者たちのみならず、セテやヨッカに、そしてラシェに手を掛けようものなら、目も当てられぬ惨状となるだろう。
今日ウハサンたちがしようとしたように、自分がラシェを傷つける。
酔いに任せて汚そうとしたのは、まだ昨晩の事だ。
もしかしたら自分の中には、ラシェを滅茶苦茶にしたい、自分の手で傷つけたいという衝動があるのかもしれない。
その欲望を、また抑えられぬ時が来たなら。
目を閉じると、組み敷いたラシェの裸体が闇に浮かび上がる。
あの白い肌と涼しげな目、そしてたおやかな胸と唇。
――ああ、ラシェ。
カサはおびえている。
――いつからか、僕の心の奥底には。
制御できぬ自分自身に。
――獣のように残忍な自分がもう一人、棲んでいる。
心痛と体の重みが溶けて混じりあい、苦悩のまま、やがてカサは眠りに落ちる。
天幕の外では太陽が昇り、赤茶色の大地を焦がしている。