〈六〉長の意義
「サルコリの娘と通じ……!」
いかな戦士階級の反撃に遭おうと、それで引き下がるカバリではない。
でなければ、かような野心を抱いたりはしない。
「あまつさえそのサルコリ娘をかばい……!」
ラシェがカサの腕の中で身をすくめる。
カサはラシェを支え、カバリを向く。
「大巫女の天幕で、このような無体をしでかし……!」
怒りをあらわにする。
ラシェはおびえるが、それが演技である事にソワクら戦士長たちは気づいている。
「それが貴様らの理だと言うのか!」
カバリの言う理、とは掟や倫理観、社会通念の全てをひっくるめた、集団の共通意識の事である。
「……サルコリの、何が悪いと言うんだ……!」
応じたのは、カサだ。燃えるような瞳で、カバリを射抜く。
「サルコリの、どこがいけないと言うんだ!」
これがカサの本心であり、カサが納得できないただ一点である。
――サルコリの、何が悪いのか。
この根本的な問題を考える者は、ベネス、サルコリ、どちらにも少ない。
この場においてそれを問題視するのは、当事者のカサとラシェだけである。
「サルコリは、サルコリだから悪いのだ!」
興奮に震えた指を突きつけ、見下すようにカバリが言う。
「そう、ラシェはサルコリだ」
真っ向受けて立つカサ。
「サルコリは、穢れている!」
「そうだ! サルコリは穢れているじゃないか!」
「やつらは年中、汚い服を着ている!」
「働きもせず、俺たちのおこぼれに預かってばかりじゃないか!」
取り囲む男たちが勢いを取り戻す。
腕力でかなわないなら、口でという事だろう。
わずかに優位に立てる一点にしがみつくように、彼らは似たような主張をくり返す。
やれサルコリは怠け者だとか不潔だとか、貧しい悪態を、口角泡を飛ばして口々に叫んでいる。
「ラシェは、穢れてなんかいない」
カサはカバリだけを見ている。
「ラシェは、僕の知っている女の子の中で、一番綺麗な娘だ」
「フ」
的外れなカサに、ソワクが可笑しそうに肩をゆする。
いきなり持ち上げられたラシェは、首まで真っ赤だ。
「それに、ラシェは怠け者なんかじゃない」
「サルコリじゃないか!」
誰かが叫ぶが、つづく者はいない。
「朝は僕らの誰よりも早く起きて、水を汲んでいる」
カバリは何も答えない。
「子供の世話をしながら、食事の用意をし、服のつくろいだってする」
ラシェが、カサを見上げている。
背を向ける戦士以外の目は、今すべて、このカサに向けられている。
その横顔は繊細ながら精悍で、その瞳は寂しげながら情熱的。
ラシェの胸が高鳴る。
そして遠巻きにそれを見ていた邑長の娘コールアが、激しい嫉妬の炎を燃やす。
あんなに優しい顔を、カサはあのサルコリの娘以外の、誰にも見せないのだろう。
あれほどカサが真剣になるのは、他の誰のためでもなく、あのサルコリの娘のためだからなのであろう。
――それがどうして、私ではないの……!
気が狂いそうな屈辱。
自分の方がカサにふさわしいはずなのに。自分こそ、カサにふさわしい女だというのに、カサはコールアに一瞥たりともくれようとはしない。
腕にはラシェ、心にもラシェ、そして今も、そのラシェを守るためだけに、邑長カバリと対決しているのである。
「もしも、ラシェが怠け者だというのならば、ここにいるほとんどの人間は、怠け者だ」
「……たかがサルコリじゃないか。やつらは俺たちのおこぼれで生きているんだ」
誰かが言う。
「あなたは、僕ら戦士の狩った肉を口にしないの?」
急に話をふられ、男はうろたえる。
機織階級の、エスガだ。
「俺たちは、機を織る。お前も、服を着るではないか」
ソワクがショオを肩から抜き、エスガの顔に投げつける。
「お前は今日から肉を食うな」
エスガが気まずそうに黙り込む。
服など無くても生きてゆける、と言うソワクの主張に返せる言葉がないからだ。
衣、食、住と言うが、生命にとってもっとも大事なのは言うまでもなく、食料である。
特に原始的な社会の場合、生活は食糧事情を中心に回る事が多い。
この部族もまたそうである。
部族にとってもっとも重要な職は戦士。
これは食料の生産量が最大だからである。
つづいて重要とされているのは、カラギ(食糧管理階級)、実質邑の食糧事情を支えているのは、この二つの職集団である。
中にはザンゼ(畜産階級)という小さな集団もいるが、生産量は比べ物にならぬほど少ない。彼らの仕事の多くは、冬営地と夏営地を移動する際の、車を引くラバの世話なのである。
カラギによる穀物等食糧生産も、実をつんだり根菜を掘ったりで、年端の行かない子供でもできる仕事が多い。
ところが、戦士の労働は代替できない。
自分たちよりも大きな獣への狩りは、屈強な男でも命がけである。
そして、邑の動物性タンパク質の補給は、ほとんどすべてがこの選ばれた男たちに任されている。
その上生きるに必須の塩の購入も、戦士の持ち帰る毛皮と牙とに頼っているのだ。
戦士階級の男たちがいなければ、邑は飢えて干上がる。
ゆえに戦士は、邑でも特別な存在なのである。
いまや野心は崩壊し、己の存在意義を手ひどく揺さぶられ、カバリは感情を抑制できなくなっていた。
「そいつは、サルコリではないか! 何の仕事もしていないではないか! 邑に、何の貢献もしていないのだぞ!」
発言すべて繰り言である。
「邑長も同じだ。あなたも何も作らず、何もしない」
「ハハハハハ!」
カサの切り返しに、笑い出したのはソワクである。
なかなか言う奴だと、感心すらしている。
「重大なる、む、邑長の仕事を、サルコリごときと一緒に……!」
もはや興奮で、吐き出す言葉すらあやしい。
「仕事なんか、憶えれば良い。ラシェは唄と踊りが上手いんだから、巫女にだってなれる」
「……み、巫女を、サルコリなどと……!」
カバリは昏倒しそうになる。
巫女は、邑でもっとも清らかな存在なのである。
間違っても穢れたサルコリの者などがなれる存在ではないのだ。
「でも、巫女は結婚できないから、それは困るけど……」
「もう……! カサ……!」
どうも間の抜けたカサに、ラシェが低い声で叱る。
戦士たちの何人かが、忍び笑いをもらす。ソワクなど、肩を揺らして笑っている。
「そいつはサルコリなんだぞ!」
「サルコリだ。だけどそんな事に、何の意味もないんだ」
サルコリに意味がない、というのならばすべてに意味がなくなってしまう。
サルコリがいてこそ、保たれる社会があるのだと、カバリは信じているのである。
踏みつけられる人間がいてこそ、心が平静になれる人間がいるのだと。
カバリ自身がそういう人間なのである。
だがカサは言う。
「この邑ではないけど、イサテの邑には、サルコリが無いと聞いた!」
カサの声が響き渡る。
サルコリが、無い。そんな邑があるのかと動揺が走る。
「サルコリなんて、大きな邑にしかない。多くの邑には、サルコリなんてものは無いんだ」
「嘘だ!」
カサの言葉に、カバリが激烈に反応する。
「サルコリが無いなんて、そんな事があるはずが無い! 皆を謀るのも大概にしろ!」
もちろんカバリは知っていた。
だがサルコリに問題が無いなどとのたまうのは、生まれに貴賎が無いと主張する事と同じなのである。それはカバリのような人間たちにとって、看過できない考え方なのだ。
「そうだ! 嘘をつくな! 貴様のような奴がいるから、サルコリが俺たちの食料を奪うのだ!」
「この盗人め! 貴様は、盗人の手先だ!」
食糧事情の悪かった、あの冬の事を言っているのである。
サルコリたちの居住区に累々転がる死者の数を無視して、そういう声を上げる傲慢さ。
「盗人!」
「盗人!」
「この盗人め!」
これには、ラシェが腹を立てる。
「私は人の物を盗んだ事なんて無いわ!」
「嘘をつけ! このサルコリ女め!」
「毎日のように物を盗んでいるに決まっている!」
狂ったように叫ぶのは、カバリの手の者たちだ。
己自身に誇りを持てぬ人間たち。
反して戦士階級の人間には動揺がない。
皆、いざとなれば自分一人でも生きてゆける。
日々鍛錬を重ね、そして己の力量のみが問われる世界に生きる彼らには、生まれの貴賎など考える価値もない。
ここで俯瞰して天幕内を見渡すと、戦士たちと邑長の争いの乱闘、加わっていない者たちが一番多い。
安全な場所に移り、遠巻きに眺めているだけである。
ーー邑長の分が悪いか。
そんな空気を嗅ぎ取った誰かが、カサとラシェに小石を投げはじめる。
それは戦士たちに届かなかったが、皆が手元足元にあるものを拾い、カサたちに投げつける。
狭い天幕の中で、一斉につぶて投げが始まる。大きな怪我をするほどの物はないが、視界をさえぎられ鬱陶しい事この上ない。
その間にも、
「嘘つき!」
だの
「盗人!」
だのという、薄弱な常套句が飛び交う。そこに
「カサは、嘘つきなんかじゃない!」
誰も予期せぬ方向から、大きな声が響き渡る。
大柄で、恰幅のいい女。
カサの育ての親、ソワニ(子育て階級)の長の一人、セテである。