〈四〉モークオーフ・戦士階級
「どいて、ソワク」
「戻るんだ、カサ。そうすれば……」
お前の罪は問われない、という言葉をカサはつづけさせない。
そんな処遇は許せない。
ラシェが命に関わる程傷つけられ、自分独りがのうのうと無事などと、カサにとっては死ぬよりも許しがたい。
「どいてくれ!」
「戻るんだ!」
双方の主張が、拮抗する。
カサと、ソワク。
戦士階級を代表する、若手の二つの先鋒が、衝突する。
ガタウをのぞけば、このべネスの邑でも最高と謳われる、若き二人の戦士。
どちらも、一歩たりとも引く気配を見せない。
片や、恋人を救おうとする一人の男。
片や、破滅に向かう友人をとどめようとする戦士。
お互いが良き友人であり、このように対立する事には、迷いがある。
「ソワクは言っていたじゃないか」
カサが問いかける。
「男は、女と家族のために生きるべきだって」
「あの娘でなくとも、家庭は作れる」
ソワクの反論は、あまりに苦しい。
「女は幾らでもいるだろう」
「ソワクにとって、ゼラは、たった一人じゃないか」
カサは押し通す。
「ラシェもまた、この砂漠で、ただ一人なんだ」
ソワクの顔に、苦渋がにじむ。
カサの言い分は痛いほど理解できる。
だがそれでも、ソワクは止めねばならない。
もしも止められないのならそれはこの友人を見捨てると同じなのだ。
「……どいてくれ、ソワク」
カサは詰め寄る。だがソワクも引けない。
「……戻れ、カサ」
言葉の形は命令だが、その中身は懇願である。
緊張が高まってゆく。
衝突は必至。
掟破りの私闘だが、この対決に誰も割って入れない。
この戦いの行方が今後の戦士階級を決定し、邑の未来も決まる。
深呼吸。
カサが息を吸い
そして
吐く。
ザッ!
つま先が地面をこする。先に動いたのは、ソワク。
「エイッ!」
両拳が連続でカサを襲う。
カサは左手一本で一打目を打ち払い、身をかわす。
そこに詰めの一撃、カサの腹めがけて、内腑をえぐるソワクの右拳。
カサは避けない。それをもらいながら左拳をソワクの顎に叩きつける。
ガチン、骨と肉を打つ強い音。
一人が倒れた。
大きい体躯――ソワクだ。
一瞬早く打撃を入れたにもかかわらず、打ち倒されたのはソワクであった。
迷いの量が、ソワクの打撃から速さと強さを削いだ。
全てを捨てる覚悟を決めたカサにその甘さは命取り、勝負は始まる前から決していた。
「グウゥ……!」
頭部を強かに打たれ、手足から力が抜けて立ちあがれぬソワク。
両者の力量に差はない。
いや、正面から対決すれば体格差でソワクに分があるだろうと思われていただけに、この結果は、大きな衝撃を伴って戦士たちを揺るがせた。
「そ、そいつを取り押さえろ!」
動きを止めていた男たちが、我に返り、カサを押さえ込まんとする。
だがカサも易々とは押さえ込ませない、激しく抵抗し、三人四人と打ち倒す。
「何をしている! 貴様らも手を貸さないか!」
カバリの指示に従う者たちが次々と加わり、取り押さえようとする男たちの数が、あっという間に膨れ上がる。
カサはさらに抵抗するが、限られた空間での頭数頼みの人の波にやがて押し込まれ、身動きできなくされる。
なまじ手加減したのがいけなかった、打ち倒された男たちはすぐに立ち上がり、やられたお返しとばかりに、カサを痛めつけにかかる。
「貴様ら! 何をしている! カサを離せ!」
叫んだのはソワク。
だが、先ほどの痛手で、思うように体が動かない。
「そいつも取り押さえろ!」
カバリが指図すると、程なくソワクも取り押さえられる。
「アゥ……!」
「クッ……!」
数十人の男に取り押さえられた二人の戦士。
その荒々しさも、今は無残に押しつぶされている。
苦しげなうめきが時々漏れ、
「騒ぐんじゃない!」
取り押さえた事で気が大きくなった一人が、カサの顔を蹴りつける。
「やめて! カサにひどい事しないで!」
ラシェが泣きながら駆け寄ろうとするが、これは苦もなく取り押さえられる。
騒然とした状態は止み、天幕の下に間の抜けた放心が漂う。
その中、戦士階級の他の男たちは、冷然と腰を下ろしたまま、居ずまいを正す事もなく、みな厳しい表情で黙っている。
強い自制こそ戦士に課せられた分別である。
たとえそれが仲間の起こした騒乱だとしても、ここで立ち上がる訳にはいかないのだ。
だからこそソワクも、あれだけ必死にカサを止めたのである。
騒乱の原因はとりあえず抑えた。
苦い思いでカバリは首ににじむ汗をぬぐう。
方々に手を回し、何とか思い通りの方向へ全体を導いたというのに、取るに足らぬサルコリの娘一人のために、すべて反故になりかけた。
そのサルコリの娘は泣いている。
カサが取り押さえられたところで、張り詰めていた気持ちが切れてしまったのだろう。
頭を地面に押し付けられ、力なく嗚咽している。
ラシェは悲しかった。
せっかくこの身一つ差し出して、カサへの処分を和らげられると思ったのに、それを受け入れてくれない。
それどころか、ラシェを助けようと、争う姿勢まで見せてしまった。
もはや嘘は尽き、言い訳すらない。
カサも、ラシェとともにつらい罰を受けてしまうだろう。
ラシェにとってそれが、何よりもつらかった。
「やめて……やめてよ。カサに酷いことをしないで」
顔を地面に押しつけられたまま、ラシェは涙を零す。
「お願い……カサを許してあげて!」
泣きながら懇願するラシェの姿は、あまりにも悲痛だ。
そしてその願いを受け入れられる者は、この空の下に一人としていない。
ラシェの切れ切れにしゃくりあげる声だけが天幕の中に満ちている。
ばつの悪い思いを、多くの者がおぼえた。
「フンッ! 礼節も知らぬ、たわけ者どもめ……」
カバリは鼻を鳴らす。
――命だけは助けてやろうと思ったが、もはやそれもかなわぬ。こいつは叩き殺してしまおう。
沈黙しつづけるガタウだけが不気味ではあるが、黙っているならこれ幸い、無視すればいい。
これで、すべてが終わるのだ。
カサとラシェは、生木を咲くように引きはがされ、この事件は終わりを見せるのだ。
泣けど叫べど、この決定は覆らない。
そして戦士階級に、カバリに対する鬱屈が、また一つ生まれるのだ。
苦いものを残した、悲劇的だが現実的な結末。
誰もがそう思い、それを受け入れようと考える。
これで、すべてが終わりだと。
ラシェの痛々しい泣き声が、その終焉を告げる、風の音なのだと。
その時、男たちの足元だ。
「戦士になんて……」
声だ。その出所を探して辺りを見回し、そして、戦士を押さえつける人の山を見つける。
「……なりたくなかった」
誰の声だろう。
カサである。
「どうして僕だけ、みんなよりも三年も早く、こんなに怖い目に遭わなければならないんだって、ずっと思ってた」
感情の抜け落ちた、平板な声。
「誰も、腕を喰われた僕の心を楽にする方法を教えてくれなかった。教わったのは、獣を殺す事だけ。死ぬかもしれないと思いながら、ずっとがんばった。それしか知らなかったから」
上に五人以上の人間を乗せながら、ソワクが何とか首をめぐらせる。
カサの顔はうつぶせになったままで、その表情は読み取れなかった。
「……ラシェだけが、ラシェの優しさだけが」
首と膝、つま先だけで十人からの男を支えている。
「うっ、おい……」
グラリ、カサを押さえ込む男たちの山が盛り上がり、男たちが動揺する。
「苦しむ僕の魂を、救ってくれたんだ……」
ユサリ、人の山はさらに盛り上がる。
「ラシェだけが、僕が泣いても、優しくしてくれたんだ……」
地面にへばりつくように押さえつけられていたカサが、いつの間にか膝立ちになっている。
――まさか……!
信じられない。そんな動揺が男たちに拡がる。
「……ラシェのいないこの砂漠などに……」
手をつき、上体を持ち上げる。
「だ、誰かそいつを取り押さえろ!」
カバリが叫ぶ。
だが、カサの上にはすでに、十人近い男が圧し掛かっていた。
「何の意味があると言うんだ!」
大きく伸び上がり、力まかせに振り払う。
上に乗っていた男たちがの山が崩れ、振り飛ばされて回りを巻き込み転倒する。
絡み合って地に伏す男たちの中、カサ一人がその中央で大きく立つ。
「じっとしてっ」
慌てふためいてカサを押さえにかかろうとした男が、前歯を撒き散らして吹き飛ぶ。
打ち据えたカサの拳が見えた者はいない。
他に跳びかかろうとする者たちに、カサが一瞥をくれる。
全員が踏みとどまり、後退る。
カサの様子が、これまでとはまるで違う。
憤怒の大立ち。
見るも恐ろしい面相。
触れるだけで火傷しそうな怒りの肌色だ。
獣に立ち向かう時と同じ、荒々しい殺気を身にまとったカサは、歴戦の戦士にとってすら剣呑な存在だ。
殴られて倒れた男は、意識を失っている。
カサを囲んでにらみ合いがつづく。
「……ウハサンを……」
嵐の中心のように無風状態の中心。
そこに立つカサが、カバリに強烈な視線を投げつける。
「……ウハサンをけしかけたのは、邑長カバリではないのか」
カバリがうろたえる。
何を根拠にして、カサはそんな事を言うのか。
「邑長の天幕を、ウハサンが訪ねていたのを、僕は、見た」
ほう……?
新たな疑惑。
ここまで無表情を保っていた戦士階級の男たち、その幾人かの顔が、厳しくなる。
今度は視線が、カバリに集中する。
「な、何を言う……そのような出鱈目、許さぬぞ……!」
カバリが気圧されている。
此度の不祥事、確かにカバリの指示ではない。
だが、カサの指摘に憶えがあるのが始末に悪い。
焦りが顔に出たと気づき、カバリはそれを打ち消すように叫ぶ。
「下らぬ! あのような者の言葉に惑わされるな!」
迷いが伝染しだした一同に、カバリの怒号が飛ぶ。
「一斉に行け! そうすれば手も足も出ぬ!」
カバリの指示に従い、カサを取り囲む男たち。
それはまるで狩りである。
カサという獣を狩る、狩り。
だが彼らは、狩りの作法を知らない。
「ゆくぞ!」
男たちが威勢をつけ、一斉に跳びかかる。
その機先を制し、カサが相手の懐に踏み込んで打擲する。
一人、二人、あっという間に三人が打ち倒された。
倒された者たちはいずれも意識を失い、それを眼前に見たものがしり込みして包囲が崩れる。
背中に二人の男が飛びつくが、圧し掛かってもカサを倒しも止めもできない。
カサはただ一心にラシェを目指す。
「ラシェ――!!」
さらに、二人の男が打ち倒される。
その隙にカサの両腕を封じようと、男たちが殺到する。
カサの前進が止まりその体が押し寄せる人間に埋もれる。
――止めたか……?!
だが、カサが獣のように胴ぶるいすると、押さえつけていた男の大半が倒れ、吹き飛んで転がる。
カサが歯を剥いて吼える。
怒号が入り混じり、群集は手に得物を持つやら逃げ出すやらで、まるきり統制を失っている。
跳びかかる男の一人が、手にした壺でカサの後頭部をブン殴る。
壺は砕け、入っていた水が、カサの上半身をずぶ濡れにする。
――やったか!
確かな手ごたえに、男がカサの顔を覗きこんで様子をうかがう。
顎からしたたる水滴。
ギョロリとこちらを見据え、爛々と光るカサの目。
「ヒッ――!」
避ける間もない。
鼻の骨が砕け、顔の中央が陥没し、男は世にも奇怪な面相で吹き飛ぶ。
また乱戦。
カサの腕に、肩に、胴に、足に、すべての部位に誰かの手が絡みついている。カサが絶叫し、誰かがおびえて逃げ出し、誰かが悲鳴に近い声で指示を飛ばし、カサが渾身の力で押し寄せる人間の群れを振り飛ばして前進する。大巫女の周りの唄い手たちが悲鳴を上げながらも必死で大巫女を守ろうとしている。それ以外の女たちも、悲鳴を上げて逃げまどう。
そして、ソワクも動いた。
カサのように力任せではなく、隙を見て一気に、爆発的に動く。
「カサ!」
上に乗っている男たちを振り落とし、一気にカサに迫る。
そして拳を大きく振りかぶり――そのとき、カサは背中に複数の男たちにのしかかられ、動けなかった。
眼前に迫るソワクの拳、それを瞬きもせずカサはにらみ――ソワクはカサの背中に組みついていた男を殴り飛ばした。
さらに返す手で、カサの左腕に食いついていた男も殴り飛ばす。
――え?
突き、蹴り。
瞬く間に、合わせて四人を打ち据える。
カサの四肢に自由が戻る。
すぐに我に返り、カサは左腕一本で足腰にへばりついた男たちを殴りつけ、引きはがす。
「ネイド! ナダガ! 加勢しろ!」
あろう事か、ソワクは自分の部下たちに加勢の指示を出し始める。
「バズニ! ドゥガ! ツロテ! カサに道を作れ」
「おう!」
力強く応ずる声と声。
戦士長たちは躊躇いもせずソワクに従う。
みな顔には出さなかったが、ここまでの経過に、憤懣やるかたなかったのだ。
だが、じっと歯を食いしばるのもここまでだ。
五人の屈強な男たちが、目を輝かせて揉みあいの中に飛び込んでゆく。
さらに立ち上がったものがいる。
二十五人長、バーツィ。
三十代半ばの、戦士階級でもっとも真面目といわれた男が、声の限りに叫ぶ、
「カフ! イセテ! イェクス! セリブ! カサを救い出す!」
この男までもが、ウズウズとしていたのである。
何と言われようとカサは自分の部下、それを助けるのは長の役目だ。
「おう!」
バーツィに、さらに五人の男がつづく。
その上、今一人の二十五人長、リドーまでもが、ひっそりと立ち上がり、部下に顎で促す始末。
「行こう」
「おう!」
リドーの部下で、ソワクの親友の屈強な大男、バス以下五名が、男たちの中に飛び込んでゆく。腕っ節ならば彼らの土俵である。仲間の危機、ここで立たずば戦士ではない。
だが最後の二十五人長、アウニだけが、膝を握り締めて耐えている。
二十五人長になったばかりの、一見淡白なこの男は、まだ指導力を確固としていない。
部下の戦士長たちから急かすような目配せを受けながらも、まだ迷っている。
――せめて、大戦士長が指示を出してくれたなら……!
だがガタウは座したまま膝に手を置き瞑目し、微動だにしない。
「戦士アウニ、何を迷っている」
アウニの迷いを振り払ったのは、カサの代わりに長として出座した、元二十五人長のラハムである。
「いけないと言うならば、大戦士長はとっくに皆を止めている」
つまり現状を放置しているならば、加勢を止められてはいないのだ。
「行くぞ! 全員つづけ!」
晴れやかな顔で飛び出してゆく。
ジウカ、テクフェといった最後までおあずけを食った男たちが、勢い込んで乗り出してゆく。
「年寄りの出番ではないかもしれんが、」
ラハムまで立ち上がる。
「俺も混ぜてもらうか」
ガタウが、フ、と小さく口を歪める。
珍しい。
この男が笑ったのだ。
そして、怒号にまみれた集団に飛び込んでゆくラハムのうれしそうな背中を、薄目をあけて一瞥する。