〈三十九〉咆哮
四章最終話です。
「……カサ……!」
顔をあげたラシェの顔に、幾すじもの涙が流れている。
「お前たちが……」
カサがゆっくりと動く。
「お前たちが、ラシェを泣かせたのか……」
ラヴォフが、カサに相対する。
「だとしたら、どうするんだ?」
完全に相手をなめた態度だ。
「これぐらいで何をいきり立ってやがる。今からこいつには、全員の相手をさせるんだ」
ラヴォフが、肉食獣の表情によく似た笑いを浮かべる。
ラシェはうろたえる。
この男は、頭がおかしい。
あの体の大きなグディすら簡単に打ちのめした。
この男は獣だ、こんな人間の相手をすれば、カサとてただでは済まないだろう。
「や、やめて……」
必死に暴れても、手足は相変わらず押さえつけられていて動けない。
「やめて、やめて!」
無力感にラシェは泣きはじめる。
「俺たちはこいつで愉しむ。お前はそこで見てろ」
カサにそう言い捨て、
ハ!
ラヴォフはいつものように嘲笑い、
「なんならお前も交じるか? 順番は最後だがな!」
それからさも可笑しそうに哄笑する。
そして油断なくカサに詰め寄る。
――カサが、殺されてしまう!
ラシェの目の前で、カサが殺される、それは何よりも恐ろしい事態だった。
「や、やめて……!」
ラシェを押さえる男たちの、卑しい笑いが余計に不安に拍車をかける。
どの顔も、誰もカサが自分たちを邪魔できるなどとは思っていない。
「やめてっ……カサ。逃げてカサ……!」
ラシェが必死に懇願する。
「黙って見てろよ、アイツが半殺しの目に遭うのを」
叫ぼうとする口を押さえつけ、ウハサンが腹の底から可笑しそうに笑う。
――この時のためにラヴォフを呼んでおいたのだ。
カサの記憶には今まで二度、ラヴォフに打ちのめされた記憶がある。
そういう関係が覆る事はありえない。これまでも、そしてこれからも、カサはラヴォフやナサレィに対して引け目を抱えたままだろう。
過去に虐げられた記憶というのは、そう簡単に解消できるものではないのだ。
見ろよ、何よりも今この場で、怒り狂いながらも、カサは立ちすくんで一歩も動けないのだ。
――逃げて! 逃げなきゃ! カサ!
ラヴォフが腕に力を込め、最後の一歩をつめる。
ラヴォフはたくさんの事を間違えて生きてきた。
苦痛と快楽を間違え、
愛情と憎しみを間違え、
そして最後に己とカサの力の差を読み違えた。
それさえなければ、
次の日も
その次の日も、
自分の口で食事できたろう。
「まあどうせ毎晩お前にやってるように、手前から腰振り出すだろうがなあ!」
加虐者の笑いを浮かべ、
「このサルコリお」
サルコリ女。
と口にしたかったのだろう。
言葉が変な所で途切れたのは、ラヴォフの顎がカサの左拳に叩き潰されたからだ。
怒りのこもったその拳を、ラヴォフの目は捉える事ができなかった。
ラヴォフに見えなかったのだから、他の人間にも見えていない。
いきなり吹っ飛んできたラヴォフが、ラシェを飛び越え、押さえつけていたナサレィと絡み合いながらもんどりうって倒れる。
力の抜けた首がグルリと回り、下顎が潰された粘土細工のように変形し、砕けた口から歯がこぼれ、血まみれの長い舌がダラリと垂れる。
白目を剥いたラヴォフ、それはもう人間の顔ではない。
かつて人間であったなにかの成れの果てである。
「ヒイイイイイエエエエエアアアアア!!」
間近でラヴォフの顔に向き合ったナサレィが、老人のような悲鳴を上げる。
槍一本で獣の膝さえ打ち砕くカサの膂力が、たかがラヴォフ如きとうに凌駕している事に、どうして彼らは気づかなかったのか。
コブイェックと正対する恐怖をとうに克服したカサに、ラヴォフ如きの暴力が今なお機能していると、どうして彼らは楽観したのか。
「よくもラシェを傷つけたな」
ザリ。
カサが一歩踏み出す。
その眼光にくすんで誰も動けない。
トナゴの、ウハサンの、そしてナサレィたちの顔を、背中を、脇の下を、嫌な汗が噴き出す。
手近にいたキジリの一歩横を、カサが通り過ぎざま。
「ヒッ」
ゴボ。
払うように振るわれた拳低を鳩尾にねじり込まれ、キジリが腹を折って悶絶する。
呼吸を求めて口を大きく開け、目を白黒させながらのた打ち回り、血の混じった涎が幾つも糸を引く。
キジリの胃袋を叩きつぶした一撃を、確認できたものはいない。
ゴォン!
次はデリだ。
裏剣で横面を叩かれ、人体が鳴らしたとは思えない音を発して吹き飛ぶ。
鼻と頬骨を大きく陥没させながら、血の糸を引いて昏倒する。
今度はナサレィだ。
カサの狙いに気づき、気絶し弛緩したラヴォフの身体の下から何とか這い出ようとするが、うろたえて体を抜く事ができない。
カサはさらに迫り、その足を軽く上げ、
「ヒイッ、ヒイイイイィィッッ、イギィッ……!」
つま先で口を踏みつける。
歯が何本か吹き飛び、頚椎で軟骨が剥離した音がナサレィの脳内に響く。
さらにウハサンだ。
カサは特に急いていない。
歩みはいつもよりゆったりとしている。
なのに、逃げられない。
この感覚に、ウハサンは覚えがあった。
――飢狂い……!
初めての、あの悪夢となった狩りの、餓狂いの重圧と同じだった。
――ああ、ああ俺は殺される、この獣に殺されるのだ……!
底知れぬ殺意の瞳と暴虐の予感に、ウハサンの肉体の芯に霜がつくように凍える。
ザ。
カサがあと一歩のところまで来て、次の動きを見せるまでの間に、ウハサンは呪った。
自分をこんな事に駆り立てた、あの生意気な邑長の娘を。
ズゴンッ。
「グエェアウッ!」
カサの左脛が、ウハサンの股間を蹴り上げる。
カサの顔の高さにヘソがとどくほど胴体を跳ね上げられ、体内で何かが潰れる感触がして、ウハサンは悶絶する。
顔面から地面に突っ伏し、断続的に嘔吐と痙攣をくり返し、砂の上に涎と胃液をぶちまける。
そして、トナゴ。
「ヒイッヒイッ! や、やめてくれ!」
腰抜け、トナゴ。
「た、たすけて、たすけて、くれ!」
すべてをカサの所為にし、そして一人で破滅した、哀れで愚かしい男。
「やめてえ! やめてくれえ!」
ゴッ。
左拳が右のこめかみに食いつく。
肥った体が、回転しながら砂漠に叩きつけられる。
だがカサはそれでは許さない。
片手でトナゴの首を掴んで喉を絞りあげ、倒れた巨体を吊り上げる。
すぐに意識を戻したトナゴが、必死にもがく。
「ギウエェェェェェッ!」
トナゴが口から泡を吹き、失禁する。
喉仏が圧迫され、メリメリと変形する。
後僅かに力を込めれば、喉が潰れて窒息し、トナゴは死ぬだろう。
「やめてカサ! 殺してはいけないわ!」
ラシェが、カサの腕に巻きつく。
カサが、ハッと我に返る。
腕から力が抜け、トナゴが地面に潰れるように落ち、四つん這いになって逃げてゆく。
「いいのよ、カサ。もういいの」
ラシェの目を正面から見つめるカサ。
その目に理性が戻ってくる。
「ラシェ……!」
「ありがとう、カサ。でもちょっと待ってね」
カサをあっちに向かせて、服をなおすラシェ。
下着はとりあえず胸元で結び、繕いようもなく破かれた上着は二つに裂いて、下着の上から胸元を隠すものと腰を隠すものに分けて結ぶ。
「カサ。もういいよ」
カサがふり向いた途端、ラシェが跳びついてくる。
「ラシェ……!」
「カサ……!」
二人が抱き合う。
やっと、恋人を自分の胸に迎え入れられた。
その足元では、六人の男が血まみれで倒れている。
騒ぎに気づいた者達が続々集まり、舞台となった枯れ谷の底を取り囲んで覗き込む。
ベネスの者もサルコリも、男も女も、年寄りと幼な子も。
戦士、グラガウノ、カラギ他あらゆる職種の者がいる。
下級の者、職長、大職長、そして隠居した者も。
彼らすべてが、奇異な目で、二人を見ている。
サルコリの娘を抱きしめる、片腕の戦士と、
片腕の戦士を抱きしめる、サルコリの娘。
人目に触れた時、二人の関係は壊れる。
密やかなる、風の中の甘い時間も、
そっと交わした幾つもの睦言も、
今、無遠慮に断罪されるのだ。
この時より、カサとラシェの関係は公然となってしまった。
そして、それは関係の終わりを意味すると、繰り返し書いた通りである。
だから二人は抱き合って離れない。
もう二度と、お互いをこの胸に抱く事などないと言うように。
それは二人の静かなる叫びだった。
そして
二人の、蜜の時は終わりを告げる。
冷たく容赦のない現実が、相求める二人を無情に別つ。
風が吹く。
二人の前途を煙らせる、強い風が。
次回五章幕間。
投稿は29日の朝7時です。