〈三十三〉獣性
戦士たちが帰ってきた夜から幾晩たてど、カサは現れなかった。
戦士階級の動向など、すぐにサルコリに伝わるものではないし、聞いてまわる訳にもいかない。
――どうして来ないの、カサ。
もしや、カサの身に何かあったのではないか。
だとすれば、それは命にかかわる事なのだろうか。
ジリジリと心を焼く恐ろしい想像に、ラシェは焦り始める。
前にカサに会ったのは、狩りの遠征に行く前夜であった。カサの背に背をもたせ、腕に絡みつき、睦みあった夜が、まるで百年も昔の事に思える。
「もしも僕が死んだら」
カサはあの時、そう言った。
「気にせず、他に誰か見つけて」
自分が死ぬのが、決まった事のように言うのが、ラシェをひどく慌てさせた。
「やめて」
ラシェはあの時どんな顔をしていたのだろう。
「絶対に、死なないで」
カサの顔を両手で挟み、瞳を自分に固定して、ラシェは言ったはずだ。
「絶対に死なないと、約束して」
長い逡巡のあと、カサは
「――うん」
そう肯いたはずだ。
だから、カサは絶対に死んでいない。死んでいるはずがない。ラシェが強引に結んだ約束だとしても、カサがそれを破るはずがないのだから。
だが次の夜も、その次の夜も、カサは来なかった。
募る焦りに、心の中でもがきつづけるラシェ。
その次の夜も、カサは来なかった。
半ば諦めの気持ちがラシェの心を占めはじめ、そんな事はない、カサはまだ生きていると抗う部分を押しつぶそうとする。
その次の夜も、カサは姿を見せようとはしなかった。
――今晩も、来ないか……。
それでも。朝まで待つだけは待ってみよう。
どうせ天幕に戻っても、この事ばかり考えるに違いないのだ。
来なければまた明晩待とう。
明晩もこなければ、明後晩またここで待とう。
大きく満ち始めた月に、ラシェがそう呟いた時である。
カサが姿を現した。
酒に曇った浅い眠りから覚めると、強い喉の渇きを覚えた。
ーーひどく喉が渇く……。
夜具を払いのけ、水を張った甕を取る。ヨッカが火傷の始末に使ったため、水は少ししか入っていなかった。仕方なしにそれを飲み干すが、喉の渇きはしつこくカサをいたぶる。
ーー喉が渇く……。
グラグラと頭を振り、天幕から這い出す。
月の大きな夜だった。
満月が近い事すら、いや、今が夜である事すら、カサは判っていなかった。
昼とも夜ともつかぬ、後悔と心痛に身を浸しつづけた時間。
眉間の奥の強い疼きは酒の所為か、それとも己を攻めつづけた重圧の所為か。
ーーひどい渇きだ……。
内腑がむかつき、心が逸る。
よろめき、つまずきつつカサが歩き出す。
冷たい夜気にさらされ、喉の渇きは引っこんだ。
代わって覚えたのは、心の渇きである。
ーー今、僕の渇きを、最も癒してくれるのは、
カサが無防備に歩く。
足取りあやしく、途中二度転んだ。
だが転んだ事も、立ち上がってまた歩き始めた事もおぼろげだ。
意識はすでに、求める人の所に飛んでいる。
緩やかな丘を越え、平たくなった岩の上に、その人はいた。
ひどく頼りない足取りで、カサはそちらに歩く。
向こうも気づき、こちらに駆けてくる。
伸ばした手が、相手に届く前に、もう一度転ぶ。
「――カサ!」
助け起こされる。
花の匂い。
そうだ、この人はいつも、こんな匂いをさせていたっけ。
涼しげな顔。
瞳が潤んでいる。泣いているのかもしれない。
どうしてこの人は泣いているのだろう。何か、悲しい事があったのだろうか。
「カサ、大丈夫? カサ?」
肩をまわされ、岩の方に連れて行かれる。
どうしてそんな事をするのだろう。
僕は、座りたい訳じゃない。
「カサ、お酒飲んでるの?」
飲んではいけないのか? 飲んでも飲まなくても、カイツは死んだ。
もう生き返らない。
「カイツって誰? カサ、変だよ……どうしたの? 手を、ケガしたの?」
関係ない。僕は生きていてはいけない人間なのだから、もう逢いに来ないほうがいい。
「……どうして、そんな事、言うの……?」
僕といると、死んでしまう。みんな死んでしまう。
ヤムナも、ウォナも、ソナジも、戦士長も、
「……カサ……?」
カイツも。
「カサ……!」
揺すらないで。頭が痛い。
「あ……ごめ……」
どうせみんな死ぬんだ。
僕が殺すんだ。残ったこの腕も、獣に食いちぎられて、喉を食い破られて、頭を割られて、腹を引き裂かれて、
「カサ!」
死ぬんだ。
僕の目の前で。いつか大戦士長も、僕を助けられなくなる。
だって、大戦士長は、僕を見捨てたんだもの。
ソワクだって、死ぬ。
ソワクの槍には、ブレがある。この間気がついたんだ。
ソワクは腕の力に頼りすぎる。もっと腰を矯めないと。
「カサ!」
うるさい。
頭が痛い。
ヨッカだって死ぬ。
ヨッカはいつも僕の傍にいてくれる。
僕がつらいとき、いつも力を貸してくれる。
だからヨッカも死ぬんだ。
「カサ!」
死んで欲しくないんだ。
「カサ!」
大きい声を出さないで。
「カサ! しっかりして! カサ!」
うるさい! 押しのける。あっさりひっくり返る。なんてもろい。そんなにもろいと、簡単に死んでしまう。僕がこうやって押しただけで、服が裂けて、胸元がはだけて、中から薄絹の下着が覗いている。
ああ喉が渇く。
酷い渇きなんだ。
「……カサ?」
薄絹をつかみ、引き裂く。ほら破れた。なんてもろい。
「や、やめて! カサ!」
暴れる。押さえつける。引き寄せ、手を這わせる。
「カ、サ……やめ、て……!」
いい匂いだ。隠そうとする腕をひきはがし、素肌の敏感な箇所に、包帯を巻いた手が触れる。
「――!」
抵抗がなくなった。どうしたのだろう。死んでしまったのだろうか。
死んだ?
誰が?
誰が死んだの?
ラシェが。
――嘘だ。
「……ラシェ?」
ラシェが、泣いている。どうして?
――僕が?
やっと自分のした卑怯な行為を理解する。
脳天から冷水を浴びせかけられたように酒精の砂嵐が晴れる。
「ラシェ?」
ラシェが泣いている。
はだけた胸元を隠そうともせず、横たわっている。
慌てて顔を背けるが、印象は強烈で目に焼きついている。
あまりにも美しく、痛々しい裸体。
カサはラシェを見ないようにして、服の前をとじて肌を隠す。
「カサ……?」
しゃくりあげながら、ラシェがカサを見る。
「ごめん、ごめん」
カサが震えながら前髪を握りしめる。
強く閉じたまなじりが、カサの後悔の強さを物語っている。
ラシェが膝立ちになる。乳房がこぼれ見えて、カサはきつく瞼を閉じる。
自分の中に燻る、身勝手な欲望の火が蠢くのを感じる。
「ああ、ごめん、ラシェ、ごめんよラシェ」
「誰が死んだの?」
口からその名がこぼれそうになる。
だが今のカサに、弱音を吐く資格はない。
ラシェがカサの肩に手をかける。そして優しく引き寄せる。
カサの頬が、裸のラシェの胸に触れる。
「いいよ」
ラシェはカサを責めない。
酒に任せて、ラシェを傷つけようとした事も簡単に許す。
カサが、ラシェの腰にそっと手をそえる。
なんて細く脆い体。
カサは、それを壊そうとした。
いや違う。
人として、決して覚えてはならない衝動に突き動かされたのだ。
ーーあの瞬間、僕はラシェを……。
己が内に、獣と同じ情動がある。
そいつは憤怒と悪意という牙を以って、人間を壊したがっている。
カサが恐怖に身震いする。
「どうしたの、カサ?」
「ごめん。ラシェ、ごめん」
「いいの。何があったか、話して」
ラシェの優しさに、猛る獣性が鎮まってゆく。
「……カイツが、死んだんだ」
言葉が自然にこぼれる。
「カイツって?」
「戦士長の、息子。僕が初めての狩りにいった時の戦士長ブロナーの、息子」
「息子だったの……」
「うん。よく似ていた。戦士長が死んだのは、僕らが狩り場に勝手に入って行ったからだったんだ」
ラシェの胸の中で、カサは目を閉じている。
「だから僕は、カイツだけは生きて連れて帰ろうって決めていた」
瞼に力が入り、こぼれた涙が、ラシェの乳房の隙間に落ちる。
「なのに、僕は、カイツを守る事が、できなかった……!」
ラシェがカサの頭を抱きしめる。
「邑でも指折りの槍持ちだなんて、そう言われて、きっとどこかでいい気になっていたんだ……!」
カサの涙が、ラシェの胸元からしなやかな腹部をつたって腰に落ち、薄絹の下着にしみこんでゆく。
「僕には、何の力もない……!」
ラシェに回した手に力が篭る。
カサのつむじに唇を押しつけ、ラシェは優しく諭すように、言う。
「それでも、カサは生きて帰ってくれたわ」
カサの顔を、胸にうずめさせて、ラシェ。
「帰ってきてくれて、ありがとう。ずっと待っていたのよ、私」
感極まったカサが、大きく息を吸う。
「お帰りなさい、カサ」
カサが、号泣する。
言葉にならない声で、子供のように泣く。
顔を涙と鼻水だらけにし、嗚咽する。
ラシェはそんなカサを、優しく抱きしめている。
膝立ちから、仰向けに身を横たえ、胸元にカサを招き入れる。
カサは背を丸め、ラシェの腕の中で、裸の胸に顔を押しつけ、子供のように泣きつづける。
ぼんやり見上げた空に、ラシェは月を見つける。
夜の帳に 大きな穴が
それこそが 月
その穴に向かって 風が舞い
その穴から砂が こぼれ落ち
その砂が ここに降り積もる
それが 我らのこの砂漠
空と風と砂で出来た
人が生きて 死ぬ砂漠
ラシェが唄を謡う。
澄んだ歌声が、カサの心を、優しく撫でてゆく。
「本当はね、」
ラシェが恥ずかしそうに告白する。
「次にカサと逢ったら、抱いてもらおうと思ってたの」
「え……?」
カサが顔をあげる。
暁の光が、東の空を赤く照らし始めたあたりである。
「顔を見ないで。言うの、恥ずかしいから」
ラシェは服を整えているが、二人は岩の上に横たわったままである。
敷き布を広げ、並んで寝そべり、お互いの息遣いと匂い、体温を感じながら、ずっと抱き合っていた。
「だけどカサが跳びかかってきた時、怖くなって抵抗しちゃった」
ラシェは照れくさそうに笑うが、カサはうなだれる。
「ごめん……」
ラシェはふふふと笑い、
「あのね、カサ……」
「なに?」
カサは言葉を待つが、
「……なんでもない」
サルコリの中での出来事が汚らしく思えて、この幸せな空気を壊したくなくて、ラシェは言葉を濁す。
――そんなに急がなくてもいいか。
カサが姿を現してくれた事で、ラシェは少し楽天的になっている。
またいつかの機会に、お互いの気持ちが重なったときに、契りあえば良い。
無遠慮に朝が訪れ、恋人たちの時間に終わりを告げる。
「……じゃあ、カサ」
寂しそうに笑うラシェ。
「……うん……」
名残惜しそうなカサ。
ずっとこのような黎明を、二人は迎えつづけてきた。
それすら、いつまでつづくか分らない逢瀬であったのに。
消えてゆくラシェの背中を、カサは飽きもせず眺めている。
その視線を背中に感じながら、ラシェは想われる幸せをかみ締めている。
やがて関係が終わるとを知りながら、この幸せがいつまでもつづくものと二人は疑いさえしていない。
二人の秘せし蜜の刻限の終焉が、すぐ傍まで迫っている事にも気づいていない。
朝陽が昇り、長い夜を駆逐してゆく。
ラシェの細い体躯が朝陽の中に溶けてゆく。
ーーラシェ。
ブルリと身震いを覚えた。
カサは己に怯える。
ラシェを組み敷いたあの時、心の奥底で、金の眼をしたあいつが言ったのだ。
ーーああほら見ろ、なんて旨そうな……。
肉だ、と。
この夜が、カサとラシェが二人きりで忍び逢えた、最後の夜となった。