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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第四章 邑衆
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〈三十二〉創痍

 戦士が邑に帰ってきた。


 ラシェはこの日を待ち望んでいた。

 カサに、自分の気持ちを伝えねばならない。

 あの日以来、ゾーカはラシェに手下の者を使って、監視をつけるようになった。

 グディという体の大きな男だ。

 グディはもちろんサルコリで、頭のめぐりは悪いが力が強く、ゾーカから荒っぽい事を任される事が多い。

 女子供老人かまわず乱暴なグディは、サルコリの中ではある意味ゾーカよりも嫌われている。

 そのグディが、ずっと見張っているのである。

 ラシェはグディの胡乱な瞳が嫌いだった。

 その目で、ゾーカが仕事に使う女を殴っているのを見た事がある。

 ゾッとした。

 薄ら笑いを浮かべ、よだれを垂らしながら、絶え間なく女を痛めつけるのである。

 外見からしてまともな男ではないが、その時のグディは、カサがよく口にする獣そのものに見えた。

 ラシェは焦っている。

 ラシェは所詮女で、ゾーカがその気になれば、思い通りにする事はたやすい。

 そう考えるだけで我が身が汚されたように、悪寒が背筋を這い回る。

――早くカサに抱いてもらわねば。

 言葉として具体化はしていないが、ラシェの焦りはそのような気持ちから来ている。

 夜、グディの監視を欺き、待ちあわせの岩に座って待つ。

 あと一刻もすれば落ちるであろう月を眺めながら、ラシェはカサにどのように言えば良いか、悩んでいる。

 あまり直截的な言葉では恥ずかしいが、奥手なカサを動かすには、遠まわしすぎてもいけない。

――カサは、女の子の方からそういう事を言い出すのを、嫌がるかもしれない。

 そんな風に考えだすと、今さらながらボロ同然の着衣が恥ずかしくなり、伸ばしたり端折ったりつまんで脇に挟んだり、何とかして指の通るような大きな穴を隠す。

 髪が乱れていないか、気になる。

ーー下着は洗ったっけ。昨日洗った。しまった。今日洗っておけばよかった。困った。でももう遅い。

 等々あれこれと、ラシェは岩の上で一人思い悩んでいる。

 月が落ちても、ずっと考えを巡らせては、浮き上がったり沈んだりしている。


 だけど、その夜、カサは来なかった。



 帰ってきた時のカサの顔を見て、ヨッカは驚いた。

 ゾッとするほど荒んでいる。

 落ち込んだり、悲しんだりするカサを見るのは珍しくない。カサは優しい性質だし、何か問題が起こっても、誰かにそれをぶつけたりしない。

――いったい、何があったのだろう。

 しかし、今のカサは全身に怒りをみなぎらせていて、まるで焼けて弾ける前の木の実だ。

 ヨッカですら声をかけられぬほど近寄りがたく、カサの周りの戦士も、距離を置いている。

 何があったのか訊こうとソワクをたずねてみたが、

「俺からは言えん」

 の一点張りである。

 仕方なく、ヨッカは天幕に閉じ篭ったっきりのカサに、かいがいしく食事の世話をする。

 だがカサの様子は、変わらなかった。

 いつ覗いても、真っ暗な天幕に横たわっている。

 だが声をかけてもカサは返事をしない。

 ヨッカはあきらめ、食事を置いて天幕をでる。

 時間をおいてまた食事を置きにゆくと、カサは同じように横たわっていて、前の食事には全然手がつけられていない。

 そんな日が何日もつづく。

 途方にくれて、一度トカレに相談してみたら、

「ヨッカに解らないのに、私にカサの事が解るはずがないわ」

と正論で返されたものの、

「お酒でも飲ませてあげたら? カサの悩みがなんにせよ、早めに吐き出させてあげるのが、一番良いと思う」

 助言に従い、ヨッカは酒精の力を借りる事にしたのである。

 夜も更けてから、ヨッカはカサの天幕を訪ねる。

「カサ? 入るよ?」

 食事と酒がめを抱えて天幕に呼びかけるが、やはり返事はない。

 勝手に戸布をくぐり、腰をおろして火を熾す。

 カサが横たわったまま薄目を開けて、ヨッカの方をちらりと見、また目を閉じる。

 昼に持ってきた鍋を見ると、やはり手をつけておらず、冷め切ったローロー(干し肉と根菜の煮物)がそのままで置いてあった。

 ヨッカはため息をつく。これは自分で食べる事にしよう。

 持ってきた鍋と置いてあった鍋を並べて火にかける。

 まだ暖かい方の鍋が騒ぎだした頃、ヨッカは意を決して声をかける。

「聞いたよ」

 その日の昼、ヨッカはようやく事情を知った。

 教えてくれたのは、同じソワニ(育児階級)のもとで育った少年。

「ラノの友達、死んじゃったんだってね」

 カサの表情が動いた。

 苦しげに歯を食いしばり、眉間にしわを寄せる。

 悲しすぎる出来事に耐えているとき、カサはこんな顔をするのだろう。

 ヨッカもしばらく黙りこむ。慰めの言葉はない。

 戦士階級の人間で、このようになる者は珍しくない。

 これを魂砕けと呼び、そうなった者たちはたいていそのまま死んでしまう。

 片方の鍋が吹き、ヨッカは火から下ろす。香辛料を一つまみかけるのは、食欲を失っているカサへの気づかいだ。

「カサ、食べて」

 カサは動かない。

「カサ。食べなきゃ」

 カサは動かない。

 ヨッカは悲しくなる。

 一体どうして、この優しい友人がここまで打ちひしがれなければならないのだろう。カサが、何をしたというのだろう。どうして大人たちは、彼に平穏な人生をおくらせてやらなかったのだろう。カサはこんな目にあっていい人間ではないのだ。

「……カサ……」

 ヨッカの声が震える。

「食べてよ……食べてくれないと……」

 ポタポタと涙が落ちる。洟をすすり、しゃくりあげる。天幕に、ヨッカのすすり泣きだけが満ちる。

 カサが身を起こす。

 寝ていただけなのに、げっそりとやつれている。

 黙ってヨッカから鍋を受け取り、苦しそうに咀嚼する。

 目に光はない。

 ただ殺伐としながら、機械的にあごを動かす。

 時間をかけすぎたと思えるほど長い間噛みつづけ、たった一口をようやく飲み下す。

 何日ぶりかの食べ物が、胃袋から体に染み渡ってゆく。

 殺伐とした気持ちが、ほんの少し晴れた気がする。

 だがカサは、それ以上口をつけようとしない。

 ヨッカはもう黙って自分の鍋に口をつけるだけだ。

 言葉はいらない。

 ヨッカにはカサの気持ちが想像できている。

 食事を終え、鍋を横に押しやったところで、カサがようやく口を開く。

「僕のせいだ」

 ひどい声だ。

 何日も口を利いていなかったのだろう、喉が渇ききって音が割れていた。

 ヨッカは何も答えない。

 何も言わなくていい。

 話を聞くだけで、カサの苦しみを和らげてやれる。

「僕が、カイツを殺した」

 言葉は静かだが、深く激するカサ。

「僕のような人間は、生きていてはいけないんだ」

 ただ一つの腕、左手が鍋を力の限り握りしめる。

 器にひびが入り、取っ手が外れて中身が転がり落ちる。

 肉の塊が一つ、火の中に跳びこみジュウと焦げる。

 その拍子に、焼けた炭がいくつか火から転がり出る。

「熱いッ!」

 ヨッカが膝で跳びすさる。カサの目の前にも、指の先ほどの炭がこぼれている。

「あっ、カサ!」

 カサはそれをつまみ、

 ジュウウゥゥゥッ……。

 思い切り握りしめる。手のひらが、炭でが焼ける匂い。

「カサ! 何してるの!」

 ヨッカがカサの手をこじ開けようとするが、握りしめた手は、まるで石のように固い。

 その炭がカイツの仇でもあるかのように締め上げているので、ヨッカの腕力では、ビクともしない。

「クッ……カサッ……!」

 やがてカサは力を抜き、炭を手放す。

 食いしばった口元も、今は弛緩している。

 ヨッカが検めると、手のひらの火傷はひどく、表皮が崩れ薄赤い真皮層が見えている。

 水を張った手がめを引き寄せ、カサの手をその中に突っ込む。

 火傷は何よりも早く冷やす事だと、カラギ(食糧管理階級)で口を酸っぱく教えられている。

 手のひらをよく洗ってから、自分の天幕から取ってきた火傷の薬を一つまみ火傷痕に押し当て、包帯で覆う。

 相当痛みがあるはずなのに、カサの顔は呆け、されるがままになっている。

 一体どれほどつらい出来事にあえば、人はこれほど荒むのであろう。

 ヨッカは、カサを追い詰めたすべての人間に怒りを覚えた。

 包帯を巻き終えて、ヨッカはカサの手を労わるように挟み、

「カサは、生きていい人間だよ」

 その手に、想いを込める。

「俺は、カサに死んでほしくない」

 祈るように語りかける。

 だがカサは力なく首をうなだれるばかり。それでも、うなだれるというのは反応である。

 素焼きの杯に、手製の赤花の実を用いた酒をそそぐ。

「飲んで。カサ」

 酒精は傷口に障るというが、カサの癒すべきは心の傷で、それはヨッカの手では届かない場所にある。

 ならば今重要なのはカサの心に鬱屈する膿を出す事なのだ。

 渡された液体を不思議そうに見つめるカサの手を、少々無理に口まで持っていってやる。

 杯が空くとすぐに注ぎ、また飲ませる。

 カサに付きっ切りで何杯か酒を飲ませると、そのうちカサの顔から険しさが緩む。

 口当たりのよい酒が、固かった心をほぐし始めたのだろう。

 長い沈黙の後、カサは言葉をつむぎ始める。

「……カイツは……」

 酔いが回り始めて、首がグラグラしている。

「戦士長の、息子だったんだ」

「戦士長? どの?」

「戦士長、ブロナー。僕の初めての狩りの、戦士長」

 言葉がおぼつかない。思い巡らせるのも、苦痛なのだ。

「僕があの時、生き延びたのは、戦士長のおかげなのに……」

 カサが咳き込む。涙が喉に詰まったのだ。

「……なのに僕は……カイツを守る事もできなかった!」

 力なく泣く。

 ヨッカはカサの手を取り、酒を注いでやる。

「カサはよくやったよ。みんな、きっとそう思ってくれていると思う」

 違う。ヨッカは解っていない。

 一度守ると誓ったならば、カイツが死ねば、その責任すべてがカサにあるのだ。

 それはカサにとっては間違いのない事実であり、覆せぬ過ちなのだ。

 ヨッカはその夜、カサが酔いつぶれるまで傍にいてやった。

 やがてカサが眠り込むと、熾き火を処理して夜具をかけてやり、そっと天幕を出た。

 戸布をくぐるとき一度ふり返って、酒に呑まれて深く長い呼吸をするカサを見る。

――何もカサばかり辛い目に遭わさなくてもいいじゃないか……。

 誰にぶつけるでもない文句を飲み込み、自分の天幕に戻る。



 闇の腑に血肉を溶かされ、酒精に朦朧とする中、カサはあいつに遭った。

 背中が妙に冷えると思ったら、そこはあの獣が獲物を解体する為の、大きな岩の上だった。

 あいつは大きな体でのしかかり、その金色の眼をカサに向けた。

ーー辛いのだろう。苦しいのだろう。その渇き、潤したいのだろう。

 凶悪な牙がずらりと並んだ口から、唾液に粘る長い舌をだらりと垂らす。

ーーなら、喰らえばいい、啜ればいい。

 喰らうって、啜るって、なにを?


ーー今、最も望む肉を。


 そうしてあいつは真っ黒な口を大きく開き、カサを、一呑みにした。

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