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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第四章 邑衆
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〈三十一〉サルコリ社会

 ゾーカがその娘を自分の天幕に呼び寄せた理由は、単純な下心であった。

 サルコリにあって、ゾーカは豊かな生活のできる唯一の人間である。その暮らしぶりは平均的な邑人よりも豊かだが、長たちに匹敵するほど豊かではない。生きる上で足りない物はないが、本当に良いものは手に入らない、といった按配だ。

 彼の持つ天幕は大きいが、他のサルコリと変わらずうす汚い。これは周りの目を欺くためである。ここで言う周りとは、他のサルコリ、という意味ではない。彼らはゾーカの暮らしぶりを知っている。

 周りとは邑、この場合ベネスの者たちの事を指す。

 財産を持つとはいえ、所詮ゾーカはサルコリである。

 目をつけられればすべてを失う、吹けば飛ぶような存在なのだ。

 戸幕をすりあげる音。

「何でしょう」

 娘が、来た。ゾーカは息を呑む。

――これはこれは……。

 いつも間にこんなに美しさを身につけたのであろう。

 すらりと立つ体にはふくよかさこそ足りないが、涼しげな目元とあいまって、一種神々しささえ感じさせる。

 ついこの間までは、小便臭い子供だと思っていたのだが。

――こいつは、一財産作れるな。

 不躾に値踏みする。

 ゾーカは独り身の男や、妻に飽いた夫に、サルコリの女を斡旋する事を生業としている。

 女衒である。

 もちろんおおっぴらにやればゾーカなぞとっくにこの世にはいまい。

 ベネスの中に独自の人脈を作り、人目をはばかりながら安心して女遊びをさせているのである。

 似たような行為に手を染めるサルコリがいなかった訳ではなかったが、彼ほど大きな富を築いた者はいない。

 富の秘匿を徹底的したのが秘訣である。

 邑の男たちは安心してゾーカの女を抱き、そして誰にも見咎められずに帰ってゆける。

 妻以外の女を抱く事もサルコリと交わる事も、ベネスでは重罪である。

 どんな火遊びも損失が大きいとなればみな二の足を踏む。

 ゾーカはそこに目をつけ、そして大きな成功を収めたのである。

「前の冬に、お前に何度も食料を都合してやったのを憶えているな」

 娘が身を固くする。

「……はい」

「もっとこちらに来るが良い」

 娘が入り口のすぐ近くから動こうとはしないので、ゾーカはいらだち、

「こっちに来ないか!」

 怒鳴りつける。

 だが娘は動こうとしない。ゾーカを睨みつけ、

「もらった分は、返したはずです」

 ぬけぬけと言う。

「もらった分よりも多く、返したはずです」

 なぜここに呼ばれたかを薄々理解しているのであろう、決して思い通りにはさせぬとその目が言っている。

「……あの食料のおかげで、お前たちは生き残る事ができたのだろう」

「もう少し食べ物をくれれば、母は死なずに済みました。食料はあったはずです」

 何も持たない小娘が、好きな事を言う。ゾーカはまたいらだつ。

「それに死んだ者の中には、あなたに食べ物を持っていかれた者がたくさんいます」

 ゾーカの豊さは、他のサルコリの困窮の上に成りたつ。己の食料を確保するために、貸しを作っておいた者どもから引き剥がすように食材を奪ったのだ。

 そしてゾーカは飢える事なく冬を過ごせた。

 だがあの冬以降、ゾーカに恨みを持つサルコリが増えた。

 以前から好かれてはいなかったが、いまやゾーカは毒虫か死肉喰らいかというほど嫌われている。

 自業自得ではあるが、サルコリ全体を見下しているゾーカが彼らの怒りに頓着するはずもない、日を追うごとに、彼らとゾーカの間に埋まらぬ溝が深まっていた。

 まず、ゾーカに非協力的な人間が増えた。

 今では生業のための女を調達するのも一苦労という有様である。

 ゾーカは今までのように、貸しを作った女を言いくるめて仕事を手伝わせようとまた手を広げたのだ。

 そして適当だと思った女の一人が、この娘である。

 名前は、ラシェ。

 最近とみに美しくなったと評判である。

 口さがない者は男ができたのだろうと下卑た顔で言う。

 それが本当ならば難点だが、なんなら財物をちらつかせ、握らせればいい。

 だがラシェは思いのほか強硬であった。

 ゾーカをにらみつけ、そばに寄ろうともしない。

 それで諦めるゾーカではない。この程度の抵抗に挫けていては、女を斡旋することなどできない。無理を押し通す事でここまでのし上がってきた男なのである。

――いざとなれば、力ずくで手伝わせれば良い。

 手篭めにして、思い通りにさせようというのだ。

「お前ごときが、どういうつもりだ」

 ゾーカが立ち上がり、ラシェに近寄る。

「この俺に、逆らうというのか」

 ラシェの肩に、手をかける。

「――嫌ッ!」

 悲鳴を押しつぶそうと、力を込める。

 だがされるがままになるラシェではない。

 引き寄せようとするゾーカの顔を爪を立て、力の限り振り払う。

 ゾーカはさして力に優れた男ではない。

 中背の痩せた男で、年も四十を越えている。

 一言でいえば貧相、女とはいえ、若いラシェを押さえつけるのは大変な苦労であった。

「手を煩わせよって……!」

 ゾーカの皺だらけの手が、ラシェの胸元を割った。

「あっ……!」

 ラシェが悲鳴を上げる、が、それ以上の動きをゾーカは見せない。

 ラシェが服の下につけていたものを見て、驚いていたのである。

「何だ、これは」

 その隙を、ラシェは見逃さなかった。

 手元にあった素焼きの水差しをつかみ、ゾーカの頭に叩きつける。

 派手な音がして破片が散り、水が飛沫く。そのままゾーカを押しのけ、ラシェは駆けだす。

「待て!」

 ラシェの足音が遠ざかる。

 天幕の外で見張らせていた男が、ラシェを追いかけようとする。

「待て! 追うな!」

 顔を押さえたゾーカが、それを止める。

「しかし……」

「いい! それよりもここを見張れ!」

 苦しげにうめきながら命令するゾーカ。その頭の中では、今見た物を、吟味している。

――あの、服の下につけていたものは、何だ。

 サルコリは、下着を着けない。

 そもそもその風習がないので、ベネスの中でも下着を用いる女は少ない。したがってゾーカは、下着という物をよく知らない。

 だが驚いたのは、下着ではなく、その素材や意匠である。

 ラシェが身につけていたその薄布は、ゾーカですら見た事がないほど高級な品であった。

――男がいる、という話だったが……。

 てっきりサルコリの若い男と恋仲なのだろうと高をくくっていたのだが、当てが外れた。

――相手はベネスの、それもかなり財産のある男、という事か。

 となれば、地位のある男に違いない。

 何かの職種の、かなり上位に属する人物、つまりどこぞの職長。

――あのように初心に見せておいて、なかなか男を引き込むのが巧いようだ。

 それならばやりようがある。

 地位のある者が、そのような関係を表に出したがるとは思えない。

 少々無理をしても、大事にはならないだろう。

――いかに美しくとも所詮サルコリの娘、なにかあれば男は知らぬ存ぜぬを貫くだろう。だが、念には念を入れねばな。

 慎重になるにこした事はない。

 それに巧くやればベネスに大きな人脈ができる。

 そのためには、まず情報を集めねばならない。

――あの娘を調べねばなるまい。

 ゾーカは、思案する。

 賢しく細めた目で、自分の利益だけを追い求める。



 自分の天幕に逃げ込み、ラシェはようやく息をつく。

 乱れた胸元をかき寄せ、悪寒に身を震わせる。

「お姉ちゃん、ぼく、起きてたよ?」

 眠そうにカリムが身を起こす。熾した火に焼けた頬が、赤く火照っている。

「ごめんね? 寝てて良いの」

 ラシェがカリムを寝かせてやる。

 今年十歳(約八歳)になる弟は、最近成長が著しい。

 背は高くなり、手足はしなやかに伸び始め、ふっくらとしていたはずの体も、丸みが消えて直線的な輪郭をとり始めている。

 あの甘えん坊が、いつの間にか自分の事は自分でできるようになっていた。

 手がかからなくなった事に一抹の寂しさを覚えつつも、その分カサに会いにゆく時間が増やせるのは有り難かった。

――だけれど、これから私たち、どうなるんだろう。

 今しがたの出来事で、動悸が治まらない。

 父は死に、母も死んだ。

 弟は大きくなりつつあり、やがて自分の手を離れるだろう。

 カサとの関係にも未来は見えない。

 やがて来るカサとの別れの前に、ラシェには一つだけ望みがある。

 それはとても小さな望みだが、ラシェにとっては最も大きな望み。

――カサの子供がほしい。

 もしカサとの間に子供が出来たのなら、ラシェはその子の父親の事を、誰にも語らないだろう。

 ひっそりとカサの子を産みたい。

 そしてその子を育てる事に、残りの生を費やしたい、そう願っている。

 カサよりもラシェが現実的に状況を見ている

 この関係は、最終的に何が待とうとカサに迷惑をかけてはいけない。

 だが、カサに迷惑が及ばぬのであれば、ラシェもカサから何か一つぐらい受け取っていいはずだ。

 その答えが、子供なのである。

 サルコリでは私生児など珍しくもない。

 ラシェが誰のものとも知れぬ子を孕もうが、気にする者はいないであろう。

 ラシェはカサに抱いてほしいと思っている。

 それは情欲ではなく、情緒である。

 カサがそうしないのは、それだけラシェを大切に想っているからだ。

 次にカサが帰って来たときに、ラシェはその気持ちをカサに余さず伝えようと思っている。

 この前は恥ずかしくて言えなかったが、ゾーカのような男に目をつけられたとあっては、急がねばならない。

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