〈二十九〉酸鼻
そして、最悪の事態が発生する。
夜通しエサを探し求め、獲物をえられなかったコブイェックと、出立前の戦士たちが遭遇したのである。
最初に遭遇したのはセリブ隊。
よりによって、カサのすぐ隣の五人組であった。
後発のカサたちが追いついた時には、すでに一人犠牲者が出ていた。
肩口を引き裂かれ、片腕が血まみれの戦士が倒れている。
セリブの隊の戦士だ。
他の四人が獣と相対し、倒れた戦士を囲んで守る。
――餓狂い、それも完全に我をなくしている。
目は濁った金色、餓えて狂乱した獣、開いた口から粘りの強いよだれが糸を引いている。
――こちらを喰らう気だ……!
食欲が、戦士たちに向いている。
カサが飛び出して獣の鼻先を塞ぐ。
これがいけなかった。
その時カサについてきた戦士は二人。
それもよりによって、カイツとトナゴ。
トナゴはいつものように、カサよりも二歩は下がった所にいる。
ある意味、これは正しい選択だった。
だがカイツは、カサの真横に並んで槍をかまえたのだ。
「カイツ! 下がれ!」
「で、でも戦士長……」
「下がるんだ!」
「俺だって戦えます!」
若造が何を言うのか。
相手はコブイェック、それも餓えに猛り狂った個体である。
相手としては最悪の部類だ。
「下がるんだ! 戦士長の命令が聞けないのか!」
カイツが口惜しげに黙り、一歩下がる。
カサが、カイツとトナゴをかばうように、立ち位置をずらす。
その動きを敏感に感じ取った獣が、カサたちの方に牙を向ける。
「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
腹の底から絞りだされた吼え声。
地面が振動するような大声量。
食欲に粘つく唾液が、カサの頬にかかる。
距離が近い。
接しすぎて、カサすら動けない。
獣が狙うは、カサたち三人。
しかも援護はなく、実質獣に槍を突けるのはカサただ一人。
これほど絶望的な狩りを、誰も経験した事がないだろう。
いや、カサとトナゴは経験している。
奇しくもカイツの父親、ブロナーと今のカサは、全く同じ立場にいるのである。
――何て事だ……!
なくした右腕が痛み出す。
――あの時と同じだ。
この右腕を喰らった飢狂いのの記憶が、またカサを闇に引きずり込む。
心が千ゞに乱れ、視野が狭窄し、ラハムがいない事にすら気づかない。
泰然と状況を掌握できない。
交錯する獣とカサの視線。
時々チラチラと動く獣の瞳に、狙いをカサではなく弱いカイツに向けている。
――そうはさせない……!
この身が滅んでも、カイツだけは生きて帰らせる。そう決めたのだ。
カイツだけは、殺させない。
何を犠牲にしても。
だがその覚悟が逆にカサの心と体から柔軟さを奪う。
カサは槍をかまえ、一撃で相手の膝を縫いとめる姿勢にでる。
まだ獣は立ち上がっていない。
四足でカサたちを伺っているのである。
これでは一の槍が突けない。
「ゴフッ…、ゴフッ…、ゴフッ…!」
荒い息。
空腹に狂った獣の目。
金色の二つの光。
――無理だ。
理想は最初の狩り。
カサが相手の動きを全て制することだ。
だがこの獣は、興奮しすぎている。
飢えと怒りで、正常ではない。
最初の狩りも剣呑だったがその比ではない。
獣を立たせるためには、まず槍先を脅威に思わせねばならないのだが、ここまで昂ぶっていては無理だ。
せめて槍の数だけでも揃えば、周囲を囲んで動揺を誘えるのだが、応援の手は四方に全く見えない。
――なぜ誰も来ないんだ……!
焦燥で噴き出した脂汗で手がヌルつき、目に沁みる。
まさしくブロナーと同じ状態に陥っていた事を、カサは知る由もないだろう。
深呼吸をひとつ。不完全な状態ながら、カサは獣に槍を突きこむ覚悟を決める。
――この一撃で決めねば、みなが死ぬ。
冷汗が、背中をべっとりと濡らす。
――落ち着け。
呼吸を、低くする。
――落ち着くんだ。
ジリ。
カサは槍をかまえる。
狙うは、ただ一箇所。
心臓。
正面から一撃で獣を無力化できる、唯一の場所。
カサの背後で、カイツとトナゴが、獣との間に緊張が高まってゆくのを、感じとる。
そしてカサが少し、前方に体重を移し、一の槍を、突こうとしていた、まさにその瞬間、
「ヒアアアアアアアアアアアアア!!!」
すべてが瓦解する。
カサが何としても回避しようとした、あの呪わしい夜。
あの夜の、カサと同じ悪夢を引きずっている者が、ここにもいた。
トナゴ。
腰紐抜けのトナゴ。
臆病者の肥満男。
その男が、またも背を向けて逃げた。
獣が背を向けた者を追うのは、子供でも知っているのに。
カサが全精力をあげて抵抗してきた悪夢から、だがトナゴは逃げつづけてきたのだ。
つまり、再びあの夜と同じ状況となれば、トナゴはもう一度同じように逃げるに決まっていた。
だからトナゴは逃げる。
あの夜と同じように、槍を放りだし背を向けて。
そして、あの夜と同じように、獣はトナゴの背を追いかける。
餓えてギラついた目で、唾液に濡れた牙を剥き出しにして。
――くそっ……!
カサが槍を突きこむ。
狙いはたがわず獣の膝を射抜いたが、前肢を用いて移動する獣の勢いは止まらない。
よろめきながらもトナゴの背に殺到し、鋭い爪でトジュごと背中を浅く裂く。
「ギヒエッ!」
つぶれた悲鳴を上げて、トナゴが倒れる。
「クッ……!」
カサは槍に体重をかけ、獣を押さえこむ。
「ゴウアッ!」
縫いつけられた左膝を支点に、獣がまわりこむ。
そして、
そこに、カイツが鉢合わせる。
獣の前肢が上がり、その爪が、まだ幼さを残す戦士の頭上から、緩慢に、叩きつけられる。
――……!!
なす術もない、一刹那。
時間が圧縮され、
そして、
止まる。
「エ……?」
血飛沫が舞う。
小さな体が反転し、砂の大地に倒れる。
力の抜けた手から、槍がこぼれる。
土煙があがる。
獣が圧し掛かり、その牙をカイツの体に
その柔らかな肌を
ゴォンッ!
喰い千切る紙一重。
横合いからの槍が獣のこめかみを右から左へ貫いた。
真っ黒な槍先。
槍を持つは、腰だめにかまえた黒き影。
放心したカサは、目の前の光景を、理解できない。
「大戦士長……!」
うめくように口にしたのは、戦士長セリブ。
だがカサはその声を聞いていない。
周囲を取り巻く戦士たちを、見ていない。
ただ目に映るのは、血まみれで横たわるカイツの体。
動かなくなった、小さな体。
さっきまで笑っていた、あのブロナーの息子。
カサを慕い、うるさい位にまとわりついてきていた、戦士になったばかりの少年。
「カイツ……?」
乾いた声でカサが呼ぶ。カイツは答えない。うつぶせに倒れたままだ。
「……カイツ?」
呆けたカサの呼びかけに、カイツは、答えない。
血まみれで横たわったままだ。
よろめきながら、カサはカイツに歩み寄る。
その傍にひざまずき、仰向けにさせ、倒れた体を起こす。
左頭部から袈裟懸けにたたきつけられた爪は、顔を引き裂き、首筋をえぐり、胸元中央から右わき腹まで、巨大な傷痕を描いていた。
カサの腕の中の体にはまだ体温が残っているのに、肌は既に血色を失い、見開かれた目は運動しておらず、呼吸も止まっている。
カイツが、死んでいた。
流れ出た血が、カサの腕を濡らし、体温を奪ってゆく。血は流れているが、脈はすでにない。
「カイツ」
揺さぶる。カイツは死んでなんかいない。ただ出血して気を失っているだけだ。
「カイツ、起きてカイツ」
血が、たくさん流れている。
このままでは危ない。出血を止めないと。
「カイツ? 起きなきゃ、カイツ?」
「カサ……!」
苦渋のラハム。
間際にガタウを呼ぶという選択が裏目に出てしまった。
もし自分がカサについていれば、別の結末もあり得たのだ。
「誰か。カイツの血を止めて。このままじゃ死んじゃう」
カサはまだ、カイツの死が受け入れられない。
同じ痛みをラハムも知っている。
戦士長みんなが知っている。
だからラハムはカサに言う。
これを言うのは自分の仕事だ。
「カサ……!」
「ラハム、カイツが死んでしまう。早く血を止めないと」
「クッ……!!」
子供のように不安げなカサの仕草がラハムの胸をえぐる。
悔やんでも悔やみきれぬが、ここで立ち止まらせてはいけない。
カサは戦士長なのだ。
「戦士長カサ!」
カイツを抱くカサに向かい、腰をおろしてカサの肩をつかむ。
「ラハム、お願いだ早くラハム」
悪戯がばれた子供のような、頼りないカサの態度。
「戦士長カサ……!」
ラハムはカサの肩を持つ手に力を込める。
「何してるの? カイツが死んじゃうよ」
カサの目はカイツもラハムも見ておらず、ただカイツを失う恐怖に怯えている。
「戦士長カサ!」
「早くして! 早くしてよラハム!」
「戦士長カサ!」
ラハムは力の限り肩を揺さぶり、その頬を叩いて叫んだ。
「戦士カイツはもう死んでいる!」
カサは絶句し、ラハムの目を見、カイツに目を落とし、もう一度ラハムを見る。
「戦士カイツは、もう、死んでる!」
カサはただ呆然とラハムを見る。
「死んでるんだカサ! 見ろ! もう息をしていない! 心臓も動いていない! カイツは死んだのだ!」
愕然と、呼吸をせず冷たくなってゆくカイツの身体を見おろす。
「死んだ……?」
「死んだんだ! カサ! カイツはもう死んだんだ!」
カサは、泣いていた。
無表情にカイツを抱き、命とともに流れ出た血を浴びて体中真っ赤に染めながら、泣いていた。
「カサ……」
ラハムが血を吐くように苦しげに、
「……済まぬ」
カサに詫びる。その目にも涙。
血の気の引いたカイツの体。
カサが嗚咽を漏らす。
ラハムも悔恨の涙を落とす。
すぐそばには、カイツの命を奪った獣の屍と、それを仕留めたガタウ。
そして、続々と集まってきた、彼らを取り巻く戦士たち。
それはあまり悲痛な情景であった。