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砂漠の戦士  作者: ハシバミの花
第四章 邑衆
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〈二十九〉酸鼻

 そして、最悪の事態が発生する。

 夜通しエサを探し求め、獲物をえられなかったコブイェックと、出立前の戦士たちが遭遇したのである。

 最初に遭遇したのはセリブ隊。

 よりによって、カサのすぐ隣の五人組であった。

 後発のカサたちが追いついた時には、すでに一人犠牲者が出ていた。

 肩口を引き裂かれ、片腕が血まみれの戦士が倒れている。

 セリブの隊の戦士だ。

 他の四人が獣と相対し、倒れた戦士を囲んで守る。

――餓狂い、それも完全に我をなくしている。

 目は濁った金色、餓えて狂乱した獣、開いた口から粘りの強いよだれが糸を引いている。

――こちらを喰らう気だ……!

 食欲が、戦士たちに向いている。

 カサが飛び出して獣の鼻先を塞ぐ。

 これがいけなかった。

 その時カサについてきた戦士は二人。

 それもよりによって、カイツとトナゴ。

 トナゴはいつものように、カサよりも二歩は下がった所にいる。

 ある意味、これは正しい選択だった。

 だがカイツは、カサの真横に並んで槍をかまえたのだ。

「カイツ! 下がれ!」

「で、でも戦士長……」

「下がるんだ!」

「俺だって戦えます!」

 若造が何を言うのか。

 相手はコブイェック、それも餓えに猛り狂った個体である。

 相手としては最悪の部類だ。

「下がるんだ! 戦士長の命令が聞けないのか!」

 カイツが口惜しげに黙り、一歩下がる。

 カサが、カイツとトナゴをかばうように、立ち位置をずらす。

 その動きを敏感に感じ取った獣が、カサたちの方に牙を向ける。

「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 腹の底から絞りだされた吼え声。

 地面が振動するような大声量。

 食欲に粘つく唾液が、カサの頬にかかる。

 距離が近い。

 接しすぎて、カサすら動けない。

 獣が狙うは、カサたち三人。

 しかも援護はなく、実質獣に槍を突けるのはカサただ一人。

 これほど絶望的な狩りを、誰も経験した事がないだろう。

 いや、カサとトナゴは経験している。

 奇しくもカイツの父親、ブロナーと今のカサは、全く同じ立場にいるのである。

――何て事だ……!

 なくした右腕が痛み出す。

――あの時と同じだ。

 この右腕を喰らった飢狂いのの記憶が、またカサを闇に引きずり込む。

 心が千ゞに乱れ、視野が狭窄し、ラハムがいない事にすら気づかない。

 泰然と状況を掌握できない。

 交錯する獣とカサの視線。

 時々チラチラと動く獣の瞳に、狙いをカサではなく弱いカイツに向けている。

――そうはさせない……!

 この身が滅んでも、カイツだけは生きて帰らせる。そう決めたのだ。

 カイツだけは、殺させない。

 何を犠牲にしても。

 だがその覚悟が逆にカサの心と体から柔軟さを奪う。

 カサは槍をかまえ、一撃で相手の膝を縫いとめる姿勢にでる。

 まだ獣は立ち上がっていない。

 四足でカサたちを伺っているのである。

 これでは一の槍が突けない。

「ゴフッ…、ゴフッ…、ゴフッ…!」

 荒い息。

 空腹に狂った獣の目。

 金色の二つの光。

――無理だ。

 理想は最初の狩り。

 カサが相手の動きを全て制することだ。

 だがこの獣は、興奮しすぎている。

 飢えと怒りで、正常ではない。

 最初の狩りも剣呑だったがその比ではない。

 獣を立たせるためには、まず槍先を脅威に思わせねばならないのだが、ここまで昂ぶっていては無理だ。

 せめて槍の数だけでも揃えば、周囲を囲んで動揺を誘えるのだが、応援の手は四方に全く見えない。

――なぜ誰も来ないんだ……!

 焦燥で噴き出した脂汗で手がヌルつき、目に沁みる。

 まさしくブロナーと同じ状態に陥っていた事を、カサは知る由もないだろう。

 深呼吸をひとつ。不完全な状態ながら、カサは獣に槍を突きこむ覚悟を決める。

――この一撃で決めねば、みなが死ぬ。

 冷汗が、背中をべっとりと濡らす。

――落ち着け。

 呼吸を、低くする。

――落ち着くんだ。

 ジリ。

 カサは槍をかまえる。

 狙うは、ただ一箇所。

 心臓。

 正面から一撃で獣を無力化できる、唯一の場所。

 カサの背後で、カイツとトナゴが、獣との間に緊張が高まってゆくのを、感じとる。

 そしてカサが少し、前方に体重を移し、一の槍を、突こうとしていた、まさにその瞬間、


 「ヒアアアアアアアアアアアアア!!!」


 すべてが瓦解する。

 カサが何としても回避しようとした、あの呪わしい夜。

 あの夜の、カサと同じ悪夢を引きずっている者が、ここにもいた。

 トナゴ。

 腰紐抜けのトナゴ。

 臆病者の肥満男。

 その男が、またも背を向けて逃げた。

 獣が背を向けた者を追うのは、子供でも知っているのに。

 カサが全精力をあげて抵抗してきた悪夢から、だがトナゴは逃げつづけてきたのだ。

 つまり、再びあの夜と同じ状況となれば、トナゴはもう一度同じように逃げるに決まっていた。

 だからトナゴは逃げる。

 あの夜と同じように、槍を放りだし背を向けて。

 そして、あの夜と同じように、獣はトナゴの背を追いかける。

 餓えてギラついた目で、唾液に濡れた牙を剥き出しにして。

――くそっ……!

 カサが槍を突きこむ。

 狙いはたがわず獣の膝を射抜いたが、前肢を用いて移動する獣の勢いは止まらない。

 よろめきながらもトナゴの背に殺到し、鋭い爪でトジュごと背中を浅く裂く。

「ギヒエッ!」

 つぶれた悲鳴を上げて、トナゴが倒れる。

「クッ……!」

 カサは槍に体重をかけ、獣を押さえこむ。

「ゴウアッ!」

 縫いつけられた左膝を支点に、獣がまわりこむ。

 そして、

 そこに、カイツが鉢合わせる。

 獣の前肢が上がり、その爪が、まだ幼さを残す戦士の頭上から、緩慢に、叩きつけられる。

――……!!

 なす術もない、一刹那。

 時間が圧縮され、

 そして、

 止まる。


 「エ……?」


 血飛沫が舞う。

 小さな体が反転し、砂の大地に倒れる。

 力の抜けた手から、槍がこぼれる。

 土煙があがる。

 獣が圧し掛かり、その牙をカイツの体に

 その柔らかな肌を


 ゴォンッ!


 喰い千切る紙一重。

 横合いからの槍が獣のこめかみを右から左へ貫いた。

 真っ黒な槍先。

 槍を持つは、腰だめにかまえた黒き影。

 放心したカサは、目の前の光景を、理解できない。

「大戦士長……!」

 うめくように口にしたのは、戦士長セリブ。

 だがカサはその声を聞いていない。

 周囲を取り巻く戦士たちを、見ていない。

 ただ目に映るのは、血まみれで横たわるカイツの体。

 動かなくなった、小さな体。

 さっきまで笑っていた、あのブロナーの息子。

 カサを慕い、うるさい位にまとわりついてきていた、戦士になったばかりの少年。

「カイツ……?」

 乾いた声でカサが呼ぶ。カイツは答えない。うつぶせに倒れたままだ。

「……カイツ?」

 呆けたカサの呼びかけに、カイツは、答えない。

 血まみれで横たわったままだ。

 よろめきながら、カサはカイツに歩み寄る。

 その傍にひざまずき、仰向けにさせ、倒れた体を起こす。

 左頭部から袈裟懸けにたたきつけられた爪は、顔を引き裂き、首筋をえぐり、胸元中央から右わき腹まで、巨大な傷痕を描いていた。

 カサの腕の中の体にはまだ体温が残っているのに、肌は既に血色を失い、見開かれた目は運動しておらず、呼吸も止まっている。

 カイツが、死んでいた。

 流れ出た血が、カサの腕を濡らし、体温を奪ってゆく。血は流れているが、脈はすでにない。

「カイツ」

 揺さぶる。カイツは死んでなんかいない。ただ出血して気を失っているだけだ。

「カイツ、起きてカイツ」

 血が、たくさん流れている。

 このままでは危ない。出血を止めないと。

「カイツ? 起きなきゃ、カイツ?」

「カサ……!」

 苦渋のラハム。

 間際にガタウを呼ぶという選択が裏目に出てしまった。

 もし自分がカサについていれば、別の結末もあり得たのだ。

「誰か。カイツの血を止めて。このままじゃ死んじゃう」

 カサはまだ、カイツの死が受け入れられない。

 同じ痛みをラハムも知っている。

 戦士長みんなが知っている。

 だからラハムはカサに言う。

 これを言うのは自分の仕事だ。

「カサ……!」

「ラハム、カイツが死んでしまう。早く血を止めないと」

「クッ……!!」

 子供のように不安げなカサの仕草がラハムの胸をえぐる。

 悔やんでも悔やみきれぬが、ここで立ち止まらせてはいけない。

 カサは戦士長なのだ。

「戦士長カサ!」

 カイツを抱くカサに向かい、腰をおろしてカサの肩をつかむ。

「ラハム、お願いだ早くラハム」

 悪戯がばれた子供のような、頼りないカサの態度。

「戦士長カサ……!」

 ラハムはカサの肩を持つ手に力を込める。

「何してるの? カイツが死んじゃうよ」

 カサの目はカイツもラハムも見ておらず、ただカイツを失う恐怖に怯えている。

「戦士長カサ!」

「早くして! 早くしてよラハム!」

「戦士長カサ!」

 ラハムは力の限り肩を揺さぶり、その頬を叩いて叫んだ。

「戦士カイツはもう死んでいる!」

 カサは絶句し、ラハムの目を見、カイツに目を落とし、もう一度ラハムを見る。

「戦士カイツは、もう、死んでる!」

 カサはただ呆然とラハムを見る。

「死んでるんだカサ! 見ろ! もう息をしていない! 心臓も動いていない! カイツは死んだのだ!」

 愕然と、呼吸をせず冷たくなってゆくカイツの身体を見おろす。

「死んだ……?」

「死んだんだ! カサ! カイツはもう死んだんだ!」

 カサは、泣いていた。

 無表情にカイツを抱き、命とともに流れ出た血を浴びて体中真っ赤に染めながら、泣いていた。

「カサ……」

 ラハムが血を吐くように苦しげに、

「……済まぬ」

 カサに詫びる。その目にも涙。

 血の気の引いたカイツの体。

 カサが嗚咽を漏らす。

 ラハムも悔恨の涙を落とす。

 すぐそばには、カイツの命を奪った獣の屍と、それを仕留めたガタウ。

 そして、続々と集まってきた、彼らを取り巻く戦士たち。

 それはあまり悲痛な情景であった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] カサは自分への評価が低いから自分が不当な扱いされても耐えられるけど 親密な他人になったらどうなるだろう その上まだトナゴがやらかしたし 前回の真実と今回の仕返しするかどうか..
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