第八話 鱗片の陰
俺には幼年期の記憶が無い。
初めて見たものは、ある中年の男性の顔。
初めて知った感情は、『熱い』というもの。
辺りには瓦礫の山が広がっていて、
視界に入る物はその全てが燃えていた。
男に『名前は分かるかい?』と問いかけられた。
俺は『分からない』と答えた。
男は『君は、テロスだ』と言い、俺を強く抱きしめた。
男の腕は太くて、硬かったけれど、
彼が持つ気配は、とても柔らかくて優しかった。
それから俺はその男に育てられた。
六歳の時、剣を習い始めた。
十二歳の時、弟が出来た。
十七歳の時、防衛士となった。
その時、親父から燃えるあの日のことを聞いた。
<罪の劫火>事件と呼ばれるその日のことを。
幻妖と呼ばれる化物が街を襲ったこと。
メーセナリアが壊滅状態に陥ったこと。
俺の産みの親は見つけられなかったこと。
親父は、当時のショックにより
記憶が無くなってしまったのだろうと推察していた。
それは正しいと思う。
俺はあの事件で沢山の物を失った。
…代わりに得た物は本当にちっぽけだ。
万人に備わっているものが、少し進化した程度。
少しだけ優れた妖力感知能力を得ただけなのだから。
---
「テロス!下がりたまえ!後はワタシがやる!」
「要らねぇよ!!! ヒシ連れてとっとと逃げやがれ!!」
「ちっ、…!」
親子を送り届けて帰ってきたマネドを再び追い出す。
自明だから――"こいつはマネドの手に負えない"。
別に、マネドが未熟だと言いたい訳ではない。
ただ龍人の戦闘力が馬鹿げているだけだ。
…俺ですら、それ以上の会話をする余裕など無かった。
「…ハァ…、ハァ…!」
『 GUULAAA…, 』
現在までで、戦闘時間は十数分を超えた頃だろうか。
常人が味わうことの無い、濃密で過酷な十数分だった。
剣を握る手は、岩石惑星が載ったかのように重たい。
抱えた緊張感は、琴線かのように張り詰めている。
これで十数分? 心体的には三日三晩戦い続けた気分だ。
「……フゥ…、」
龍人から幾度かの攻撃を受けた俺の体は傷だらけだ。
大量の血が染みついた防衛士服からは鉄の匂いがした。
それでも、未だ身体機能に然したる異常は来してない。
…それが俺の実力なのか、ただの運なのかは分からない。
何にせよ、"九死に一生"。俺の命はまだ此処に在る。
「―――ふっ!!!」
逆に、奴には何度か俺のフルパワーを食らわせていた。
今のも、奴の鳩尾を真正面から精確に穿つ攻撃だった。
生じた衝撃波が付近の窓を壊し散らす程の刺突だった。
人型の化物ならば、大概がこれで致命傷と成り得る。
『 !!! …GGLLLAAUUU……, 』
――だから困っているのだ。
龍人は強固な全身を以て超威力を受け止めて見せた。
大砲に勝るとも劣らないエネルギーの塊を、コイツはその場で耐えきったのだ。
「……ふざけやがって…、」
奴の体を見回すと、掠り傷一つ無いのが分かるだろう。
恐ろしく安定した呼吸をし続けているのが窺えるだろう。
全くの無傷。…この永遠のように長い戦闘を経た上でだ。
いつまで経っても、活路が見出せない。
地下深くの洞窟を手探りで進んでいるような
底から湧き上がる本能的な不安感だけが心に在った。
未だ妖術は不明。正直言って、勝ち目はゼロ。
進んだ先に待ち受けるのは奈落への大穴かもしれない。
「――こっからだろ、」
だが、俺に負けるという選択肢は無い。
決して後ろには下がるな、前を睨み続けろ。
…忘れんじゃねぇ、ここで負ければ数千の人が死ぬぞ。
「うぉおおらぁあああッ!!」
俺は大きく助走をつけて龍人へ肉薄した。
体中に携えたあらゆる妖石に『力』を注ぎ込み
打ち付ける滝水の如く、幻妖を激しく殴りつけた。
予測不可能な乱打。龍人ですら抵抗を諦めている。
『 …GLLAUU, 』
――否、"回避"という労力を切り捨てただけだ。
それを為そうが為さまいが、無傷という結果は不変だ。
奴は自分の優位性を深く理解している。
「クソっ!」
現状、襲撃に失敗した俺が圧倒的に不利だ。
一刻も早く龍人の間合いから逃れる必要がある。
『 GAAUU!! 』
「――っ、抜けな…!」
…俺の剣は奴の厚い腹筋の狭間に固定されていた。
どうやら、奴が腹の筋肉を硬質化させているようだ。
剣先が深く埋まっている。引き抜けない――
『 ――GGALALLAAAA…!!!! 』
――俺が次の行動を起こすにはあまりにも遅くて。
振り上げられた龍人の拳が俺の腹を打ち付けた。
「ク、ハッ…」
…骨が軋む音を鳴らし、体が空高くへ打ち上げられた。
成人男性とは思えぬほど軽々と宙を舞う俺の体は
遂に民家の屋根の高さを超え、依然として上昇を続ける。
…放物線の頂点からは、凄惨な街の様子を一望出来た。
揺さぶられた脳、クラクラと歪んでいた視界。
それらは、眼下の惨状を見た瞬間に泣き止んだ。
代わりに生じたのは、果てしない怒りと強い使命感。
「……っ…!」
俺は手放しかけた意識を強引に体に引き戻した。
大剣をしっかりと握り直し、そこに『力』を注ぐ。
…龍人の上を取れているから。これは好機だ。
地上生物同士の戦いに置いて上が有利なのは周知の事実。
確実に叩き込め、この一撃が勝負どころだ。
『力』を注ぎ込まれた大剣は徐々に輝きを強めていく。
……まだ、まだ、まだ、
使う妖力の量は、妖石の貯蓄可能量ギリギリまで。
それを越えれば妖石が割れて使い物にならなくなる。
………まだ、まだ、まだ、
全力だ。でなければコイツに傷はつけられない。
辺り一帯を吹き飛ばせるほどの『力』を…!
…………まだ、まだ、まだ、
ここだ。
「――爆ぜろ!!!!!」
紅蓮の如き大剣を掲げ、全力で振り下ろした。
狙いは龍人の脳天。全てはそれをぶち抜く為に。
発動すれば周辺を消し飛ばしてしまう程の妖術だ。
例え反動で俺の腕が壊れようとも、承知の上。
一筋でもいい、傷をつけられれば――!
『 …GGLLAAA. 』
…掌を高く掲げた龍人は『闇』を創り出した。
天から差す月光すらも飲み込むような、純粋過ぎる"黒"。
鮮明な『力』を纏った刃が、中規模の『闇』に触れると
――激しい朱色の発光は、一瞬にしてその輝きを失った。
「―――っ、なん、で、」
理由は分からずとも、状況は単純明快。
俺の妖術は打ち消され、俺の体は宙に浮かんでいる。
諦めずに剣を振り下ろすが、龍人にとって
妖力の篭っていない刃などなまくらに過ぎないのだ。
龍人は俺の大剣を素手で鷲掴みにすると
未だ醜くそれを握る無防備な弱者ごと地面に叩きつけた。
俺の肺の空気が、残すことなく大気中へと押し出される。
「…っ……!!!」
『 GGGLLUAA……, 』
地面に横たわる俺を見下ろしてくる龍人。
その口元は、喜びに満ちたように大きく歪んでいた。
俺は察する――この化物は戦いを楽しんでいるのだと。
人類を殺すことで、至上の幸福感を得ているのだと。
「……ゲス野郎が……!!!!!」
高く振り上げられたのは、龍人の鋭い鉤爪。
まるで、爪の優れた切れ味に対する証明書のように。
まるで、奴の強さを象徴するトロフィーのように。
先端には、どす黒く変色した返り血がこびりついていた。
俺の罵りすらも快楽の糧とした様子の龍人。
奴の愛刀は、敗者の体へ何の容赦も無く振り下ろされ…
――切断された左腕が、宙を舞った。
押し寄せた痛みを呻く間もなく、
ボールで遊ぶかのように、俺の体は蹴り飛ばされ――
---
男の人の呼吸音が鼓膜を揺らし。
吹き抜ける冷たい風が髪を揺らした。
瞼を持ち上げることは困難で。
なぜか胸の辺り――心臓部が強く痛む。
このまま眠りにつければどれだけ楽なのか。
そんな"愚か"で"無駄"で"醜い"妄想をしてしまう。
これ以上の痛みを感じることはなく。
これ以上の悲しみを味わうこともなく。
ただ静かに死ぬことが出来たら。
そんな未来を迎えられたら、どれだけ楽なのか。
しかし、そんな思いとは裏腹に
母親から授かった身体はもう再生を始めていた。
望まない力と、望まない代償。
この体は、人として死ぬことを許してはくれない――。
---
「――クソ、がッ…!」
そう呟いたとて、状況は何一つ変わらない。
未だ五体満足で自由に快楽を貪る強大な敵。
対するは、人間として最も重要な部位を損失した俺。
…決着は既に決まったも同然だった。
大きく欠けた左腕からは止め処なく血が滴り落ちる。
全身が悲鳴を上げているが、そんなことお構いなしと。
恐怖の化身、龍人は少しずつ歩み寄ってくる。
俺の体は、満身創痍という言葉が相応しい。
指先一つ動かすのでさえ耐えがたい苦痛が伴うのだ。
あと一発、奴の攻撃を受ければ、…間違いなく死ぬ。
相手もそれが分かっているのだろう。
龍人の歩調は沼亀のようにゆったりとしていた。
――『弱り切った雑魚に、これ以上何が出来る?』
そんな嗤笑が、奴の剛健な顔面に貼り付いている。
「………ぁあ…。」
剣を地面に突き立て、俺はおもむろに立ち上がる。
己の両足で自重を支えた所で、剣を右手で引き抜いたが
バランスが取り切れずに、少しだけふらついてしまった。
「……しっかりしろよ、まだ行けるだろ…。」
酷く震える両足を、俺は己の意思一つで収めてみせた。
何も特別なことでは無い。…俺は人間だから。
コイツらとは違う。理性を持った生き物なのだから。
誇りと、愛情と、規律を授かった一人の男なのだから。
「……聞いてんのかよ、龍人――。」
甘えは要らない。どうせこれでサイゴだ。
残された右手から大剣へと、妖力を注ぎ込んでいく。
全部だ。持ちうる全てを絞り出せ。
この一瞬の為に防衛士になったんだろ。
もう繰り返させないって誓ったんだろ。
じゃあその誓いに恥じない働きをしろよ。
過去は視るな。俺には現在だけでいい。
「―――あまり人間を舐めるなよ……!」
最初の一歩を踏み出す。敷瓦が大きな音を立てて割れた。
俺はそんなことを気にも留めず、前だけを力強く睨み。
人間を舐め腐った龍人に向かって、走り出した。
『 GUULUUAAA……!!!! 』
いつも通り、刃全体に均一に溜められた『力』。
それらを徐々に刃先へと移動させ、凝縮させていく。
中途半端な打撃でダメージは通らない。もう学んだ。
必要なのは圧縮。イメージは親父の愛用する必殺技。
ありったけを掻き集めて、全てを一点に。
…その時、"バチンッ"と鈍い音が体の内部から響いた。
「―――っ…!」
耐えきれなくなった血管が音を立てて切れたのだ。
腕、脚、眼…、――全身から鮮血が噴き出る。
放っておけば死ぬレベルの、急激な大量出血。
…だからなんだ。引き返す理由にはならない。
街を壊したこいつを、防衛士として許せない。
弟を殺したこいつを、兄として許せない。
数多の幸せを奪ったコイツを、俺は決して許さない。
「―――進め……!!!!!」
もう一度聞くぞ、テロス。
てめぇは何の為に防衛士になった…!
俺は遂に龍人の眼前へと迫った。
剣を振れば確実に届く距離。この刃を届かせるチャンス。
…けれど、俺が剣を振り上げることは無かった――
「……………。」
――龍人から、一片の焦りを読み取ったから。
従来の龍人ならばこの場面でも動じなかった。
余裕綽々と、俺の斬撃を受け止めていたことだろう。
俺の絶望顔を堪能した後、トドメを刺していただろう。
そんな残虐な強者は、俺の大剣を見るや否や…
『 GuaaaAA…! 』
…逃げ帰るように、一歩後退った。
龍人は自身の行動に少しの疑問を持っているようだ。
まるで、望んでいないことを行ってしまったかのように。
まるで、脳と体がチグハグになってしまったかのように。
奴は本能的な脊髄反射で、情けのない逃走を選択した。
…ただし、それは正しい。奴の逃走先は俺の剣の射程外。
このまま剣を振ったとて、剣先が奴に届くことはない。
ならば…!
「はあぁぁぁぁあああッ!!!」
『 ―――――!!!!????? 』
もう一歩、力強く足を踏み出す。
太い枝木を力尽くで折ったような、嫌な音が体に響いた。
数か月,数年,或いは永遠に、この脚は使い物にならない。
…それで良い。俺の役目はもうすぐ終わる。
この一歩で、あの高みにようやく届く。
「――《震天》ッ!!!」
振り上げられた『力』の剣は龍人に迫っていく。
それは寸分の狂いなく化物の腋下へと食い込み、
鱗に覆われた剛健な左腕を上半身から切り離した。
直後空間を震わせたのは、強大な衝撃波と
龍人の発した街中に響き渡るような叫び声。
…俺の顔から、思わず笑みが生じる。
「へっ、ざまぁみやがれ。」
龍人は怒りの表情で鉤爪を振り上げた。
そこには、油断も慢心も余裕も一切見られない。
全力で潰しにかかることを決意したのだろう。
…心配すんなよ、阿呆が。もう、ピクリとも動かねぇよ。
体力は随分と前から切れてる。妖力も丁度、底を突いた。
全ての手札を使い切った俺に、抗う術は残されていない。
「………ふぃ~…。」
一矢報いることは出来たのだ、後悔は無い。
『 ――GGUUULRAAAA!!!!!! 』
バトンタッチだ。
『 ………GAA…???? 』
直後、鋭い金属音が鳴り響いた。
龍人の鉤爪が受け止められたのだ。
茶髪の青年が持つ大剣によって。
「――最終ラウンドと行こうじゃねぇか、龍人。」
『 GLUAAAAAAAAA!! 』
追撃を試みた龍人が、突如炎に包まれた。
為したのは、朱色の髪を持つ傷だらけの女性。
間髪入れず、一本の短剣が龍人の片目を穿った。
投擲したのは、狩人の如し眼をした紺髪の少年。
…後は大丈夫だろう。あいつらは俺以上に強い。
「……寝るわ。」
プツりと糸が切れたように。
限界を迎えていた意識は、いとも簡単に途絶えた。
---
眼を開くと知らない男の人の頭部が映った。
霧掛かった視界は縦に大きく揺れている。
「……!! ヒシ君! 生きているのか!」
「――あの、親子は?」
「無事だよ、君のおかげさ。本当によくやったよ。
それよりも君の出血が酷い、安静にしてなさい。」
「――龍人は?」
「テロスが対処にあたっ――」
男がそう言い切る前に、俺は彼の背中から飛び降りた。
着地の際、足元がふらつき転びかけた。…問題無い。
「! そんな体でどこに行くんだね!」
「――行かないと。」
兄ちゃん一人ではあいつに勝てない。最悪の事態もある。
何を犠牲にしようとも、ソレだけは防がねばならない。
男の手を振り払い、俺は靴に『光』を込めて駆け出した。
◆
目的地に向かっている途中で、
頭に思い浮かべていた人物と会えた。
その人は二人の防衛士に支えられて運ばれていた。
全身血だらけだったが、息はあるようだった。
意識を失いながらも、満足そうに口角を上げ。
右手では見慣れた大剣を力強く握っていた。
左手は、無かった。
◆
闇に包まれた住宅街。
屋根から屋根に飛び移りながら、駆ける。
兄の大剣を両手で強く握り締め、駆ける。
今もなお戦闘が行われているであろうあの場所へ。
全てを蹂躙せしめんとする幻妖が居る、その場所へ。
兄ちゃんが独りで戦うことになったのは誰のせいだ。
兄ちゃんが命を賭けて戦うことになったのは誰のせいだ。
兄ちゃんが治らない傷を負ったのは誰のせいだ。
彼がもう二度と防衛士として戦えない体になったのは
何処の何奴のせいだ。
……決まっている、俺のせいだ。
冷たい夜風が皮膚を刺激した。
風に乗って聞こえてくるのは悲鳴や呻き声。
もうやめてくれなんて思いも虚しく消え。
その悲痛な音は俺の鼓膜を揺らし続けた。
奥歯を噛み締めながら、聞かないフリをしながら。
独りの生物は、冷たく染まった世界を駆け抜けた。
…俺は兄の手から取り外した大剣を眺めた。
太く重たい剣。柄にも刃にも痛々しい血痕が見られた。
兄の活躍と覚悟が込められたそれに『光』を注いでいく。
目的地は既に眼下。
俺は最後の屋根を壊す勢いで蹴り飛ばし
漆黒の鱗に覆われた化物の頭上へと飛び出した。
三人の人間達が猛攻撃を仕掛けているのが見えた。
その集中砲火を浴びている一匹の化物に向かって
重力を存分に利用した落下攻撃での大損傷を試みる。
…狙いは、未だ残っている右腕。
「………。」
『 GGLAA…, 』
俺は奴の右肩めがけて剣を振り下ろしたが
龍人は右掌で打撃を事もなげに受け止めた。
それを視認し、俺は即座に『光』の妖術を発動。
眩い光が放たれ、同時に龍人の右手が燃え始めた。
『 !! 』
奴は大剣を手放すと、燃え盛る右腕を大きく振った。
風圧により、その腕に纏わりついていた炎が鎮火される。
…それ以上の追撃を諦め、俺は素早く後ろに退いた。
「……ふぅっ…。」
その隙に背後から迫っていたシロンの刀を
龍人は振り返ることも無く右足で防いだ。
…如何にして危機を察知したのか。戦闘センスは抜群だ。
『 ――GGLAA!!!! 』
後、龍人はその巨体からは想像も出来ないほど
俊敏な動きで身を翻すと、左脚でシロンに反撃した。
――放たれたのは落石の如き超圧的な蹴撃。
刀を斜めに構え、ソレを受け流そうとしたシロン。
しかし強力な蹴り技の威力を完全に逃がすことは出来ず
彼女の美しい刀は真っ二つに砕け散ってしまった。
「――強度が足りんな。」
そう呟いたシロンを沈める為、龍人は手刀を構えた。
奴の鋭手は人間の首を容易に跳ね飛ばすほど速く硬い。
後数秒猶予が在れば、シロンの体は二分化されていた。
「……ん。」
『 …GAU, 』
しかし、その悲劇が歴史書に綴られることは無かった。
龍人の首筋に迫っていた二本の短剣がそれを防いだ。
奴はシロンへの追撃を諦めると、再び防御へと転じた。
『 GLAAA…!! 』
ロットの顔を忌々し気に睨む龍人。
奴は『水』が込められた空色の短剣を屈んで躱し
『風』を纏った緑色の短剣を右手の鱗で受け止めた。
「…………。」
二本の短剣を自在に操るロットは少し表情を暗くした。
龍人に有効打を打ち込めない事が屈辱なのだろう。
ロットらしくも無い、珍しく落ち込んだ様子だ。
だが、ロットが何を思おうと戦況は移り変わる。
素早く投げつけられた短剣を弾き飛ばした龍人は
先に少し遠くへ退いていたロットに一瞬で肉薄した。
「………!」
『 GULUU!!! 』
放たれた蹴りを寸前で回避したロットの右手には
『毒』特有の紫色に輝いた短剣が力強く握られていた。
彼はそれを龍人の太腿へと勢い良く突き刺した。
仕事を終えて、ロットは再度後方へと引き下がった。
その後退を決して許すまいと、素早く動いた龍人。
しかし、奴は間に割って入った大剣に行く手を阻まれた。
「――通行止めだ。」
『 ………!!!! 』
ベイドは、赤茶色に輝く大剣を地面に叩きつけた。
直後、『地』による大きな壁が反り立つように現れ
ロットと龍人の間を山脈の如し力強さで隔てた。
『 GAAA!! 』
龍人は咆哮を上げながら土の壁を砕く。
その先で待ち構えていたのは『雷』を纏った大剣だった。
剣を掲げるのはベイドだ。…妖術の切り替え動作が速い。
――大剣が奴に触れた瞬間、轟音が辺りを揺るがした。
雷撃を食らった龍人は体を大きく揺らしたものの
然したる傷は無いようだ。奴はすぐに体勢を立て直した。
…その起床が終わるよりも早く、俺は駆け出していた。
「…………。」
『 !!,…GAA…!! 』
完全に体勢を持ち直した龍人に斬りかかる。
奇襲にすら成っていない正面戦闘だったが、それで充分。
直感がずば抜けているこの幻妖に奇襲など無意味だから。
兄ちゃんの大剣はオーダーメイドだ。
全防衛士が扱う剣の中でもトップクラスの質量を誇る。
その圧倒的な重さに、圧倒的な速さを乗せ。
俺は龍人の分厚い装甲を斬りつけていく。
……見た所、効果は薄い。
『 GAU! 』
俺が幾度目かの斬撃を叩き終えた頃。
大きく吠えた龍人が鋭い蹴りを放ってきた。
なんとか大剣で受け止めようとするが、
突き上げるような蹴りの衝撃を緩和しきることは出来ず。
両手の指がひしゃげて、俺の手から大剣が離れる。
『 …GULAAA!!!! 』
続けて繰り出された容赦のない殴撃が耳元を掠めた。
…攻守交代。奴の攻撃はより一層激しくなっていく。
「…………。」
それらをひとしきり躱し終わった後。
先に回収して腰に携えておいた自分の片手剣を
既に再生した指でしっかり握り、俺は反撃に移る。
龍人も再び防戦をするつもりはないようだ。
奴は回避,防御を捨て、拳を連続で振り下ろし続けた。
攻手vs攻手。お互い一歩も譲らぬ激戦。
そうした命の駆け引きが続くこと、数分…
――先に限界を迎えたのは俺の方だった。
一瞬の、小さな判断ミスだ。
隙を見せた獲物を幻妖が逃がすはずも無く。
俺は左肩から左手の先にかけて
龍人の鋭い鉤爪により大きく肉を抉り取られた。
間髪入れず、空高くに蹴り上げられ。
俺の軽い体は近くの屋根へと転がり落ちた。
---
「ヒシ!!」
屋根上へ向かって名前を呼んでみるが、返事は無い。
…龍人の足元には血溜まりが広がっていた。
察するに、ヒシは相当な重症を負っているのだろう。
瓦の上で意識を失って倒れている可能性もある。
早めの救助と治療を受けさせなければ……
「――っ!」
『 GLAAA!!!!! 』
一秒にも満たぬ数瞬の間、俺の意識が遠のいていた隙。
龍人は稲光の如き素早さを以て肉薄して来た。
その強烈な拳を受け流し、奴との距離を取る。
ヒシのことは気になるが、…思考を切り替えろ。
今は生死を確認している猶予など微塵も無いのだから。
「少し、時間稼ぎを頼む。」
背後からシロンの声が聞こえた。
彼女の刀はもう折れてしまっている。
戦線離脱も止むを得ない状態だと思うが
シロンがそう言うからには何か策があるのだろう。
俺はロットに,或いは自分に向け、声を張り上げた。
「正念場だぞ、気張れ!」
「わかってる、」
ロットが振るうのは、二本の美しい短剣。
激戦を経て、片方はかなり酷い刃毀れを起こしている。
しかしロットが新品を取り出す様子は無かった。
恐らくその二本が彼の持つ最後の武器なのだろう。
俺にしても、妖力の残量は殆ど残っていない。
大樽の酒を飲み干したかの如く視界が酷く眩んでいる。
体内の血液が致命的に不足している証拠なのだろう。
対する龍人の動きも最初に比べてかなり鈍い。
流石の幻妖と言えど、片腕の欠損は重い足枷のようだ。
お互いに限界は近い。どちらが先に果てるかの勝負だ。
つまり、条件的にはほぼ同値。同次元の土俵に居る。
…幾多の犠牲の上に、ようやく此処へ辿り着いたのだ。
――この災厄を止められるのは、今日しか無い。
「おらぁッ!」
泣き叫ぶ足を叱咤するように声を上げながら剣を振る。
理性を保て、怒りを放て。…バトンを繋げ。
剣を振るう都度、血と汗が地面へと滴り。
石敷の上に生じた小さな染みは闇に溶けていく。
『 GAAaaAA!! 』
俺は振り下ろされた鉤爪を大剣でガードした。
直後、『地』を纏った刃を地面に突き立て妖術を発動。
龍人の体を土で固め、動きに制限を掛ける。
『 …!! ,GLaaa…!!! 』
「………なるほどね。」
それを見たロットは即座に俺の意図を汲み
刃毀れした方の短剣を空高くへと投げ上げた。
『水』が込められたその刃は空中で巨大な氷柱を生成し
身動きの取れぬ龍人の頭部めがけて落下していく。
『 ――GGLLUUU!!! 』
己の危機に気づき、身を大きく捩らせた黒色の化物。
奴の巨体を固める土塊に少しずつ亀裂が入っていく。
力尽くで『地』の牢獄を破壊するつもりなのだろう。
「逃がさねぇよ…!!」
俺は再び妖術を発動。――狙いは、上塗り。
割れ欠けた土を補強し、奴をその場に留まらせる為に。
奴の破茶滅茶な蹂躙劇に、輝く終止符を打ち込む為に。
「……おちろ…!」
数秒後、その氷柱は龍人の頭蓋へと直撃し
奴の脳に多大な衝撃を与えながらバラバラに砕け散った。
『 !!!!, …GLAAA…!!! 』
その場でふらついた龍人。
しかし、それでも致命傷とは成り得なかった。
俺が創った土塊も限界を迎え、パラパラと崩壊していく。
幻妖は再び解き放たれた。しかし、これで充分――
「行くぞ。」
――今のはただの時間稼ぎなのだから。
シロンが遠方から駆けてくるのが見えた。
それを確認し、俺達二人は邪魔にならぬよう後退した。
彼女の眼には標的――龍人の姿しか映っていない。
彼女は鞘に納めた状態の刀を持っている。
…その刀身は半分ほどが欠けているはずだ。
鉄屑同然の塊を抱えるシロンは、どうするつもりなのか…
『 !! 』
龍人が何かを感知したように、目を見開いた。
奴はすぐにその場からの退避を試みるが
何故か突如体をよろめかせ、地面へ膝をついた。
あれは――、
「『毒』は、きくんだね。」
疲れ果て、遠くで寝転がっていたロットがそう呟いた。
龍人の片腿へ突き刺さっているのはロットの短剣だ。
その刀身は『毒』の影響で紫色に輝いている。
少し前の回避際に刺された物、ようやく毒が回ったのか。
「……スゥ――」
刹那の隙に、膝をつく幻妖の間近に辿り着いたシロン。
彼女は清流のような美しい所作を以て、抜刀をした。
…鞘の中から現れたのは、燃ゆる刀。
「――《烈炎》」
シロンによる、龍人の胴を狙った横一文字斬り。
将に達人の一撃、相手は回避すら叶わぬ無防備な化物。
流石の龍人と云えども、当たれば即死だっただろう。
それを悟ったソイツは、己の重宝を捨て至宝を護った。
『 ――GUULUAaa…!! 』
炎の刀は龍人の硬い鱗へとぶつかると
その太い腕を丸ごと焼き焦がした。
…奴の剛腕は儚い死灰と化し、風に乗って散っていく。
これで龍人の両手は使用不可だ。
絶体絶命、…だが、奴の表情に諦めは浮かんでいない。
…むしろ、其処に在ったのは未来への期待,興奮,歓喜。
『 ――GGUULUUAAaaaa!!!!! 』
龍人は手始めだと言わんばかりに
自身の腕を焼き払った憎き人間の腹を蹴り飛ばした。
それは今までに比べれば弱々しく生温い蹴りであった。
しかしシロンは抵抗すら出来ずにそれをモロに食らい
細い彼女の身体は、後方へと大きく吹き飛ばされる。
「「「 ………………。 」」」
ロットは地面にうつ伏せとなって倒れ。
シロンは口から大量の血を吐き出した。
俺も指一本を動かすことすら困難である。
それを確認した龍人は口元を大きく歪めた。
『 GUULULURUuaaaAAA!!! 』
龍人の咆哮が大気を震わした。
勝利を確信したその雄叫びは、街に絶望を齎しただろう。
『最高戦力はこれで終い。
自分も両腕を失ったが、脚は健在。
残りの雑魚共を蹴散らすにはそれで十分だ。』
そんな思いが込められた、狂気に染まった叫び声だ。
今までは見せなかった大きく緩んだ表情で
勝ち取った極上の愉悦に浸っているようだった。
「――うるさい。」
『 …GLAaa…!!!??? 』
だから、こいつはギリギリまで気づかなかった。
宙へ駆け出したヒトリの少年に。
直後、恒星の如き眩い輝きが夜闇を照らした――。
---
「…………。」
耳障りな咆哮。目障りな巨躯。
それらを排除する為、再び剣を輝かせる。
それらを消し去る為、再び戦地へ飛び込む。
龍人は光の正体に気づき、真上を見上げた。
そして此の戦闘の継続を悟り、苛立ちを露わにする。
『 GGLLUULAAaaa…!!!! 』
奴は口を大きく開き、上空へ小さな『闇』を生成した。
「――! それに触れるな!」
焦りを溢れるほど含ませたベイドの声が聞こえた。
見たことの無い妖術だったが、思い当たる所はある。
さて、どう対処しようか。
思考を巡らせる最中に一本の短剣が空を飛んだ。
それは一瞬で闇の中へと消え、同時に闇も消滅する。
『 !!!!! 』
龍人が驚嘆の声を出す。
うつ伏せのまま親指を立てるロットの姿が見えた。
「…やれ、ヒシ。」
撃退に失敗した龍人はその場を離れようとして、
ようやく自身の足を縛る土の塊に気が付いたようだ。
誰の仕業かは言う必要も無いだろう。
「――頼んだぞ!!!」
改めて手に持つ剣へ意識を集中させる。
爺ちゃんから貰った精巧で繊細な片手剣。
その刀身はかつてないほどの輝きを放っていた。
これで終わらせよう。
この期に及んで保身など必要ない。
ヒシという生物の全身全霊を、この一振りに。
『 GaaaaaAAAAAAA!!!!! 』
龍人は俺に向かって口を大きく開いた。
ゾッとするほど鋭い牙が顔を覗かせている。
このまま重力に則って愚直に突っ込めば
俺の体は間違いなく食い千切られるだろう。
――だから、そうすることにした。
左手を龍人の口内へ、殴りつけるように突っ込む。
そんなことをすれば当然、腕は牙で嚙み千切られる。
手から想像を絶する量の血が零れ出た。
「なぁ、これで満足かよ。化物。』
『 GUULRRaaaAAA!!! 』
地面へ着地し問いかける。
その対象は龍人か、自分か。
…何にせよ、コイツに言語が通じている様子は無い。
ならもう、この肉塊に以上の利用価値は無いだろう。
俺は残された右手で剣を構えた。イメージは――
『―――《月華》』
俺が出せる最大のスピードで龍人を斬りつける。
直後、奴に生じた亀裂から眩い光が漏れ出し始めると…
内側から崩壊するようにして龍人の命が散った。
…十七年を生きてきて、初めての幻妖撃破。
達成感など、微塵も無かった。
◆
龍人の撃破後、街に侵入していた爬竜群は
数時間をかけて一匹残さず掃討されることとなる。
南門で猛威を振るっていた尻尾三本持ちの爬竜も
シュックやミドル、フヅキ等の活躍により無事撃破。
後に<鱗片の陰>事件と呼ばれる一夜の襲撃は
ゆっくりと時間をかけて、重たく長い幕を閉じた。
舞台に大きな傷跡と惨たらしい血痕を残して――。
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次に目を覚ました時、既に夜は明けていた。
場所は外壁の上。東門と南門の間くらいだろうか。
俺に早急な怪我の治療を薦めるベイド達から
逃げ去るようにして走り、辿り着いた場所だ。
眼下に広がる街に侵入していた化物共は片付いたようだ。
街の中に混乱は無く、あるのは悲痛な嘆きだけだった。
崩落した家々、負傷した人々。
顔に布をかけられた、もう二度と動かない人間。
そんな彼らの冷たい亡骸を抱いて泣き崩れる者達。
当然、知っている姿もあった。
薬屋の爺さんも、食事処のおっちゃんも、
もう、二度と。口を開くことは無い。
その中には妖道具屋の店主――ノールさんも居た。
下半身が血塗れの状態で、ピクリとも動かず。
地面に横たわり、静かに目を閉じている。
すぐ横に座り込むのは、彼の甥っ子――ユエ。
彼女はただ呆然と、口を開かず、涙を流していた。
そんな彼らを見下ろしながら、壁の上を歩く。
冷え切った心で、一人の人間を探す。
防衛士の女の人も、花屋のお婆さんも。
安らかに、傷だらけの大地へ体を預けていた。
優しかった彼女らは、もう笑うことすら出来ない。
この十二年間で築いた温かい関係は
恐ろしく冷たい心の重りに成り果てていた。
それでも俺は街中を見渡し続ける。
惨状の中、たった一人の人間を探し求めて。
―――あぁ、居た。
香色の髪、逞しい体、失われた左腕。
数人の防衛士に囲まれている青年。
身を削って幻妖と戦った彼は、生きていた。
それが分かれば十分だ。
俺は身を投げ出すようにして、壁から降りた。
血だらけの服を纏って、左手で目元を擦って…
じゃあ、行くか。
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