第四話 一縷の
昔、読んだ本で獅子という化物の存在を知った。
恐るべきは秘められた身体能力だ。
その鍛えられた脚は予想を遥かに凌ぐ敏捷性を生み、
その研ぎ澄まされた牙と爪は目を疑う程の殺傷力を持つ。
扱う妖術は『火』『水』『風』『雷』の四種類。
妖力の保有量は化物の中でもかなり上位の部類だ。
奴が一度妖術を使えば、その土地の環境は悉く崩れる。
弱点らしい弱点は無く、攻守共に秀でた優等種。
相手のスタイルに合わせ戦法を変える万能型化物だ。
仮に新人游蕩士が遭遇すれば、その時点で全滅は必至。
全游蕩士でも、単独勝利を収められるのは極僅かだろう。
…そして、その少数の中に俺は含まれていない。
◆
獅子はじりじりと距離を詰めてくる。
此方の出方を伺っているようだ。…一切の隙が無い。
下手に手を出せば一瞬のうちに返り討ちにされるだろう。
手を出さずとも相手の射程圏内に入った時点で俺は死ぬ。
獅子が一つ歩みを進める度、心臓が小さく跳ねた。
この絶妙な距離の睨み合いがいつまで続くか分からない。
焦れる胸中、締め付けられる脳、小刻みに震える指先。
己の意思では辞められない身体の働きに、怒りを覚えた。
…それらが奴の狙い通りだと、頭で深く理解しながらも。
「……………。」
規則正しい呼吸で、意識を繋ぎ留めた。
瞬きを無理矢理停止させ、奴の動作を視続けた。
狙うのは、一般には隙とも呼べないようなほんの一瞬だ。
――獅子が行ったのは、コンマ一秒の瞬き。
待ち続けたその機会を手放す程俺は馬鹿じゃない。
ソイツが瞼を落としたと同時に俺は懐へ潜り込み…
奴の瞳が露わになった瞬間、視界を閃光で奪ってやった。
---
気づいたときには目が見えなくなっていた。
ヒシが懐から一欠片の妖石を取り出したのは確認出来た。
淡い黄色に光り輝く、神秘的で超常的な妖石だった。
その光景から先は、何も見ることが出来なかった。
最後の場面だけが瞼の裏に色濃く焼き付いている。
純白の世界で聞こえたのは、土を蹴る音と激しい吠え声。
それらはすぐに遠ざかると、静寂だけが此の場に残った。
――俺の視力が回復したのは、数十秒後のことだ。
ようやく戻ってきた視界を頼りに辺りを見回してみても
災厄の如き化物と大切な友人の姿は確認出来なくて…。
…重石のような無力感だけが、身体に圧し掛かった。
---
草木の間をひたすら駆け抜ける。
泥塗れの靴に絶え間なく『光』を纏い続け、
乾燥しきった眼で最短ルートを見極めながら。
邪念も後悔も絶望も振り払って、俺は走っていた。
足を止めれば、道を誤れば、一瞬の内に呑まれるから。
…あぁ成程、彼処で大口を開けて待っているのが"死"か。
「………ヤバっ…!!」
後ろから迫り来る爆炎を視認し、急いで木陰に身を隠す。
木はあっという間に灰になり、俺の姿が天下に露出した。
それを嘆く間も無く、飛来した鋭い風の刃を寸前で躱す。
一安心は数瞬だ。敵手は既に新たな妖術を構築していて…
直後、世界を二つに割るような雷鳴が大気を揺るがした。
数秒前に俺が伏せていた場所には大きな穴が開いている。
…もしも移動していなければ、雷が直撃していたはずだ。
「………っ……、」
震える足を必死に動かし、俺は森を駆け始めた。
命の綱渡りをし始めて、どれくらい経ったのだろうか。
油断した獅子に閃光弾を食らわせたあの瞬間、
この化物は俺の存在を明確に"敵"だと認識したらしい。
奴は他の生物に目もくれず、一直線に俺を追っている。
時間稼ぎに持ち込めた。…一つ目の賭けは成功だ。
コイツは基本的に知能が高いが、闘争欲も盛んらしい。
自身をより楽しませてくれる敵手を選んだのだろう。
大変光栄な話ではあるが、今日で無ければ辞退している。
獣特有の荒々しい愛情表現に付き合う趣味は無いのだ。
俺がコイツに優っている点は"素早さ"だ。
コイツの使う妖術はあくまで攻撃メインだったから。
身体能力を増強するような能力は持っていないようだ。
逆に言えば、それ以外の面に於いて獅子の能力は俺の上位互換なのだが。
一つだけ誤算があったとすれば、奴の攻撃力だ。
過小評価をしていた。――アレは意思を持つ災害だ。
一端の游蕩士がどうこう出来る次元の存在では無い。
綱渡り状態が続いているのは、研いだ集中力の賜物だ。
僅かでも慎重さを欠けば、この体は跡形も残らない。
宙を伝う『雷』を潜り抜け、凝縮された『水』を躱す。
弾け飛ぶ『火』を受け流し、生命を刈る『風』を―――
「――!」
奴が放ったその『風』の刃が、俺の首筋を掠めた。
赤い液体が首元を伝うが、それは正直どうでもいい。
問題は、奴の妖術に俺が反応出来なかったという点だ。
「避け、切れない…!」
驚いてみるが、原因は分かっている。
相手の様子見が終わった。…ただそれだけのこと。
証拠に、先程の刃は今までよりも二段階ほど早かった。
『 RROOOOOAAAARRR!!! 』
木々の奥から耳を塞ぎたくなるような唸りが聞こえる。
今までとは違う、濃密で鮮明な殺意の籠った咆哮だ。
…ふざけやがって。今までのは準備運動かよ。
「―――、……ふー…。」
沸き立つ怒りを、深呼吸一つで胸の奥底に沈める。
感情的になるな。…爺ちゃんにも言われ続けた言葉だ。
己の使命を怒哀で蔑ろにすることだけは許されない。
一秒でも長く、一寸でも遠く。…最期の仕事を。
---
「……ん…。」
「…目、覚めたか。」
揺れる照準をなんとか合わせると、ヴァンが見えた。
起床の直後、右腕にひんやりとした感触を受ける。
見ると、水で濡らされた布が患部に優しく当たっていた。
「体調は。」
「…大丈夫。」
嘘だ。
本当は今すぐ意識を手放してしまいたい。
視界がクラクラしている、脳が酷く痛んでいる。
でも、そんなことは言えない。言葉に出来ない。
彼の顔には、惨いまでもの苦悶が浮かんでいたから。
それを見た後に、私程度が弱音を吐けるはずが無い。
「…ねぇ、何か、あったの。」
「いや、何もない。気にすんな。
お前のミサンガ勝手に外したが、大丈夫だったか。」
「今更そんなこと気にしないわよ。」
「そうか、……………。」
「……ヒシ、どこに行ったの?」
気づかない訳が無い。
気づかないフリをして良い訳が無い。
「…っ……、すぐに帰ってくる、」
ヴァンの回答は的を射てない物だった。
彼は傷口に新しい清潔な布を当て直してくれた。
何か手を動かさなければ、心が落ち着かないのだろう。
…そんな弱り切った青年を目にして、私は質問を変えた。
「何と、戦ってるの。」
「化物とだ。」
「違う、どんな化物なの。」
「…擬態花より、強い、」
「また、私を庇ったんでしょ。」
「あぁ、時間を稼ぐ、って。」
「………。」
私はヴァンの背中に担がれた。
毒を受けた右手は常に心臓部よりも下に在る。
毒に対する知識が薄い私でも、彼の気遣いは分かった。
細心の注意を払って処置に当たってくれているのだと。
私を生かす為に、あらゆる手を尽くしているのだと。
――それこそ、友の命を懸けてまで。
擬態花を倒して近づいたと思ったのに。
未だ、彼らとの間にはこんなにも大きな差があるのか。
ベリーという少女の存在は、未だ重荷でしか無いのか。
「…これからどうするの。」
「此の場で、俺が出来る処置はした。
後は早く街に戻って治療を受けるしか無い。」
「ヒシは、どうするの。」
「…両方を救うのは、無理だ。最悪、間に合わなくなる。」
私の身体を支えながら、ヴァンは辛そうに呟く。
間に合わなくなる、というのは私が受けた毒の事だろう。
確かに、毒が全身に回ればどうなるかなど誰でも分かる。
その事態を防ぐ為にヒシは時間を稼いでいるのだとも。
「――ねぇ。アンタさ、さっき言ってたよね。
『すぐ帰ってくる』って。それ、本人がそう言ったの?」
「…あぁ、だが、それは、」
私達を安心させるために吐いた言葉ってのは分かってる。
ヴァンの様子的に、ヒシの勝率は絶望的なのだろう。
今すぐ逃げるのが彼に対する孝行ってのも理解してる。
私が提案しようとしてるのは、裏切りだ。――でも…、
「助けに行くのが無理なら、せめて―――」
---
「ハァ、ハァ…。……っ!」
獅子の攻撃は更に激しさを増していく。
俺はそろそろ己の限界が近いこと悟り始めていた。
だって、コイツとの距離は徐々に縮まっているから。
そもそも、総合力で言えば向こうが何枚も上手だ。
素早さという優位性すら、塗り替えられようとしている。
最初に稼いだ距離的アドバンテージは殆ど無くなった。
俺が草木の抜け道を探しながら通ってきた道を
奴は破壊の限りを尽くしながら直線で突き進んでくる。
追う物と追われる物、どちらが有利かなど明白だ。
『火』の妖術による火炎放射は生態系を破壊した。
空から降り注ぐ『雷』の雨は無差別に動物の命を奪った。
『風』の竜巻は大木を紙片のように容易く切り落とした。
行く道を阻む倒木の数々をジャンプで飛び越え…
――着地点で、『水』で創られた泥沼に足を取られた。
「――っやば、ぃ!」
広大な自然を生きる狩人は、愚かな獲物を逃がさない。
俺が着地したと同時に、その水溜まりは急氷結した。
靴が内側まで凍っている。どう足掻いても動けない。
…油断に起因する数秒の足止めで、全ての運命は決した。
『 ROOOOOAARR!! 』
獅子の脚は驚くほど速い。
『風』を纏った鉤爪は既に目と鼻の先に迫っていて…
上半身を捩って回避を試みても、徒労でしかなくて…
『光』しか使えない奴が防御の術を持つ筈も無くて…
――直後、鮮血が宙を舞った。
大きく引き裂かれた左腕から血が滴り落ちる。
放置すれば失血死しかねないほどの出血量だ。
それでも、それでも、…今はまだ生きている。
「………………。」
足元の氷を『光』の熱で溶かし、獅子の次手を躱す。
驚いた様子の獅子だが、コイツは何故か嬉しそうだ。
命の削り合いが楽しくて楽しくて仕方が無いのだろう。
俺の首元に自慢の爪を突き刺そうと、腕を振るって来る。
奴の猛攻を俺は屈んでやり過ごし、敵の懐に潜り込み…
――宝石の如き双眸の片方に剣を突き立てた。
直後に轟いた獅子の悲鳴を聞き流し、
潰れた瞳から剣を引き抜いて、俺は全力で逃亡を始めた。
◇
頭が回らない、吐き気がする。
今すぐ足を止めてしまえたらどれだけ楽だろうか。
今すぐ諦めてしまえたら、どれだけ楽なんだろうか。
後ろからから迫る唸り声に含まれているのは、怒気。
最早、獅子に戦いを楽しむ余裕は残っていない。
誇り高きあの獅子は、全身全霊を以て俺を殺すだろう。
己に一生消えない傷を負わした宿敵を許さないだろう。
…だが俺も、何の抵抗もせずに殺されることなど御免だ。
――追って来いよ。最期まで全力で殺り合おう。
背後から猛速度で飛んでくる氷塊や電撃の嵐は
先刻までとはとても比べ物にならない超威力だった。
自身を極限まで辱めた宿敵を絶対に逃がさないという強い意志を感じる。
辺りには見るも無残な光景が広がっていた。
花は焼け焦げ、木は抉り倒され、土は押し流され…
森中に生息していたはずの小鳥達は、一匹も視えない。
だが、百獣の王は暴虐の限りを尽くしながら歩み続けた。
破壊者と化した獅子は、未だ壊し足りないようだ。
…例えば此処が奴の領地なら、何の問題も無かった。
統治者が己の土地をどう扱おうと、誰も逆らえないから。
でも俺は知っている。此の森の主は他に在るという事を。
この森の王者は、秩序を重んじる一柱の神だ。
そして彼女は、平和を壊す物を決して許さない。
「――!」
俺は一筋の強力な気配を前方から感じた。
大地を伝って来るソレの正体に気づき、足を止める。
これ以上の前進は意味を為さないと冷静に理解したから。
獅子は俺が逃亡を諦めたと思ったのだろうか。
奴は、己が誇る最強の武器で俺を殺しに掛かった。
開かれた大口から覗く牙には『火』が纏われている。
きっと、途方も無い殺傷力が込められているのだろう。
コレこそが奴の本気なのだろう。…もう関係無い話だが。
猛獣の唸り声を響かせた獅子が、俺に触れる寸前…
――引き締まった腹を、大地に貫かれて死んだ。
……指先が独りでに震えだすのを感じる。
全生物の頂点に立つ者の業を目の当たりにしたから。
円錐状に盛り上がった土塊は、力強く獲物を掲げている。
降された判決は死刑。――紛うこと無く神の怒りだった。
---
「―――音、消えたな。」
「ヒシが、勝ったってことでしょ…。」
ベリーは努めて平静を繕ってそう言った。
彼女の額にびっしり付いた汗を湿らせた布で拭いながら、
急激に波打ち始めた心臓の鼓動を深呼吸で落ち着かせる。
「どんな結果になっても後悔するなよ。
……自分のことは責めんな。二人で選んだ道だ。」
「あのまま帰ってた方が、後悔したでしょ…。
むしろ、これで未練無く逝けるわ。良かったわね。」
「一緒にヒシに謝ろうな。」
「あの世でね。」
軽口を飛ばし合うが、依然空気は重いままだ。
もう一度言おう。ヒシの勝利はほぼ確実に有り得ない。
そして、彼が負ければ俺達二人の命は無いに等しい。
あの化物は残党を惨殺しに此処へ帰って来るだろうから。
全滅の間際、『未練は無し』と胸を張って言えるのか?
命を賭して時間を稼いだヒシに合わせる顔は在るのか?
――俺達の行動は、本当に正しかったのだろうか…?
…様々な不安,疑念,残心が胸の内側を渦巻いていた。
「なんで二人して残ってるんですか…。」
だから、呆れ顔のヒシを視た時の感情は言い表せない。
体の至る所を土で汚した彼が木陰から歩き出て来たのだ。
死んだと思っていた少年の姿が、何故か眼前に在るのだ。
「――、なんで生きてるの?」
「もっと言い方ありませんでしたか?」
ぽかんと口を開けたベリーの問いに答える彼の口調は
いつも通り真面目な敬語で、でも少しだけ弾んでいて。
それは彼が勝ったという事実の疑いようも無い証明で。
もう揃わないと思っていた三人が、此の場に居て――。
「ヴァンさん、どんな顔してるんですか。」
「………っ……、……いや、大丈夫だ。」
溜め込んでいた感情が溢れそうになってしまう。
でも俺がそれを出すのは見苦しくて敵わないだろうから。
何とか胸の内に抑え込んで。…表面だけ少し零して。
「無事で、よかった。」
――顔を醜く歪めた俺は、絞り出すようにそう言った。
◇
「腫れ、酷くなってますね…。」
「俺の知識だとこれが限界だった、悪い。」
「いや、最善の処置だったと思います。
…他に言いたいことは山ほどありますけど。」
「私の判断だから、これで死んだら自業自得ってだけよ。」
「…正直、街での治療に間に合う可能性は高くないです、」
思わず息を呑む。そう、まだ何も終わっていない。
これでベリーが毒死でもすれば、元も子も無いのだ。
毒の対処には一分一秒を争う。行動を起こすなら迅速に。
知識の引き出しを開けて駆け回る俺とは対照的に…
「もう一度、命を預けてくれませんか。」
ヒシは既に独自の策を構築し終えたようだ。
…俺とベリーは、ヒシの語る案を静かに聞き遂げた。
無謀で博打とも呼べるその作戦。――乗ることを決めた。
何かを得る為には相応のリスクを払わなければならない。
◇
獅子が遺した激戦跡地を辿っていく。
木々は淘汰され、草木は燃え尽きていた。悲惨な現場だ。
…この戦場を生き延びたヒシは相当な功労者だろう。
俺が背負っているベリーの呼吸は荒い。
彼女に残された時間は後数時間か、数十分か。
猶予は少ない。今すぐ走り出したいところではあるが、
下手な負荷を掛けて毒の廻りを早める結果になってしまっては本末転倒だ。
「――だいぶ派手にやったな。」
「やったのは俺じゃないです。」
「共犯ではあると思うぞ。」
「…"彼女"が共犯だと判断してたら、今頃死んでます。」
そう言ってやんわりと笑うヒシ。
決して、冗談などでは無いのだろう。
「なので、多分大丈夫です。」
それが、彼が賭けに踏み切った要素でもあるだろうから。
「ただ万が一は在るので危険だと判断したらすぐ逃げ――」
「お前まだ言ってんのか…。」
「そりゃ言いますよ。これからも言い続けます。
逃がす為に命張ったのに、二人とも残ってますし!
もし俺が負けてたら全員アイツに殺されてますからね!」
「ここまで来たら死なば諸共だからな。」
「せめて一蓮托生って言ってください。」
焦りを紛らわす為か、ヒシは饒舌になっていた。
緊張しているのは俺も同じだ。喉が乾いて仕方無い。
だからこそ、雰囲気を明るくする彼の存在は有難かった。
――しかし、ベリーの軽い指摘が場に凍えるような緊迫感を齎すこととなる。
「……ヒシ、その左腕大丈夫なの?」
「――! おい、血塗れだぞ!!」
何故、ここまで気づけなかったのだろう。
ヒシの衣服の左袖は大量の血痕でどす黒く染まり、
巨大な爪で引掻かれたような痛々しい跡が残っていた。
こんなもの、普通なら誰でも気づく。
つまり、ヒシが隠し通そうとしていたのだろう。
身内に大怪我を隠す理由。…すぐには思い至らない。
――だが、ヒシは事も無げに意外な事実を口にした。
「あぁ、これですか? 返り血ですよ。
大丈夫です、ほら。怪我してないでしょう?」
彼は血塗れの左袖を捲り、手を掲げてひらひらと振った。
…その通りで、左腕自体には一切の傷跡が見られない。
改めてヒシの姿を見ると、彼は酷い姿をしていた。
衣服の彼方此方に焼け焦げた跡や切り裂かれた跡…
痛々しい血痕までもが残され、とても貧相な見た目だ。
だが、彼自身が何処かを負傷している様子は無かった。
『心配は無用です!』と微笑んでいるのを見るに、
気遣わせぬよう見栄を張っている訳では無いのだろう。
あの凄まじい戦闘を潜り抜けて無傷とは、相当な幸運の持ち主だったらしい。
ただ、一つだけ引っ掛かってしまう。
血痕をベリーに指摘された瞬間の話だ。
ヒシは確かに、ほんの、ほんの一瞬だけ…
――何かを悔いるように、表情を歪めていた。
---
徐々に会話が減っていく。
あと数百メートル歩けば、遂に対面だ。
伝説上の生き物が、俺達を待ち構えている。
会話程度で彼女の怒りを買うことはないはずだが…
ただ、生物としての本能が、口を閉じろと言っていた。
「――彼女との交渉は俺がします。
例え決裂しても、食い下がらないでください。
絶対に、必要以上の敵対心を持たないでください。」
慎重な足取りで横を歩くヴァンが、首だけで相槌を返す。
彼に背負われているベリーは朦朧とした目をしていた。
俺達は彼女を救わなければならない。
己が背負い込んだ物は最後まで成し遂げよう。
それが"責任"で、"約束"だから。
◇
辿り着いた其処は、広場だった。
此処に来るまでに乱立していた高木達は無く、
妨げから解放された陽の光が満遍なく差し込んでいる。
空地の中央にあるのは、石で作られた祭壇だ。
側面には職人が施したであろう美しい彫刻が観られる。
深緑の苔群が白々とした表面を不規則に覆っているが、
芸術性に富んだその祭壇との親和性は高く、何処か神秘的にさえ感じられた。
…そして、本命だ。
森に足を踏み入れた時から感じ取っていた気配の正体。
祭壇の上に座り此方を眺めている、一体の鹿が居た。
その姿は、久方ぶりの客人を歓迎しているようにも
招かれざる不埒な下等生物を蔑視しているにも見える。
枝木のように太い双角を持った、この星最強の生物。
全てを見透かすような瞳を光らす、この世界最強の化物。
―― 地の精霊 ガイア は、静かに存在していた。
「初めまして、ガイアさん。」
『 ………………………. 』
俺が発した初対面時の挨拶。返事は帰ってこない。
言葉が通じていないか、応える義理が無いということか。
諦めるには流石に早過ぎる。彼女が頼みの綱なのだから。
「失礼は承知してます。…お願いがあって来ました。
擬態花の毒を分解する方法を知っていたら、――っ」
―――感じたのは、唸るような妖力の流れだ。
俺は一度、この濁流のような妖力を感じ取った事がある。
…あぁ思い出した。獅子が死に至る瞬間の物だ。
天を衝くような、凄まじい妖術が発動するときの前兆だ。
地面を這う妖力群は、一直線に此方へ流れて来ている。
間違いなく俺達を殺す為に、ガイアが仕向けた物だろう。
…つまり、賭けは失敗だ。
ガイアは友好的な精霊ではなかった。
俺を許すつもりなど、毛頭も無かったのだ。
時が遅く感じられる。死ぬ直前だからだろうか。
死体と化した、一秒後の自分の姿が容易に想像できる。
回避は不可能、恐らく即死する、今度こそ助からない。
――でも、せめて、最期に…
「離れて…!!!!」
ヴァンとベリーを逃がす為、横方向へと右手を伸ばす。
俺はもう死ぬ。…けど、この二人だけは、殺させない。
俺達の間を隔てる距離は、概算で二メートル強だ。
大地が抉れるほど、力強く一歩を踏み出した。
手が千切れそうなほど、全力で腕を伸ばした。
…………なのに、間に合わない。
『地』の妖力はちょうど俺の足元まで流れて来ていた。
ヴァンとベリーの足元にも、辿り着いてしまっていた。
避け様の無い死を前にして、ゾワりと全身の毛が粟立つ。
「……ぁ………。」
莫大な妖力は、そのまま俺達の足元を通り過ぎて、
後方数十センチ先に聳え立つような鋭い錐を創り出した。
「……え、」
数秒間、思考が止まった。…が、何とか再起動。
ガイアが仕留め損なった? いや、そんなはずはない。
彼女は数キロ先から獅子の心臓を正確に貫いたのだ。
視界内に立つ相手、寸分の狂いも無く刺し殺せるだろう。
『 …………. 』
ガイアは変わらず平静を保っている。そこに殺気は無い。
いや、そもそもだ。過去から現在に至るまでを思い出せ。
こいつが俺達に殺気を向けてきたことは一度として無い。
錐の位置は俺が立っていた場所のほぼ真後ろ。
流れる妖力から逃げていれば正確に直撃していた距離。
ヴァンは最初から妖力の流れには気づいていなかったし
――ガイアの視線は常に俺に向けられていたように思う。
俺の戦闘能力を正確に把握した上での牽制だ。
祭壇に座るガイアは未だに追撃の素振りを見せない。
それは元より『殺す気が無かった』ことの証明だろう。
――今のは、試されたと考えるべきか。
底冷えした額から生温い汗が零れ落ちた。
ガイアが先の行動を見て何を感じたのかは分からない。
でも多分、不満を抱いたようには見えなかったから…
「……擬態花の毒は、どうやったら消せますか。」
もう一度、小刻みに震える声で訊いてみた。
ヴァンが驚きと恐れを入り混ぜた視線を向けてくる。
先の攻撃が『次は殺す』という意思表示だった場合を危惧しているのだろう。
ヴァンの推測が正しければこれで晴れて全滅。
もしも、幸運にも。俺の推測が正しければ――
『 Cuu…, 』
ガイアは何かを合図するように鳴き声を発した。
直後、ガイアの背後から奇妙な生き物が顔を覗かせる。
身長は人間の掌程度、頭には二枚の子葉が生えている。
体表は淡黄色で、産毛などを持っている様子は無かった。
記憶に在る如何なる生物とも類似しない生物だ。新種か?
その生物は赤ん坊のように、ヨタヨタと覚束無い足取りで二足歩行をしていた。
…何らかの化物か。狂暴には見えない。
保有する妖力量も並程度。警戒する程では無い。
その化物は長い時間をかけてベリーの元へ辿り着くと…
惨い炎症を起こしている患部の様子を観察し始めた。
ベリーの体をよじ登って額の温度を確認したり…。
脈を取ったり…。まるで診察を行う医者のような動きだ。
数分後、その小さな化物は何かを理解したように頷くと、
『 mii, mii! 』
「――――?」
――謎のダンスを始めた。
一見無秩序なダンスだが、そうでは無いらしい。
短い手足を使って、必死に同じ動作を繰り返している。
「……何かを求めてるみたいですけど…。」
「手、開く、飲む、…器?」
ヴァンがダンスの意図を読み解いている間に、
俺は鞄の中身を片っ端から地面に並べてみる。
すると、その化物は顔を輝かせながらある物を小突いた。
「ガラス瓶ですか?」
その化物――いや、"その子"は首をコクコクと頷かせる。
選ばれたのは透明なガラス瓶、それも未使用のものだ。
ヴァンが栓を外すと、その子は瓶の中に手を突っ込んだ。
変化は早かった。その先端が小さく膨らみ始めたのだ。
暫くの時が流れた後、生花の蕾のような器官が完成した。
蕾から流れ出した液体が、瓶の中に溜め込まれていく。
ある程度の量になったところで、蕾は液体流出を止めた。
その子は腕を引き抜き、額に浮かんだ汗を拭うと…
ニコリと笑って、透明のガラス瓶をヴァンに受け渡した。
ヴァンは少し逡巡している様子だったが、
決心した様子で瓶の縁をベリーの唇に優しく当てた。
瓶中の液体が、彼女の体内へと慎重に流し込まれていく。
淡黄色の名も無き化物は、嬉しそうにそれを眺めていた。
◇
ベリーの経過が気になるが、彼方はヴァンに任せよう。
俺にはある意味我が儘とも言うべき務めが残されていた。
「ガイアさん。」
『 ……………. 』
精霊ガイア。彼女に聞きたいことは山ほどあった。
――『精霊』とは何なのか。
――その祭壇は何の為に在るのか。
――先の攻撃で何を確認したかったのか。
――いつから此処に身を置いているのか。
――どういった基準で獅子を殺したのか。
でも、彼女がヒトの言葉を話せるのかは不明だ。
あまり長居し過ぎるのも不興を買う可能性がある。
…出来る限りシンプルに、最優先事項を訊き出せ。
『俺を、知っていますか。』
『 …………Cue……. 』
彼女は小さく首を横に振った。
ならば、そういうことなのだろう。
収穫はあった。
◇
「ありがとうございました。」
「本当に助かった。」
二体の化物に向かって深く頭を下げる。
ヴァンは小さな双葉を優しく撫でていた。
彼の背中には静かな寝息を立てるベリーが乗っている。
彼女の体調は安定していて、もう悪化する心配は無いだろうとのことだった。
「これは返しておきます。」
俺は地面に獅子の妖石を置いた。
高品質の妖石だが、これは彼女が得るべきものだ。
…よし、清算は終わり。今日は本当にこれでお別れだ。
「また、いつか会いに来ます。」
ガイアは驚いたように少しだけ目を見開いた。
少し頷いたのを見るに、拒絶はされていないのだろう。
ならば安心だ。…今度は何かお土産でも持ってこよう。
これで、全てが収まった。?
「………あ、」
「? どうした?」
「えぇっと、深墨花…」
「…まぁ、仕方ないだろ。」
…うん、仕方ないか。諦めも肝心だ。
窮地を掻い潜って、精霊との交流も生まれた。
誰も死なずに帰還が出来るのだ。文句は無い。
それに、これ以上森を壊してしまうのは気が引ける。
「――ん、」
―――その時、ヴァンが小さく声を上げた。
---
帰路は想定よりも時間がかかった。
それは、ベリーを背負うヴァンの体を気遣ったからで
時折訪れる化物の襲撃に俺一人で対処したからでもある。
当初は交代交代でベリーを背負うつもりだったが、
俺に少女を担ぐ筋力が無かったのだから仕方が無い。
ベリーは『そんな重かった…?』と哀愁を漂わせていた。
偏に私の力不足です。本当に申し訳ございませんでした。
歩行すら困難だったベリーも徐々に復活を果たし、
一週間が経つ頃には包丁を片手に元気に料理をしていた。
男二人が作る雑料理に耐えきれなかったのかも知れない。
結局、メーセナリアに着いたのは十一日目のことだ。
総合で見ると、十九日にも及ぶ長旅となってしまった。
期限は少し過ぎたが、依頼は完璧に達成しているので大目に見て欲しいものだ。
街に入る直前、偶然『シロン』という女性に遭遇した。
彼女は卯杖の探訪のギルドリーダーを務めている。
立場で云うならば、ベリーの直属の上司に当たるだろう。
二十日近く経っても帰還することの無かった俺達を
随分と心配していたらしく、三人揃って説教を受けた。
私が連れ出しました。本当に申し訳ございませんでした。
その後、ベリーはシロンに連れられて馬車に乗った。
ユルドースに居る高名な医者に診察してもらうそうだ。
ちなみに、当時の状況を説明する証人として強制的にヴァンも連れてかれた。
依頼を完了させる為、単身で游蕩団事務所へと向かう。
受付の役員さんへ、袋に入った諸々の品を受け渡した。
――その中には、大量の深墨花の種子も含まれていた。
ノールさんに擬態花の妖石などを買い取って貰い、
疲れたし、一度家に帰ろうかなと考えていたところ…
…大通りで偶然出会ってしまったベイドに誘拐された。
「――誘拐は人聞き悪くないか?」
「でも間違っては無いと思うんですよ。」
「俺とお前の仲だろ?」
「ロットさんが嫌がってるのってそういうノリですよ。」
「あの子冷たいよね~、お兄さん悲しくなっちゃう。」
此処はベイドが長を務める褐礫の約諾の本部。
防音性の高そうな個室に有無を言わさず連れ込まれた。
…只事では無い。そう考え、俺は一気に話を切り込む。
「で、どういった用件ですか?」
「…エフ森林行ったんだってな?」
「はい、行きましたけど、」
そう応えると、ベイドの纏う空気が変わった。
穏やかさも和やかさも無い、冷々とした雰囲気だ。
空間の狭さも相まり、少し息苦しさを覚えてしまう。
「ん、どうだった?」
「ざっくりすぎて難しいです。」
「どんな生態系で、どんな化物が居た?
そうだな。例えば、ベリーに毒を打った奴とか。」
「―――――。」
流石に情報が早い。漏れたとしたらシロンか。
いや、彼女もすぐにユルドースへ行ったはずだが。
この人は何処までの情報網を展開しているんだ?
「ただの擬態花ですよ。
撃破する直前に油断してしまいまして。」
「擬態花? そんなことも出来るのか…。」
「俺も毒ガスを撒き散らすことしか知りませんでした。」
「あぁ、直接毒を体内に入れたなんて記録は残ってない。」
『貴重な情報だ。』――そう独り呟きながら。
ベイドは手元のメモ帳にサラサラと何かを書き綴った。
「なるほどな、――他には?」
威圧するような詰問。思わず身を引いてしまう。
…言い表せぬ重圧感だった。無性に喉が乾くような。
逆らう権利を俺から剥奪してしまうような、圧迫だ。
「獅子にも遭遇しましたね。
運よく凌ぎ切ることが出来ました。」
「そいつは仕留めたのか?」
「いえ、俺じゃ敵いようも無い相手でしたし。」
「…………。」
ベイドはフーっと息を吐き、ニコリと微笑んだ。
消えかけていた瞳の光が少し復活したように見える。
「なぁ、ヒシ。お前が何を勘繰ってるのかは知らんが
別にお前の事を取って食おうとしてる訳じゃないんだ。
もっと肩の力抜いて、気楽な心持ちで話してくれよ。」
「…なら、何を探っているのか教えて下さいよ。
……何が目的ですか、何を知りたいんですか。」
「あー、そうだな…。…腹を割って話そうか。
地の精霊――呼称,ガイア、奴に会ったか?」
「伝承ですよね。実際に居るとでも?」
「あぁ、居る。――会ってきたのか?」
「…………。」
再び、ベイドの瞳から光が消えた。
この人がここまで高圧的な態度を取って来るのは珍しい。
そうさせるだけの理由が、現在の彼には有るのだろう。
「はい、獅子を倒したのも彼女です。」
「やっぱりか。――主観で良い、強いか?」
「正直、勝てる道筋が見えないくらいには。」
「例えば、游蕩団全勢力を注ぎこんだ上で
入念な準備をして挑むとする。それなら勝てるか?」
「…判断しかねます。」
「なら、相手の妖術は見たか?妖力量は?
何でもいい、情報があれば詳しく聞きたいが。」
「…………。」
ベイドの言葉を遮るように、静かに席を立つ。
泥のように曖昧な感情が、俺の心に溜まっていた。
更なる会話の継続は俺の精神状態的に好ましくない。
「……大体、察しがつきました。
俺はこれ以上のことを話すつもりは無いです。」
扉の前で一礼して、牢屋のような部屋を出る。
一刻も早く、その淀んだ空気から逃れたかったのだが…
退出の直前に見た彼の顔からは、一切の感情を読み取ることが出来なかった。
◆
ベイドは時折人が変わったような言動をすることがある。
それは彼が二枚の顔を同じ体の中に持っているからだ。
一つが重い悩みでも笑って吹き飛ばすような快活な顔。
一つが何物かに取り憑かれて囚われたような冷酷な顔。
真逆の性格を持つ相反した二つの面。
それらが彼の中で渦巻きながらバランスを保ち、
『ベイド』という整った一人の人間を形成している。
どちらかが欠けでもすれば、彼は成り立たないだろう。
これはベイドに限った話では無く、人間全員に言える話。
そして、游蕩士という職に就く者はそれが特に顕著だ。
生半可な覚悟では決して務まらぬ仕事だと言われる所以。
――壊れた者。
――壊れていた者。
――自ら壊した者。
――壊されていく者
…俺達は、暗雲が立ち込める未来を進んで行く。
―――今にも消えそうな、小さな光だけを頼りにして。
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