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真理の青春時代、中学生生活の始まり、始まり

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 おはよう!と今日もご機嫌の六色沼が朝日にキラキラ輝きながらわたしに挨拶を送る。当然わたしも「おはよう、今日も綺麗でありがとう」と返事を返す。

「又、大きな声出して。近所の迷惑でしょう!」とママの声。うーん でもばっちゃんから聞いた話しでは、ママがまだオムツが取れるか取れな頃、早朝起きるなり、パッと昔住んでたアパートの東側の窓を開け、当時既に使われていなっかた小さい用水路越しに、向こうに広がる自動車整備工場の裏庭へ「コケッコウー、朝ですよー。おはようさん」と叫んでいたらしい。この母にしてこの娘あり。

ここは東京の隣、勾玉県まがたま市月見区六色町にある、六色沼を見下ろせる絶好のロケーションを持った七階建てのマンション(日本では)の五階。ここに愛溢れる島田家の住まいがある。

六色沼は町のシンボル。北側にはメタセコイアが天高く伸び上がり、これから新芽が出て若草色に成り、次第に深緑、やがて赤褐色、裸坊へと移ってゆく。だが今は桜の真盛り、コロナ下の今でも見物人は耐えることがない。夏になれば花火が打ち上げられてここいらの住人がワンサカ集まって来るが、残念ながら去年は中止になり、今年はどうなんだろう?因みに小さい頃のわたしは花火が上がる音でワーと泣いていたらしい。そしてママもばっちゃんによれば矢張りワーと泣いていたらしい。あの強ーいママが!兎も角ここは住むのに最高だとわたしは思う。昔は月見駅まで10分から60分かかった(交通渋滞次第)バスの旅も、今は新幹線が通るのと引き換えに、新しい駅が近くに出来て万々歳だ!

ところで わたしは今年から中学生に成ったばかりの島田真理、島田マリなのだ。決して島田シンリとは呼ばないでね。

父(パパと呼んでる)は島田大樹、祖父母の大物に成って欲しいとの願いが分かるようだが、彼って大物?それはさて置き、仕事は大学で哲学を教えている。パパに言わせれば「教えているんじゃない、研究してるんだ。そこ間違えちゃいけないよ」だって。でも哲学ってなに?パパ曰く「真実とは何か深く深く考える学問なんだ」だから普通は人生について考えたり、宇宙とは何か、その意義だとか考える学問らしい。「ふうん,よく分からない」「ま、神父さんやお坊さんのような人たちは皆そうだし、でも花屋さんだって、蕎麦屋さんだって真理を追究しながら、花を愛でたり、蕎麦を打ったりしてたら、それはそれで立派な哲学者なんだな」分かった!わたしの名前が真理なのか。本当は”しんり”と呼びたかったのにきっとママに「なに言ってるの、そんなの可愛くないし第一呼びにくいわ」と言われたに違いない。「そうじゃない、パパがマリがいいと思って付けたんだ」これパパの反撃。

母(ママと言ってる)は島田多恵と言うべきか河原崎多恵、はたまた河原崎耐と呼ぶべきか、それが問題だ。今の日本では別姓は認めらていないから母としては島田多恵、人としては河原崎多恵なのだ。旧姓が河原崎って言うんだ。次に何故、多恵と名づけられたかと言うと、祖父母が「私たちにはちょっとばっかり忍耐力が足りない。何事にも耐え忍ぶ人間になって欲しい」と思って名づけようとしたけれど、フト思い直して耐を多恵にしたんだって。それでこの多恵さん色々忍耐強い、と言うか少しばかりスーパーウーマン。二歳を少し過ぎた位の頃のエピソード、昼寝をしてる合間にと、ばっちゃん(祖母)は少し離れた所にある大きなスーパーマーッケットに、長崎育ちでその頃やっとご近所の協力で乗れるようになった自転車をヨタヨタこいで出かけていった。ヤレヤレやっと買い物が済んだと自転車置き場に戻ってくると、なんとそこにニコニコ笑って待つ多恵ちゃんの姿。途中には大型車もビュンビュン走ってる国道も渡らねばならないのにとばっちゃんは真っ青に成ったとか。

三歳の頃のエピソード、ばっちゃんが弟(つまりわたしの叔父)のお産のため入院していた時の事、曾祖父母達が(勿論、まだ60歳少し過ぎたばかりで元気溌剌、特に曾じいちゃんは毎日の様にテニスで汗をかいていたとか)多恵さん連れて仲間のグループと山(と言っても長崎市の山は精々2、300メートルそこそこの山が多いのだけど)に登った所、先頭に立ってサッサと一人で登って行き、皆が追いつくのに大変だったらしい。しかも全く疲れてもいなかった。

ま、脚の強さのエピソードに関しては自動車で15分位掛かる所から泣きながら歩いて帰って来たとか(連れて行ったじっちゃんは真っ青に成ってあちこち探し回ったらしい。良く親を真っ青にさせる名人だね)そんな話には事欠かかない。

長じては、そのじっちゃんの影響かは知らないけど剣道部に入って段持ちになり、高校では空手をマスターし、美大ではキックボクシングのジムに通っていたらしい。

よって、お馬鹿な痴漢を捕まえること数知れず。

大人に成っては一人静かに画を描く。油絵だ。何を描くか。今彼女の心が動くのはどうも大自然らしい。

が、環境が中々それを許さない、特にわたしが小さいときには。でも大自然とは行かなくとも小さな自然ならそこいら一面に存在する、ここ月見区においては。出来る範囲で神の創りたまいし芸術作品を自分の感じたままに描き取る、それが多恵の使命。と思っているのかどうか、わたしの推量なのだけど。

そもそも父と母の出会いと言うのが、父が国立美術館にモネ展を見に行った時、偶々その横で慎ましくもやっていた母の所属する団体の美術展にフラフラと入って行き、フラフラと母の描いた画を見た事から始まった。父はその画に釘付けになり、所謂一目惚れ。ふと我に返ってよく見ると、その横でにこやかに微笑む(かどうかは見てないので不明だが)女性と目が合った。ネームプレートを見るとどうも作者らしい「あ。あのう,こ、この画を描いた方ですか」

「ええ、そうです。見て下さってありがとうございます」とかなんとか。

父は勿論母にも一目惚れ。母もこの気の弱そうな、背だけはやけに高い、むやみに高すぎる父の事がま、少しは(と母は言ってるが)気になる存在になり、ここにめでたくもわたしの誕生の下地が生まれたのである。

よって、母に惚れた弱みで、東京生まれで東京育ち、実家も仕事場(大学)も東京の父が母の育ったマガタマ市に居を構える事となった。この月見区は昔、祖父母が今のイザナミ区に薬屋さんを開くまで(母が四歳位の時)住んでいた所らしいが、母がここを選らんのはその所為では全くない。何かで呼んだ所によればこの六色沼辺りは画家が住む町として昔からとても有名らしい。確かに風光明媚、昔は富士山も良く見えたらしい。

だから今も結構画家が多いらしい。下は安アパートを借りて、全く画が売れず奥さんが生活を支えている人達、又その反対に夫に支えられて頑張っている人、一人で別の仕事をしながら描き捲くっている人。殆どの画家がそうらしい。中はラッキーにも、ママみたいに時たま売れてる人達、上は立派なお家に住んでる、ママ曰く「雲の上の存在」の人達等々。でも画に対する情熱は同じ。良い画を描きたい!自分の思いを、自分の世界を皆に解って欲しいと迄は言わないが、見て欲しい、知って欲しい!激しいね、まぶしいね、そんな情熱持って画を描いたことある?

と言う訳で、父は哲学者、母は画家。わたし、今の所一人っ子。ま母にはこれ以上子供を育てる余裕はないだろうが。

兎も角、母は忙しい。わたしが小さい時にはわたしを負ぶって六色沼やその周りを描いたり、少し離れた所にある広大な春ケ山公園(森あり、だだ広い野原あり、天然の桜草群生地あり、荒地あり、荒川沿いの土手あり、わたしもまだ良く知らない所が一杯ある)へ出かけては、気に入った場所に陣取って日がな

画を描く。子連れ画家に徹していた。

同じ公園でも人が違えばその用法も全く異なる。隣に住むわたしよりも1歳年上の武志くんのお母さん(つまり藤井夫人)は山形出身でやけに野草に詳しい。春になるとイソイソと野草摘みに出かける。五月か六月になる頃には、竹の子(姫竹の子らしい)を採ってくる。

「雨上がりは面白い程採れるのよ、ほらこんなに、ドッサリ」

と見せては呉れるが、貰ったことはない。わたしは母に言う。

「画だけじゃなくて、たまにはわたし達も野草摘もうよ」

「ママは野草のこと全然分かんない、毒草摘んだらどうすんの」

時には藤井夫人が「真理ちゃんも行きたい?今度連れてってあげようか」と声は掛かるが一向にその気配はない。大体武志くん自体にも声が掛からないのだから。それに夫である藤井氏にも無しのツブテ。こりゃ無理、きっとそこは藤井夫人の秘密基地に違いない。

でも武志くんのお母さんには、もとい藤井夫人には小さい時、随分お世話に成ったらしい。わたしは母乳で育った。ママとしてはミルクも飲んで欲しかったらしいが、頑としてわたしはそれを拒否し続けた。母乳好きのわたしはミルクを拒否し、離乳を拒否し続けた。途方に呉れたママに救いの手を差し伸べてくれたのが藤井夫人。武志くんを隣と云う関係もあって大好きになり(モチ、男性としてでなく。ここの所大事、明確にネ)一日中遊ぶようになった。そこで夫人が出してくれたのが、薄めたコーヒーにミルクをたっぷり入れたものや、薄味のラーメンだった。武志くんと一緒と言う事もあって、真理ちゃん喜んで食したらしい。そのお陰で無事母乳から卒業出来たんだって。

それとは別に武志くんにもお世話になった。自転車に乗れるようになったのも、友達が出来たのも彼のお陰だ。殆どが男の子だけどね、中でも同じ年でとても大人しいあっちゃんは,敦君は今も友達だが、健太と云う武志くんと同じ年の子はとても乱暴で今も嫌い、大嫌い。

こうやって、わたしが小学生の高学年に差し掛かる頃には、わたしを父に任せ、日本の彼方此方に画材を左肩にヒョイと担ぎ、スーツケースを右手に持って出没するようになった。

ここで言わせて貰えればパパは料理作りの名人なのだ。ママが「わー、これ美味しいー。パパが作る料理って、本当にそこいらのレストランや料理屋さんより数倍美味しいわ」なんて褒めるものだから、余計舞い上ってしまい、暇さえあればせっせと勤しむ。因みにママの料理は大雑把。ジャガや玉葱、人参、南瓜キノコなどそこいらにある物を肉(これもある物を)と一緒にパッパと炒めて煮て、大体煮えた所で「カレーが良い、それともシチュー?」と来る。今日はカレーが良いといえばカレーのルー、シチューが良いと言えばシチューのルー、でも今日はトン汁が良いなと言ってみると、「あ、残念、今日は牛さん入れたから牛汁ね」と液体味噌をジュジューと入れる。それをパパがママ以上に「これって美味しいね、ママが作った料理が一番だよ」とそれはそれは幸せそうに食するのだった。

昔、ママをとても愛してた人が「僕、奥さんになってくれる人が焼きソバしか作れなくても構わないよ。僕の奥さん、床の間に座って呉れてるだけで幸せだって思えるから」と言ってたんだって。「焼きソバを作る度にその人、思い出しちゃうわ」「で、どうしたのその人」「色々あって他の人と結婚したの、初月給でバラ色の口紅をプレゼントしてくれたんだけど」気になったのでしつこく聞いてみた所、やっと「ちょっと前に自殺したんだって、鬱病とか聞いたわ」「鬱病ならお祖母ちゃんの得意分野じゃないの、治してあげたかったね」「ハハハ、知ってればね。何時までもズーと待つって言ってたのに噓つきだね。年取ってもう恋だのなんのと思わなくなったら、アイツに言ってやりたかったな、あなたが噓つきだなんて思わなかったわ、とね。死んじゃたらもう、言えないじゃないの、楽しみにしてたのにさ。笑い話として話すのを」

ついでにもう一つ、ママは実の所、掃除が苦手。片付けも下手。そこでパパの出番だ。パパはとても綺麗好き、何時もチャチャッと片付けて掃除機をかけ、時間があれば雑巾掛けも厭わずやる。まるで主婦の否、主夫の鏡ねえとママは言う。それでも、否否それだからと言い直そう、パパは哲学者なのだ。料理も掃除も立派な哲学に違いない料理とは何だ、掃除とは何だ。人間とは、生きるとはと考えながら何事にも真剣に考える。そう、突き詰めれば、始めは波動だとか。「全ては波動、これが万物の始まり。そして全てが成り立っているんだ」と突如呟く。

だからママも安心して日本中を旅していられる。でも、パパも心配、わたしも心配、ママの事が。だってママが描くとこって大抵人気の無い所でしょ、北は熊でしょ、南はハブ、猪は日本国中出没するじゃないの。いくらママが力自慢だってそんなのに勝てるわけが無い。

「馬鹿ねえ、そんな所には行かないわよ。それにわたしは力自慢じゃなくてよ、武道よ。武道の達人と呼んで頂戴。うーんそこまで行かないかな?力自慢は鹿児島の大伯母さんって母から聞いてるわ。ばっちゃんが科学者の夢破れて、東京の昭和製薬に転職してこちらに来た時、大伯父がばっちゃんの一人暮らしを許さず、自分たちの公団団地に住むようにしたの。その奥さんが凄い力持ち。ばっちゃん、家に帰ると、朝出掛ける時と部屋の様子が全く違っているんだって。普通の和ダンスやオルガンは勿論、大きな洋服ダンスまで配置が違っているらしいの。それがシバシバ。『わたしの趣味なの』ですって」ふうん、元々曾じっちゃんの国もとの鹿児島の田舎(米所で有名)の人で親戚筋に当たる人らしい。若い時からお米を運び慣れ、鍛えられていたんだそうな。母の上行く大伯母さんか、会って見たいな。今は大伯父と共に鹿児島に帰っているらしい。

ばっちゃんには二人の兄がいる。今話題に上っているのは9歳年上の下の兄、次兄の方だ。その大伯父、家の事は何にもしない所か、ばっちゃんが居るときにはそうでもなっかったが、新聞は読んだ所にそのまま置きっぱなし、洋服諸々脱ぎっぱなし。釘一つ打てない、打たない。でも子供とは良く遊ぶ、と言うか自分が子供に帰っている状態なんだとか。それから趣味、飽きっぽいと言うのか、中々上達しない為なのか、ゴルフもうん十万円(当時)もする用具を揃えたかと思うと、練習さえ行かなくなり、今度はクレー射撃をやると言って、又結構立派な物を揃えると射撃場へ通いだした。所が2,3ケ月も通うとそれがピッタリ止んでしまった。奥様が問いただしても「うーん、あれねえ、もう良いや」といかにも面倒くさそう。奥様怒らずや「わたしが鉄砲持ってきてあんたを打ってあげようか?」とのたもうたとか。

で、今は会社をリタイアし、夫婦手を取り合ってかどうかは知らないが、大伯母様の故郷、大伯父様にとっても故郷の一つであり、懐かしい子供時代、戦争時代を生き延びた場所、鹿児島の片田舎(一応少し前に合併して市に成ったが)へ立派な家を建てて移り住んでいる。そこで先ずやり始めたのが広い庭の一角を耕して野菜作り始めた.最初の頃はとても上手く行ってるらしかった。近くの農家の人が「へー、わしらよりずっと良いものが出来とるばい」と褒めちぎったとか(でも大伯父は後で説明するけど、ほら吹きだから真偽は不明)現在は歳も歳だし、体もいま一つで殆ど作っていないと聞く。只ハーモニカだけはグループに入って、「あら、上手、上手。惚れ惚れするわ」「上手いなあ、アンタはんにはかなわん、かなわん」とか、周りのおだて方が上手いのか(大伯父さん御免なさい)ズーと続いているらしい。まあ、ハーモニカならたいしてお金は掛からないし(多分だけど)、人畜無害で大伯母さんも一安心だよね。

そこでは、で、大伯父さん、別名ほら吹き男爵と親戚では言われている。ではそのエピソードをどうぞ。

そのほら吹きが多分役立ったのが就職の面接の時。大会社のお偉方(と本人は思っていた)がズラリと並び「あなたの趣味は何でしょうか」と聞かれた時、彼の口が勝手に喋り始めた。

「まあ色々有りますが、一番面白いのは何と言っても、野菜作りでしょうね、奥深いですから」

「君、野菜を作るの趣味なの?それは若いのに珍しいねえ、日曜農園やってるかな」

「いえ、家の畑で」ありゃー、長崎のばっちゃんの家、畑あったけ?庭だってそんなに広くないし・・

「あれは肥やしの遣り方が難しい、遣り過ぎるとたちまち枯れてしまう、遣らなきゃ育ちが悪くなる」

「どんな肥やしを使ってるの」

「人糞が一番ですね、それを肥溜めで熟成させて、頃を見計らって少し水で薄める」

「ふんふん、それで」別にお偉いさんが駄洒落を言ってる訳じゃない、たんに野菜を育てた事が無いだけで、とても興味が湧いたらしいだけなんだ。わたしだって初めは人糞なんてぜんぜん分かんなかった。この水洗トイレの世の中で、今は死語、過去の文化遺産に登録しなくちゃいけない位。

「これからが大事なんですよ。大体良い塩梅に薄まってきたら味を見るんです」

「へ、味ー!ど、どうやって見るんだよ、君」

「いやー、舐めれば良いんですよ。ほんのり塩っぱいかなー、ちょっとこの味具合ばかりは長年の経験が物を言いますね」

「はー、それで君が居なくなったら如何するのかね」

「親父が同じ趣味でして。それに兄も居ますから、全く心配要りません」

こうやって見事に大会社に入社出来たとか。

彼はとても背が低い。彼曰く「小さい時、散々肥え桶を担がされたせいだ」と言ってるが、その兄も同じように肥え桶を担いだはずなのにごく普通。戦時中には皆、畑があればこうやって小さい子でも畑を作って凌いでいたんだって。大変だったね、今の世の中がありがたい。そして、この経験が先の大会社の面談試験に結びついたと言う訳だ。

その彼がアメリカに出張に行った。アメリカ人が驚いた「ジャパニーズ、べりースモール」と言う訳でアメリカ人二人が両方からヒョイと抱えて何処へでも連れて行ってくれたそうだ。うーん怪しい。

ばっちゃんのお店の裏に鉢植えの大きな桑の木がある。大きくなりすぎて大鉢自身も支えきれなくなっているが、ばっちゃんは今も大事にしてしている、と思う。ばっちゃんは先ずこの兄から小さい時、戦争中、戦後お菓子どころか食べることさえ困難な時、畑の周りに植えてあった桑の木の実を採って食べていた頃の話を聞かされていた。「そりゃ甘くて旨いんだぜえ、黒く熟した奴を選んで口に入れると柔らかくて、甘くて何とも言えぬ風味があるんだ」実に」兄が語ると旨そうに聞こえたんだそうな。

次にばっちゃんも漢方を学び生薬を学んでいく内に、桑の木やその実に魅力を感じるようになったとか。

ある日、まだ春浅い頃、少し遠くにある(ばっちゃん家の前には結構大きなスーパーが在るんだけど)スーパーに出掛けた。そこには彼女の大好きな植物が売られているんだ。ふと見ると何だか貧相な鉢植えの植物のネームタグに”くわ”て描いてある。彼女、少し躊躇した。あまりイメージと違っていたしみすぼらしかったから。でも兄貴を思い出して買う事にした。待望の実が最初の年から成った。食べてみた。すこぶるまずっかった。彼女は思う、ま、最初の年だからと。次の年は少し多く実が付いた。これもまずかった。彼女は努力する。熟し方が少し足りないのかと待ってみたが皆落下してしまう、焼酎に漬けて桑酒にしたが、臭いが気になる。次に砂糖漬けにしてみた。これはまあ食べられて誰も文句を言わなかった。でも彼女は何時か桑の実が其の儘でも兄が言ったように旨くなる日が来ることを信じているし、願っているのだ、強く強く!

年を経て彼は北海道に単身赴任、結構長い間。ま、色々あったらしけどそれはこっちに置いて、北海道は雄大で美しい。寒くはあるが。兎も角彼は北海道に馴染み、楽しみ、愛した(?)。旭川では馴染みのバーでこの間亡くなった田中ナントカさん(昔はその北海道物で主演をして超有名人だったそうよ)と酒だかビールを酌み交わして盛り上がり、彼の十八番石原裕次郎(昔の大スターと聞いているが)の歌を披露して「うーん、アンタ歌うまいねえ、惚れ惚れするよ」とか言われたっていう話だが真実は藪の中。

北海道の冬は縛れる。その寒い真っ只中、その裕次郎とか言う人の歌を口ずさみながらドライブ。余りの星の輝きに車を止めて、上着も着ず外に出た。睫毛の凍るのは当たり前、気にする事無く空を見上げていたら、他の車の人が吃驚して「あなた死にますよ」と声をかけて来たので仕方なく車に戻ったとか。

一番傑作なのは秋。旭岳の紅葉は裏も表も(東も西も?)夫々に素晴しい(と聞く)彼は黒岳の方に先ず行くことにした。往きはケーブルカーに乗って。もうそれだけで十分紅葉を堪能した気分。リュックを背負って山頂を目指す人も沢山いたが、彼はゴルフの件でも分かる通り大のスポーツ苦手、そんな大それた事,否馬鹿げた事をする筈が無い。でも矢張り天気はいいし気温も歩くのには持って来い。そこで帰りは徒歩で下る決心をした。チラリと「ヒグマ 昨日 この辺りに出没 十分注意をされたし」の張り紙は確かに目には入った。だが写真を取り、下で仕入れた食べ物や飲み物を口に入れてる間に、すっかり忘れてしまった。ルンルン気分で下りて行く。裕次郎さんの歌を歌っていたのかは不明。そのとき後ろの方で、熊笹の茂る辺りからザワザワと音がした。思い出したあの張り紙を!ク、熊か?背中に脂汗が流れた。そ、そうだ、まだ少しアンパンが残っている、こ、これで何とかしよう。彼は意を決して後ろを振り返り「やー、ヒグマ君。そこに居るんだろう、わ、分かっているんだ。ほら、こ、ここにアンパンがあるよ、美味しいよ、旨いよ。ぼ、僕は、ま、まずいよ」と言うが早いかアンパンの袋を破り、藪を目掛けて放り投げ、運動神経が無いのも忘れ、下へ向かって一目散に駆け出したそうな。その後熊ちゃん出てきて「こりゃ旨いご馳走さん」と言ったかどうだかは未だ不明。

このほら吹き大伯父さんの上には前にも言ったように、1歳年上の兄が居る。そのお兄さん,とてつもなく優秀で小学校、中学校等では先生達から「お前は正一君(兄の方の名、因みに弟の方は幸男と言う)の弟だろう、それにしては今一だなあ」「正一くんは県の一斉テストでダントツ一番だった。それに比べてお前は」と所中言われっぱなしだったそうだ。でも彼の名誉の為言わせて貰えれば、彼は数学や科学の分野ではそりゃ少し見劣りがしてたかも知れないけど、文学的には彼の方が優れていたんだとばっちゃんは話している。彼は自分が創った物語をその兄や妹に話して聞かせていたんだって。きっとホラはその延長上に存在すると哲学者の娘は考える。

で、その優秀なお兄さんは如何した。時代は戦争が終わってまだそうは経っていない頃。元海軍将校で皆に言わせれば物凄く世渡りべたの曾じっちゃんは、故郷の鹿児島の田舎に戻り、材木店で暫く働いていたがこんな所では子供の将来の為に良くないと曾ばっちゃんに尻を叩かれて、曾ばっちゃんの実家のある長崎に引越し、地方公務員のテストをパスし、図書館で働くようになった。しかし生活は苦しく、それを支える為、地元にある造船所の工員養成所へ入る事に決め、高校は夜間に通うことにした。大学も同じく夜間。それでも一応研究室勤務に迎えいれられた。その間彼が貰った奨学金は、浪人してやっと(か、どうーうかは分からないが)地元の大学に入った弟の小遣いとして与えられたらしい。そしてそれを返金したのは何と兄の方だった。曾ばっちゃんが「幸男に返させなさいよ」と言っても「いやあ、あいつも苦しいだろうから」って、聞けば下の大伯父ちゃんのほうが給料沢山貰っていたらしいよ。でも天は彼を見放さなかった。否、会社かな?会社も彼の優秀さを認め、彼を九州大学の工学部に入れることになったのだ。それはばっちゃんが大学を出た後のことだった。時は流れて彼の研究内容を知った九州大学の教授から招かれ、そこで研究や学生たちに教えることになった。今は長崎へ戻り、それまでとは全く違った仕事を楽しんでいる。人生波乱万丈,何が起こるか解らない、今置かれて場所で懸命に生きていけば、屹度何とかなる。大伯父の話を聞く度にそう思う。遅くなったけど彼の奥さん、加奈さんもとてもいい人でわたしは編み物や人形つくりを教えて貰ったり美味しい物を食べさせて貰ったり、プール(長崎の)で溺れそうになった時、洋服のまま飛び込んで助けたくれたり(ママはボーっと見てただけ!)ほんとにお世話になりました。二人揃えて表彰状を上げたい位だよ。

もう一つエピソードを。曾ばっちゃんの米寿のお祝いの席(勿論、上の大伯父がホスト)での事。下の大伯父の髪の毛が黒くてフサフサしてるので、皆が羨ましがる事しきり。そこで彼が言うことにゃ「俺がお袋のお中にいる時、一年前だろ、なんもかんも兄貴が持って行って何にも残ってなかったので、何かないかと見回したら、やっと髪の毛だけが残っていたので仕方なく、それだけをゴッソリと持ってきたんだよ」そう云えば上の大伯父は髪の毛がやや薄い。人というもの、良いとこばかりではない。

上の大伯父は尊敬すべき存在、下の大伯父は愛すべき存在。

今までママの方の親戚の話だったが、勿論パパの方にも親戚が沢山いる。パパの祖父の家系は杉並の代々の宮大工でそれらしき家に住んでいる。祖父はそれとは関係ないJ・Rに勤めていた。一人子だ。祖母は岡山の人で兄が一人。杉並の祖父の家の近くに住んでいる。どうもこの辺りが祖父祖母の出会った原因ではなかろうか?この大伯父、いかつい顔をしているが、凄く猫を愛している。しかし大体に置いて父の方も母の方も親戚中猫好きが多いのだが、あまり顔に似合わないので。ブルドッグが猫に振り回されているような(ご、御免なさい)この人、勿論わたしも可愛がってくれるが、猫の次くらいかな?否良く言って次の次の次かな?だってパパの実家には、パパの妹夫婦が祖父母と一緒に住んでいて、二人の子供がいるのだ。上は10歳の女の子、下は7歳の男の子だ。二人ともわたしの事を”お姉ちゃん”と呼ぶ。ま、可愛くはあるが、何となく変な気分。その岡山だが、まだ一度しか言ったことはないが、中々風光明媚、山もあれば目の前に瀬戸内海が広がる(何だか長崎に似てる)チャンスがあればもう一度行きたい!出来たら友達の睦美や美香、千鶴と一緒に行けたら最高かな。勿論長崎もだけどね。ママの祖母、つまりばっちゃんは余り岡山に興味を示さない。何かあったのかな、その内ボツボツ聞いてみよう。

ばっちゃんと言えば、杉並の近くにある井の頭公園、そこにある都市伝説をご存知だろうか?遣ってきた恋人たちがそこの池でボートに乗ると、その二人は何時か分かれてしまうという。「それはわたしの所為よ」と言う。そんな事ある訳がないと、皆相手にもしない。大体じっちゃんと結婚するまでと言うか,出会うまで長崎に居たのに関係があるなんて。でも頑としてそう言い張る。訳は話さない。これも何時か問い質そう。

で、パパのご両親はいたって真面目、お酒も余り飲まないし、タバコも吸わない。時々旅行に出掛ける程度。子供はパパとその妹の二人。妹さんママより3歳年上(あ、年齢、関係ないか)パパとママが結婚して暫くして結婚。只今サザエさん状態。と言うわけで、どうしても杉並に行く回数が少なくなる。でもわたしは小学2,3年の頃習いたての毛糸でマフラーをプレゼントした。何故杉並の方にプレゼントしたかと言うと、イザナミのばっちゃんはお洒落に煩いのだもの。それに引き換え二人はとても喜んで呉れた。特におじいちゃんの方がまるで黄金でも貰ったかのように、来る人来る人に「孫が編んでくれたんですよ、とっても暖かくて手放せません」と言って見せびらかしているんだって、あの網目の粗い(なんてもんじゃない!)のをだよ、止めてじっちゃん。全くもー、参った、参っただよ。

編み物は今は殆ど遣っていない。家の中には網掛けのセーターがあっちこっちに転がってる、毛糸の玉をくっつけたままね。幸男さんに似てるって?どうなのかな。まだ、何が好きか決まっていない、分かっていないのだと思う。詩を書くのも大好きだし、劇を遣るのも楽しい。絵を描くのもママの子だもん、勿論大好き。スポーツは?あ、駄目駄目、ママ似じゃないんだ。ばっちゃん似、ばっちゃんは幸男さん以上にスポーツ音痴だと言ってる。わたしは特に球技が苦手,球がわたし目掛けて飛んでくるのがとても怖い。尖端恐怖症と言うのがあるが、わたしは球恐怖症なのだ。ばっちゃんは腕の力がとても弱くて(幸男さんの奥様とは正反対)鉄棒が苦手。小学生の時、逆上がりが出来なくて放課後、友達に手伝ってもらい練習してて、出来たのは良かったけど、目が回り貧血状態になって,すこぶる友達に迷惑をかけてしまったらしく、それから二度と鉄棒はしないと決めたそうだ。

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もう直ぐわたしもピカピカの中学校1年生、中学校で何をするか、それが問題だ。クラブもある。睦美はテニス、美香はバレー(ボールね)千鶴は卓球。「友は皆、球恐怖症じゃないのね」「え、何それ」って驚く友。ああ、この苦しみを理解してくれたまえ君たち!

武志くんにも聞いてみた。バスケット部に入っているらしい。本音を聞くとバスケをやると背が伸びると信じているらしい。

「真理んとこのおじさん、背が高いなあ」と羨ましそうに言う。パパね、パパは2メートル近くあるけど、余りスポーツ好きじゃないの。ラーメンが好きなだけ。お祖母ちゃんだけでなく、パパにも似たんだ、わたしって。

「背が高いのも善いことだけじゃないよ。それなりに苦労してるみたいよ、色々。洋服、布団、靴を買うのにのに苦労するし、入り口や鴨居にはぶつかってばかり。だから姿勢だって悪くなるし、『パパが倒れたら如何しよう、わたし一人じゃ面倒見切れないわ』ってママ今から心配してるわ。お祖父ちゃんも背が高くてガッチリしてる方だから、お祖母ちゃんが尚心配だわ。まあ、叔父さんが一緒に住んでるから一先ずは良いかな。それにパパは運動しない方だし、お祖父ちゃんも今は見る方だけ。昔は剣道やったり、サッカーしたんだって。それなのに今じゃ、坂道だってあんまり歩こうとしないのよ。まあ背が高いのも程々が良いんじゃない」

「でも、俺、背高くなりたい」

「彼女が背が高い方が好きとでも言ったの?」

「か、彼女!そ、そんなものいねえよ。只男として背高くなりたいだけさ」

「ふうん、そうかあ、女の子が美しくありたい、可愛くありたいって願うのと同じなのね」

わたしはふと、美香が武志くんのことなんとなく気にかけているのを思い出していた。武志くんは優しくて気さく。それに親切で面倒見が抜群。友達、ご近所の年寄り、おばさん達に手を貸すのは当たり前、この前の冬、降りしきる霙の中、生まれて2ヶ月位しか経っていないような子猫が泣いているのを見つけ、抱っこして,飼ってくれそうな家を求めて幾千里、とまでは行かないけれどあっちこっち訪ねて回って、先ずは商店、それで駄目なら目ぼしい家の呼び鈴を押す、そこでやっと、人の良さそうなおばさんに引き取って貰えたんだ。え、何故知ってるかって。そりゃ一緒について回っていたからに決まっているでしょう!

目が不自由な人がいたら駆けて行って途中まで付いて行く、階段を上るのも背中を添え声をかけてる。分かった、武志くんのおばさんが何故秘密基地を教えないのか。もし教えたら最後、そこいらのおじさんおばさんが皆知るようになって、ワーと基地に押し寄せたちまち採り尽くされてしまうから。

こんな風だから密かに思いを寄せている子が何人かいるに違いない。頑張れ美香ちゃん!え、わたし?どうかな?彼を好きかと問われれば勿論好き。小さい時からズーと隣同士、お世話になったし、一つ年上でとても頼りになる、頼りにしてます。なんかキョウダイみたいな感じなんだ。彼もわたしも一人っ子だから兄と妹で良いじゃない。だから美香が本気で彼を好きになったら、わたしは喜んで彼女の応援団長になる。何故ならわたしは彼女が大好きだから。それで良い?本当に?1枚の写真を見つけた。勿論他にも一杯あるけれどこれは中々の写真ですぞ。彼が小学6年、わたしが5年生の時、お隣さんと海水浴に出掛けた(ここは海なし県だからとても朝早く出掛けなくてはいけない)そのときの1枚。水着の彼とわたしがまんえんの笑みを浮かべ、肩を組んでる!美香が見たら卒倒しそうな写真。小学校の頃だもの、許してちょんまげ!

でもそんな話はどうでも良い。運命に任せましょう。だって、皆若いんだもの、これから色んな人と巡り会い、色んな事にぶつかり、揉まれて生きて行くんだ。未だなーんにも知らない、なーにも大した事、起こっていない。今日の六色沼のように表面がちょぴりさざめいているだけ。

それより千鶴だ。千鶴は悩んでいるとても深刻に。

「わたしんちのお母さんはわたしの本当のお母さんじゃないの」と突然言い出したのは何時の事だったろうか。その時は「・・・・・」3人とも暫く何も言えなかった。

でもショックは時間と伴に薄れ、何事もなかったように日々は過ぎていく。心のそこでは一種の棘のような物を感じながらも。

千鶴の、時々じっと遠くを見つめるような眼差しを感じる度に、少しでも良いから千鶴の心に光を与えてやりたいと思わないではいられなかった。でも子供の私達に何が出来よう。

「わたし、少しでも良いから本当のお母さんの事を知りたいの。そしたら何だかサッパリして今のお母さんと上手く付きって行けると思うわ」

そうか、少しでもかと、女4人で知恵を絞る。大人が子供なんかに大人の秘密であるに違いない情報を教えてくれるだろうか?そうだ、武志くんがいた。彼がいれば百人力、顔も広いし根っからの世話好きだから、これを利用しない手はない。それに今は春休み。時は熟した。この時を逃しては成るものか。

「ねえ、武志くん、ちょと顔貸してくんない」「ふーん?」気のない返事。事情を話す。

「何かしてやりたいの。少しでも情報を手に入れたいの。あなた顔効くでしょう。おばさん達に」

「ええっ、俺が顔効くって、誰がそんな事いったのさ?」

「わたし!」

「付いて行ってもいいけどさ、何の役にも立たないと思うよ。それに何て聞けばいいのさ」

「聞くのはわたし達が聞くからさ。用心棒代わりにさ、付いて来てよ」

武志くん、わたし達を一瞥する。

「女4人に男1人かあ・・・分かったけどよお、俺も健太と敦を連れて行く」

「え、健太君も、アッちゃんだけなら良いけど」あの乱暴物を連れて行くなんて。後ろの3人の乙女達を振り返る。彼女たちは健太が如何なる人物か未だ知らないのだ。

「健太だって成長するんだ、あいつも人間なんだよ。今じゃ立派な紳士だぜ」

「へー、あの乱暴物の健太君が?」

「まあ、彼なりにだけど。でも努力はしてるんだ、ほんとに彼なりにね。保障するよ」

と言うわけで7人の少年探偵団が出来上がった。このコロナの時代に少し大勢過ぎるとは思わないではないが、飲み食いする訳じゃないから勘弁して欲しい、色とりどり、形もさまざまではあるけれど、ちゃんとマスクも着けてるし。ぼ、僕らは少年探偵団なんて歌があったらしけど、本当に千鶴のため頑張ちゃうんだからと、心に強く誓う(大げさかな)。千鶴の家はとても人気の総菜屋さんだ。彼女の祖父母と父母、それに今年、小4になる妹と我らのように(少し違うか)ピカピカの小1に成る弟がいる。だから今まで彼女は保母さん(否失礼、保育士)宜しく二人の面倒を見てきたし、店の手伝いもこなしている。でも決して彼女はそれを嫌だとは思わなかった。むしろ楽しんでいるようだった。だから、彼女の言う通り、せめて実の母が今元気か、如何しているかだけでも知りたいだけなのだ。その千鶴のために!

直ぐそばの家やお店なら、多分知っているだろうが、千鶴ちゃんの家族に知られてしまうだろう。それは拙い、きっと家族が嫌な思いをするに違いないと思う。

そんな訳で少し離れた小さなスーパーや豆腐屋さん、化粧品店さん、小間物店、ライバルの肉屋さんにも聞いてみた。そこの主人だけでなく来てたお客さんにも声をかけた。

「あのう、村上惣菜店ご存知ですか?」

「そりゃ脚ってるわよ、よおく行ってるもの。あらあ、千鶴ちゃんじゃないの、お店の手伝いしなくても大丈夫なの。今忙しいんじゃなくて」

「今なら、少しの時間、大丈夫です」

「あのう、その千鶴ちゃんの事なんですが」とわたしが割って入る。

「千鶴ちゃんのお母さん、実のお母さんをご存知ありませんか?」

すると「えー何、それ。知らないわよ、ほんとのお母さんなんて、冗談でし騙されるもんですか、いくらもう直ぐエイプリルフールだと言ったって」と言う人あり、途端に口を閉ざす人あり。そんなに簡単に皆口を開いてくれそうもない。

段々千鶴の家が近くなる。クリーニング店に入行った。

おばさん,ジロジロわたし達を見て「あら、千鶴ちゃん、それに武志くん達、どうしたの?お客さんじゃなさそうね、春休みの宿題。何かの調査なの、学校の?」

わたしが口を挟む。

「いえ、千鶴ちゃんの本当のお母さんの事、ご存知ないかと思って」

「え、実のお母さんの事なの?」皆頷く。おばさんの顔、たちまち曇る.暫し沈黙。

「そうねえ、あんまり言いたくないんだけど、それに良く知らないの本当の所」

「少しだけでも」

「ま、何れは分かる事だから。知ってる事だけね」おばさん意を決したようだ。

「あなたが生まれた後、咲江さん、あなたのお母さんの名前、体を壊してね、それから寝込むようになり、千鶴ちゃんのとこ、忙しいでしょ、だから、いた堪らなくって実家に帰ったと聞いてるわ」

「それからどうしたって。うーんそれ以上は知らないのよ。あ、そうだ。花屋さんとこの奥さんならあの人と仲が良かったから,知ってるかもよ」

一筋の光が見えてきた。もう少しだ、と皆も元気を取り戻し、ゾロゾロと花屋に向かう。

今日も花屋さんは春の花々で目が覚めるようだ。

「あらー、武志くんじゃないの、この間は花の運び入れ手伝ってくれて有難う。家の人が丁度いない時だったから、たすかったわ。それに千鶴ちゃんも今日はお友達と一緒なのね。一体どうしたのこんなに大勢で、学校の行事か何か?」

「あのう、済みません、こんなに大人数で押しかけて。わたし、島田真理と申します。千鶴の友達です。今日は千鶴の本当のお母さん、咲江さんの事伺いたくて来ました。クリーニング店のおばさんから、とても仲が良かったと聞いたものですから」

「え、咲江さんの事」花屋の女主人の顔も曇ったが、やがて微かに笑って頷くと話し出した。

「そうねえ、確かに彼女が結婚してここに来た時、わたしも結婚して主人と花屋を開いたばかりだから、若い者同士話が合ったのよ。辛い事も、楽しい事も色々」

「今どうしてるんですか、わたしのお母さん」今まで一言も口を開かなかった千鶴が声を発した。

「今?今現在の事は良く知らないのよ。連絡も途切れちゃったし。でも、実家に帰って暫くすると体調も良くなって元気になったて手紙が来たわ。でももう、あの店には帰らない、具合が悪いのに誰も気遣ってくれなかった、迷惑がられて居る場所さえ無かったとか書いてあったわ。忙しいからね、千鶴ちゃんのお店、構っていられなかっただけだと思うけど」

「その他に何か書いて無かったですか、何でも良いんです」

「うーん、そうね。千鶴ちゃんの事はとても気に掛かるけど、って。それに千鶴ちゃんに言うべきか凄く迷う事なんだけど・・・」

「言って下さい、どうか教えて下さい。わたし誰も恨まないし、何も期待していない。只知りたいだけ。そしたらスッキリするから。このままじゃ何だかモヤモヤして、居たたまれない気分と言うか母の事ばかり考えてしまう」

「じゃあ言ってしまうけど、それから暫くしてから、咲江さんはお見合いして別の人と結婚しちゃったの。今度はとてもいい人だし、会社勤めで楽で子育て、そうなの、子供も出来て、男の子が二人。子育ても安心して出来るわって。あなたがそれで思いを断ち切れるかは分からないけど、お願い、お母さんの事そっとして置いてくれない。酷いと感じるかも知れないけど」

「・・・」千鶴の目に涙が溢れる。「良かった、良かったわ、お母さん、幸せそうで、とても」

「そう、そうよ、お母さんも今、幸せなんだから。千鶴ちゃん、あなたも、倍くらい幸せでなくちゃ」

おばさんは優しく千鶴ちゃんを抱きしめた。

「今のお母さんをあなたがうーんと愛すれば、今のお母さんも、うーんと愛してくれるわ、きっと。だって千鶴ちゃんとても良い子なんですもの」

わたし達はお礼を言って、千鶴を取り囲むようにすると、店の出口に向かう。その時おばさん、意を決したのか、わたし達の後ろへ声を発した。

「これは言わない方が、これからの千鶴ちゃんの為なのかも知れないけど、やっぱり言っておくわ。咲江さん、一度だけあなたの姿を見に来た事があるの、わたしも付き合ったの。学校の側で。あなたが小学校の1年か2年生の頃だったかしら。でもその後、皆に叱られてね、そんな事するんじゃない、あっちにもこっちにも示しがつかないって。それっきりあなたに会うことも、わたしに手紙を書くことも止めたのよ」

くるりと千鶴が向き変え、頭を深々と下げた。

「ありがとうございます。これでわたしも母を恨まず、実母も今の母も愛して生きて行けます。二人ともわたしを気に掛けてくれるんですね、幸せです」

外に出ると、葉桜になりかけた木から残りの花びらが舞い落ちて来る。「今年の春は早いなあ」と武志が言った。

「ほんと、早すぎる。これじゃ入学式は葉っぱの下を通らなきゃいけないわ」と美香が続ける。

静心無く 花の散るらん、ふとわたしは心の中で呟いた。

                  3

今日は久しぶりにばちゃんの所に行こうと思う。一番近い中月見駅からイザナギ駅に向かう。全ての電車はイザナギ駅に向かう。とまでは行かなくても抜群にこの駅は便利なんだ。昔はまあまあ程度だったらしいけど今は抜群、お隣の大遊園地(皆の大好きな)のある千尋県にも、前はちょと時間が掛かった横海市にも羽田にも行ける行ける、電車も色んな路線が選べたりして、しかも早く行ける。だからイザナギ駅は大きい。この勾玉県で一番大きくて賑やか。とは多恵さんつまりママの弁。

でも、ばっちゃんの店があるのは別の電車に乗り換えて、イザナギ公園を経て次の御崎駅から歩いて2,3分の所にある。

その前に、イザナギ神社に敬意を払い、説明しよう。と言っても詳しくは知らないんだけどね。イザナギとは古事記に出てくるイザナギの命のことで、それをお祭りしているしてるのがこのイザナギ神社と言うわけだ。聞いた所によると、少し離れた所にイザナミの命を祭ってある神社もあるらしい。夫婦なんだから平等にお祭りするのは、当たり前だけど離れ離れってちょっと寂しい。場所も定かでないでないが行って見たい。

「お寂しいでしょう?」とか「向こうは参拝する人が沢山なのに少し不公平じゃありませんか」とか女性平等を願う真理としては一言言いたい。だけどこの所、勾玉県イザナギ区生まれで、スクスク育ったらしい根っからの勾玉県人のじっちゃんが去年階段を踏み外して、頭を強打し、それ以来体調がよくない。本人はまだまだ車の運転は大丈夫と思っているが、イヤイヤ真に危険極まりない。ばっちゃんが禁止命令を発動している。ママはペーパードライバーだし、ばっちゃんは運動神経が無いからと挑戦さえした事が無い。で、じっちゃんばっちゃんと同居(居候?)している叔父ちゃん、つまりママの弟がいるが

この人趣味がころころ変わるが、誰かと違って結構真面目、2,3年は続きその間土、日せっせと通うその養成場。だから何時連れて行ってくれるのやらさっぱり分からない。

話を戻そう。そのイザナギ公園からテクテク歩いて5分程(も少し掛かるよとの声あり)したら公園入り口に辿り着く。入って直ぐの所、右手に大きな、六色沼よりでかい池がある。その周りは例のごとく桜が植えられているし、春まだ浅い日には渡り鳥の姿も見られる。そこを過ぎると広場になり、矢張り沢山の桜の木と赤松が植えられていていてそれがズーと向こうの方まで続いている。勿論春は見物人や酒盛り、屋台で一杯だ。その左手は小さな遊園地や動物園があるが入場料なしで遊べる。さらに進むと左は日本庭園風になってるがそこを下ると、又池が左右に分かれて存在する裏参道からの入り口に辿り着く。池は右は片側が鬱蒼としてるのでどうしても暗い感じの池だが何だか幽玄な感じを受ける。左手は先ほどの大池に比べればズーと小さいが明るいし運が良けりゃ白鳥も拝める。もう目の前は朱塗りの門が眩しいイザナギ神社だ。正門に向かって真っ直ぐ伸びているのがこれぞ正真正銘の本参道で、両脇には欅が植えられていて秋は素晴しい。が、物凄い落ち葉で皆が苦労する所。でもわたしも好き、欅。この儘。何時までも栄えて言って欲しい。

周りの人達には迷惑かけるだろうけど。桜と欅、みなはどちらがお好き、両方、当たり前の話か!

そうそう、ばっちゃんの店がある御崎町にも欅が沢山生えている。昔の広大な武蔵野の生き残りだ。御崎町がどんどん栄えれば、それに伴い欅もどんどん切り倒されていく。やっと生を保つ事を許された木々達がこの御崎町の汚れた空気をリフレッシュしてくれているんだ。

御崎町の駅を降りた。踏切を渡り、2分も歩けばばっちゃんの店。「ん!」何かが違う、何だろう?

解った!この町の一番の、御崎駅のシンボル、あのデッカイ、屹度何百年も生きて来ただろう欅の木の姿が無いのだ。え、えっ、どうしたの?何処へ消えたのお前、本当に切り倒されてしまったの?

わたしはばっちゃんの店まで駆け出した。

「あら、真理ちゃん、いらっしゃい。久しぶりね」

「あの欅無くなったのね」

「そうなの。ご近所は今まで随分苦労してきたんだと思うし、それにごみ出しのたんびに、おばあちゃんが荷台で、大きなビニール袋にビッシリ葉っぱを積めて、5,6個程持って来てたけど(ちなみにゴミ集積場は車道を挟んで目の前だ)この頃は息子さんに変わり、それから間も無くしてからあの木を切るチェーンソーの音がし出したの。おばあちゃんみたいに中々小まめには行かなかったんじゃないの。何日も何日もチェーンソーの音がここいら当たりに響いて、そして綺麗に無くなちゃった。あの木は町の主か守り神みたいに感じていたから,大抵の人達がショックを受けてたし、残念だと言ってるわ。直ぐ側に住んでる人達は、トイや排水溝が詰まらない様に気を使っていたでしょうし、雷が鳴ってる時は怖かったわ。も少し奥の方で起こった事件の事なんだけど、通学中の小学生が欅の木の下で雷に撃たれて重症を負ったとか聞いたわ。あの子大丈夫だったかしら、きっと雷恐怖症になっていると思うわ」

うーん、人類と自然の間って中々難しい問題なのね。でも、自然が追い詰められて行くのって少し哀しくて物凄く寂しい。欅さん、皆が忘れてもわたしは忘れないよ君のことを。

ばっちゃんは元々長崎大学医学部のある研究室で研究に励んでいたんだけどそこを取り仕切る教授とそりが合わなくて逃げ出したんだって。夢は色々有ったんだけど、化学者に成るのが一番の地に足が着いた夢、それも頑張れば手が届く所にある。沢山いた研究者も外国に行ったり、他の大学院や、教室に去っていったりで、気が付けば、ばっちゃんが研究者では只一人。ある日教授が薬品のおき場所にiいわれの無い文句を言う。ろくに研究について指導もしない、相談もとんでもない。ねちねち詰まらない事で文句を言う、遣れ床が濡れている、道具の置き方が気に入らないとか。助教授が先ず海を渡り、大学院の二人の男性も次々留学と言う名目で渡米、数人いた他の研究者も教室を後にした。今まで教授の文句を一手に引き受けていたばっちゃんより7歳ばかり年上で男性助手もとうとう外国へ。この儘じゃ彼の代わりにされるのか?丁度お昼でその日は偶々母(曾祖母のことだよ)の手作りの弁当を食べ終わり洗っている途中だった。「ここに在るじゃありませんか、あいうえお順(abc順でないのがばっちゃんらしい)にならべてあるんだから良く見ておしゃって下さい。この前もそう申し上げたでしょう」と言うなり洗っていた弁当箱の本体を一応教授を避けて、実験机のほうに投げつけた。「わたしってその頃と言うか、漢方を知ってそれを直すまで短期だったのよ」続けて教授に宣言した。「わたし辞めます、今の実験の一応のけりが着いたら」教授のほうが慌てた。ばっちゃんをその研究室に送り出した薬学部の教授に電話をして、思い留まるように頼み込んだ。勿論薬学部の教授の説得でもばっちゃんの決心は変わること無く、一年の薬局勤めの後、昭和製薬に就職して、例のほら吹き兄さんの所へ遣ってきた。

「母が駅で涙を流していたのが今も辛いわ」

「で、後悔は?」

「辞めた事には少しも悔いは無いけど、ずうっと夢を見るのよ、実験する夢。でも自分の実験台が無くなったり、可哀想に思った隣の教室の人が自分たちの所で続けたら良いと言ってくれたりするんだ。隣の教室はうち等の教室みたいに器具や機械なんかは整っていなかったけど、人間味と暖かさには溢れていたと思う。でもあの教授は性格に欠陥があったけど、その英語力でアメリカからの援助金等金集めがとても長けていたから。我我はこっそり教授は資金集めだけに専念して、助教授に研究の主体を任してくれたらどんなに良いだろうと話していたものよ、お酒を飲みながらね」

ほら吹きお兄さんのとこへ遣ってきたばっちゃん、偶々帰る方向が同じだと言うじっちゃんに騙され(と思う)結婚に到ることとあいなった。その新婚生活を送ったのが島田家のあるマンションの近くなのだ。

すぐ、ママが生まれ仕事も止めて(時々薬剤師としてバイトはしてたけど)主婦業に専念。その間も常にこのままで良いのだろうか、と。大学入学当初から、言われ始めていた”女子大生亡国論”特に理系の大学では教授達が真面目に、真剣にそして自嘲気味に『君達女性は、男子達よりも勉強においてはずっと出来が良い。然し、勉強は出来るが開発能力に劣る。だけど入学試験の度に合格する女性が増えて行く。ここは今からの新しい薬を開発できる人間を生み出す為の学部なんだ。このままじゃ、この学部、否日本の大学はどうなるんだろう」確かに研究者から脱落した時点で、ばっちゃんは開発と言う点では亡国に寄与したかも知れないが、他の形で国、大きく言えば世の為に貢献出来るかも知れないじゃないか。

「薬屋を遣ろう。将来を期待し喜んでいた高校の生物学の恩師には悪いけど、わたしは別の形で復活しよう。もしかしたら好きな植物を使う漢方も出来るかも知れない』そんな熱い思いを胸に秘めて日々を、送っていたんだって。その恩師も先年,訃報が入り、彼がばっちゃんの今の姿を許してくれたのか、それとも、死ぬ日までばっちゃんが大学の研究者である事を願っていたのかは分からない。でも、彼女を頼って来る人達にとっては、大学の科学者より町の科学者(薬屋さんの事を言う)だよね。

そんなこんなでママが三歳になり、弟(叔父)が生まれた。彼、酷い脱腸で六ケ月過ぎて手術が出来るまで、ばっちゃんは当時紙おむつも普及してない時代だったので、見るたび見るたび黄色く汚れた布オムツを洗って、漂白しなくてはいけなかった。それも1日30枚以上、毎日毎日。手術後も軟便状態は続いたそうで丁度お店を開いた直後で面倒くさいのと忙しいのが重なって一々手袋してられないと、素手でオムツを水で薄めた漂白剤の中に突っ込んでいたらしい。「お陰でホラ見てほんとに自慢の白くてつややかな手だったのにシミだらけ。ま、この頃店にあるプラセンタを飲んでたら少しは薄くはなったけど」って。

兎も角、叔父の手術前あたりから薬店に良さそうな所を探していたが、中々良い場所は見つからなっかた。

そんな時じっちゃんの親戚すじから話があって、今の場所に決定。

初めはごく一般的な薬屋さん、雑貨も化粧品も置いてある。勿論普通の一般的薬も置いてあるね。

開店して間もなくして、夏、秩父に行き、辰年生まれで雨男の叔父が,その冷たい雨の降る仕切る中、どうしても川遊びをしたいと水遊びをしたらしい。叔父風邪を引く。元々脱腸のうえ喘息持ち、喘息が酷く成って行く。(漢方的には脱腸のある子は喘息やアレルギーになる傾向があるらしい。今思えば起こるべくして起こったとばっちゃんは言っている)叔父は入院した。それを契機にばっちゃんに何の相談も無く会社を辞めた。ばっちゃんの計画ではじっちゃんには会社で頑張っていて欲しかったらしい。

それ以後それまで酷い寝言(「あ、済みません」とか「も少し取って頂けませんでしょうか」「次長ちょっとそれは、無理だと思います」とかがピッタリ止んだのを見て「ああ、あれはストレスから来てたんだ。辞めたくて辞めたくて仕方なかったんだ」とばっちゃんは納得したんだそう。

それから二人は力を合わせ店を切り盛りするようになった。とても繁盛していたと言う話。売り出しの日には、お昼ご飯も摂れない、夕食の支度が出来ない。車でレストランを探す。今ではここいら食べ物屋さんが方々にエリドリミドリあるけど、当時は数も種類も少なくて、定休日が重なると開いてる店を求めて幾千里、暗い夜道を路頭に迷う哀れな家族でしたとさ。そんなある日店に男が二人現れた。名詞をじっちゃんに渡す。漢方の会社だとか。じっちゃん、ばっちゃんが漢方に強く興味があること知ってる。それに経営を握っているのはばっちゃんだ。ばっちゃんに名詞を渡す。トントン拍子に話は進み漢方も扱う店と成った。でも喘息持ちの叔父のスイミングスクール(当時喘息に水泳が良いと言わればっちゃんもその信奉者立った)通いや化粧品にも力入れていたので(矢張りばっちゃんも女だった)そんなに漢方を置いたからと言っても夢中にはなっていなかった。当時漢方の会社では月に一度講習会を開いていた。それも行かない。忙しくもあったけど。そんな時、ま、今回講習会に行ってみようと、思い立ち、ばっちゃん気軽な気持ちで出かけて行った。

偶々その日はレギュラーの先生ではなく(と言ってもレギュラーの先生も彼女は未だ見ていなかったが)その先生よりは少し若い先生だったが、その講義はばっちゃんのこれまでの受けてきた西洋医学的な学問とは全く異なっていた。その日は今まで遣ってきた西洋医学には考えられない、気の病についてだったから余計にショックを受けたのかも知れないけど「わたしは今まで目隠しをされていたんだわ。この世の中にこんな薬が存在していたなんて。病は気からって言うけど、,生薬を組み合わせれば、その病を引き起こしている気と言うものを治せるんだ。精神病だけでなく胃腸やお腹、手足の不調、吃音等々、皆、気が絡んでいるんだ。そんな気を治すことをしないで、単に精神安定剤や睡眠導入財でごまかされて、治らないと諦めている人の何と多いことか」

その帰り世界は変わっていたそうだ。全てが輝きに満ちていて木々はエメラルドと化していたんだとか。でもその現象は一時的なもので、今も続いている訳ではないそう。残念。

勿論ばっちゃん目が覚めた。漢方に力を入れた。毎回講習会に出席するようになり、化粧品より売り上げが伸びていった。如何すればもっとお客さんの病を治して上げられるか、医者から見離された人が何とか、救いたい。毎日毎日考える。そんな時ある情報が漢方の会社から届く。「一月に何千万も売ってる先生が九州福岡の久留米市という所にいらしゃるので、どうです、見学ツアーに参加しませんか?」

ばっちゃん、未だ三歳にも達していなかった叔父を連れて、喜んで参加する事に決めた。途中乱気流に巻き込まれた。が、ばっちゃんは飛行機酔いで気分が悪く、キャーキャー騒いでいる他の乗客を尻目に無言のまま叔父を抱きしめて突っ伏していた。やっとの事で着陸出来て喜ぶ皆。勿論ばっちゃんも嬉しかった、飛行機酔いから開放されたから。他のツアーの仲間いわく「さすがお母さん、あの揺れの中で泰然自若、お子さんを抱いて静かに座ってらっしゃいましたね。皆で大したもだと言ってたんですよ」ばっちゃん否定するも皆は「イヤイヤ、あんな生きるかいなかの時に静かに座っているなんて我々には出来ません」と誉めそやす。ふと空を見ると次の飛行機が着陸を試みているのか、大きくグラグラ揺れているのがはっきり見えた。うーん成る程とばっちゃん、得心したそうだ。

それから、大先生(男性)の店の方から訪問した。そんなに大きくはなかった、むしろ小さい方だ。「開店当時はここいら何にも無くて、あるのは埃っぽい道路だけでしたよ」先生にこやかに話される。新潟出身の先生が何故遠く離れた福岡の久留米市に?それは簡単、奥様が久留米の人だったから。きっと同じ大学か職場だったのね、東京で。

兎も角売れなかったらしい、明日のお米代にも事欠く日々。でも彼はめげない。奥様もめげない。白い着物姿で店頭に立ち、新聞に「こころの漢方」と云う見開きの広告を新聞に載せた。変わった奴がいると、じょじょに評判を呼ぶ。話が又人生観やたとえ話を取り入れた物で客の心をグッと掴んで行く。その人達が又知り合いを連れてくる。と言うふうにしてお客さんが膨れ上がり列を成す状態。今は週に4日だけ、それも朝の6時から10時まで。後は如何するかと言うと、まあ一言で言うと教養の時間。画の鑑賞、お茶をたてたり、宗教(彼は親鸞聖人が一番お好き)の書や諸々の書物を読むのに当てる。そうそう書道も花道も茶道も極めたいとか。が、既にその域に達していると聞いている。ゆめゆめ賭け事やゴルフとかいった一般人の楽しみと同じように考えなきように。

次に少々離れた立派な住宅が並ぶ町に移動。その中でやや薄いベージュ色の土塀に囲まれた平屋造りの家が彼のお屋敷。中に入って驚いた。車庫も納屋も取り囲む木々も計算されたように和の風情。お屋敷の風情も全く華美ではないが、その凝った造りを見ればその桁違いの工費と高貴さが解ると言うものだ。そこから見渡せるのは庭、日本庭園だ。「まあ、凄い、素晴しい」との歓声。だがばっちゃんは心の中で、一人賛同しかねていた。何故ならこれじゃあ自分で花も育てられない、バラもチューリップも何処に植えればいいんだよ。それを察したかのように先生いわく「この庭はここの庭ではあってもわたしの庭ではないんですよ。枝一本だって切ることは出来ないんです。庭師の棟梁に叱られますから。せいぜい伸びてきた雑草をびくびくしながら引き抜くぐらいですよ、ホホホ」

その時叫び声が上がった。あっとばっちゃんは気が付いた、息子が居ない!そう、叔父が手入れの行き届いたピカピカ廊下の欄干の向こう側に設えてある石の手水蜂から置いてあった柄杓で、その廊下に水を撒き散らしていたのだ。当時タマタマ右手を一寸したアクシデントで骨折ななっさっていた奥様が左手でそれを拭いていらしゃる。女性数人が駆けよって奥様に代わった。その事を思い出すたびにばっちゃんは奥様に対して申し訳なく顔から火が出るように感じるらしい。大先生は何事も無かったように皆に「ここがわたしの一番落ち着ける場所なんですよ」と茶室へと案内される。ばっちゃんの叔母にあたる人が,茶道を教えている関係上、矢張り立派な茶室を家を建て直すときに造ったが、ここはその日本庭園とマッチして一層素晴しい。そのばっちゃっ真の叔母にあたる人も茶道の他、花道に日本舞踊、琴に三味線、皆プロ級だったが教えているのは茶道と花道だけだった。因みにその御主人はスペイン語が堪能で会社からメキシコ、スペインと転勤され、叔母は彼がそのまま居つくのではないかと心配したらしいが無事帰国して良かった、良かった。

それから大宰府に行き、ばっちゃんはこのトンでもない事をしでかした叔父の為、学業が上手く行きますようにと天神様へお祈りしたらしい。次に博多に戻り矢張り良く売れているお店の見学。そこで彼女は店に鎮座されている薬師如来像を見た、男性の先生「これを置く事でお客様の健康を祈る事にも成ります」ばっちゃんは考える。この女の先生みたいに(店は開店中で来たお客さんを女性の先生が応対して、健康食品製品を薦めていた)あのようにちょっとズーズーしく強引に売ることなんかわたしには出来ない。でも薬師如来なら置けるじゃないか!と。

福岡から帰る。興奮冷めやらぬばっちゃん。大先生の言葉が響く。「先ずは相談室を確保しなさい」狭い店ながら一応確保した。「雑貨を売ってては相談も何もありません。そのままの薬屋で行くか、売り上げは落ちるが雑貨を切り捨てて、相談店、一本で行くか。どちらかしかありません」ええい、雑貨を切り捨てよう、大売出しよさようならだ。今まで散々お世話になった雑貨問屋の担当者の人に断りを言うじっちゃんは辛そうだったらしい。担当者の人は尚辛そうだった。ばっちゃんはその時は大先生に舞い上がっていたので、悪いとは感じてはいたけれど、余りその悲壮感は伝わって来なかった。「今になって彼の心の痛みか分かるのよ、こんなに尽くしたのにそっぽを向いて。も一度会うことがあったら、あの時はお世話になりながら酷いことしたって。若さ故か、はたまた一種のマインドコントロール状態だった故か残酷だったなあ、わたし」

次に求めたのが薬師如来。長崎に里帰りした際、寺町にある前から気になっていた仏具屋さんで丁度手ごろの大きさを選んで買って来た。そこに一人のそう云ったことに詳しい先生に「そのまま飾って置いてはいけないよ、お寺に行って魂を入れてもらわなくちゃ」そこでばっちゃん、イザナギ駅の近くのお寺に行って魂とかを入れるべくお経を上げて貰い、やっと、このさくら薬品に落ち着く事とあいなった。

二泊三日の漢方大学とか云う講習会にも何年間も通うようになる。叔父が小学校低学年の頃ばっちゃんがその講習会(年4回ある)に出掛けているときに友人と遊びに出掛け、土手から自転車で転げ落ち鎖骨を折ってしまった。帰ってみると包帯に包まれ壁にもたれたかかった息子の青ざめた顔。じっちゃんも姉であるママも色々大変だったらしい。でも叔父が待っていたのはどうも母親だったらしい。顔色が良くなったのはばっちゃんが処方した薬だけの所為だけではなっかたようだ。その時発したばっちゃんの言葉「まあお前、良く骨折をしてくれたねえ、今回の講義の中に骨折があったけど、誰も漢方で骨折で治るなんて思わないから相談に来ない。せっかく習ったのに使いようが無いなあって考えながら帰ってきたのよ。ありがとう、ほんとに良かった」だったとか。

その間他の講習会にも頻繁に出掛けて行く。毎月3,4回はざらだった。じっちゃんは勉強はどうしたのか?

勉強嫌いのじっちゃんはせめて毎月イザナギで開かれている初心者向けの勉強会に出てみたらと、ばっちゃんに薦められ,行っては見たもののその度に具合が悪くなり2,3日寝込んでしまう。ばっちゃん呆れて薦めなくなったとさ。

その頃、例の大先生を囲む会と云うのを開く計画があり、ばっちゃんも勿論参加することに決定。当時は先生の真似をしよう、先生のなさるようにしようと考えていたばっちゃん。でも、男と女の差あり、年齢の差ありでそれはとても難しい事だった。それを消化し自分なりに生かさなくてはいけない、と分かったのは随分後だった。

先生曰く「親鸞を読みなさい、宗教の本を読みなさい」

ばっちゃん、一所懸命読み漁った、毎週毎週本屋に行っては良い本は無いか探して回る。あんまり読んでぼろぼろに成った物は何時の間にか散逸してしまったが、今もお店の棚の上に何冊も現存する。

元々カトリック系の高校の出身だから、キリスト教には一応詳しいし、心もなびく。だが家は仏教徒だ。正月にはここいらではイザナギ神社へ行く。長崎では諏訪神社を始め3箇所神社を回る(それが長崎の仕来たりだとか、キリスト教弾圧の名残かな?)何ともはや典型的な日本人である。

初めは頭がごちゃごちゃしてた。何冊かユング心理学も読んだ。そして気づいた、求めるものは一つ。皆一つの頂点を目指しているんだ。只歩いている道が違うだけ。富士山に登るのだって道も、登る方法も沢山ある。何も悩むことは無い、自分の信じる方法で只管歩いていけば良い。極めれば一つ。頂点に立てば「ああ、あなたもいらしたのですね、そちらの道はどんな具合でしたか、こっちは、中々ハードでして、お陰でガリガリですよ」「こちらの道も似たようなものですよ。苦労しましたが、何かこう、晴れ晴れした気分ですよ」なんて互いの健闘を讃え合ったりして。それが本物の宗教だったらの場合だけど。

心が軽くなった。光が満ちていた。祈ること、それはどんな時にも心が落ち着いていて、その状態を受け入れられるように祈ること。

店を遣ってると様々な宗教のお誘いの人達が訪れる。それまで頑としてお断り一辺倒だったのが少し変わった。どんな宗教の人でも一応にこやかに応対する。客が居ないときは。向こうが自分達の宗教の主旨を話す。ばっちゃんもふむふむと答えるが、少しでも相手が自分の考えに沿わない事を言えば、「うーん、あなたはも少し広く世界を学ぶ必要があるわ、そして宗教もね。そしたらきっと世の中がもっともっと素晴しく輝いて見えるわ」と。

「わたし、神様に愛されているのかもしれない。このごろそれを感じるの」とばっちゃんは言う。

神様からプレゼントを多々受けとるらしい。

先ずはクリスマスイヴの日に上野の西洋美術館で、フランスの美術館店がもようされ、見学に行った時、少し時間が余ったので、本館の常時展示室も見ておこうと入って行った。多分1,2階は普段どうりだったとばっちゃんは述べた。何時もなら係りの人一人ぐらい居ても良さそうなのに誰も居ない、見学者さえも。モネの展示室に遣ってきた。「えっ」とばっちゃん驚く。無い、無いのだ、柵が。画にもガラスが無い。夢かと、ど近眼のばっちゃんは近づく。モネの画が、その筆使いが、絵の具の色の重なりあいが、彼女に迫る。手で触ろうと思えば触れたかもしれない。でもばっちゃんは勿論触らなかった。暫し見とれて外に出た。外はクリスマスのイルミネエーションで飾られてまるで星空の真ん中にいるようだった。

「ママに見せたかったわね。あれは夢じゃなかったのかと今も思うの」

次に今居る猫達だ。前に居た3匹の猫達が母親、姉猫、最後に一番愛していた(本とは皆同じく愛した買ったし、愛しても居た)妹猫も行ってしまい,寂しい日々を野良猫2匹を可愛がることで忍ぶしかない ばっちゃん。

ある日、漢方の大会があって裏口から入ろうと奥の方に回ってみると、野良の餌入れに頭を突っ込み夢中で食べている子猫を発見。前に居た母猫に良く似た三毛猫だ。隣の食堂の奥さんが言うには「ああ、あの子猫、昨日から居たわよ」との事。昨日と言えばわたしの(ばっちゃん)誕生日。これは神様からのわたしへの誕生日プレセントに違いない。

次の年も同じ時期、同じようにして今度は黒いオス猫が遣ってきた。これもプレゼント?ママに言わせれば昔からばっちゃんの所には良く猫が遣ってきたんだって。それに魔女を目指す(ばっちゃんは仙人と言っとるぞ)には黒猫が必要不可欠だしね、とも言ってる。黒猫も家族に加わった。勿論、野良ちゃんは野良ちゃんでズーとそのまま可愛がり続けたし、冬は猫小屋をダンボール、発泡スチロール、クッション剤などで厳重に作り、中にアクリル製の座布団を入れてやった。それでも入らないといけないと考え良く出入りする自分のうちの小屋の中に古いコタツ布団を準備した。食事も缶詰、ドライフード、チーズ,おかか等でまるでオードブルのように毎日2回作り上げて世話をした。時には裏のアパート(住んでる人達はマンションと言う)の床下に親猫が閉じ込められ、それを助ける為、デイズニーランドの招待状をふいにした事もあった。ま、これは余分な話ではある。

漢方をやってる仲間たちと漢方製薬の工場見学に宇都宮市に出掛けた。ホームを出るとバックのメインの所のチェーンが開かない。「え、えっ」と何回も試みるがビクともしない。付き添いの男性が試みるが矢張り開かない。仕方が無い、このバックはとても使い勝手が良くて気に入ってたけど、帰ったら買い換えようと、ばっちゃん、諦めた。工場見学の前にこの土地の名産品(?)大谷石で造られたカトリック教会(長崎では天主堂と言う)を見学しようと立ち寄る事にした。厳かな雰囲気に圧倒されつつも、皆中に入って,壁を触ったり、パンフレットを読んだり、写真も各自撮る。ばっちゃん、矢張り少しバックが気になり格闘する。駄目だった。ふとマリア像が目に入り、誘われる様にその前に。優しいお顔でいらしゃると皆に気づかれぬように軽く頭を下げた。その時何かを感じた。そうだ、バックは?チャクを引いてみた。何事も無かったようにそれは開いた。奇跡だとばっちゃんには思えた。だが一人としてそれを気に掛けるものは居なかった。

日本の神様も負けては居ない。ばっちゃんの家には野いちごが、特にこの季節に白い花を一杯咲かせ店の横もベランダも真っ白になる。それにまつわるありがたあい話。

それは、曾ばあちゃんが大好きな有料ホームにやっと入所出来(買い物から家に帰る途中転んで骨折し、やや歩くのが往年のようには行かなくは成ってホームを希望したのだ)その中を闊歩してたときの話。ばっちゃん、長崎に帰り、四日程 誰も居なくなった実家からそのホームまで毎日徒歩で通う事にした。何しろ長崎は横の交通の便は良いけど、縦の便は悪いのだ。しかも実家へ行くには、バイクが途中までしかいかない細い道と石段を登って行くしかない。頃は5月連休が開けた位がいいですよと、東部旅行の担当者の人に薦められ帰って来たばっちゃん。細い道の片方は山王神社の崖になっている。そこには脚の弱い人の為、真夏の暑い日のため、初心者(?)の為にベンチが置かれている。勿論、ばっちゃんの子供のときは無かったし、彼女が長崎を捨てて(わたしは捨てていない、わたしが長崎に捨てられたのだと彼女は言っている)出て行く時もおかれては居なかった。

兎も角,その椅子に座って、下で買ってきた野菜ジュースを飲む事にする。上を見る。野イチゴだ。しかも大成りだ。彼女の脳裏に子供の頃の記憶が甦る。当時回りは畑だらけで(ほら吹き大伯父さんがここでも材料を仕入れたのかもね)5,6月頃は野いちごがその周りに良く実っていた。口に含むと何とも言えず仄かに甘っかった、その甘さが忘れられず、どんなに今まで手に入れたいと思っただろう。

今まさに、目の前に、しかもタワワニ。だがイチゴは遠い,遥か遠い崖の上。うーんとイチゴを見つめるしかない。まるでイソップに出てくる狐とブドウの木の話だと彼女は思う。でも待てよ、野イチゴはほろりと抜けやすい.一つでも良いから抜け落ちて来ないかしら?と、その時、ばっちゃんの上に赤いものが。手で受け止めた。イチゴだ、未だ完熟してはいないけど、でもこれで十分、イチゴがこれで育てられる。

イザナギに戻ったばっちゃん、半分その年にメガデールとか云う薬品の中に浸して蒔いた。が、芽が出る側からカタツムリに食べられてしまう。仕方が無いので次に蒔くのは翌年の春まで待つ事にして、その間にカタツムリらしきものをベランダから駆除した(手で一つ一つ、小さなゴマより小さいものまで、ごめんなさいと言いながら)春未だ浅い日に残った種を半分壊れかけたビニールハウス中で、ある程度大きくなるまで育て、鉢に移植しては花好きのお客さんに配った。その中にはばっちゃんのような記憶のある人は一人もいなかったが。苗はスクスク育ち、もう翌年には実を付けた。貰っていった人達には未だ成らないと言う人もいたが、次の年には大丈夫だったとか。

この人達の中に物見の塔の勧誘している女性もいた。彼女も喜んで貰ってくれた。その際、一応事の顛末を話したが、別に拒否する事も無かったし、感動する事も一切無かったけど。しかし彼女とその仲間たちは、不思議な事に聖女マリアについては何も知らないようで、有名なルルドの泉の奇跡もそういった記事に触れた事もないし、むしろマリアその者を否定した。ま、人間色々な考えがある。

そんなこんなのばっちゃんの宗教観だけど、気になることがわたしにはある。

「でも、ばっちゃん、この間早くオーストラリアの山火事が終わるように毎朝毎朝、雨戸を開ける度に太陽に向かって祈るんだって言ってたじゃない」

「そうよね、トリインフルエンザや豚熱とか、それも早く収束して欲しい。だって動物は何にも悪い事してないし、何も知らないで殺されるんだ物、祈らずには居られないのよ。動物達の悲鳴やうめき声が聞こえるようで胸が潰れそうになるの。この頃は香港やミャンマーの民衆に自由が戻りますようにって祈ってるの。わたしにはこれっぽちも力も権力もお金も名声も無いでしょう、だから太陽さんに助けを求めるの。もしかしたら、太陽さん、力を貸して呉れるかも知れないじゃないの」

ばっちゃんは元科学者の端くれ(本当は今も立派に科学者だ)の筈なのにそんなことをいう。

「じゃ、コロナは?」って聞いてみた。

「コロナか。あれは漢方的にはって言うか、わたしの中では解決済みなんだ。只今の現状では口出し出来ないし、誰も口を出させてもらえないの、わたしらみたいな力の無い者には。でも、もし、わたしに助けを求めてきたら、喜んで手を貸すわ、出来る範囲でだけど。勿論それを宣伝したり、公には一切出来ないけれど。水平思考的な考えでね、漢方や今ある物を使えば、大抵のものは治せるし予防できるわ」

ばっちゃんは宗教的なものも学んだけれど、漢方についても大家の先生(多分当時では考えられる最高の)達に漢方大学で教わり、月に1回開かれる漢方特別講座にも通い、はたまた個人的にも師事し勉強しまくった。費用も相当のものだったろう。大家の先生達の話しも宗教と同じでゴチャゴチャ入り混じる。彼女はそれを宗教と同じく纏め上げる。消化できた。

うーん、それでこの店の状態じゃ全く報われていないじゃん。あのまま普通の薬屋さんやってたらも少し裕福になってたかもね。知識は豊富,親切だし、人が良いが、押しが利かない、ズーズーしさが欠如している。商売人には向いていないんだ、学者根性が抜けきっていない。ま、今も夢の中で試験管振ってるそうだから。それにそそっかしい。少しはそれが厄してるかも。

何しろ長崎の公立の高校の試験(今は不明だが、当時長崎の公立では所謂五科目の他に体育や美術、家庭等他の教科のペーパーテストもあったそうだ)体育のテストで一枚目の(2,3枚在ったらしい)紙の上の問題の所に、女子は上の方だけに答えて以下の問いに答える必要なし。と書かれていた。ばっちゃんは、へー随分簡単なのね、ラッキーと思ったそうだ。勿論彼女は他の問題を見ることもない。大体が体育なんて大嫌い、一応教養としてルールは知ってはいるが。答えなくて良いなら、後は野と慣れ山と慣れ、

これは付いてると思ったそうだ。でもそうじゃなかった、それは一問目の問題の中での事、当然その他の問題は解かなければいけなかったのだ。気づいたのは終わった後、何だかおかしい、じゃあ何であんなに問題の紙があったの、少し男性諸君には不公平だ、考える内にはっとした。でも彼女には成す術が無かった。他の科目だってそんなに飛び抜けている訳じゃない(彼女は当時詩ばかり書いていて、殆ど学校以外、宿題以外勉強した事が無かった)当然落ちた。

「でも、あれも神様の思し召しだったと今はつくづく考えるのよ。行った高校で、原爆の悲惨さもよーく解ったし、謙虚さの大事さやキリスト教的考えも。そして何より前から好きだった化学の道に進もうと思うようになったこと。自分から勉強に取り組み出したの。1年の時大病をした後、正月位から始めだしたんだけど、化学は一年で習うの。でも化学の先生には悪いけど、講義で何を言ってるか要領を得ず、自分で分厚い本、有機化学と無機化学の2冊を買ってきて、只管読んだわ。2年になって生物を習い、これはとても解りやすくて満点を取ることもあった。生物を遣ろうとも思ったけど、長崎にはそれを受け入れる大学が無い。家は裕福じゃないから、金銭的に入れる所は薬学部しかなかった。生物の先生は可愛がって下さったし、期待も掛けていらした。他の教科もぐんぐん伸びて行った。先生方にはお世話になったし、当時は塾なんて無かったから、学校で特別授業をして貰えて、どれだけ助かったか知れないわ。優太(叔父の名前)が高校受験の時、同じ所を4,5人受験したんだけれど、その合格発表の日、皆がうちの店の前に自転車を止めて見に行ったの。朝早かったんだと思うわ。だって2階でその音を聞いたんだから。合格した者は手続きなどがあってか遅くなる、落ちた者は早く帰ってくる。チリリンと自転車の動く音。彼に言ってあげたかったな、勝負はこれからよって」

ばっちゃんのそそっかしいのはもっと沢山ある。勿論その後のテストでも受験の時のような酷い失敗は無くても小さいものはカヅ数しれず。財布を切符の自動販売機の所に置き忘れたり、新幹線の切符売り場で何千円かのお釣を取らなかったり、お気に入りの赤い革の手袋を落として、後からそれに気づいて多多のお店に迷惑を掛けたり。極めつけは大学受験の2日目、あの長くて細い道を降りた所で気が付いた。受験票を忘れた事を。後ろから彼女の母親が付いてきてた(良かったあ)それを母に取りに行ってもらうことにして大学には一人で赴いた。向かうは事務局。「あのー、受験票を忘れて今、母が取りに行ってます。よろしいでしょうか?」事務局のおじさんたち書類の写真(友達が撮ってくれた物でいささか不細工に写っていた)と彼女の顔を見比べる。おじさんたち少し笑ったのは気のせいか。後日、大学に入っておじさんたちに「ヤー、柴山さん。大学入る前から顔を覚えたのはあんたが初めてだよ」と冷やかされたが、色々気に掛けてくれたそうだ。ここで発表、彼女の旧姓は柴山、名前は由美と言う。

こんな風だから、きっとお店でも失敗してると思うよ、真理は。

「ま、良いじゃない。もっといろんな病気の人、特にどうせ自分の病気は治らないとか、医者に通っていてもこんな状態だもの、漢方なんかで治る訳がないって思ってる人を治す手伝いがしたい。でも、漢方て高価だから、ある程度裕福じゃないと手が出せないの。お金が大事ですか、命が大事ですかって迫る人もいるけど、わたしには中々言えないわ。2,3日分ならサンプルとしてあげても良いけど、うーんそれ以上は無理よね」

「ばっちゃんは英会話は未だ続けているんだ」机の上に英会話のテキストを見つけた。

「そうよ、どうしても死ぬまでに少しで良いから、英語を聞き取れるように成りたいの」

「来世で留学したいから」

「それが一番かも知れないけど、文献も沢山目を通したいし、外国の研究者の人達とも話し合いたい。

そうすれば、いい研究がきっと出来るわ。今世の反省をこめて遣ってるの。目の不自由な人がこの近所にもいて、時々お手伝いをするんだけど、その度に心の中で呟くの『御免なさい、あなたの目を良くすることが出来なくて。わたしたちの研究不足を許して』って」

「でも、来世で覚えているかしら」

「そうよねえ、わたしもそう思うわ。でもわたしには一つの確信があるの。あなたの叔父さん、赤ん坊の時、店を始めたばっかりで、彼はあなたのママと違って凄く大人しい子だったから、殆どほったらかしにしていたの。それが原因かは分からないけど2歳過ぎても殆ど言葉を喋れなかった。所が二軒先に八百屋さんがあってね、そこの奥さんが自分とこの娘さん二人と優太を連れて散歩に出掛けて呉れたわけ。帰って来るなり『ねえ、あんたのとこ、優ちゃんに文字をを教えているの?』勿論言葉もろくに喋れない子に教えるわけが無い。『だって、あそこの看板の前まで来ると立ち止まって、建売住宅、本日発売て読み上げたのよ』彼女は一向に信じなかった。それに八百屋さんのお隣は魚屋さん。壁に漢字で魚の名前が書き連ねた暖簾見たいのが飾ってあって、それを優太が順番に読み上げて云ったらしいの。おじさんたち吃驚して魚を買いに来たわたしに矢張り『薬屋さんの所はわしらとは違うよね、あんな難しい漢字を教えてるんだもん。わしらにも読めないものまで読めるんだから』って言うの。まるで教育ママみたいに思われて心外だったわ。もう一つ盆の頃かしら、長崎に帰るのに博多まで新幹線で行ったのよ。当然込んでた。その時、優太が座席から立ち上がり通路に座り込むと、突如お経のようなものを唱え始めたじゃない。それまで殺気立ってた車内が笑いの渦に包まれて、下車する人達が皆『ありがたいお経を聞かせて貰って、とてもリラックスした気分で旅行できました』ってお礼を言うのよ。正しく神童だったけど、段々怪しくなってね、今はただの人かな。博識だけは驚くほどあるけどね。本人は『あれは前世の記憶が残っていただけだよ』と言ってるわ」

ふうん、今でも少し変わってると思えるな叔父さん。部屋を見れば物凄い量の本。部屋だけでなく階段の下も、元試験室もお店にも置けるとこには隙間なく彼の本が押し込まれている。じっちゃん、ばっちゃんに「も少し本を減らせ」と言われ続けて幾年月。一向に減った様子なし、むしろ又増えたんじゃない?これだけの本を読んでいたら、きっと今に飛び立つかも知れない、何かの切っ掛けで。前に一度チャンスガ有ったらしいが,捕まえそこねたそうだ。

「だから、きっと前世で一生懸命学んだことは全部忘れるじゃなくて一部は残っていて呉れるとわたしは思うんだ。だから勉強するんだ、英語苦手を克服して来世に行きたい」

ばっちゃん、頑張れ、真理もそう祈るよ。それにばっちゃんは神様たちに愛されているんだもの。

だがもう一度じっちゃんに戻そう。

普通の薬屋さんを止めた後、後雑貨の売り出しで大活躍する事も無くなり、勉強会にも行けず(?)店のテレビの前に陣取り、薬の仕入れや帳簿付け、ポスター書きにせいをだしていたじっちゃん。お酒(てんで弱いけど)とタバコが中々止められず、皆に散々嫌味とブーイングの嵐で何とか、やっとタバコだけは十年程前に抜け出せた。でもお酒はどうしても止められない。酒が飲めないなら死んだほうが増しと考えていた。所がだ、足取りがおかしくなった。大体一緒に旅行に行って「あの丘、登ろうよ」と誘っても「俺は良いや、お前たちだけで登ってこいよ。俺はここで待ってるから」と言うと椅子を見つけて座り込んでしまう。昔、剣道を遣り、高校はサッカーで活躍はしなかったが一応それなりに頑張ってきたとはとても思えないし、考えられない。今はテレビで見るだけ。まあ,本の少し前までは一持間ばかり歩いていたけどもこの頃ではそれすら見られない。そして今は、何時でもなんか千鳥足風。危なっかしいと思っていたらそれ見たことか、階段から落っこちた。頭を強打し,血が物凄く出たそうだ。救急車で運ばれたが入院しないで帰された。母は入院を希望したが無視された。二階に上がれず暫く元試験室で寝ていた。暫くして少し元気になった。勿論お酒は厳禁をばっちゃんから言い渡された。本当にじっちゃんはお酒をやめたのか?じっちゃんの座っているテーブルの足元には梅酒の作ったのが3個ばかりあるし、ウィスキーのビンもちらほら。勿論運転は出来ない、前も行ったけど。しかし本人は大丈夫大丈夫と言って乗ろうとする。ばっちゃん、一括「駄目え!」運転するのは諦めたけど、本人は今も息子より、俺のほうが運転が上手いのに、と言い張ってる。

まあね、じっちゃん(気持ちは分かるけどって全然分からない)気を落とさずに、もっともっと元気になってね。

ばっちゃんに先日の千鶴の件を話した。

「そう、良い事したわねえ、ちづるちゃんそれで踏ん切りがつく事祈ってるわ。わたしにも思い出すことがあるわ。長崎に来て初めて出来た仲のいい友達から、こっそり打ち明けられたんだ、『わたしのお母さん、本当のお母さんじゃないのよ』って。それで吃驚して母や祖母に話したら勿論知ってたわ。でも、前のお母さんより今のお母さんのほうがずっと良いお母さんだってさとされたわ。それに彼女とある日ケンかをしたんだけど、その後友達のお母さん、物凄い剣幕で家に文句を言いに来たのよ.わたしの髪は黒くて太くて強い、彼女の髪は少し赤くて細い。当然彼女の方の被害が大きかったのね。母がそこの所を良く話すと、おばさんもしぶしぶ引き下がって行ったのだけど、おばさん、本当に友達の事を大切に思っていたんだって、今は分かる気がする。それから、もう、ずっと大人に成ってからの話し、優太が幼稚園の頃だわ、朝、駅の少し向こう側、今コンビニになってる辺りまで、先生達が迎えに来てくれる所まで子供達を送って行かなくちゃ成らなかったの。冬はとても寒かったのでストールをして行った。特にお気に入りだったのが、母が昔してた着物用の肩掛けを譲ってもらった物、ショールだった。駱駝の毛で織られていて、デザインがとても戦前とは思われない斬新で、色合いも素敵だった。でも、手入れが悪いものだから少し虫食いもして、ああ母に悪いな、何とかしなくちゃ、なんて考えていた所に母から電話があった。そのショールを持ってるか、持ってるなら直ぐ送り返して欲しいって。なんでもそのショールは、戦前に友人から貰った物だとか。その友人はわけ合って離婚して他の人と結婚したらしい。しかしもう亡くなってしまったらしい。所がその離婚したとこに娘さんがいて、この間、偶然にも母に巡り会い「わたしには母に繋がる物が一つも無いんです、せめて一つでもあったら良かったのに」て泣かれてしまったらしい。可哀相で、可哀相で、何とかして上げたい。そこで思い出したのがあのショール。母にあれは虫食いがしてて酷い常態だと説明したけど、状態はどうでも良い、あの人にお母さんの形見になる物をあげたいの、と云う訳で「わたしの大好きだったショールはわたしの元から飛んでいっちゃった」

素敵なショールだったに違いない。わたし是非見てみたい気もするけど、娘さんの所に帰るのが一番。良かった、良かった。

「曾ばあちゃんは元気?」

「まあ、それなりに元気よ。呆けても無いないし、枕元に何かアイドルの写真が貼ってあったわ。足腰はあの家までの道を登らなくなった所為で、今じゃすっかり駄目になったけどね」

ばっちゃん、スマップも嵐もこの母から教えられたそうだ。でも知ってる曾祖母ちゃんよりも全く知らないばっちゃんのほうが凄いね。

「わたし、ドラえもんの道具の中でどうしても欲しい物があるわ。何処でもドア。一箇所だけで良いの。母の所と行き来出来たらどんなに良いかしら、仕事が終わったらドアを開けて母の所に行くのよ。どんなに母さん喜ぶ事か。他は何にもいらない、空だって夢の中では自由に飛べるもの。この間なんか覚めても本とに未だ飛べるような感覚が残っていたんだ」

「仙人みたいに」

漢方に欠かせないのが生薬だ。つまり一般的に薬草と呼ばれている物。ばっちゃん、薬草にも気を引かれた。あれやこれやと息子に負けじと本を買いあさる、何やら怪しげな物まで。それから知識を総合し、四捨五入。フムフム、これは若返りに良さそうだ。これは体を軽くして最後には飛べるように成るらしい、が、それはちょっと無理かな。と言う具合に。

ママによれば、ばっちゃん、大きな同寸鍋に色んな生薬を放り込みクツクツ煮る、かき回す。異様な臭いが立ち込める。ママが言うには、それはデイズニー映画の白雪姫の継母、魔女の姿にそっくりだったとか。でもばっちゃんは仙人を目指して真剣だ。然し出来上がった物は頗る不味いものだった。ばっちゃん不味さに負けず頑張る。頑張って頑張って頑張った。しかし仙人になる前に諦めた。だがそんな事では諦めない、次はこれ、その又次はこれと試してみた。皆仙人になる前に挫折した。当時の名残りなのか、ホワイトリカーに薬草を漬け込んだビンが、ばっちゃんの座る方のテーブルの下に、矢張り4,5個並んでいる。夫婦だねえ。

せめて若返りに役立つかと、クコの実、黒きくらげ、白きくらげ、ゼラチン、色んな気になるキノコ(一番お気に入りだった黄金タモギと言うのが、癌に効くとかで店頭から消えてしまったのはショックだった)を煮込んでラーメンやソウメンのスープにした。勿論仙人には小食が求められるので麺類はほんの少し、4分の1把にも成らない量だけど。それは結構美味しかったらしく暫く続いた。段々ばっちゃんの情熱も薄くなる。殆ど仙人に成るなんて思っていない。だから、きくらげを毎回毎回戻すのが、急がしい身にはとても煩わしくて面倒くさいと考えるようになった。そこで今は中断。そのうち又始めるだろうし、本人もそう言っている。

じゃあ今は?薬があった。それに食品扱いだが中々捨てがたい効果抜群の物が在るらしい。少々高価で費用は掛かるが、健康と若さを手に入れる為にはこれ位はねとばっちゃんは言う。今までの手間隙考えりゃ安いものかな。

じっちゃんはどうする?鼻先で笑う「俺は七十そこそこまでい生きてれば良いんだから、この世に未練は無い」だって。じっちゃん,もう七十過ぎてるよ。少しはばっちゃん見習って頑張ってみなよ。死んだら酒も呑めるし、タバコも吸える。テレビだって好きなだけ見られるなんて下らない事考えているんじゃないでしょうね、真理心配!

「真理も今年から中学生ね、何か遣りたい事ある?」

「うーん、今それで悩んでいるんだ。わたし、ママみたいにスポーツ得意じゃないから。友達は皆夫々、遣りたいスポーツ有るらしいの。わたし、詩を書くのが好きだからそんなクラブないかな」

「マリはわたしと良く似てるわね。ばっちゃんはだからそれを期待して文芸部と言う所に入部したんだけど、担当の先生が余り情熱家ではなかったらしくて、最初、近くにあるマリア像のあって、水が湧き出てる小さな公園に連れて行って呉れた切り、後はクラブのある教室に何度行っても先生は来てくれなかったの。自然消滅、とても残念。でもあの公園もう一度行ってみたいな。ちょと道が複雑なの、畑をくねくね通っていくんだけど。今じゃきっとすっかり変わってしまっているわね。それで2年になってから理科クラブに入部。だけど部員はわたし一人。でも大好きな理科だから全然めげなかったわ。むしろ好きなように出来たのでラッキーだったわ」

「そう、それで科学者になったのか」

「それは余り関係ないと思うけど.でもヤッパリ繋がっているのかな。文芸部がそのまま存在してたら、わたしの人生変わっていたかも。ハハハ。真理ちゃんはやはり文芸部かな」

「そうだな、詩は一人でも書けるから・・・わたし、演劇にも興味あるんだ。有ったら演劇部に入りたいなあ」

「へー、演劇ね。それも悪くないと思うけど、もし本格的に取り組むとしたら、やはり体力勝負の所があるから体も鍛えなくちゃね。わたしも昔演劇に憧れた事あったけど、今考えると遣らなくて良かったわ」

「そうか、何でもスポーツ力いるんだね」

「でも、お芝居は楽しそうだし、遣ってみる価値はありそうよ」

二階にあがる。ベランダに出る。

「ここもイチゴの花で一杯」

「野イチゴだけじゃないわよ、今年は無事普通のイチゴも沢山花をつけたわ。去年はたった3個しか実がならなかなかったけど、今年は大丈夫。上げたお客さん達の所でも、花咲いてるらしいから。去年はどうして花をつけないのか分からなくって、本屋さんに行こうにもコロナで行けないし、3個で我慢するしかなかったわ」

ばっちゃん家のイチゴ(やはりばっちゃんが食べてこれはと思うものを種から育てたもの)はすくすく育って2年目。何かえらく葉が馬鹿でかい、お化けみたいに。

「去年のはどうだった?食べてみたんでしょ」

「一応ね。まあまあかな。何しろカタツムリ見たいのが来るから、じっくり熟させる事が出来ないのよ。カタツムリが勝つかわたしが勝つか、敵は上の赤くなってる所を狙って来るから、ちょと赤くなったら収穫。今年は鉢の回りに奴を退治するのを巻いたから大丈夫、と思いたいけど」

「あら、ブドウの木にも花が付いてるじゃない。単なる日よけでしかないと皆言ってたけど」

「そうよ、芽が出てきて4,5年になってやっとね。下の桑の木と同居してるブドウは実を付け出して4年目になるわ。実が付きそうもないから引っこ抜こうかなと言ったら、漢方仲間で矢張り色々育てている人がいて『その内必ず実が成りますよ。わたしの家のも実が付いて食べてます』て教えてくれたので我慢して待ったら実が成ったって訳。まあお店に売ってるものみたいに立派じゃないけど、愛着があるから美味しいわ」ばっちゃんとても愛しそうにブドウを眺めながら言葉を添えた。

「どう、イチゴ一鉢持って行く?野イチゴは棘があって手入れが大変だけど、これなら大丈夫よ。1月に肥料を遣って毎日水を遣れば、収穫した跡、シュートが出てきて沢山増えるわ」

武志くんの顔が浮かんだ。武志くんのおばさんの顔もついでに浮かんだ。

「出来たら2鉢欲しいのだけど、お隣に上げたいの」

「ああ、ボーイフレンドの武志くんだっけ」

「そうじゃないの、彼は幼馴染、それだけ。だけどさ、武志くんのおばさんさ、野草や姫竹の取れる秘密の場所、中々教えてくれないんだ。武志くんにだって絶対教えないの。だからイチゴで懐柔できるかな、て思うわけ」

じゃあ2鉢ね、とビニール袋に入れて渡された。

武志くんのおばさんへの作戦は上手く行くかは、どうだか不明だがイチゴの実が熟すのが楽しみ。

勿論花の受粉はばっちゃんのようにわたしが遣らなくちゃいけないけど。

   (わたしと時々妄想ばっちゃんの日々 ⅱ  に続く)













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